「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念

■「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念 

武田  康弘 

 キャリアシステムとは、明治憲法下において行われていた高等文 官試験制度(1887 年に制定された「文官試験試補及見習規則」がそ の原型)の残滓ですが、その実態は、悪しき官のエリート主義=東大法学部支配です。

1893年(明治26年)に文官高等試験が定められた。それを文官任用令(明治26年10月31日勅令第183号)として公布した。だが、これは大臣や地方官が天皇に奏請して任命される奏任官の任用制度であり、天皇の勅命で任命される勅任官には適用されず、政党による猟官が激しかった。

 これを真に廃止するためには、何よりも先ずそ れを支えている想念の明晰化が必要ですので、以下に記します。 わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名 づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽(かんせい・おとしあな)とい えます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、 私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」 の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。

直観は最上の知識である。(ドラクロア・西洋画家)

 そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める 自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに 困った問題です。 また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知 は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の 違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」 するマスメディアを見れば一目です。 人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は 客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁 となり、かえって人間支配の道具になり下がります。

 生々しい人間の生と現実までが、既 成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶(おとし)められてしまうわけです。その ような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、 というのが明治半ば以来 100 年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念で しょう。

出典参考例wikipedia (法学部卒業生・上記内容とは関係ありません)  服部一三       加藤一郎      平野龍一  濱田純一

 この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽(かんせい・おとしあな)と表裏一 体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。

ステレオタイプは、人が他者をどのように見るかということで、いいものもあればよくないものもあります。また、このグループの人たちはこうだと世間が思い込んでいる特徴にその人の行動や外見や話し方が合致していると、ステレオタイプはより強く適用されます。

 明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化によ る政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏(かんり・国務にたずさわり国家に対して忠実・無定量の勤務をする公法上の義務を負う者)として東大法学部の出身者を中心につくら れた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものと する歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キ ャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、 人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。

 現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄して いく具体的努力です。

明治時代のナショナリズム思想で、国家独立の権利を主張する論。19世紀における欧米列強の東アジア侵略という国際環境のなかで、これら列強の圧力下で結ばれた不平等条約を改正し、国家の独立を維持することは明治期の国民的課題であったから、国権論は政府、民間を問わず広く支持された。自由民権運動は、国家間の対等独立は個人の自主独立によって基礎づけられるとの考えにたち、国家に対する個人・国民の自由権利の確立、つまり民権の確立こそ国権確保の前提であると主張した。これに対し明治政府は、富国強兵のスローガンを掲げ、国家あっての個人との考えにたって、民権に対する国権の優位を主張した。民権運動の衰退に伴い国権優位論が高まり、内にあっては人権や自由を制限して国家権の拡大を当然とする国家主義、外に対しては国家の独立を超えて膨張主義、侵略主義を是認する強大国志向が喧伝(けんでん)されるようになった。松永昌三

 客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みな のです。 読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的では ありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画 発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機 応変、当意即妙(とういそくみょう・即座に、場に適かなった機転を利かせること)の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話 の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それと して取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性な のです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻 んでしまいます。

 過度な情報の記憶は、頭を不活性化させのです。 戦後の教育・従来の日本の教育においては等閑視(重要なものと見なさず注意を払わないこと)されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目 的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そ のために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。このことは、わたしの 32 年間の教育実践(小学1年生より大学生・成人者まで)と哲学的探求から確実に言えます。

  ◉ある高校生の意見要約とそこに対する意見を、以下に記す。

“高給を目的とした学習になっていること、型にはまった進路選択しかできないことは自律性と多様性を抹消する。”

これはより一般化できると予想されます。様々な国の事情を聞く限り、この傾向は日本だけではなく、東アジアにも、米国にも当てはまることだと思います。教育は「型」が用意されていることが前提であることが多いと思います。

日本に限ったお話をしますと、他人(日本社会)の評価を気にしすぎることが自律性と多様性を殺していると私は感じています。皆が良いと認める選択肢に安心し、自分で選択する勇気と信念がなく、本当に自分がやりたいことが何なのか見失う人が多いように思います。

“国際意識、すなわち価値観が異なる他者間交流の中で、歴史や文化、経済状況に起因する偏見を持たずに、幅広く興味を持って世界を知ろうとする意識が、今後日本のさらなる国際化に備え、重要になる。”

 では、な ぜ、この不幸な逆転に長いことわが日本人は気付かないできたのでしょうか。

 封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の 「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。 山県有朋らが明治半ば(1880 年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立 が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったの です。近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の 融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たるシステム」だと言えるでしょう。

 豊かな主観性を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は 無視され、主観性とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観 である」(笑止です-主観でない意見とは意見ではありませんから)。したがって日本の勉 強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理し て覚えることでしかありません。決められている「正解」に早く到達する技術を磨くこと、 エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。 これで主観性-主体性が育ったら奇跡です。

我が国の教育過程の中に欧米の教育と根本的に異なるのは、デベートというコミュニケーションによる「グループ学習の中で各自の意見を対等に交わし対立した意見のなかから、新たな考えを見つけたり、新たな発想に気づかせ意欲的な学習に高めていく学習の場が導入されてこなかった。」ことであり、教育指導できる教師も育っていなかったということになる。

 自分の意見を言ってはならない、これはわ が国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられ るくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東 西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか。自分か ら始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本 ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表 出されること自体が悪とみなされるのです。和を乱すな!です。客観学に支配され、まっとうな知(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩 の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。

 このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するため の基本条件は、客観とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め、豊 かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれ ないはずです。のびのびと楽しく主観性を表出することができる環境をつくること、それ が日本社会をよく変えていくための第一条件です。エロース豊かな魅力ある個人の育成な くしては何事も始まりませんから。

 おぞましい主観主義やヒステリックな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではな く、それとは逆に、あらかじめの正解を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておい た上で自分の意見を求めるという矛盾した要求-虐(いじ)めのような主観消去の詐術が生み出す ものです。個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本とい うシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。 その中で弱い一人の私が入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。

 客観神話が支配する精神風土の中では、わがまま自己絶対化)の領域拡張に精を出す 以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部のエリート を除いては。私(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す正解・ 権威的な人や組織が与える正解を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメ ダルの裏表=主観主義(自己絶対化)と客観主義(官知・制度知・権威知)が交互に提示 されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。 客観神話に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と主観を述べる個人が出ないのは 当然の話です。主観が主観として存在しないこと-それが日本社会の最大の問題なのです。

 いま一番必要なのは、上下意識やありもしない正解(客観)に脅迫される観念を払拭する 思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消 去されているのですから。 以上ですが、 このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、 個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの 知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪し き「文化」なのです。

 いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り 組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひと りの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していき たいものです。

(哲学者、白樺教育館館長、我孫子市白樺文学館初代館長)

▶︎出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

恋知(れんち)は、ギリシア語の「フィロソフィア」(Φιλοσοφία羅 philosophia英: philosophy)という単語に対して、西周により「哲学」という訳語が充てられてから現代までに付加された、「哲学」という言葉に対するイメージを払拭し、哲学の意味を捉え返すという試みの下に考案された、「フィロソフィア」の直訳語であり、主にプラトンの著書中にソクラテスによって語られる「フィロソフィア」の用法を哲学の主軸として据えるとする思想、および用語である。