疫病と日本人闘いの物語

■疫病と日本人闘いの物語

写真・図版

▶︎疫病と日本人、闘いの物語

 世界中で新型コロナウイルスが広がっているが、はるか昔から、日本ではさまざまな疫病が流行してきた。そのたびに多くの人々が苦しみ、ときには歴史を変えるほどの影響をおよぼした。近代医学が発達する前、人々は目に見えない疫病と、どう向きあってきたのだろうか。

▶︎藤原四兄弟も犠牲/まじない・神頼み 先史~古代

 はるか崇神(すじん)天皇の時代、疫病で民(たみ)の半数以上が亡くなった。「神が咎(とが)を与えているのではないか」。天皇は大直禰子命(おおたたねこのみこと)という人物に大物主神(おおものぬしのかみ)をまつらせると、疫病はおさまった。

 「日本書紀」に、こんな記事がでてくる。科学的な知識のないむかし、疫病は、社会にわざわいを与える神や怨霊(おんりょう)のしわざとされ、人々の対処法はもっぱらまじないや神頼みだった。

 疫病の流行は紀元前からあったのだろうか。縄文時代中期に増えた人口が後期に急に減った理由を疫病のせいとする向きもある。弥生時代の古人骨には結核のあとが確認されている。土器や装飾品にはまじないのようなデザインが残っており、人々が目にみえない脅威を超自然な力で防ごうとした努力が読みとれる。

 奈良時代以降になると疫病の記述が文献資料にもあらわれ始める。有名なのが天平(てんぴょう)9(737)年、中央政界の中心にいた藤原四兄弟が次々に亡くなった出来事だ。天然痘(てんねんとう)らしい。聖武(しょうむ)天皇は恩赦や読経をさせるものの一向におさまらず、「朕(ちん)(自分自身)の不徳でこの災厄を生じた」と天をあおいだ。

 人々が集まって住む都(みやこ)は、まさに「3密」だ。ひとたび病が起これば、すぐに広がっていく。みやこびとの不安のあらわれか、不思議な呪文や意味不明の記号を散らした木簡も見つかっている。

 たとえば「蘇民将来(そみんしょうらい)」の文句は疫病を避けるまじない。長岡京(京都)での出土例までさかのぼるらしい。平川南・国立歴史民俗博物館名誉教授(日本古代史)は「人々は疫病に対して、克服できないなら向き合っていかざるをえない、との思いを込めながら祭祀(さいし)を続けたのでしょう」。 

 平城京(奈良)や平安京(京都)のゆかりの地では、表面に顔を墨書きした人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)も見つかる。こわもてのひげ面や情けなさそうなのもいて、表情はさまざまだ。定期的に実施された大祓(おおはらえ)の神事で罪や穢(けが)れを、これらに吹き込んで水に流したという。災厄と共生せざるを得ない人々の知恵だったのだ。

■退散願い祭礼化/「災厄は異国から」 古代~中世

 疫病をしりぞける神として信仰をあつめてきたのが、京都・八坂神社にも縁のある牛頭天王(ごずてんのう)だ。お釈迦様にゆかりの深いインドの僧園「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の守護神で、本体は日本神話に出てくる神スサノオともいわれる。「蘇民将来」の由来に登場する神と同一視されることもある。

 八坂神社といえば、夏の祇園祭を思い浮かべる人も多いだろう。貞観(じょうがん)11(869)年に平安京の庭園で66本の鉾(ほこ)を立てて疫病の退散を願ったことが始まりとされる。

 八木透・佛教大教授(民俗学)によれば、その流れをくむ祭りは博多祇園山笠(福岡)など全国に1500もあるそうだ。「もとをただせば祇園祭につながる。日本各地の主な都市祭礼の原点は、疫病退散がもとになっているのです」

 祇園祭は、かつて祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれた。御霊会とは、悔いを残したまま亡くなった人を鎮魂する儀式のことで、御霊信仰につながっていく。政争で左遷されたり配流(はいる)されたりして憤死した王侯貴族が怨霊(おんりょう)と化し、そのたたりが天災や疫病を引き起こすと考えられたのだ。菅原道真や崇徳院(すとくいん)、早良(さわら)親王らがよく知られている。

 一方で、災厄は海のかなたの異国からもたらされるとも信じられたらしい。

 天平の天然痘は外交の最前線だった役所、大宰府(福岡県)の管内でもたびたび流行したため、朝鮮半島の新羅(しらぎ)から九州に侵入して全国に広がったともいわれる。貞観年間(859~877)の疫病はいまでいうインフルエンザとも考えられ、当時、中国東北地方からロシア沿海州付近にあった渤海(ぼっかい)国からの使節が持ち込んだとのうわさが立った。

