■オン・ザ・テーブル・・・静物の実験
キュビスムの歴史において、静物というジャンルは、一貫して中心的な役割を果たした(触.2)。テーブルの上の新聞、ヴァイオリン、パイプ、グラス・…・こ キュビスムといえば、こういうアイテムを想起する人は、少なくないだろうこ 量だけをみれば、肖像や風景も頻繁に描かれているが、質的には、それらもどこか「静物」的なたたずまいを見せている。キュビストたちにとっては、人物も風景も、ニュートラルな造形的実験の口実であることが多いためだろうこ たしかに静物画は、画家が物を自由に配置できるために、絵画上の造形実験の格好の舞台になりやすい。しかし、その歴史を振り返ってみるならば、必ずしもそれだけが静物画の持っている意味合いではなかったことがわかる。
いったいいつから静物画はあるのか。エジプトの壁向にも、ポンペイの壁画にも、部分だけを見れば静物画に近いイメージがすでにある= しかし、 ̄静物画_が、ひとつのジャン′しとして確立されるのは、17世紀のことだ。教科書的な説明をなぞるなら、17世紀のオランダにおいて、絵画の受容層が、はじめて、王侯貴族や教会などで構成される特権階級から、市民階級にまでその裾野を拡げた1=作品の制作ほ注文一辺倒ではなくなり、自由市場での売買を前提にしてなされるようになっていくこういう状況のもと、静物画、風景画、風俗画などが、市民階級に親しみやすいジャンルとして多く生産されるようになり、しかも、彼らの住居空間に架けられるように、サイズも小型化する。同じ世紀に、静物画はスペインやイタリアでも多く牛産されているが、オランダはど盛んになったわけではない。
注目したいのは、これら17世紀の静物由は、たしかに市民階級に親しみやすいものとして、つまり、読み解くのにそれほど深い教義を必要としないものであったものの、純粋に日の快楽のためだけに生産されたともいえない点だ= 往々にして静物画には、やはりなんらかの意味が託さ九ていて、そのわかりやすい例として、閤饉や消えた蝋燭などによって生の停さを象徴するメメント・モリ_ の図像がある。画家は、眼前の物をできるだけリア′ンに、しかもバランスよく配置された構図で写しとることに腐心しながら、背後の意味をも暗示するという二重の目的に奉仕していたのである。
それが純粋に造形的な実験の方へと比重が移ってくるのは19世紀のことである。クールベやマネ、印象赦 そしてポスト印象派へと歴史が流れるにしたがって、静物画からは隠された意味が消去され、少なくとも画家の意識の上では表面_Lの造形的価値がグロースアップさjtてくる= もちろん、それでも、そこに無意識的な意味を読みとることは可能で、セザンヌの林檎が性的な欲望を暗示しているのではないか、あるいは、ピカソヤプラックの静物が、都市的な生活のメトニミー・/喚喩)になっているのではないかというような解釈の余地が残さ九るわけだが、画家の意識は、まずはその造形的な側面に向けられている。
そのことは、誰あろう、セザンヌの静物を見れば明らかなことで、彼ほど、林檎にしても、テーブルクロスにしても、水差しにしても、日常的な生活の中では考えられないほど人工的な配置・構成のためこ使った画家はいないこ まさにそ九は、絵画のために作為的に配置された静物であって、逆にいえば、彼ほ、静物を配するときにすでに、完成形としての絵向のイメージをある程度持っていたに違いない。キュビスムの画家たちも、そのような姿勢を受ミナ継いでいるこ 静物が配
置されるテーブルほ、絵画の鏡として相互参照的な関係を深めていき、その上でさまざまなレパートリーが上演される舞台になったのである。
今回の展覧会のための調香ほ、ゼロから始まったニ アジ7にキュビスム的な作品があるのかどうかさえ小明なままに。しかし、いざアジア各国のコレクションを探訪してみると、意外に多くの、問題提起的な作品に出会う結果となった。この展覧会への出品が適わなかったものも含めれば、様式的にも主題的にも、一言でまとめるのが困難なほどの広がりを持つ作品群が、結果的にほ私たちの眼前に現れてきたこ 今回の展覧会に集められた作品群の異種混交的な様相に、それは端的に反映されている。
