1885-1911出発

 ▶︎1885−1911年

 本章では、少年期の萬鐡五郎の絵画学習を起点に、水彩画との出合いを経て東京美術学校に入学し画家を目指した、およそ13年間のアカデミックな美術教育の受容過程を辿る。さちに、美校後期に西洋の新しい美術思潮に感応し、卒業制作へ向かう彼の姿を探る。

 萬の最も早い絵画学習を物語る資料は、1899(明治32)年の土沢高等小学校4年、14歳のときのもので、伝統的な山水画の模写本[1-1]洋画技法の鉛筆画〔上図5点]が残されている。また同年の秋、和賀郡の教育品展覧会に出品した萬の毛筆画に対して、その腕前を名指しで称賛する報告書もあり、図画教育の課程で毛筆画と鉛筆画を習得していたことを示している。これらの作品群からは、手慣れた描線で的確に形態を把握する画力が認められ、かなりの熟達度をうかがわせる。その後、中学進学を許されず自宅学習を強いられた萬は、岩手の地にあって東京・神田にあった速成文字会の会員になり、毛筆画の本格的な通信教育を開始している。その独習を物語る作品群[下図]は、淀みのない伸びやかな運筆が特徴的だが、なかでも先輩で手直しの線が引かれ、細やかな指導が記されているものが目を惹く。萬もまた不明な点があれば、忌憚なく質問を書き添えるというように、彼は勿論のこと指導者側も一方ならぬ力の入れようであった様子を伝えている。

 毛筆画の模写に熱中する萬であったが、「或る日新聞に「水彩画の栞」と言う本の広告があったので早速買って読んで見た。何んだかその時非常に清新とでも嘗ふ様なそゝられる様な感じを受けた。そして自分にも直ぐ水彩画が画ける様な気持ちになってその時までやつて居た日本画が急につまらなく思はれる様になったと思ふ」。ここでは水彩画という西洋絵画の手引書に初めて触れ、魅了されていった経緯が語られている。それまで萬が学んでいた絵画技法は、毛筆画、鉛筆画どちらも手本を模写する行為であり、独創的な創作意思に欠ける。そこに現れた水彩画は、自ら画題や題材が選べるうえに、色彩という武器が加わり、彼の創作意欲を満たすには十分な表現技法であったことは想像に難くない。「暇を見付けては間断なくかき続けた」と語るように、萬は水彩画にのめり込んでいく。

 1903(明冶36)年、上京し早稲田中学校に編入学した萬は、「水彩画之栞」の著者であり水彩画家の大下藤次郎のもとを訪ね直接批評を受けている。同様に、水彩画家の真野紀太郎をたびたび訪ねるなど、水彩画熟はますます高まっていき、外光を巧みに感じさせる明るい絵づくりや対象を捉える視線には非凡なものを感じさせる。また、どの作品も丁寧な筆速いと彩色が印象的であり、こなれた色づくりとそれを支える色彩感覚に驚かされる。

 「素人ばなれがした様な気持ち」と自信を滲ませるとおり、発行まもない「みづゑ」誌上に「春鳥会絵葉書の第二」の告知があり、予定された6種の絵葉書のなかに萬の<海>が含まれている。

 少年期に始めた毛筆画や水彩画は共に独習であったものの、そこには日本画家や水彩画家というプロの助言が介入していたことに気づく。趣味の域を超えて本格的な帯導を受けていたことは、妥協せずに本質を求める萬の資質が現れており、ここにその後の方向性が暗示されているように思える。

 中学時代には白馬会第二洋画研究所にも通い始め、〈静物(コップと夏みかん)(上図)にみられるように、明暗対比を際立たせた明るい色彩の油彩画にも取り組んでいる。また、禅道場の両忘庵へも熱心に参禅し、卒業すると同道場のメンバーとともに渡米する。一行の目的は、サンフランシスコの対岸オークランドに土地を求め、農業をしながらの禅布教にあったが、萬自身はこれを機にアメリカでの美術学校進学を目的としていた。アメリカ人家庭にハウスボーイとして住み込みながら、東部の美術学校留学を母親がわりの伯母・タダに願い出るものの望みは叶わず、半年足らずで帰国。東京美術学校入学に目標を切りかえ、再び研究所に適い始める。

 アメリカでの美術学校進学の夢は実らなかったが、帰国の翌1907(明治40)年東京美術学校西洋画科予備科に入学する。基礎的な石膏デッサンに始まったアカデミックな美術教育を受け、同年9月には本科合格者中首位の成績だった。その後も級長などをよく務め、美術学校での萬はいわば真面目な優等生であった。

