キュビズム・アジア

■アジアのキュビスム(CUBISM IN ASIA)

建畠哲 

▶︎序 論 

 「アジアのキュビスム」というタイトルは、一般の人々に、いやアジアの近現代美術を専門とする研究者たちにさえ、かなりの違和感を覚えさせるに違いない。本展の企痢趣旨白体は明快であって、アジアにおける西欧モダニズムの受容と変容という、既に私たちに親しい、大枠のテーマの範疇にある課題のひとつとして、キュビスムに焦点を当てたものである。これまで蓄積されてきた総論的な展覧会やシンポジウムの成果を受けた上で、それをさらに各論へと展開させようとするものといってもよい。

 ではなぜキュビスムなのか。各論の囁矢としてとりあげるには他にもっともふさわしいテーマがあるはずだというのが、おそらくは大方の違和感の理由であろう。まずフォーヴィスムや表現主義から、あるいはシュルレアリスムから始めるべきではないか。アジアにあってはその方がより豊かな成果を期待しうるという意見は、ある意味で正しい。確かにキュビスムは、フォーヴィスムなどに比べて、かなり限定された影響しかアジアにもたらさなかったという事実は否定しがたい。それは西欧モダニズム美術の結節点であり、情緒性を切り捨てたおぞましいまでの分析的理性によって成り立っている。アジアの風土には、少なくともストレートには受け入れがたいものだ・・・。そうした一般的な認識はこの展覧会によっても大きく覆(くつがえ)ることはないだろう。

 いささか逆説的に聞こえるかもしれないが、実のところ、本展か企画された動機のひとつもまたそこにあるといわなければならない。アジアのキュビスムが限定された動向であるならば、その特殊性の実態を明らかにすること、また広範な影響を及ぼし得なかった理由を具体的に検証すること。いわば特殊な事例を通してアジアのモダニズムの本質的な側面を浮かび上がらせること。そのことを私たちほ意図したのである。

 フォーヴィスムやシュールレアリスムはアジアにより深く根を下ろしたし、見方によっては各地の美術の伝統ともそれなりに呼応する要素があった。その意味でほキュビスムは完全に他者の文化であり、受容に当たってはさまざまな曲解、誤解を余儀なくされ、結果としてそれぞれの地域に定着することもなかったのである。しかし一過性の現象は、必ずしもそれがアジアのモダニズム美術にとって副次的な問題であったことを意味しない。むしろ理念的にも様式的にも対応する伝統を持たないが故に、よりクリヤーに受容と変容の実態を観察しうる対象であるともいえるのだ。

 「アジアのキュビスム」というテーマの設定に対するもうひとつの異論は、ポストコロニアリズムの立場から出てきそうである。既にこの言葉自体にコロニアリズム的な発想が潜在的に織り込まれているのではないかという疑問には、確かに不用意には退けられないものがあろう。そこにほ「アフリカの奥地に見出されたキリスト教徒というにも似た意味合いが潜んでいるのではないか。いかに文化的な影響に誤解も曲解もない、変容こそが文化的な生産性であると主張してみたところで、キュビスムという完全なる他者の文化の普遍性への信仰はどこかて鳴り響いているに違いないのだから。あるいは逆にこういう批判もありうる。そもそもパリのキュビスムこそが臆面もない植民地主義的な搾取の結果として成立したのではなかったか。 その主要な一面はピカソにおけるプリミティヴイズム(まさにフランスの植民地であったアフリカの部族芸術から受けたインスピレーション)に依拠していたのだから‥‥。

 

 だがこうした疑いに答えることもまた、私たちが本展を介画するに当たってのスリリングな課題のひとつであったといわねばなるまい。もちろん疑問には根拠があり、私たちはその全てを否定し去るわり1こはいかない。本展は其本的にはポストコロニアリズムの踏まえて組織されているが、それほ一律には払拭することのできない自らの内なるコロニアリズムをあらためて自覚するという複雑な営為を伴わざるを得ないだろう。不完全なキュビスムを肯定的に捉え直そうとするまなざしそのものに、不可避的に西洋とのヒエラルキー(階層組織・身分制度)へのアンビヴァレント (両面の価値、相反する感情の交錯などの意味)な意識が装填されているのである。私たちは類似性よりも相違性を価値として救済しようとするが、そのためには中心からの距離を不断(日ごろ)に計測しなければならないのだ。