しかし、その多様性の中にも、一貫したつながりが見えてくることがある。静物というジャンルはそのひとつで、キュビスムという実験と静物のつながりが、上記のようこ深いものである以上、当然といえば当然かもしれないが、アジア全域にわたって、その作例が広く存在しているということは、あらためて今回の調査で確認できたことだ‥ むろん、広いアジアで、異なる時期にキュビスム、あるいはキュビスム的なるものに接触した作家たちが、必ずしも耳いの仕事を知っていたわけではないこ 留学中に作品をものした画家もいるし、間接的な情報を頼りに制作していた画家もいるこ いずれにしても、静物という主題が、アジアにおいても豊かな造形的実験の培地となっていたことはたしかで、舞台としてのテーブルは、広く引き継がれている。
正確にいえば、テーブルだけではなくて、デスクや棚も実験の舞台になっている= しかL、あえてこの章を  ̄テーブルの上の実験・( ̄)n the Table−」と名づけるのは、テーブルが、つねに複数の人間によって囲まれるものであり、その上で言葉が飛び交う対話の場だからでもあるニ ヨーロッパと7ジアの対話というだけではなく、東京ぞ上海やシンガポールなどのメトロポリスを舞台にして接点を持ったアジアの作家たちがいたことも、今回の調査でこれまで以Lに明らかになってきたこ また、作家同士が直接の接触を持っていなかったところでは、雑誌や版画などの複製メディ7が文字通り  ̄媒体_ として機能している。そのような多角的な交流の全貌を解き明かすにはまだまだ時間がかかるだろうが、今回の展覧会を総体として眺めれば、その輪郭くらいはつかめるだろう。その序にあたるこの章でテーブルにつくのは、しかし、絵を制作した作家たちばかりでほなく、それらを眺めて喧々諾々と議論を交わす私たちでもある= その言葉の往来が豊かな鉱脈に育っていくことを願いつつ、まずは、試みに、幾つかの標識を立ててみよう。
▶︎キュビスムとは?
いうまでもなく、 ̄7ジ7のキュビスム_ の作品を集めるためには、キュビスムとは何かについて明確なイメージを持っていなこチればならない。しかし、今回の調香の過程で誰もが経験したのは、そのキュビスム・イメージの絶えざる不安定化という事態だったこ この第1章  ̄テーブルの上の実験」に集められた作品群だけを見ても、実際、これがキュビスムなのかと問いたくなるような作品が含まれている‥ もしも、ピカソとブラックのいわゆる分析的キュビスム時代の作【与ホを正統的なキュビスムとするならば、この章でキュビスムといえるのは、もしかすると川口軌外 cat.no.1−03 とグレゴリウス・シタルタ・スギヨ(G.シダルタ)cat.no.1−2ニ弓 だけなのかもしれない。
しかし、よく考えてみれば、私たちが当然のように抱いている、その分析的キュビスムの中心性は、後の美術史的言説によってゆるぎなきものとされたのであって、そういう整理後の記述を通じてキュビスムに出会うというのは、むしろ例外的なのだということが、あらためて認識されなければならない。実際に、画家
たちがどのように「キュビスム」に出会ったのかは、個々のケースによってずいぶんと違うが、多くの場合、その出会いのあり方は、きわめて限定的、断片的、あるいは任意的であって、往々にして時間的な錯誤も交えている。当の西欧においても、多くの人々ほピカソやブラックの作品よりも、むしろグレーズやメッツァンジェ、ロートなど、第二世代の画家たちの活動に先に触れているはずだ。ピカソやブラックの仕事は、早い段階で外国のコレクターたちに買われて見る機会が失われることも影響し、むしろ遡及的に学ばれることが多かったに違いなく、したがって、キュビスムの伝播、阻囁の問題を、分析的キュビスムのイメージのみを起点にして判断するのほ、それこそアナクロニズムだということになりかねない。
