1914-1918 沈潜

■1914-1918 沈潜

▶︎1914-1918 沈潜

 1914(大正3)年9月29歳に、萬は妻と二人の子どもを連れて郷里・土沢へ帰る。その理由を「段々制作にうえる事になつた」からと記す。それは、6月に長男が誕生してさらに生活雑事に追われることになり、制作に専念できずに満たされない描くことへの欲求、画家としての危機感だったといえよう。一家は、萬の本家「八丁」と街道を挟んだ筋向いに住み、萬はアトリエを構えて電灯会社の代理店を営んだ。

 しかし、店の大半は妻にまかせて自身は制作に打ち込み、電灯料金の計算書[上図左]などにもスケッチする有様だった。「目をあけてゐる時は即絵をかいてゐる時だ」と東京の画友・小林徳三郎に伝えたように、「この時は随分勉強した。何も見も聞きもしない。二科会など始まつた様であつたがそんなものも見たいとも思はなかつた。秋から冬、春から夏と言ふ風にどんどん描いたものである」と画家は後に回顧している。

 帰郷して10ヵ月が経過する頃に萬が地元紙に寄せた一文には、「今は自分にとつて最も大切な期間になつて居るさあらゆる周囲と戦ひ色んな関係を切り離して此処に自由に製作し得る僅かな極僅かな期間を作つたのである。此れ丈でさへ自分にとつては少しばかりの努力ではなかつた此の期間(九月迄続くつもりである)を最も貴重に過し芸術的欲望を現実に生かさなければならない責任を自分に感じて居る。作画以外に少しの時間もエネルギーも費したくない」とあり、昼間だけは心苦しくも居留守を使い制作に時間を当てていることまで明かしている。ここには、1年と予定した帰郷が終わりに近づくことへの焦り、いわば叫びにも似た萬の本心が表白されている。

 つまり土沢への帰郷とは、萬の覚悟そのものであった。30歳を目前にした自己の立て直し、生活ほもとより、何よりも画家としての再出発を期した行動だったのだろう。その場所として、萬は土沢の地を意志的に選んだのではないか。東京から離れ、画壇や人との交わりから遠ざかり、より純粋に自己と表現に対峙できる環境を手にすること。帰郷後の萬は、かつての自分を育んだ故郷の風景を画家の眼で初めから見つめ直し、戸外での写生を必死に重ねる。一方、アトリエでは鏡に自身を映し、己の顔を舞台にした造形の探求と実験を繰り広げる。実写を重ねる中で、徐々にキュビスムへの意識が高まり、その手法も取り入れていく。やがて顔は変形と解体の度合いを高めて、異様な形相[下図]にいたる。

 

 だが、そこには萬が好んだ郷里の神楽面との関連性を認めることもできる。こうした自画像への集中的な取り組みは、まずは東京における美術学校書からヒュウザン全書までの時代に見られたが、ここではかつての鮮やかな色彩は消えて茶褐色が支配する画面へと一変する。ついには目や口を持たない自画像にいたり、画家の顔における研究は行き着いたというべきか。婦郷して1年が経過すると、盛岡や東京での個展や作品を頒布するための画会を企てるなど、再上京を見据えた行動に入ったようにも受け取れる。こうして1年4カ月あまりの帰郷に区切りをつけた萬は、1916(大正5)年1月31歳に家族とともに再び東京に戻った。

 画家は、土沢で描きためた作品をその年11月の第2回黒輝社・美術工芸展への出品を皮切りに、翌年5月の第一回日本美術家協会展では27点もの多数を披露した。さらに、この年は9月に同時開催された第4回二科展・と第4回院展洋画部事の両方に出品し、旺盛な意欲を見せた。二科展に出品した<もたれて立つ人〉[上図右】、之を解る人も解らない人もあつたが、二科の中で堂々たる異彩であつた。萬君は此大作によつて製作欲も充たしたろうが、又彼が画壇に出ると云ふ意欲も相当に充たしたものらしかつた」と小林徳三郎が記したように、萬が土沢での研究成果を世に闘うべく入念な準備を経て完成させたまさに意欲作であった。描かれてl世紀が経過する今日かけもその異彩は翳(かげ)らない。

 

 また萬は、東京に戻ってからの数年開、土沢の風景を描き続けた(上図左・右)。写生をとおして内在化させたそれらの風景を、今度は自らの風景として表現すべく、キュビスムや表現主義などの異なる様式を意識的に選択しながら造形的な試行を展開した。その多くはこの短期間に制作されたとは思えないほどの表現の幅と造形的な完成度を見せて驚かせる。一方で、それらは画家の苦悩をのぞかせるような心象風景でもあった。1918(大正7)年33歳の後半には、生活を支えるための仕事や自身の制作などから過労が重なり、神経衰弱と肺結核を患っていることが判明する。そこから、翌年1919年3月34歳に転地療養のため神奈川県の茅ヶ崎へ移住するのだった。

