MAU図書館-2

■生命の渦

田中純

 武蔵野美術大学美術館・図書館桜の並木に沿って近づくとき、この建物のわずかに屈曲した外壁をなす書架を覆ったガラスが周囲の風景を反射して映し出す。ガラス張りの大きな開口部を通して、内部の巨大な書架の連なりゃキャットウォークが視界に入ってくる。まなざしは内外の境界をはっきりと定められずに前後左右に泳ぎ、その揺らぎを楽しむ。外壁のガラスを固定する金物が視線の運動を適度に留める点となって、その揺らぎを混乱にまでは陥らせない。

 

 内部では、幅900mm × 高さ310mm×奥行き230mmの棚を基本単位とする書架のレイヤーが天井まで積み重なった「書架の壁」が渦巻状に配置されている。一定の高さ以上には書籍が置かれておらず、まったく空の部分が多いため、書架それ自体の存在が際立つ。外壁側の不燃処理された木材よりも色調が薄い内部書架の壁は、半透明の白いポリカーボネート板を通して差し込んでくる柔らかな光と調和している。

 書架の壁には開口部がさまざまな大きさで開けられており、その重なり具合に応じて移動によって変化する眺望が、訪れる者をあてどのない散策へと誘う。設計者である藤本壮介が図書館の備えるべき性質として意識したのは「検索性」と「散策性」だったという。書架の壁が形づくる渦巻は、数学に基づく厳密なものではなく、ドローイングを元にしており、それが誘い出す動きも「散策」にふさわしく自由でランダムだ。

 

 一方の「検索性」に関しては、渦の中心をなす開架図書室のカウンターから奥の壁際まで視線が抜けるように複数の開口部が配置され、中心からおおよそ放射状に同じ分類の書籍が並ぶという構成をとって応えている。これにより、同分類に属する書籍のグループは大きさの異なる不定型な群島のように点在することになる(最大の島は分類番号7の「芸術」だ)。この島々をめぐる書籍探索ほ新鮮な体験だった。

 床や壁面に固定された10進分類法を表わす数字など、佐藤卓によるサインの数々が、こうした構成をわかりやすく示す巧妙な仕掛けになっている。例えば、壁面に取り付けられた分類番号の巨大で白い数字は、それぞれデザインが異なり、この空間に視覚的なアクセントを加えている。このようなサインの活用には、書架の壁が与える威圧感を和らげる効果が意図されていたという。形態が異なる3種類のペンダントライトを使い分けている点も同様だ。まなざしにとって魅力的なこうした細部の存在が、この「書物の森」のなかで道に迷うことのない、必要十分な検索性に支えられた散策を可能にしているのである。

 ロンドンの大英博物館閲覧室を筆頭として、近代的な図書館という「知の装置」を象徴してきたのは、書物で埋め尽くされた円形の壁面をもった巨大な閲覧室の空間だった。書物によって包み込よれ、外界の現実から遮断されたこうした閲覧室は、子宮内のように保護された安心感を訪問者に与える。それが読書への没頭を可能にする。丸天井を備え、全体が円と球のモチーフで統一された大英博物館の閲覧室とほ、そんなふうに調和し完結した、知のミクロコスモスの典型なのである。

 武蔵野美術大学美術館t図書館の開架図書室で訪問者を迎え入れるのは、こうした円と球の子宮的空間とは対照的な、渦巻状の開放空間である。この空間はガラスによって建物外部とも視覚的に連続している。内部においては、書架の壁に穿たれた開口部を通じて、書物に囲まれている安心感と書物の壁をくぐり抜ける散策の自由とを共存させている。また、現状では空いた部分が圧倒的に多くを占める書架の壁は、書物で囲まれた大閲覧室の圧迫感とは異なる印象を与えている。

 

 確かに、これらの書架の壁が内部も外壁もすべて書物で埋め尽くされたなら……と夢想しないでもない。もしそんなことが実現したら、ここは現在とはまったく異質な、威圧感にあふれた空間になるだろう。大英博物館閲覧室に代表される知のミクロコスモスは、万巻の書物に囲まれ、すべてを所有しているかのような全能感とともに、それとはおよそ正反対の、書物は無限にあり、その全体を読み尽くすことなどありえないのだという、崇高なものを前にした畏怖の感情をも同時に喚起する。書架に書物が隙間なく詰め込まれたとき、武蔵野美術大字美術館・図書館もまた、そんな畏怖の念を覚えさせるに違いない。

 

 だが、おそらくそんな事態に至ることばない。藤本は、この書架の壁は将来的には書物で埋められるかもしれないが、アート作品などの創作活動によって埋められるかもしれず、あるいは「その空白によって書物を超えていく情報というものの広がりを暗示するかもしれない」と言う。つまり、ここはすでに書物のみによって埋められるべき空間ではないのだ空の書架は何かが起こる「かもしれない」、予感と可能性の「暗示」としてこそ、この図書館の重要な構成要素になっていると考えるべきだろう(二の象徴的な空間を生み出すために、書庫は地下や1階のやや隠れた位置に配置されている)。図書館という「渦」は未来に向けて、時間的にも開かれている。

 「渦巻は宇宙の根源である」一解剖学者・三木成夫は東京藝術大学の講義で繰り返しそう語ったという。そして、彼が渦や螺旋の形態を見出したのは、何よりもまず生命体の構造やその発生過程においてだった。渦巻型の書架の壁をもつ図書館には、三木が直観したような生命の「おもかげ」・・・それはゲーテの言う「原型」である・・・が宿っているのかもしれない。この図書館が藤本によって「書物の森」と呼ばれていることも頷(うなず)けよう。森とは多種多様な生物が連鎖して形成される、ひとつの巨大な集合的生命体だからである。

 サインの数々をはじめとする魅力ある細部を備えた建築物ばかりではない。何よりもそこに収められた書物、さらに椅子などの家具、貴重書の電子アーカイヴ、インターネットに接続された情報端末、そして利用者たち自身もまた、この森の一部であり、そこに生命を与える要素である。森としての図書館は円形閲覧室のような隔離された保護と無限なるものの崇高の空間ではない。そこはむしろ、滑らかに外部とつながり、種々雑多な要素が出入りすることによってこそ安定する、開放系の空間である。この図書館はいわば呼吸しているのだ。

 内部と外部の境界を曖昧にして、「内部でも外部でもない場所」をつくりだそうとする藤本の試みは、この図書館においておおよそ成功しているように見える・・・ただ、まさに内部と外部の境界が問題にならぎるをえない一点、エントランスを除いては。視覚的な連続性が強調されているだけに、入り口の通路は極端に狭い印象を与える。所蔵する書物の貸借を行なう図書館という場の性格上、出入館の厳重な管理が不可欠であるにしても、境界の存在がそこで強く意識されてしまうことば否めない。

 「内部でも外部でもない場所」とは畢竟「情報」が流れる場であろう。図書館内に発する渦巻ほ不可視になって無限に拡大してゆく。この建築のエントランスとは、書物の時代とそれ以後の電子情報の時代との境界でもあろうか。この渦巻状の建築によって藤本は、そうした時代の断層をも学んだ、現代にふさわしい「知の装置」・・・ミクロコスモス・・・の空間的モデルを提示しえたように思われる。