石田徹也とその時代

川谷承子(静岡県立美術館・上席学芸員)

 自分が今生きている時代が、どういう時代なのかを知ることは、なかなか難しいことではないでしょうか。たいていはその時代が過ぎぎた後になって、ああ、あのときはこういう時代だったのだと気づくことが多いのだと思います。

 今この時点の空気を、その空気を吸っている者は、ほとんど意識しないのではないでしょうか。その時代を代表するもの、例えば小説、映軌マンガ、テレビCM、流行語、タレントヒット商品、ファッションなどを手がかりとして、今を知ることはできるでしょう。しかし、それらもリアルタイムにおいては消費の後に忘却されていき、やや時をおいた後になって初めて懐かしいものとして思い起こされ、ようやく過去を知るよすがとなります。時代の真っ只中で、その時代を背負って生きている世代や、とりわけこれから社会へ出ようとする若者たちは、その当事者である以上、距離をとって観察するわけにはなかなかいかないものでしょう。

 ところが、その時代を鮮明に描き出したある種の文化的な事象は、その時代を生きる者たちにその時代の像を教えてくれることがあります。あなたたちの生きている時代や社会はこぅいうものではないですかとヴィジュアル化し、直感させてくれるのです。そのようなものの多くほ芸術作品と呼ばれるもののなかにあるのでしょう、どの時代、どの世代にも、そうした作品がそれぞれにあるのだろうと思います。

 石田徹也の作品は、そういうものだったのではないでしょうか。1990年代後半から2000年代の前半、まさに世紀の変わり目において、石田と同じ世代、あるいはそれ以降の世代に対して、今とは、社会とは、そして自分とはこうなんだと教えてくれた絵軌石田徹也の絵は、そのような時代の教科書として若者たちの前に現れたのでした。

 石田徹也の絵が最初に広く知られるようになったのは、1996(平8)年10月、第6回 ひとつぼ「3.3㎡展」グランプリ受賞者個展の「石田徹也展『漂う人』」においてでした・「3・3㎡展」(ひとつぼ展)はグラフィックアートと写真の公募展で、それらの表現分野を目指す若手の登竜門的な展覧会でした。石田は見事グランプリを獲得し、その特典として初めての個展を開催することができたのです。石田のこのころのアイデア帖には、この準備のための作品選定や展示の配列、個展タイトル案などが書き残されています。また個展終了後には、その反省点や今後の方向性を箇条書きしてもいます。石田にとっては渾身の個展開催だったのでしょう。

 そしてその個展は、観た者にとっても衝撃的なものでした。いや正確に言うと、量りかねるという印象でした。というのは、この公募展がグラフィックアートつまりデザインや出版と密接に関係のあるコンクールであるにもかかわらず、石田の絵はそれらしくなかった。かと言って、いわゆる現代アートの流行に乗ったものでもなく、むしろ(そういった流行とは)ほど遠いスタイルであったからです。石田の絵は緻密な手描きによるもので、審査員のひとりが発言していたように、デザインの分野では非効率的な画風に思われました。一方、アートの世界では、インスタレーションが隆盛していたころで、絵画は大画面の抽象を除けばもう古い形式であり、ましてや具象画なんてといった時代でした。

 今にして思えば、デザインとかアートとか具象とか抽象とか、そのジャンル意識の偏狭さに反省させられるのですが、当時としては、石田の作品はどこにもおさまらない異物として受け止められたのではないかと思います。しかし石田と同世代または石田より若い世代にとつては、その違和感こそが作品内容と響きあって強い印象となったのだと思います。もうとつくに使い古されて、骨董品のように思われていた自画像というテーマが、壁一面に並べられ、眼前に突きつけられたことに対する驚きは、ある種、新鮮にさえ感じられました。この現代における自分というもののありさまを、これらの作品は若い世代に見せつけたのでした。自画像は、明治以後の近代化の中で個人の権利意識高揚や自我の探求といった風潮を背景に、大正時代の画家たちによって多く描かれました。しかし個人と社会との関係はどうもそれほど単純ではないとわかってくるにつれ、この画題は顧みられなくなります。しかし、社会よりも自分に意識を向けようとする風潮は、ときどきに現れます。90年代も、そういったときだったのかもしれません。石田徹也の世代、いわゆる団塊ジュニア世代は、高度経済成長期の終焉の中で育ち、バブル熱にうかれる熱を感じたかと思えば、バブル崩壊後の「就職氷河期」とか失われた10年と言われる時代に社会へ出ていきました。この激しいアップダウンの経験は、この世代特有の考えを醸成したことでしょう。 当時の若者たちに流行していたのは、たとえばRPG(ロールプレイングゲーム)やプリクラ、たまごっち(1997年)でした。唯一無二で自明な自己ではなく、パーティーでの役割やヴァーチャルな生を再生する中に自己を位置づけること。ベストセラーとなった『ソフィーの世界』(1995年)なども、この時代なりの自分探しを反映したものだったかもしれません。尾崎豊の死去(1992年)とそれへの憧憬は、強烈な個性や生き方が喪失したことの裏返しだったのではないでしょうか。