 このように、帰郷から再上京後までの画家の30歳前後の時代を見るが、やはり帰郷という行動とそこでの沈潜した時間の持つ意味は重大である。同じ時代を生きて比較されることの多い岸田劉生が、主宰する土社を中心に自身の画風の模倣者を全国に作り出していったこととは対照的に、萬の理解者だった斎藤与里が「萬君の絵は、ほかの人に一寸真似の出来ない絵だつた。若い人達で萬君の絵に興味を持つ者は沢山あつた様だが、真似をした者はいない。真似が出来ないからだ」と評したこと象徴的だ。

 この「真似が出来ない」絵を生み出す源泉を、萬は若くして自覚していた。それは、卒業制作の(裸体美人〉【上図〕にすでによく示さいている。ヨーロッパから次々に流入する前衛美術の動向を、萬も他の画家たちと同様に強い関心を持って仕入れ制作の刺激物として意識的に取り入れた

 とはいえ、多くの画家たちがその追随者に終わらていく中で、萬は自分だけの立ち位置を知っていた。ヨーロツパと日本、東京と東北の土沢。国内外のいずれとも中央から遠く離れた地方で萬は生を受けた,その境遇ゆえに、地方で育まれたもの、とりわけ土着性とも称されるその土地で生得した感覚や美意識というもこのを、萬は否定するどころかまさに借りものでない己のものとして誇り、それを堂々と前衛なるものと等位に置いた。この画家は、そのように対極的な存在をあえて並べ、そこから両者を激しく混ぜ合わせるのだ。画家の言葉を借りれば、「混沌を圧搾して純化と統一とのエツキス」を得るためた、萬は過酷な内部作業を常に課してしていたのだろう。だかち、画家として再出発するにはそうした自身の信念をより徹底させて新たな光を見出す必要があった申けで、土沢への帰郷は萬にとって必然的な選択であった。

 

▶︎1914(大正3)年29歳

 5月、盛岡で開かれた第1回七光社*展に26年の第16回展にも出品

 土澤のアトリエ兼住宅。後に郵便局に改造されてから撮影したもの

 2月、土沢*に一時帰省する。29歳

 3月頃か、土沢尋常高等小学校で画会を開き、会費1円として、栴本軌画仙半紙画など70点を抽選で頒布する。

 6月、長男・博輔が生まれる。

 9月、生活と制作上の理由で、家族とともに土沢に帰る。萬本家「八T」*と道を挟んだ筋向かいのモダンな木造の西洋館に住み、電灯会社の代理店を兼ねたアトリエとLていた。店は夫人にまかせ、制作に専念する。同月、黄菊社展に出払

[展覧会歴]

■黄菊社展[北虹画会主催洋画小品展覧会](盛岡市・作人館、9月14日[13ト15日)/[『岩手毎日新靴9月13日何に「スケッチ数葉」と記載あり。]、

▶︎1915(大正4)年30歳

 5月、盛岡で開かれた第1回七光社*展に出品。同展には、17年の第5回展、26年の第16回展にも出品。

 9月、盛岡あるいは東京で個展を開き、同時に作品頒布のための面会*を起こす計画を立てて、上京する。画会は、両忘庵での知己串の一人、弁護士の堀合由己が中心になって起こざれ、『岩手毎日新聞』*の広告で告知。告知によると、

 11月、12月を期限として開催されることとなる。肖像画、風景画、掛軸(山水)の3部に分け、肖像画、風景画は10円、掛軸は5円、分納で、満期時に作品を渡すとされる。115人から申し込みを受ける。しかし、作品の配布は17年4月、作品完成後に行われた。当初から、制作が遅れたため、個展開催は不可能になる。同月、『岩手毎日新聞』(21日−28日)に「ビンヨン氏の狩野派観(一)−(七)」を連載する。ニの年、雑誌『二戸教育新潮』10月号の表紙絵を描く。上下とも 人物(電灯料金計算書スケッチ)[M−12]。

1914−15(大正3−4)年

[展覧会歴]

■第1回七光祉展(盛岡市・旧市役所、5月23日一26日)/[版画](展示:23日−26日)[油彩](展示:25日−26日)[萬絨五郎「七光会に出した絵其他(上)」『岩手毎日新聞』7月4目付に「海岸の絵、花の絵」と記載あり。]