しかし、だとすれば、キュビスムを判断するのに、何を基準にすればよいのか、きわめて曖昧にならざるをえないことも事実だ。個々の作家の詳しい伝記的な資料など多くは残っていない今回の調査のような場合、それぞれの作家の具体的なキュビスムとの接触の局面を、推定はできても特定できないことが多く・:雑誌?学校?先輩作家?)、そのような客観的証拠がないとなれば、さまざまな状況証拠と作品そのものの様式あるいは構造を手がかりにして、キュビスム的なる傾向を持ったものを、そのつどの議論の中で掛酌していくという方法をとらざるをえなかった。
その意味で、この第1章「テーブルの上の実験_ では、ケースに応じて伸縮せざるをえなかったキュビスム・イメージの広がりを、まず狙上に乗せようという意図もある。ここには、自ら「キュビスト と明確に名乗っている作家から、キュビスム的ではあるが、実際に接触があったかどうか確認の困難な作家までが含まれている。後者のものは、まさにキュビスム的なものとして含んでいるわけだが、道にいえば、何がその「キュビスム的なもの」を構成するのか、私たちはそういう問いを突きつけられることになった。そして、その間い返しこそが、実は、今回の試みを対話的に読むための鍵なのであり、教科書的な美術史によって固定化されたキュビスム・イメージによって、これはよいけどあれはダメというような裁断をするのではまったく意味がない。
混乱もあれば、遠巡もあった。しかし、対話の舞台だけは設定しえたと思う。作品の特質にしたがって、大きく四つのセクションに分類して呈示をすることになったが、その分類そのものが、ある意味で、アジアにおけるキュビスム受容の一様ではない性格を浮き彫りにしようとするためのものである。分頸にはつねに暴力がつきまとうが、それがなければ認識は深まらない。とりあえずの足がかりにはなるだろう。以下、その分類にしたがって、それぞれが内包する問題について簡潔に指摘をしておきたい。後の作品解説の部分には、個々の作家と作品についての具体的な分析があるので、ここでは、より方法論的または状況論的な次元に焦点を合わせる。
▶︎テーブルの上の楽器
最初のセクションには、誰が見てもキュビスムとの関係を指摘できる作品を集めた。楽器に注目したのは、それが、フランスのキュビスムに実に頻繁に登場するモチーフであり、アジアの画家たちも、その「学習一 の過程で、それら西洋の楽器をさかんに引用するからである。しかも、単なる造形要素にとどまらず、さまざまなコノテーンヨン(モダニティ、西洋文化などノ を内包したキュビスムの記号として引用しているという場合もある。あるいほ、本人たちも意識をしなかった意味が、アジアという文脈の中で生じてしまうということもありえる。
実際、ここに含まれた画家たちほ、皆、留学をしたり、留学者や雑誌から情報を得たりして、西洋のキュビスムに直に触れる機会のあった者たちで、かなり意識的に「本場⊥ の様式を吸収しようとしている。その典型は、川口とG.シダルクだが、この両者は時期こそ違え、ヨーロッパに留学をし、前者はパリのアンド
レ・ロートのもとで、後者ほオランダのヤン・ファン・アイク造形芸術アカデーで学んだ経験を持っている。彼らの作品が、ピカソとブラックの分析的キュスムとほやや異質なものの、一目でキュビスム的と判断できるのは、そのよう■留学中の経験が背後にあるからだといってよいだろう。ことに川口の場合、ロトの教えに忠実に学習した成果が見てとれる(ロ【トのアトリエにおける7ジアの向たちの経験についてほコラム3  ̄留学のかたち_ を参照㌢。
留学の経験はないが、岡本唐貴−′catno.1−01、)や三岸好太郎(cat.no.1イほ)の戦前(作品も、一見してキュビスムを自覚的に摂取した様式を見せている。ただし、うらの場合も、やほりその学習の対象は、いわゆる分析的キュビスムではなく、‥しろ、コラージュ(三軒 であり、レジェ風に様式化されたキュビスム し岡本1(ようだ。彼らがそのような「お手本_ と出会う道筋も一様でほなく、たとえば二岸の場合は、バウハウスに留学をした山脇巌経由でコラージュに接したという・2西欧の情報がもっとも集まりやすかった東京においてさえ、このような伝達緯占の複雑さ、あるいは混乱が問題になるのだから、他の地方の状況は推して知る一しである。