実技は抜群の冴えをみせていた」と同級の神津港人が記しているように、人体デッサン[上図、裸婦習作[下図】と、対象に肉薄する的確な描写に加え、絶妙な色彩感覚には日を見破る。また、美校初期の立場を「前期印象派の信条に或る強い憧憬」と述べ、教授である黒田清輝の外光をとりいれた平明な描写に惹かれ、光が差し込む色彩豊かな作品を特徴的に描いている。

 黒田の外光表現や印象派的色彩に関心を寄せていた萬であったが、美校時代後期になると若者を中心に芸術の自由、自我の解放と、個性尊重の思潮が起こつてくる。時を同じくして、新婦朝着たちによって西洋の新しい美術思潮が堰を切ったようにもたらされる。萬も主観的な表現性の後期印象派やフォーヴィスムに深く感応し、たちまち優等生から「級内の革新派」へと転じていったのだった。それがいつ頃か判断に窮するが、1910(明治43)年5に白馬会展に出品していることから、アカデミズムから離れていったのは、この年の後半から翌年にかけてであったと思われる。それを物語るように翌年5月には、後期印象派の影響を受けた最も早いグループ展といわれるアブサント同人小品展に参加している。

 この頃から構想が始まったと考えられるのが、<女学生〉である。日傘を差した女学生をモチーフに、実に多くのスケッチやデッサンを描いている。<下図>

 

 萬の生涯を見渡しても群を抜く数であること、さらに女学生の一群を写した写真まで存在することから、卒業制作のテーマに遊んだ可能性が高く、相当入れ込んでいたことがうかがえる。写実的なデッサンやさまぎまな構図の試作、さらには主観的で簡略化されたフォルムの群像表現による構想画へと歩みを進めている。しかし、この試みは途中で頓挫したようで、女学生群像は日の目を見ることはなかった。この取り組みの根底には、アカデミズムの目標としてコンポジション(構想画)の制作を重視した黒田の教えがある。それは、歴史や思想、哲学をテーマに据えた群像による大画面の作品を、絵画制作の到達点と位置づけるというものだった。萬もそれに倣い女学生の群像表現を目論んだものと思われる。しかし、いつしかそのテーマは変更され、胸をあらわにした上半身裸の女性が画面を圧するような<裸体美人>[下図]へ舵を切ったのであった。

 萬は後に「自分は写実を行きつめた、又は写実の意味を卒業した処から反対に自分の内部生活に返つて来て精神的自然を握る事が出来たのです」と述べている。彼にとっての写実とは、美術学校のみならず少年期の毛筆画や水彩画などの絵画学習すべてを指し、どの技法においても指導者にその腕前が認められ、期待されていたという自信がこの言葉となったのだろう。卒業制作を機に、新しい絵画表現の最前線に立つことになる萬鐡五郎。その表現力を支えた画力が、少年期から青年期に育まれ、彼を支えていたことをふまえておかなければならない

(原田 光)

▶︎1885(明治18)年

 11月17日、父・八十次郎*、母・ナカ*の長男として、岩手県東和賀郡十ニケ村(通称・土沢)117番屋敷(現・花巻市東和町土沢8区30番地)に生まれる。弟妹が8人いる。当時の土沢*は、三陸沿岸の釜石から遠野を経て花巻へいたる街道筋の宿場町として栄え、釜石から花巻に海産物を、花巻から釜石に米を運ぶための回送問屋があり、旅籠があった。萬本家は「八丁」という屋号をもち、農海産物を扱う問屋として、また大地主として、同地方では指折りの多額納税者であった。ただし、鐡五郎の生家は、「八丁」の分家にあたる。

▶︎1891(明治24)年6歳

 萬本家の筋向かいに転居。母が病気がちとなり、2人の弟は本家の家族と暮らす。

▶︎1892(明治25)年7歳

 4月、土沢尋常小学校に入学。絵の好きな、内気でおとなしい少年だったという。

▶︎1893(明治26)8歳

 6月、母が死去、享年27歳。萬と弟2人は、ますます祖父・長次郎*と本家の家族に親しむ。12日、父、多田シワと再婚。夫婦の間に、弟妹6人が生まれることになる。

▶︎1896(明治29)年11歳

 4日、土沢高等小学校に入学。同級生に、佐々木理平治書のちの歌人・小田鴫孤舟*)がいる。3年生の頃から、日本画を独習し始め、落款作りに熱中したりする。

▶︎1900(明治33)年15歳

 3日、土沢高等小学校を首席で卒業。祖父・長次郎は孫たちを手元から離すことを嫌い、中学進学に反対する。代わりに、必要な学用品とともに、写真機やバイオリンなどを買い与えたという。