 「海で隔絶され、外の世界と接する機会の少なかった島国という日本列島の環境が、そこに関係しているのではないでしょうか」と八木さんはいう。

 海は海外の多くの富や文化をもたらすと同時に、未知の疫病を運ぶ災厄の道でもある。そう、人々は信じたのかもしれない。

はしか絵・妖怪が流行/医学発展への礎 近世

 江戸時代、一生に一度はかかる三つの疫病(天然痘、はしか、水ぼうそう)は「お役三病」と呼ばれたそうだ。

 なかでも「命定め」と呼ばれたはしかは、約20年に1度のペースで流行。文久(ぶんきゅう)2(1862)年の大流行では江戸だけで数万人が犠牲になったといい、多くの人が予防や快復を願って「はしか絵」と呼ばれる錦絵を買い求めた。

 鈴木則子・奈良女子大教授(日本近世史)によると、はしかの神がこらしめられる様子や、はしかで損をした商売人たちがもうけた人々と戦う風刺画など、さまざまな絵が残っている。その多くに、食べ物や行動へのいましめが盛り込まれている

 入浴や散髪、性交、酒や魚、野菜の飲食を最長で100日も禁じ、守らないと病気が再発したり、後遺症が残ったりすると信じられた。このため、風呂屋や床屋、遊郭、魚屋などから人がいなくなり、多くが生活苦になるなど経済的混乱も起きたようだ。

 鈴木さんは「現代の医学から見ればおかしな内容もありますが、荒唐無稽ではなく、中国の医学書などが反映されている。人々は身を守るための医療情報として、実践していたのでしょう」と話す。

 疫病を予言し防ぐとされる半人半魚の妖怪「神社姫(じんじゃひめ)「姫魚(ひめうお)」「アマビエ」などの絵が流行した時期もある。医療情報に加え、未知なるものの力も信じ、終息への願いをこめた人々の姿が見える。

 幕末になると西洋の最新医学が伝わり、日本の医学は大きく進歩する。

 福沢諭吉ら多くの人材を出した大坂の蘭学(らんがく)塾「適塾(てきじゅく)」を主宰した緒方洪庵(おがたこうあん)は、欧州で確立されていた天然痘のワクチンを広めるため、嘉永2(1849)年に「除痘(じょとう)館」を開いた村田路人(みちひと)・神戸女子大教授(日本近世史)は「病気にかかる前にワクチンで予防しようという、それまでにない考え方が庶民の間にまで根付いたといえます」。

 安政5(1858)年夏にコレラが日本で大流行すると、西洋医学書からコレラ治療法を抜粋した「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」を数日で書き上げ、医師仲間に配った。

 多くの疫病の治療法が確立していくのは明治時代以降になるが、日本の近代医学が発展していく礎(いしずえ)が築かれた時代でもあった。

■病に苦しめられても、生き続ける人類のたくましさ 歴史作家・澤田瞳子

 日々の生活に追われていると、自分たちが生きる今も歴史の一ページであることをつい忘れがちです。でも、歴史的な事象になるであろう今回の新型コロナウイルスの大流行に直面し、我々が生きている今も、また歴史のただ中なのだと改めて感じます。

 疫病や大災害は、その渦中にいるといつまでも終わらない気がしてしまいますが、歴史を眺めれば、どんな出来事にも必ず終わりがあるとわかります。そして、歴史のページはその後も続いてきました。

 人々が生きる世界の広さの違いや、医学の進歩もあって、疫病の歴史そのものから現代の私たちが学べることは、残念ながらそれほど多くはないかもしれません。でも、天平の天然痘大流行が終わった後の文化は、とても華やかなものでした。それを考えれば、確かに人は病に苦しめられる一方、それでも人類として生き続けていくたくましさを持っているはずです。

 14世紀のイタリアの作家、ジョバンニ・ボッカチオの「デカメロン」は、ペストの大流行を背景に作られました。今の私たちも疫病よけの妖怪アマビエをよみがえらせ、いろいろな創作活動をしている。

 生きるということは、目の前のものをただ怖いと考えるだけでなく、何かを生み出すことにもつながっていく。文化は、そういうことから生まれるのかもしれません。

 <記事 渡義人、編集委員・中村俊介>

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