茅葺の民家・茨城県


■ひだまりの茅葺き民家

▶︎春が再び野にも来るとき

安藤邦廣

 「春が来た、春が来た、どこに来た。山に来た、里に来た、野にも来た」

 これはなつかしい童謡の一節であり、日本の農村風景が鮮やかに描かれている。ここで山とは森林であり、里は人の暮らす集落や田畑であるが、それでは野とはなんなのであろうか。野とは樹木の生えていない野原、草原である。日本列島の農村風景はこの山と里と野によって構成され、茅葺きはこのうち野の存在と深く結びついてできたものなのである温暖で湿潤な日本列島は、深い森に覆われるのが自然の姿であり、人間の生活の拡大によって里がつくられ、野が生まれた。野は不毛な荒れ地と思われがちであるが、そうではなく、ススキやヨシ等イネ科の多年草が生い茂る草原であり、その草が農耕生活を支える資源として重要な役割を果たしてきた。草はまず有機農業の肥料であり、牛馬の飼料であった、そのための採草地は森林を焼き払ってつくられ、そこでの草刈りは農業を営む上で欠くことのできない日課であった。その草地の広さは、農地とほぼ同じ面積が必要とされた。農地がもっとも拡大した1960年頃の田んぼの面積が国土の11%とされるが、その時に野原の面積は国土の15%に及んでいたというから、農村における草の資源の重要性が理解される。

 

 茅葺き屋根はこのような日本列島における草原文化のなかで生まれ、その象徴として洗練されてきたものである。農耕民族としての日本人は草の実(米、麦、稗等) を食料とし、草の飼料で牛馬を働かせ、そして草の材料で屋根を葺いてきたのである。そこにおける草の資源の重要性は今日の石油に匹敵する。従って有機農業が石油化学農業に転換したとき、農村における章の文化は過去のものとなり、草原すなわち野は日本の農村風景から姿を消し、そして茅葺き屋根も滅び去ろうとしている

 しかしながら、いま石油に依存した近代文明が限界を迎え、生物資源が再評価されているときに、日本の農村における草の高度循環利用の仕組みが注目を集めている。その象徴としての茅葺き屋根もその文脈において復活の兆しが見えるのである。日本有数の農業地域である茨城県は脱石油文明の先端に立ち生物資源の循環利用に基づく社会を再び築く役割が求められているといえる

 柳下さんの写真が捉えたこの茅葺き民家の風景は、里山の資源に基づく暮らしの大切さと美しさを、茅葺き屋根を通して訴えている。我々はこの写真によって、明日の暮らしのもっとも大切なものを、心に植え付けることができるのである。そのとき再び春が野にも来るのである。

あんどう・くにひろ/筑波大学教授、つくば市在住)


▶︎この家を残した理由 

文=小洋治雄

私が小学校の頃は、茅葺の家が多かった。現在、美浦村には数件しか残っていない。消えていく最大の理由は茅や職人が少なくなり維持費が大変な事と、あとひとつは住む事の不便さだろう。その大変な建物を、何故残す気になったかと言うと、・・・。

 私は6歳のときに父を亡くし、年寄りだけで住んでいたこの母の実家に戻り同居する事となった。歯科大の6年間もこの家から通い、卒業すると同時に祖父の家の小澤の姓を名乗る。5年程東京で勤めてから開業するために戻るが、さて、住む所となると、この家は典型的な田舎作りの田の字型で個室が無く、陽も当たらず子供を育てるには難しい。改造を考えてみたが新しく建てるよりも大変とのことで断念せざるをえなかった。

 結局、脇に新しく住む家を建て、皆そちらに住む事となり、空き家となるが、祖父や数々の思い出のあるこの家を壊すには躊躇もあり、ここから嫁いで行った叔母達のことも考えて維持する事に決めたのだった。

 

 毎日戸を開けて風を通し、掃除もしていたが、使わない事には傷みやすいので、人が集まった時に対応できるように台所を改造し、今はゲストハウスとして結構便利に使っている。屋根は7〜8年に1度位の割合で一面ずつ葺き替えているが、職人が近くに居なくなり、遠くから8人ほど集まって貰い、1ケ月ばかり掛かるので色々な面で容易ではない。古いものを維持することは本当に大切だと思うが、それがどんなに大変なことかを身を持って感じている。

 今のところ、私の代は何とかするつもりだが、次の代までは考えていない。只、子供達や孫達に、この裏での楽しい思い出を沢山残してあげようと思っている。

 (おざわ・はるお/小澤歯科医院院長、稲敷郡美浦村在住)


