二科展の歴史

DSCF6923 文部省美術展覧会(文展)の監査に不満を抱いた一部の洋画家たちが、新旧二科制度を文部省に願い出ますが聞き入れられず、ついに文展を離れ在野の公募展を立ち上げた。そうして結成された「二科会」は、1914年10月1日に上野竹之台陳列館で第1回展を開催。以来、はじまった二科展は、サロン・ドートンヌとの交換展在外作家制度など、海外の新しい美術動向に積極的な姿勢を打ち出し、文展とは異なる路線を歩み始める。アカデミズムと対極の場で、二科会が果たしたその役割は大きく、アクションや独立美術協会をはじめ、二科会から数多くの運動や分派がうまれた。1935年帝展改組により一部の創立メンバーが帝国美術院会員となった際には退会を促されるなど、二科会の画家たちは在野であることにこだわる。

 その後、戦争へとむかう時代の流れのなかで、二科会はついに1944(昭和19)年解散を余儀なくされたものの、再結成後はパリ、メキシコ、ロシアなど海外での展覧会開催や、社団法人化(現在は公益社団法人)、絵画、彫刻以外のデザイン、写真の分野への拡大を図るなど、更なる発展を目指して今日に至る。100年もの長い期間、美術家たちの切磋琢磨する研鑽の場として続いた二科展について語られる作品やエピソードは尽きません。在野公募展の雄として、二科展は今もなお、その一貫した歩みを続けている。

 今回の二科100年展では、常に時代を先取りしてきた二科展の100年の歩みを草創期、揺籃期、発展そして解散、再興期の4期に分け、あらためて明らかに。それはまた、日本近現代美術史における二科展の意義を浮き彫りにする。

【1】草創期

 1914(大正3)年10月、石井柏亭、山下新太郎、有島生馬、坂本繁二郎、梅原龍三郎、津田青楓、斎藤豊作ら11名を鑑査委員とし、上野竹之台陳列館で第1回展が開催される。彫刻部は第6回展から新設された。

19_sakamoto 12_sakamoto 01_arishima 02_yamashitab05_sekine b04_yorozu b01_murayama 04a_kishida04b_kishida 07_ishii 09_fujikawa 《白シャツの男》(東京国立近代美術館所蔵)img0981 萬鉄五郎画伯の『筆立てのある静物』(岩手県率美術館蔵) 萬鉄五郎-『もたれて立つ人』-大正6年作-東京国立近代美術館 木の間から見下した町 1918年 萬鉄五郎 保田龍門 自画像 梅原龍三郎「読書」1911年 湯浅一郎 椅子によれる女 東郷青児「パラソルさせる女」 中川一政-『春光』 石井鶴三《縊死者》1915年-第2回展-東京藝術大学所蔵 石井鶴三 行路病者 岸田劉生 彫刻 男の首 柏木氏の像草創期-1

【2】揺籃期

 1920~30年には神原泰や中川紀元が中心となったアクションをはじめ、里見勝蔵、小島善太郎らの結成した1930年協会、児島善三郎らひきいる独立美術協会など、二科会で活躍する画家たちによる運動や分派がうまれる。

08_kunieda 11_koide c13_saeki 15b_saekic14_yoshii b16_kawaguchi 16b_koga 林武 本を持てる婦人像1922年林重義 テルトルの広場 1929年 アンドレ・ロート海辺1922年 アンドレ・ロート第11回二科美術展「仏蘭西風景 阿部金剛「Rien-No.1」1929年 伊藤久三郎『流れの部分』 1933年 伊藤廉窓に倚る女1930 吉田卓(たかし) 扇子を持てる裸婦 1926年 古家新 「海女の庭」 1933年 古家新-「海女の庭」-1933年 古賀春江「二階より」(1922年 工場に於ける愛の日課 住谷磐根 1923年 妖しさが巧みな工場 国枝金三 都会風景 国枝金三(都会風景)1924大阪府蔵(大阪府20世紀美術コレクション) 黒田中重太郎 一修道僧の像 1922年 佐伯祐三-リュ・ブランシオン 小島善太郎「読書」1925 神原泰 この苦しみにわれはいのちをかけたり 正宗得三郎-『パリのアトリエ』1923年 清水刀根-黒衣の女-1931 赤城泰舒-《ギターを弾く少年》 中原實《モジリアニの美しき寡婦》-第10回展(1923年-個人蔵) 中川紀元 「アラベスク」  1921 長谷川利行 酒売場 長谷川利行:女-(1932) 津田青楓 「研究室に於ける河上肇像」1926(大正15)年 藤川勇造 ブロンド 1913年 浜田葆光(ほこう) 水辺の鹿 1932年 木下孝則 後向きの裸女の習作1925年 野間仁根《ぜ-ふうるむうん》-第16回展(1929年-愛媛県美術館) 矢部友衛 有島生馬熊谷守一肖像1930 里見勝蔵『女』(1928年・昭和3)揺籃期-1揺籃期-2揺籃期-3

【3】発展そして解散

 1934年に藤田嗣治を迎え入れた二科会は、さらなる発展を遂げ、藤田、東郷青児を顧問に据えた九室会なども結成される。1935年には石井、有島、山下ら一部の創立メンバーが二科会を去り、1944年ついに二科会は解散へ

15a_togo 16a_togo 21_fujita b17_suzukib18_nabei c19_kuniyoshi b19_takai b22_matsumotob23_matisse b26a_yoshihara b26b_katsura b31_oda硲伊之助《室より(南仏のバルコン)》1935年 硲伊之助美術館所蔵 藤田嗣治 「町芸人」  1932(昭和7)年公益財団法人平野政吉美術財団 アンリ・マティス.-アンリ・マティス-《-青い胴着の女-》-第23回展(1935年-石橋財団ブリヂストン美術館蔵) 安井曾太郎 「玉蟲先生像」 1934(昭和9年東北大学史料館 伊谷賢蔵 楽土建設1940 笠置季男先生の『若者よ空へ征け』兵庫県立美術館蔵。 吉原治良『空』1943年大阪新美術館建設事務局蔵 向井潤吉画伯の『争へる鹿』世田谷美術館蔵 小山敬三《瀬戸内海》1934年小諸市立小山敬三美美術館所蔵 松本竣介 「画家の像」1941(昭和16)年宮城県美術館発展・解散期

【4】再興期

 戦後、いちはやく動いた東郷や、高岡徳太郎らが中心となって二科会は再結成される。海外進出、社団法人化など、再興するためのさまざまな工夫がなされて今日に至る。

34_okamoto b32_tsuruoka c55_kitagawa c51_yodoi c45_yamaguchi b39_horiuchi   岡本太郎、裂けた顔1960年 岡田謙三・シルク・1947年