このセクンヨンにはまた、卜海という国際郡市を経由した情報に反応した画…も二人含まれている。李樺り−・フア=cat.no.1−06、〕とツ7イ・ホンチョン(察鐘)1rcat.no.1−22二・である。前者は、広州に活動拠点を置いていたが、魯迅の教導(もと、上海を中心に広がった木刻画運動の圏域にいたこう。『現代版画』「人刻匝という言葉は、しだいこ政治的弾圧の対象となったらLく、版画というより巾件的な言葉を使二とがある時点から多くなったという)という雑誌の創刊者の一人で、勃興する版画主動の中心にいた。魯迅の革命思想に近かった作家であるから、当然、彼自身、う働者階級の生活に焦点を当てた革命的なモチーフを頻繁に取り上げているが、」のような中に、純正キュビスムといってもよいような静物向、しかもヴァイオンや楽譜を配した作品群が混入されている。
荒んだ街路にたたずむ虐げられた人々のイメージと、ブルジョワ的な生活をノ乍わせる静物。不可解な組み合わせに見えるかもLれないが、おそらく当時の中巨の作家たちにとって、両者は違和感なく共存していたに違いない。それは岡本月貴など日本の画家たちにもいえることで、1920年代から30年代にかけての左喜連動のコンテクストにおいて、キュビスムに代表される「モダン」な様式は、−ルジョワの生活を表象するというよりは、むしろ政治的自由、進歩、あるいはf主主義的世界観を暗示するものとして革命思想と違和感なく共存していたのである。マルクス主義一・カ㍉  ̄モボ」 ̄モガ」に代表される銀座のモダニズムの必ラアイテムだったことを想起すればよい4
その意味で、西欧においては、フランスのサロン・キュビスムが早くから非正治化していたのに対して、ドイツのダダやロシアの構成主義がキュビスム的な三法を政治性の強い前衛的表現へと転用していったことは見逃せない。実は、ロノでも中国でも、キュビスム(のみならず、表現主義など他の新Lい美術運動)の伝達をおいて、ドイツやロシアからの版画の展示やコレクションが果たした役割は大言く、多くの作家たちが版画を通じてその様式に出会うことになったのだった(1迅自身、ドイツぞロシアの版画コレクションを持っていた)■5。そして、その版画というメディアそのものにも、やはり政治的な含意が付随している。つまり、複製 ̄口†烏であり安価に提供できるという版画の流通可能性と、版木と彫刻刀とインクが∂れば誰でも簡単に生産することができるという制作の簡便性から、それは庶民i・開かれたメディアだったということだ。中国の木刻両運動は、その意味で、木片というメディアの∠拝性が、イメージの様式に劣らぬ重要性を持っていたわけだがそれは、ドイツやロシ7という媒介項を抜きにしてほ考えられない。
ツァイ・ホンチョンは、この10年ほどで、ようやくその活動の軌跡が分か/てきた画家である6。その意味で歴史的な位置づけなどはいまだ確立されていプいが、戦中の上海でモダニズムに触れたことが、ひとつの転機になったようだ・丁彼は戦争中から東マレーシアのサラワクに移住し、結局その後もそこにとどまり
続けることになるが、40年代から50年代にかけては、キュビスムに刺激された実験的な作品を残している。_ヒ海美術専科学校で、時のモダニズム運動の中心だった決瀾社のメンバー、便船徳から酎羊の新思潮を学んだという事実以上に詳しいことほ不明なままだが、作品から見るかぎり、やはり総合的キュビスム以降の様式化されたキュビスムからインスピンーションを受けている。そして、彼もやはり、楽譜という記号を断片化し、装飾的に再構岐している。サラワクという、おそらくは、他にキュビスムを知る人などほとんどいない土地で、このような絵画を描き続けた彼は、どのように自分の仕事を見つめていたのだろうか。やがて、彼は、土地の習俗に取材した表現主義的ともいえる作風を発展させていくが、キュビスムは、そのような彼の変化の中でどのような意味を持っていたのだろうかご今後の検証が待たれる。