 キュビスムがアジアにとっての他者であるなら、まず問題にしなければならないのは、アジアはいつ、どのようにしてそれを受容したのかということであり、またキュビスムの名において何を受容したのかということである。

 最初の二つの問いに答えることは比較的容易である。キュビスムを様式として捉えるならば、それがアジアの各地に最初に現れた時期はほぼ特定できる。詳細は国ごとの解説に譲るが、日本では1910年代、中国では20年代、韓国、インド、スリランカでは30年代、東南アジアでは大雑把にいって1940年代から50年代、つまり植民地からの独立前後の時期である。

 

 もっとも早い例は日本であって、萬鉄五郎の表現主義的な〈赤い目の自画像〉・(上図右)・1912年の鋭角の色面分割にはキュビスムの影響が見られ、さらに1917年には日本のキュビスムの典型的な作例として知られる〈もたれて立つ人》(上図左)が制作されている。東郷青児もまた、未来派にキュビスム的な要素が加わった作品を同じ時期に描いていた。彼らは印刷媒体によってではあれ、パリのキュビスムをおそらくは同時代的な前衛意識を持って受けとめていたに違いない

  

 やや遅れはするが、1920年代後半にパリに留学した龐薫栞(ホウ・クンカン・下段下図)らが上海1931年に創設した「決瀾社(けつらんしゃ)」の前衛的な活動や、やはりパリ留学経験を持つ方千民(下図左・右)の30年代の作品についても同様のことがいいうるだろう。

 反植民地主義と革命意識の啓発を目指した魯迅の木刻画連動にドイツ表現主義と並んでキュビスム的な様式が見られることも、政治の革命二芸術の革命という前衛精神が当時の上海に息づいていたことの証左である。

 当然ながらそのような早期のキュビスム受容と一世代以上を隔てた1950年代の受締の意味を、各地域での初発的なキュビスムとして一括りにすることには無理がある。たとえばインドネシアのバンドゥン工科大学(ITB)に学んだスリハディ・スダルソノ(下図左)アフマッド・サダリ(下図右)らのキュビスム的な傾向は、オランダ人教師、リース・ムルダーフォーマリスティックな観点に基づく絵画教育を背景にしており、前衛的な実験ではなく既に確立したスタンダードとしての西洋モダニズムの導入であった。

 

 事実、1954年の彼らの展覧会は、ヨーロッパの価値観への従属として批判もされたのである。植民地を経験していないタイにあっても、1940年代、50年代のキュビスムフォーマリズム的な造形言語として受け止められていたといいうる。

 もっとも、遅れてきた東南アジアでのキュビスムの受容が、必ずしも反民族主義、反伝統主義に、また社会的、政治的な批評意識の欠落につながっていたわけではない。むしろ独立直後のインドネシアでは、キュビスムは、一面では被植民地の人々をも侵していたオリエンタリズム的なアジア観を払拭し、ナショナル・アイデンティティを形成する役割をも担っていたのである。この新たに導入された造形言語は、たとえ前衛的ではなかったにせよ、異国趣味的なクリシェを解体し、自らの風土と文化伝統を描き直すにはふさわしかったのだ。

※クリシェ(フランス語: cliché、発音: [klɪ’ʃe])とは、乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指し、さらにはシチュエーション、筋書きの技法、テーマ、性格描写、修辞技法といった、ありふれたものになってしまった対象(要約すれば、記号論の「サイン」)にも適用される。否定的な文脈で使われることが多い。

 補足しておけば、早くキュビスムを受容した日本にあっても、1950年前後に、最初の受容とは別個の、戦争/敗戦体験という断絶をはさんだ初発的な第二次受容ともいうべき動向が生じている。鶴岡政男の《重い手〉(1949年)〔上図左)やピカソの《ゲルニカ》の影響を思わせる三上誠の《夜〉(1949年)(上図右)などが挙げられるが

 

 やはり50年代に韓国では朝鮮戦争を背景にした咸大正(カン・デジョン)の 《無題》(1950年)(上図左)や韓黙(カン・ムク)の《家族〉(1957年)(上図右)が描かれており、キュビスム的な様式(対象の解体やグロテスクな変形)が特定の状況下では、アレゴリーの器としても機能することを示す同時代的な例として興味深い。

 