 石田徹也は、しばしば「オリジナリティって何だ」と語っていたそうですその真意は今ではわかりません汎オリジナル信仰への懐疑も、この時代のこの世代を特徴づけるひとつでしょう。先の世代が好景気を背景とした経済力によって、やれることをやりつくしてしまい、自分たちの世代には真に独創的、個性的なものを作れる余地は残されていない。できるのは先例を引用してパッチワークのように切り貼りするだけだといった制作論がよく語られました。その代表はアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)の監督鹿野秀明でした。石田は、下掲のとおり雑誌『STUDIOVOICE』の「エヴァンゲリオン」特集号(1997年3月号)を読んでいましたが、この特集号には「オリジナルなんて存在しない」という作品分析も紹介されていました。石田が、このアニメと当時無数に語られた作品論に触発されたことは間違いないでしょう。また引用の鮮やかさに惹かれる感性の持ち主であったことは、石田がアイデア帖に「パルプ・フィクション」や「レザボア・ドッグス」などのクランティーノ映画をかっこいいと記していることからもうかがえます。

 もちろん引用は単なる制作手法の問題ではなく、人の内面、特に自分とは何かという問題でもありました。オリジナルを基礎づける自分がもはやないという状況で、ではいかに自己を捉えるのか。この問題に対して、石田なりに導き出したのが、自画像という古いテーマだつたのでしょう。1997(平成9)年のアイデア帖には、こうあります。

■STUDIOVOICE新世紀エヴァンゲリオン特集を読んで思ったこと

 太宰治とかの系譜らしいが、ぼくは、あまり好きでない。

  僕の求めている(今)ものは、苦悩の表現であったりするのだが、それが自己れんびんに終わるような、暗いものではなくて、他人の目を意識した(他人に見られて、理解されることで存在するような)ものだ。自分と他人の間のかべを意識することは、説明過剰を生みだすが、そのテーマなり、メッセージが、肉声として表現されているならば、直情的にたたきつけた絵画よりも、ニュアンスにとんだコミュニケーショソがとれるはずだ。僕の求めているのは、悩んでいる自分をみせびらかすことでなく、それを笑いとばす、ユーモアのようなものなのだ。ナンセンスへと近づくことだ。他人の中にある自分という存在を意識すれば、自分自身によって計られた重さは、意味がなくなる。そうだ、僕は他人にとって、10万人や20万人といった他数(ママ)の中の一人でしかないのだ。そのことに、落たんするのでなく、軽さを感じ取ること。それがユーモアだ。「自分自身によって計られた重さ」を、オリジナルとしての自分と考えてみるとよいでしょぅし、「他人の中にある自分という存在」は引用されパッチワークされた自分と読み替えるとわかりやすいのではないでしょうか。この「他人の中にある自分」という語は、1999(平成11)年4月ごろのアイデア帖では「他人の自画像」と言い換えられています。IMG_4607

 他人の自画像 最初は自画像だった。弱い自分、なさけない自分、不安におびえる自分を、ギャグやユーモアで笑えるものにしようとしていた。笑えるものになったり、余計にかなしいものになったりした。現代人にたいする風刺や皮肉と受けとめられることもあった。そう思って続けていく過ていで、消費者、都市生活者、労働者、日本人と拡がってきた。自分が感じることのできる人物へと絵の中の人物は変わってきた。拡がってきた。d4bed9b8dfd211c11b464c

 個人の没個性化とか匿名化とかといったことは、この時代以前から喧伝されてきたことです。石田の世代においては、それを単なる平均化、均一化といった以上の意味で捉えていることに留意せねばなりません。オリジナルはなく、自分自身が引用によって貼り合わされた存在であるなら、その重さは他者によって計られるほかない。そうした自己のあり方を、石田は「自画像」として表出して見せたのです。そして、そうした自分がサラリーマンとなって社会の様々な場面にいる。その姿に、若い世代は、今の自分や将来の自分を投影し、共感したのでした

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 ただし、そこには感情移入という心の働きは希薄だったと思われます。ありえる一つの自分として、あるいはシミュレーションされた自分として、石田作品は眺められるのです。それはRPGをプレイするような感じに近いのではないかと思います。例えば《燃料補給のよぅな食事≫に描かれている同じ顔をした人物たちは、一個人の人格の複製化というよりも、むしろたびたび引用され、切り貼りされた自分の姿、石田の言葉を借りるなら「他人の中にある自分」の姿に違いありません。他人は何人もいるわけですから、その中にいる自分も複数人いるわけです。その自分たちのうち、あるときはこれに、またあるときはあれにと自分を重ねる感覚がこの作品を見るときに感じることです。そうして、石田作品を見る人は同じ作品を見ていながら、ある人は泣き、ある人は笑う、あるいは、ある時は泣き、ある時は笑うという反応を示すことになります。

 石田徹也をこのような作風に導いたものが一体何だったのかは、よくわかりません。大学生時代のスケッチブックは、表現主義的な荒々しい線や色彩で満ちており、主観主義的で、個性を主張しようとしているかのようです。しばしば描かれる路地裏をさまよう犬(クルコフスキーの映画の影響でしょう)は、ひと時代前の疎外された人間像のイメージを引きずっています。それが1995(平成7)年を境に一掃され、《ビアガーデン発≫と≪居酒屋発≫を皮切りに、我々がよく知る石田作品のスタイルに変化します。

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 同じ顔をした複数の自分の像がどこから来たのかは、今のところ遺されたアイデア帖やスケッチブックからはたどることができません。その要因については、この転換点となった年が、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、Windows,95の年であったこともあわせて考えねばならないでしょう。しかし、石田作品の自分たちが、オリジナルをもたない自分たちであるのなら、そこに出自かないのは、むしろ当然なのかもしれません。       (かわたに・しょうこ/静岡県立美術館上席学芸員)