▶︎静物としての人体
最初にも害いたように、キュビスムの静物においては、人体も静物同様の扱いを受けることになる。セザンヌ以来顕著になった傾向といってよいが、このセクションには、少ないながらそういう例を集めてみた‥ というよりも、里見勝蔵・cat.no,1−02、ト と見本堆rグ・ポヌン=cat.no.1−09、・の作品では、描かれているのは、石膏像や人形のような人体 ̄像」であって人体そのものでほないので、文字通り、静物としての人体といい切ったほうがよいだろう。 もう一点、インドネシアのアフマッド・サダリの作品・:cat.no,1−15j では、描かれているのは女性だが、その身体は平面的なプロフィールに還元され、花瓶と同じように造形的な実験のモチーフとして攻われている。
このセクションの作品群ほ、したがって、第3章【身体一 に集められた作品群とあわせて見られるべきものだが、同時に、 ̄テーブルの上の楽器_ と同じような視線でも見ることができる。
里見と具の作品が、キュビスムといえるのかどうか、これは微妙だが、彼らの人型」の扱いほ、セザンヌが、幾つかの静物画・、fig,3・の中で見せた石膏像の抜いを思わせると同時に、セザンヌ以上に人体を不自然な格好にしかも鋭角的に折り曲げていて、よりキュビスム的な造形意識が強いとはいえるだろう‥ 色彩もモノクロームに近く、フォーヴィスムの影響下にあり慮烈な色彩を使うことがつねであった里見のような画家が、このような抑制された色彩を使うこと臼体、かなり自覚的な実験の一コマだったと見なければなるまい。
▶︎果物の歌
静物画は、基本的に画家の日常生活の中にすでに在る物をテーブル上に配置して、それを見ながら描かれることが多い。少なくとも、西洋の静物画の伝統の中でほ、長い間そうだった。その伝統が危うくなるのがキュビスムを通過して以降のことだ。セザンヌまでは、確実に、伝統的な手順が守られている。しかし、ピカソやブラックはどうなのだろうか。分析的キュビスムの時代には、その手順が守られていそうな作品もあるが、すべてにおいてそれを遵守しているとほどうも思えない。それがコラージュでは、ますます危うくなり、それを通過した総合的キュビスムの作品群では、ほとんど、実際に配置された静物を見ながら制作するということほなかったのではないか。静物画は、キュビスムの変遷の過程で、次第に観察すべきモデルを必要としなくなったと見るのが正解だろう。それは、物の記号あるいほその断片を平面上で複雑に組み合わせることにより、静物画のシミュラークルを発生させる技となったのである。画家は、眼前の物を画面Lに写しとるという作業の制約から解き放たれて、記号の選択と交換と組み合わせによって画面上に静物の「イメージー」を作りだす喜びにいそしむようになる。
そして、記号のレパートリーは、広がる。ヨーロッパの画家たちの場合、それほ、自分たちの生活圏に存在する物の領域に限定されていたろうが、非ヨーロッパ世界でほ、当然、それぞれの地域の生活の中に存在する物が、断片化された記
flg.3ポール・セザンヌ石膏像のある静物1894年頃油彩・紙コートールド美術研究所、ロンドン
号とLて辞書に組み込まれる。パイプ、コーヒー・カップ、新聞、ワイングラスなど、無意識のうちに、ヨーロッパの都市の経験、もっとⅠ卜確にいえばカフェての経験を暗示するような記号が支配的だったのが、アジアでほ、それぞれの地層の果物、花、食器、物などが新たな語彙として加えられる‥ このセクションに集められた作品群は、様式的に見れば、やはり、必ずしもキュビスムとはいえないようなものも含むが、画家たちの現実に対する記号的アプローチは、キュビスムの経験なしには吋能にならなかったものに違いない。何よりもそれは、両家たちが、 ̄画巾画一 的な構造を頻繁に使用しているところに現れている。彼らは、物ぞイメージを、あらかじめ平面化された断片として扱う、いわばコラージュ的な感性を前提にして作品をつくっているのである。