 また北京では1979年に前衛結社、星星両全が結成されたが、そのメンバー、黄鋭(ファン・ルイ)の部分的にキュビスム的な要素を有する《民主の壁(北京の春、西単の壁)〉(1981年)(上図)は、社会的リアリズムの専制から文化大革命に至るまでの長い抑圧を強いられた後の80年代の時点における、初発的な受容という特殊性によって注目される。

 キュビスムの名において何が受容されていたのかという問題もまた、一律に論じることはできない。それは時期的、地域的にさまざまであるというばかりではなく、個別の例をとりあげても、キュビスムとしての性格は曖昧な場合が多い。アジアのキュビスムとは、端的にいって“キュビスム”ではなく、“キュビスムのようなもの”なのである。事実、本展の出品作品を選定するに当たっても、明確な基準を設けることができず、企画者の間で議論が分かれる局面も少なくほなかった。最終的には画家の経歴と画面の雰囲気から多分に直感的に判断せざるを得なかったのである。もっともそのことはアジアのキュビスムというテーマの意義を定めるものではなく、かえって私たちにとってより挑戦し甲斐のあるものにしたともいいうるのだが。

 この“ようなもの”は文化的な受容の限界であると同時に、後に触れるようにキュビスムそのものの概念にも及んでくる問題でもあるだろう。アジアが受容しようとしたパリのキュビスムも、見方によっては美術史的に明確に規定されているわけではない。いわば周辺の曖昧さによって、中心の曖昧さが逆照射されているのである。

 ともあれ最大公約数的には、アジアのキュビスムとは、ファセット(切子面)のような色面分割を有した絵画であると一応、概括はできる。しかしそれにも例外はあり、他のピカソとブラックの実験の主たる特色、つまり初期キュビスムにおける多視点性や分析的キュビスムにおける色彩の喪失といった要素は、アジアにあってはほとんど見られないといってよい。多くの場合、ファセットはむしろ豊かな色彩の集合体を形成しており、直線ではなく、アラベスク的な曲線で分割されている(スリランカのジョージ・キート《反映》(下図)など)もなくはないのである。

 その理由としては、早い時期にあってはピカソ、ブラックではなく、多くサロン・キュビストの作品やロベール・ドローネーらのオルフィスムが参照されていたこと、しばしば未来派や表現主義と一体化したかたちで受容されていたこと、また留学生もアンドレ・ロートやフエルナン・レジェらに学んだことなどが挙げられようし、遅い時期の受容でほ半具象や構成主義的な傾向と融合しがちであったことが指摘できよう。より一般的にいえは、画家たちにとって観察しやすかったのはもっぱら様式面であり、モノクロームのファセットを生み出すに至った弁証法的な経緯には理解が及びにくかったことも、“のようなもの”であることを余儀なくしているに違いない。

 だがなおキュビスムという言葉は“西洋の記号”としてもっとも有効である。なぜならそれは、“のようなもの’’に過ぎないにしても、アジアの伝統的な造形言語に対応するものをほとんど持たない記号としての異質性を明らかにはしているからだ。出品作品の選択を直感的な判断に委ねたのも、あえて正当化すれば、“違う記号”の微妙な見極めが必要だったからである。

 しかしこの西洋の記号は、画家の生活圏や文化的環境にあるモチーフに適用されざるを得ない。彼らが描くのはアジアの女たちであり、郡市や村落であり、静物であり、また物語的なモチーフである。それに伴ってキュビスムの様式は、他者性を宿したままに、変容を迫られることにもなる。

 その多様な展開ほ、他の筆者たちのテキストに詳しいが、ここでは相互的な交流がなかったはずの地域に共有される、幾つかの目ぼしい特色をとりあげてみよう。

 

 ひとつはフィリピンのマナンサラの母子像(上図左)やヌードを典型とする「透明キュビスム」と呼ばれる様式である。画面は同一平面上のファセット(宝石などの切子面。 ② 物事の局面)として分節化されると同時に、半透明のモノクロームの色面として多層化されているのだが、より正確にいえば、そのファセットは平面分割によってではなく、幾つかの層のエッジの重なりとして生じているのであって、人体自体を解体、再編するものではないのだ。結果としてスタティック(静的)な構成ではなく、ある種の律動感を学んだ空間が出現しているのである。同様のことは林風眠(リン・フォンミェン)の〈京劇〉のシリーズ(上図右)にもいえるのであって、女優の衣装の描写のヴェールのような半透明の層は、空間の重層化が優美な動きの感覚に、つまり時間的な要素の導入(未来派的なダイナミズムとはまた違った意味でだが)に寄与しているように思われる。