▶︎1901(明治34)年16歳

 大下藤次郎*著『水彩画之莱』*を新聞広告で知って購入、水彩画を描きだす*。大下に作品を送って、指導を受ける。また、写真に熱中する*。

▶︎1902(明治35)年17歳

 祖父が死去。本家の長男であり、従兄弟であった2歳年下の昌一郎*も、祖父から中学進学を断念させられていたが、これ以後、2人はともに進学志望を強くする。

▶︎1903(明治36)年18歳

 3月、上京する。後を追って、4月、昌一郎も上京。4月、私立神田中学校3年生に編入学する。昌一郎も、同じ中学の2年生に編入学する。この年の問に、2人は、神田中学校から私立中学部文館へ、さらに私立早稲田中学校*に編入学をする。早稲田中学校では、絵に熱中する度合いが深く、水彩画家の真野紀太郎*をしばしば訪ね、また、大下藤次郎を訪ねて批評を受ける。

▶︎1904(明治37)年19歳

 伯母・タダ*の勧めにより、昌一郎とともに、臨済宗円覚寺派の僧、釈綴翁宗活禅師が営む禅道場の「両忘庵」*に参禅しだす。七城五郎は「雲樵居士」、昌一郎は「荷舟居士」という安名(あんみょう・禅宗で、新しく得度受戒した僧に、戒師が法名 (ほうみょう) を与えること)を授けられる。「雲樵居士」は、繊五郎の土沢時代の印章*ともなる。

▶︎1905(明治38)年20歳

 この頃から、20歳に通い始め、長原孝太郎*、小林鐘吉の指導を受ける。

▶︎1906(明治39)年21歳

 3月、早稲田中学校を卒業宗活禅師による北米布教活動が計画され、両忘魔の信徒十数名が参加することになる。計画の内容は、現地に土地を求め、農業をしながら禅の伝道をすることにあった。

 5月、渡米*、サンフランシスコ対岸のバークレーで米人家庭にボーイとして住みこむ。昌一郎は、先行して1月に渡米。渡米には、絵画勉強のために美術学校に入る目的もあり、伯母に学費の送金を頼んだ。11月、サンフランシスコ大地震(4月)の影響もあり、進学の計画は失敗し、帰国

 12月、東京美術学校・現東京芸術大学)への入学を考ぇ、再び白馬会第二洋画研究所に通う。

▶︎1907(明治40)年22歳

 4月、東京美術学校西洋画科予備科に入学。

 9月、本科に入学予備科修了試験合格者28名中、首位の成績をおさめる。

 10月、第11回白馬会*展に出品0同展には、1909年の第12匝展、1910年の第13回展にも出品

[展覧会歴]

■第11回白馬会展(上野公園・元東京勧業博覧会第2号館南畝10月6日一11月10日)/《風景》(油彩)[『第11回白馬会展出品目録』]

▶︎1909(明治42)年20歳

 春、浜田よ志、淑子は通称)*と結婚。春、24歳当時、浜田の家は、根津藍染町で下宿業を営んでいた。萬が下宿していたときもあったらしく、浜田の父が萬を気に入っていたという。結婚後、小石川区宮下町16番地*(現・文京区千石3丁目29番)に住む。

[展覧会歴]

■第12回白馬会展(赤坂溜池・三会堂、4月6日~5月2日)/《静物》(油彩)[『第12回白馬会展出品目録』

▶︎1910(明治43)年25歳

 2月、長女・フミ(後に登美と改名。とみ子、登美子*は通称)生まれる。

[展覧会歴]

■13回白馬会展(上野公園・竹之台陳列館、5月10日−6月ヨ掴)/《花》、《雪≫、《夜》(油彩)[『第13回白馬会展出品日払ニ

▶︎1911(明治44)年26歳

 3日、白馬会研究所出身の若手作家によって原人会*が老成される。

 5月、アプサント会*同人による小品展を開催。

 10日、岩手軽便鉄道会社(現りR東日本釜石線)が創立きれ、南本家は主要出資人の一人となる。

[展覧会歴]

■アプサント同人小品展(本郷帝大前・レストランパラダイス2宅、5月20日一21日)/詳細不詳ド美術新報』6月号、『日本美青年鑑1911年』に展覧会に関する記載あり、ただし萬についての記載なし。

東京美術学校3年生。1909(明治42)年(24歳)頃新婚時代のよ志夫人(萬の撮影)