■北虹会洋画展覧会[第5回](盛岡市・岩手県物産館別館、7月2日−10日[F岩手毎日新聞』7月8目付には11日と記載])/素描と版画3点[「洋画展覧会(四)」『岩手民報』7月7目付に「僅々三枚の素描と板画」と記載あり。]「萬績五郎面会」パンフレット


▶︎1916(大正5)年31歳

 1月、土沢を離れ、家族とともに再び上京する。下谷区上野桜木町に転居先を求めたが、見つからず小石川区宮下町18番(現・文京区千石3丁目28番地)に居住する。

 転居癖がでて、2月、小石川区原町に転居するが、4月、近所の原町126番地(駄文京区白山4丁目7番地)に、5月には同区西原町1丁目8番地(現・文京区千石4丁目3番地)に再転居する。

 5月頃、微熱、発汗、身体の不調を訴える。

 9月、「十二月色紙会」*という名称をつけた画会を起こも入会費50銭、月々1円、毎月1枚ずっ色紙を頒布。20人ほどの申し込みを受ける。

 11月、第2匝慄輝社*美術工芸展に出品。この年、菊地寛三著『涼風五十五日』の表紙絵を描く。

[展覧会歴]

■第2回黒曜社美術工芸展(銀座・玉木額縁店楼上、11月5日−11日)/《雪》、《静物≫、《男の顔》、《早朝、《山地》、《男の顔》、《登り道》、《風景》、《雪の朝》、《静物》、《風劉、《静物》、《風劉(油彩)[『中央美術』12月号に「男」「早春」「山地」ほか13点と記載あり。]

▶︎1917(大正6)年32歳

 5月、第2回日本美術家協会*展に土沢で描いた作品をま とめて出品。

 8月、土沢に一時帰省する。

 9月、第4回二科展に出品、《もたれて立つ人》がキュビスム風作品として注目される。同月、第4回院展洋画酔に出品。同展には、翌年の第5回展にも出品。

 10月、次女・馨子が生まれる。この年、小田鴫孤の歌集『辺土にて』の表紙絵を描く。

[展覧会歴]

■第5回七光社展(盛岡市・岩手県物産館南館、5別日−7日)/《風景》(油彩)l第2匝旧本美術家協会展(上野公園・竹之台陳列館、5月5日−27日)/≪雲》、《風劉、《雪の那、《パイプのある静物》、《山》(油彩)など27点[『みづゑ』6月号に「雲」「風景」「雪の朝」27点と記載あり。

■第4回二科展(上野公園・仲之台陳列館、9月9日−30日)/《静物》[《筆立のある静物》]、《もたれて立つ人》(油彩)『第4回二科展出品目録』

■第4回院展洋画部(上野公園・竹之台陳列館/京都岡崎公園・第一一勧業館、9月10日−30日/10月26日−11月11日)/曙の翻、紬》、≪夏の真昼》、臓体》[臓婦(椅子による)》](油彩)[『第4回院展洋画部出品日録』]

▶︎1918(大正7)年33歳

 晩冬、小石川区丸山町11番地(現・文京区千石3丁目)に転居する。

 3月頃、盛岡の書家・郷土史家の新渡戸仙岳*に日本画の印章*雅号を選定してもらい、「黎耳宿主」の印章を得る。

 1月、第5回日本水彩画会*展に出品。同展には、21年の第8回展から25年の第12回展まで出品。

 5月頃、土沢に一時帰省をする。

 9月、第1回岩手県芸術品展に出品。同展には、19年の第2回展、21年の第4回展、22年の第5回展にも出品。夏以降、睡眠不足と過労が重なり、体調が悪化する。肺結核と判明する。昼間は、友人たちの来訪が繁く、制作は夜間になることが多かったこと、児童雑誌から頼まれて付録の考案にふけるといったアルバイトのためなど、体調不良をおこす原因は多かった。

 11月、神経衰弱と肺結核の療養に専念するため、土沢の萬昌一郎*に手紙を書き、資金的な援助を願う。

 12月、治療を受け、回復に向かう。この年、『文章世界』6月号の表紙絵を措く。二展覧会歴]●第5回日本水彩画会展(上野公園・竹之台陳列館、4月3巨卜29日)/《風景》、《枯木》、《鮎をつる》(水彩)

[第5回目本水彩画会展出品目録]

■第5回院展洋画部(上野公園・竹之台陳列館/京都岡崎公園・第一勧業館、9月10日一30日/10月16日−31日)/《静物(薬錐と茶道具のある静物)》

■第1回岩手県芸術品展(盛岡市・岩手県物産館北館、9月11日−20日)/《十和田湖》(油彩)、《山水》(水墨)[上田光三「芸展洋画評」『岩手日報』9月19日付に「十和田湖」図版、F岩手目軌9月12日付に萬践五郎氏の「十和田湖」と記載あ り。