 

 透明キュビスムは、また部分的であるにせよ、日本の古賀春江の《観音》(上図左)韓国の金抹(キム・ス)《三つの顔〉(上図・右)の画面にも現れているのだが、純然たる空間的実験であるべき分析的キュビスムのテーゼに反した、この特殊な様式的変容が、まったく別個に各地で発生したということは、極めて興味深い事実といわなければならない(誤解のないようにここで付記すれは、中国や韓国から日本への留学や、中国画家のマレーへの移住、インドのラビンドラナート・タゴールがシャンティニケタンに設立した大学での国際交流などを除けば、キュビスト同士の横のつなかりは見られなかった。アジアのキュビスムとはいっても、それぞれの地域が別個に西洋の影響を受けていたに過ぎないのである)。

 

 アジアのキュビスムに固有のもうひとつの様式的特色は、垂直の帯状に分割された画面構成である。マナンサラは実際に極度に細長く切断したボードのコラージュで、静物のモチーフを再構成した作品を試みているし《コラージュ》(上図左右)

 

 他にもインドネシアのポポ・イスカンダルの《栽培植物》(上図左)、インドのラビン・モンダルの群像〈売春宿−シリーズⅠⅠ〉(上図右)、マレーシアのタイ・ホイキィの〈植物風景》(下図左)、インドネシアのモフタル・アピンの《舟》(下図中)など、モチーフを問わず、垂直な構成を強調した作品が頻出しているのだ。

 

 分析的方法のこうした特異な適用の仕方が地域を越えて出現したことは単なる偶然とほ思えない。憶測すれば風土の光景や民族的モチーフをクリシェ的表現(乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句決まり文句)・表現・概念を指し、さらにはシチュエーション、筋書きの技法、テーマ、性格描写、修辞技法といった、ありふれたものになってしまった対象)から解放するために、直裁な垂直的分割が要請されたということかもしれないし、また多視点性というファセット(切子面)をもたらした本来の動機が共有されぬまま、この単純な断片化が“ファセットもどき”を生み出す方法として導人されたということも考えられよう。

 しかし、より本質的には、それはベンヤミン的な意味での文化の翻訳に伴う異質なものの現れと見なしうるはずである。ベンヤミンが翻訳論において持ち出す果実と外皮の比喩は、この点に関していかにも示唆的である。彼はいう「原作においては内実と言語が果実と外皮のようにある種の統一を形改しているとすれば、翻訳の言語はその内実を、ゆったりとした襞をたたえた王のマントのように包みこむ。なぜなら翻訳の言語はそれ自身よりも高次の言語を意味し、そのことによってそれ自身の内実に対して不適当で暴力的で異質なものにとどまるからである」

「ヴアルクー・ベンヤミン」(浅井健二郎訳編)「翻訳者の使命」(ベンヤミン・コレクション2 ちくま学芸文庫、1996年)

 アジアのキュビスムに見られる垂直的断片化とは、いうならば果実の外皮によった襞なのだ。時にこのファセットの一変種は原作とは似ても似つかないものであるが(確かにマナンサラの先の物理的に切断されてしまった作品を、「キュビスム」と呼ぶことこは抵抗感があろう)、そのような「暴力的で異質なもの」は文化の翻訳の未熟さではなく、不可避的に露呈する翻訳という作業の本質と見なされてよいのである。

 ピカソのプリミティヴイズムが本来のプリミティヴ・アートに対してふるわれた翻訳の暴力であったとするなら、その同じ暴力が垂直の襞としてキュビスムのファセットを翻訳したのだ。いささか穿った見方だが、そういうアナロジーが成り立たなくもないだろう。

 プリミティヴ・アートといえば、キュビスムとそれとの関係の相互性についても触れておく必要がある。アイロニカルな見方をすれば、アジアのキュビスムとはアフリカなどのプリミティヴ・アー卜からインスピンーションを受けた中心のキュビスムが、再び中心の外へと流出した、あるいは還流した事例ということになるだろう。プリミティヴイズムはピカソらの初期キュビスムに影を落としているだけで、分析的キュビスムやサロン・キュビストの作品に直接的に見て取ることは難しい。だがそれらが再び中心の外へと流出した時、密かに残留していた因子が周縁部の環境に触発され、逆説的なプリミティヴィズムとして錬るというストーリーはありうる。アジアのキュビスムが時としてアニミスム的キュビスムであるのは、いかにもその筋書きにふさわしいのだ。