▶︎衰退する共同体の中の民家

  文=対馬英治

 茨城の農民もまた歴史的には苦難の道をたどってきた。近世以降、茨城の農村共同体にとっては幾度かの激変があった。

 四百年前に領主の佐竹氏が家康によって秋田に追放されたとき、新しい支配に抵抗して一揆をおこした県北四力村の農民たちは、見せしめのために一村皆殺しにされている。大子町小生瀬(こなませ)には地獄沢・嘆願沢・耳壕・首壕・胴壕というような、血なまぐさい出来事があったことを示す地名が今に残されているが、その歴史は現代の人々、とりわけ若い世代にはまったくといっていいほど伝えられてはいない。

 時代は下って明治9年(1876年)、新政府の地租改正に対して、その撤廃を求めた小瀬(旧緒川村の辺り)、真壁などの農民一揆でも多くの犠牲者を出して敗退している。その8年後には明治専制政府打倒を掲げたかの加波山事件が起きている。これらはいずれも農村共同体を守るためのやむにやまれぬ闘であった。

 さらに太平洋戦争とその敗北によって日本の農業は激変した。敗戦と占領軍の政策による農地解放から今につづく、農村共同体山崩壊の長い道のりの始まりである。農地改革からすでに60年にもなるというのに、あらたな時代に生きる共同体への変貌を迫られながらも、茨城の農村もまたいまだにその道筋を見出せないでいる。農家戸数の減少に加えて専業農家の激減ははなはだしく、共同体を支えてきた(ゆい・茨城語でヨイ)もすでに数十年前に瓦解(がかい・屋根の瓦(かわら)の一部が落ちればその余勢で残りも崩れ落ちるように、物事の一部の崩れから全体の組織がこわれてしまうこと)している。そのため、結によって維持されてきた茅葺き屋根の修理や葺き替えはできなくなってしまった。雨が漏るようになれば茅葺き民家は駄目になる。それは百何十年を生きぬいてきた多くの古民家が消えていくことを意味していた。

 かつて民家は地域の文化の象徴であった。「住まいは人と環境の関係のあり方を示す知恵の集積である」といわれるが、先人が築き、長い年月それを守ってきた民家を失ってしまうということは、いわばこの国の魂を失うことを意味するのではないのか。

 私は民家の滅びを押しとどめその良さを伝えたいと考えて、この10年余りで13棟の改修蘇生工事を手がけた。また、壊す家があると聞けば駆けつけ、費用を負担してともかくも18棟を解体保存してきた。そのうち移築再生できたものは9棟を数えるが、古民家が消えてゆく速度には到底かなうものではない。

 最近はテレビや雑誌などで頻繁に取りあげられることから、古民家再生住宅は今やブームの様相さえ呈しているが、その数は滅びゆく民家の数にくらべればこく僅かなものにすぎない。

 木、竹、土、紙、草。われわれ日本人の祖先は、近くで手に入るこのような自然の素材で家を築き屋根を葺いてきた。これらの材料は、それが安全で耐久性があることが長い時間によって検証されているにもかかわらず、今や多くの人々はこれらを用いて家をつくることをやめ、工場で量産される建材で家を建てる道を選んだ。それぞれの地方にそれぞれの言葉があるように、家もまたその地域の気候風土や生活を映したものであるべきはずなのに、全国どこにも同じような家が、石油に頼り、電気を頼ることを前提として建てられている。かつての民家が百年二百年を生き抜いてきたというのに、二、三十年で建てかえなければならない家が使い捨ての消耗品のように製造されている。

 「茅葺きの家は夏涼しく、冬暖かい」といわれるが、自分で住んでみて、「夏は涼しいが冬は寒い」ことがわかった。寒いというより、凍えるといったほうが正しい。さらに常に屋根を繕いながら住まなければ、雨が漏ることも身をもって知った。「日曜も祝日もなく、朝早く野良に出て日暮れに帰る」というかつての農家にとっては、表はただ寝るためのものであったから、屋内全体をあたためなくとも、身体をあたためるコタツがあればよく、昼間そこですごすという生活に対応したつくりになってはいないのである。

 冬の寒さへの対処やプライバシーが守られるような家にするという、現代の住生活に見合う機能をそういった民家に提案するような努力を、本来ならば建築家こそが取り組まなければならなかったというのに、そこに目を向けないままに60年がすぎてしまった。茅葺きの修理の方策もなく、住むのに不便な家に見切りをつけ、諦めて壌してしまうのは仕方のないことでもあった。私はここに至るまでのわが国の建築家の責任を痛感する

 柳下征史氏が本書に込めるものは、滅びゆく民家のために挽歌を唄うことではあるまい。氏に敬意を表するとともに、想いを共有し、なお力を尽したい。

(つしま えいじ/建築家、つくば市在住)


■家ごわし・・茅葺民家の解体