アントニン・レーモンド

 アントニン・レーモンド(Antonin Raymond, 1888年5月10日 – 1976年10月25日)はチェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。

 アントニン・レーモンドはオーストリア=ハンガリー帝国(現在のチェコ)クラドノに、父アロイと母ルジーナの間の1男第3子アントニーン・ライマン(Antonín Reimann)として生まれる。プラハ工科大学で建築を学び、卒業後の1910年にアメリカへ移住。カス・ギルバートの下で働き、1916年にアメリカの市民権を得ると共に姓をレーモンド(Raymond)に改姓する。同年妻ノエミの友人の紹介でフランク・ロイド・ライトの事務所に入所。1918年、第1次世界大戦が勃発すると、アメリカ軍から徴兵され、一旦はライトの下を離れる。大戦終了後、ライトから帝国ホテル設計のための日本行きを打診され、再びライトの下で働くことになる。
1919年、帝国ホテル設計施工の助手としてライトと共に来日。1922年独立し、レーモンド事務所を開設する。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したという。聖路加国際病院などの設計をベドジフ・フォイエルシュタイン(Bedřich Feuerstein、オーギュスト・ペレの弟子)と共同で行ったほか、ル・ランシーの教会堂(ペレの代表作)をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設した。ペレを介してライトの影響から逃れ、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになった。その頃の作品に、イタリア大使館中善寺保養所がある。壁に市松調模様や独特の平面プランニング、日本家屋と欧米生活様式の融合を図ったディテールなどはライト建築との決別を意味する新境地となる。

 前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学んだ。上記の通り1916年にアメリカ市民権を取得しているが、第一次世界大戦後にチェコスロバキアが独立を果たすとトマーシュ・マサリク率いる政府を代表する名誉領事に任命された。1937年に僧院宿舎建設のため、フランス領ポンディシェリ(現インド)へに向かった。その後、日本を取り巻く国際情勢が緊迫悪化したため、アメリカのペンシルベニア州ニューホープ(英語版)に土地を購入し、農家に増改築を施した事務所を構え、当地で10年ほど設計活動に従事した。

 第2次世界大戦の際、アメリカ軍少将カーチス・ルメイは焼夷弾の効果を検証する実験のため、ユタ州の砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現した(Japanese village)。この際、日本家屋の設計をしたのはレーモンドであった。この実験は東京大空襲などで生かされた。自伝には日本への愛情と戦争の早期終結への願いという矛盾に対する苦渋の心境が綴られている。このことについて藤森照信は自著でナチス・ドイツの母国チェコへの迫害説を取り上げ、また帰米前に受けた外国人排斥と日本の軍国主義化に対する鬱憤のためであったという説もある。以後、林昌二が自著『建築家林昌二毒本』で取り上げる等、この点につき一部の日本人建築家らから批判を受ける。

 第2次世界大戦後の1947年にダム建設予定地の調査のため再度来日。パシフィックコンサルタンツを共同設立するほか、リーダーズダイジェスト東京支社の設計に際して、新たに建築設計事務所を開設。戦後の日本にモダニズムの理念に基づく作品を多く残した。戦後の事務所では小規模木造住宅の設計で新境地を開いた増沢洵などが学び、名前を冠したそのレーモンド設計事務所は今も存続している。

 1973年、アメリカに帰国し、建築家を引退する。3年後の1976年、ペンシルベニア州ニューホープで死去。88歳。2007年9月15日-10月21日に神奈川県立近代美術館で「建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド」と題した回顧展が開かれた