 もちろん“ここ”はアジアであり、都市であって、出自の環境の中に還流してきたわけではない。それに周縁のキュビスムを源泉への遡行と見なすという発想自体が、すでにしてコロニアリズムに侵されている危険性も否定できまい。私たちはキュビスムの受容と変容をあくまでも文化的な翻訳という枠組みで捉えたので、そのプリミティヴイズムの位相をどう考えるかという困難な課題に向き今わなければならない。

 文化的な翻訳とは他者の文化をそのドグマから自由にする作業であると同時に、固有の伝統と思われていたものを相対化するプロセスでもある。その時、画家なら画家は二つの文化のパサージュにいて、ホミ・K.バーバによるなら境界的な空間となった階段の吹き抜けにいて、空間的かつ時間的な移動や通過を行うことによって、その両端にあるアイデンティティが、根源的な二項対立に収束してしまうのを」阻むのである

 そうした視点に立てば、美術におけるプリミティヴな要素は固定的なアイデンティティを保証するものでもなければ、一方的な搾取の対象でもなく、相互的な往還と変容が可能なものなのだ。キュビスムの規範もまたそうであったように、である。

 もちろんそのことはベンヤミンのいう翻訳という作業の暴力性を否定するものではない。確かに翻訳によってプリミティヴな要素の、あるいはキュビスムの様式の“本来の生は損なわれるに違いない。だが「翻訳とは、その究極の本質として原作との類似を目指す限り、そもそも不可能であることか証明されうる。」というのも、原作はその死後の生において変化するからであり、もし死後の生が生あるものの変容と新生でなかったら、死後の生とはいえないからである」

 アジアのプリミティヴイズムとは確かに逆説的な言葉だが、その西洋からの還流が二重の誤訳としての生産性を持ちうることは、“階段の吹き抜げ’の両端にあるアイデンテノティの神話を退ける意味でなら、必ずしも否定されるべきではないのだこ

 当然のことではあるが、ベンヤミンのいう「親縁性」は翻訳という作業のすべてにおいて顕わになるわけではない。話を戻していえば、“のようなもの’’としてのアジアのキュビスムのかなりの部分が単なる表面的な「類似性」にとどまっていたことは認めざるを得ないだろう。アジアのキュビスムが定着することなく、すなわち「後熟」を迎えることなく、総じて短命で終わったことが、そのことを証している。だがもし周縁部における翻訳がキュビスムの本来の生から切り離された死後の生への発展を意味しえていたとするならば、「類似性とは別のかたち」で生産的な変容を遂げたキュビスムであったはずであり、その価値は中心の定義を援用しうるか、しえないかで判断されてはならない。

 また翻訳の時期が早いか、遅いか、で序列がつくというものでもない。その時代、その時代における翻訳の初発的な真実というものがあるのである。逆にいえば、中心のキュビスムの意味は常に流動的である。過去が未完のままに私たちの前に置かれているといってもよい。アジアの両家たちは、ある時には同時代の前衛として、ある時にはフォーマルな造形言語として、またある時には長い閉塞状況を打破する方法として、キュビスムを受け止めてきた。そのどれかがより正しいキュビスムであったわけではない。もし画家たちのキュビスムへの対峙が真撃なものならば、彼らの翻訳=受容は、共に生産的な誤訳であったというべきであろう。

 もしアジアにキュビスムが定着しなかったという事実を最大限に評価するとすれば、それほその時代における生産的な誤訳としての役割を正しく果たしたが故に、自己模倣を繰り返すことなく消えていったということになる。一過性の現象であったからといって、アジアのキュビスムの意義は過小評価されてはならないのである。ピカソとブラックにあってすら、分析的キュビスムはごく短期間の実験に終わったという事実を思い合わせてもいいこ ピカソはある時期に決然としてキュビスムを捨て、二度と後を振り返らなかったが、そのことはピカソのキュビストとしての達成の意味を何ら減じるものではない。アジアのキュビスムのもっとも良質の部分もまた、というべきであろうか。