さて、その両家たちにとって、テーブルの上に寄せ集められたこれらの物=記号は、ただ日常を指し示すにすぎなかったのかもしれないが、他の地域の人々にとってほ、否応なく、その ̄土地_・1()Calit)− を指し示すものとして働く。それは、パイプやワイングラスが、ピカソやブラックにとって見れば日常の光景だったのに対して、非西洋の人間から見れば、 ̄西汗」を暗示する記号に見えるのと同じことだ。
さらに、もうひとつの問題として、カフェに代表される開かれた都市空間と、食卓に暗示されるプライヴェートな生活空間の対照を考える必要がありそうだ。7ジ7にほ、パリのカフェに匹敵するような都市空間が現実として存在していなかったことが、そのような私的生活空間への傾斜の一因だったに違いないが、作品が比較的′」、さい ヴィセンテ・マナンサラの作品rcaしnO,l−11)を例外としてノ ことも手伝って、果物、ナイフ、壁紙、窓、テーブルクロスなどほ、家庭内での親密な食卓の情景を暗示しているこ その意味では、これらの静物画は、マティスのように、キュビスムが登場した後も、私的な生活空間にこだわり続けた画家を想起させもする= 直接の影響関係があったかどうかは不明だが、そういう複合的な関係の中で考えていくことが必要かもしれない。
彼らが、ローカルなモチーフを使うことでヨーロッパのキュビスムとの差異を自覚的に強調しようとしたのかどうか、これは簡単には答えの出ない問いだ。スリランカのジョージ・キートなどは、自覚的に土地の文化、あるいほ宗教的、神話的な図像とキュビスム的な様式の融合を試みた画家なので、すでに、1933年に出品作の静物 cat.110.1−01・を描いたときに、ローカルなものを意図的に組み合わせたという可能性がある。彼らにとっては、静物も、単に日常を指し示すものではなく、より深い文化のアイデンティティの主張を込めうるものだったということだが、それぞれの作家においてこのことは、微妙なグラデーションの変化があるように思う。ただ、アジアにおいては、どの地域でも果物が、しばしばその地域の食卓を象徴するのは共通することで、その時には、明るく平面的な色彩が用いられることが多い。これらを、 ̄主張_ ととるか「無意識の前面化」ととるかは、意見が分かれるだろうが、楽器のセクションに集めた、ヨーロッパのキュビスムにより忠実な作品群では、 ̄本家」に依って抑制された色彩が使用されることが多いのに対して、ローカルな果物や食器が登場する静物画では、色彩の使用がより開放的になるのは一般的な傾向として確認しておきたい。
▶︎グリッド,フィルター、アラベスク
新しい様式、いや様式の芽は、美術に限らず、あらゆる表現の分野において混沌の中に生まれる。やがてその混沌からほ、不必要なノイズが除去され、本質的な構成要素が抽出され、 ̄様式_ として整理される。キュビスムの変遷、伝播の過程にも、そのようなプロセスがあるニ ピカソ、ブラックに対して、遅れてやってきたグレーズやメッツァンジェなどの、いわゆる  ̄サロン・キュビスト」たちは、ピカソとブラックの仕事に刺激を受けながら、彼らにはなかった様式化、理論的な体系化を進めることになる。向血の装飾的な平面化と現実の再現との間にどう折り合いをつけるかという課題に彼らは、一走の方式化された答えを呈示する。
アジアにも、やはり、同じような様式化の例があるこ それも、なぜか、似たような傾向が国境を越えて存在する。それをグリッド、フィルター、アラベスクというキーワードで併置してみようというのが、このセクションの意図だが、大きな目で見れば、これらはいずれも、線の交差を用いて構図上の骨組みを抽出するという共通の抽象欲求に支えられている‥興味深いのは、そのような方向に進んだ画家たちの多くは、キュビスムを一過的な影響として受容したというよりほ、持続的にキュビスムと格闘、あるいほ交渉した者たちだということだ。サロン・キュビストやモンドリアンなどに似て、彼らもまた、キュビスムを土台にしながら、時間をかけて独自の絵画構造へたどりつくというプロセスを経ている。
グリッドというのは、格子のことニ キュビスムは、対象を断片的な幾何学的形態に分解することによって、三次元的な奥行きのイリニージョンを排して、絵画を平面化した。その過程で、垂直線と水平線のリズミックな交錯がグリノド的な骨組みを表面上に浮かび上がらせ、やがて、絵画の構造的な枠組みとして意識的に強調されるようになる。20世紀の幾何学的抽象は、多かれ少なかれ このキュビスムが前面化したグリッド構造にその起源を持っているといってよい。
アジアにおいても、キュビスムに潜在するグリッドを、自覚的に抽出し、独自の絵画構造の創出へと漸進していった画家がいるこ 山田正亮・Cat.nO.ト2ト・はその典型的な例で、彼ほ戦後すぐ静物画の連作を手がけ、セザンヌそしてキュビスムを出発点にしながら、徐々にグリッド構造を前面化した独自の抽象へと歩みを進めていくさ。山田のグリッドには、絵画表面をがっちりと押さえる不透明さがあるが、今西中通(。。t.1−。,1−10)、7フマッド・サダリ1cat.no.1−13・、スリハディ・スグルソノl。。t.n。.1−20、と、このセクションに集めた他の三名の画家たちのグリッドは、半透明なヴェールのような性格も備え、したがって、次のフィルターのセクションに入れてもおかしくはない= いずれにしても、垂直線と水平線による画面分割が基本構造になっていることは容易に見てとれるだろう。
フィルターというセクションを立てたのには、ふくみがある= 基本的にはグリッドと同じ構造に違いないが、重要なのは、フイ′レターという概念に暗示される透明性だ。フィルターの場合は、グリッド構造がスナ′しトンのようになって、空間が多層化する。その代表格は、 ̄透明キュビスムー tranSparent Cubis−¶ という呼び名が定着しているフィリピンのマナンサラ cat.1−0.ト2丁 の絵画だカ\不思議なことに、似たような構造は、韓国の金沫 キ⊥・ス、cat.nos.1−2i、1−25〉ぞ中国の林風眠(リン・フォンミニン、・′。at.。。S.1−16、1−19 の絵画にも見出せるこ 彼らの作画の基本ほ、描かれた静物の上から、グリノド・パターンを重ね合わせ、その交差にょって生じた分割面を異なる色彩によって塗り分けていくという方法にあるようだ。使用する色彩や媒材、微妙な光のニュ7ンスなどほさまぎまだが、基本的な構造はとても似ている。
再現欲求(物の輪郭は明瞭に残るニノ と抽象欲求 透明なブリノドはそ乃上から重ねら九る、を簡便な方法で同時に満たせる点が、この構造が広く採用された理由だろうが、その結果生じるクリスタルを通して世界を見るような構造ほ、これまでキュビスムに対してよく使われてきた「切子面」という形容の、直示的な具現化のように見える。ただ、他方で、このような方法は、その便利さのゆえに定式化、ひいてほ機械的な反復に陥るおそれもあり、そのような両義的な揺れ動きの巾に、アジアのキュビストたちの作品もあるといえるだろう。
アラベスクというのは、曲線構造を強調したカテゴリーだ。このセクションには、スリランカのジョージ・キート(cat.no.1−11)とインドのジャハンギール・サバワラ(。。t.11。.1−26)を含めたが、彼らは、グリッド的な直線構造と同時に、柔らかにうねる曲線の運動をも織り込んでいる‥ その意味では、キュビスムから、一歩離れた独自の様式化へと進んでいるが、交錯する線によって分割された対象を違った色に塗り分けていく手法は、やはりキュビスム抜きには考えられない。そして、注目すべきほ、このアラベスク構造が、時に、ローカルな装飾美術の伝統における様式的な洗練や野生的なダイナミズムの導入を可能にすることである
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