アルネ・ヤコブセンのトータルデザイン

■アルネ・ヤコブセンのトータルデザイン

鈴木敏彦 

▶︎はじめに

 アルネ・ヤコブセンは、20世紀のデンマークモダニズムを代表する建築家である。1929年の「未来の家」コンペの華々しい勝利と共にデビューし、その後43年間にわたって、あらゆるジャンルの建築とさまざまなプロダクトデザインに携わってきた。


 建築ではデンマークの国立銀行と4つの市庁舎をはじめとして、住宅、集合住宅、学校、図書館、ホテル、銀行、大使館、ガソリンスタンド、スポーツ施設、工場等を設計し、そのプロジェクト数は優に100を超える。プロダクトデザインにおいては、家具、照明器具はもちろんのこと、カトラリーやコーヒーポット等のテーブルウエア、時計、ドアハンドル、さらには浴室の水栓金具に至るまでデザインし、シリーズ展開を含めるとその数は300を超える。これらは自ら設計した建築のインテリアとして置くためにデザインし、その後製品化されたものである。そして現在においても、そのほとんどが北欧デザインを代表するプロダクトとして、確固たる商品価値を維持している。


 ヤコブセンにとって建築とはインテリアエレメントを含む総体であり、「暮らしの場を創出すること」を意味した。暮らしに必要なすべてのものをデザインすることは、彼にとって当然の帰結であった。

▶︎アルネ・ヤコブセンの生い立ちい(1902−1923・21歳まで)

 アルネ・ヤコブセンは、1902年2月11日デンマークの首都コペンハーゲンに生まれた。ユダヤ系デンマーク人の家系で、父ヨハンは安全ピンや小物をデパートや大型店舗に卸す貿易商。母パウリーンはデンマークで初めて銀行に勤務した女性で、植物を愛し、花の絵を好んで描く芸術的な感性の持ち主であった。

 ヤコブセンは父親から商才を、母親から絵心を、そしてユダヤという血筋からコスモポリタンとしての世界的な視野行動力を受け継いだ。

 小学校に入学する頃、コペンハーゲン中心部から郊外のクランペンボーの住宅地に引っ越したが、落ち着きのなさや授業を妨害する振る舞いが原因で、11歳の時に全寮制の学校へ転校することになった。そこで、後にデンマークを代表する建築家となるフレミング・ラッセン(1902−1984)とモーエンス・ラッセン(1901−1987)のラツセン兄弟と運命的に出会う。ヤコブセンには、美術講師が絵の具箱を彼に買い与えるほど水彩画の才能があり、絵描きを志していた。しかしフレミング・ラツセン父親の勧めで、絵の才能を生かすもうひとつの道として建築家になることを決意する

 技術学校に進学して製図法や建設技術を学び、1970年の夏休みにはドイツに行き煉瓦職人の下で修行した。ヤコブセンはこの時ベルリンでミース・フアン・デル・ローエ(1886−1969)の展覧会を見ている。ミースを中心とするドイツのモダニズムがヤコブセンに大きな影響を与えたことは想像に難くない。

 1921年19歳、デンマークに戻ったヤコブセンは海外に目を向け、19歳でフレデリックⅧ号に客室係として乗り込んだ。船酔いと戦いながら一路ニューヨークに向かうと、摩天楼やブルックリン橋をその眼とフイルムに焼き付けた1920年代初頭のニューヨークは急激な経済成長に伴い、高層ビルが競うように建てられ、ロンドンを抜いて世界最大の人口を抱える都市になっていた。ヤコブセンは同年代のヨーロッパの建築家の誰よりも早く、アメリカの摩天楼の強烈な洗礼を青年期に受けたのである。デンマークに戻った彼は、1924年に22歳技術学校を卒業し、同年デンマーク王立芸術アカデミーに入学した。

▶︎北欧モダニズムの到来(1919−1930・17~28歳)

 ヤコブセンが建築を本格的に学び始めた1920年代初頭・18歳、アメリカだけでなくヨーロッパの建築界も大きな変革期を迎えていた。1919年にドイツのワイマールではバウハウスが開校した。初代学長のワルター・グロピウス(1883−1969)は建築を中心とする総合芸術を提唱し、産業デザインを標榜 (主義主張などをかかげて公然と示すこと)した。1920年にはフランスでル・コルビュジェ(1887−1965)が『エスプリ・ヌーヴォー』誌を創刊して機械時代の到来を宣言した。そして1925年のパリ万国博覧会では、装飾のない機能的な住空間「エスプリ・ヌーヴォー館」を発表し、新しい時代の暮らしの在り方を提示した。

 その2年後、ドイツのシュトウツトガルトにて同様のテーマに沿ったモデルハウス群が完成する。ドイツ工作連盟の副会長としてミースが全体計画を取り仕切り、ペ一夕ー・ベーレンス1868−1940)、グロピウス、ル・コルビュジェ、ブルーノ・タウト(1880−1938)らが、白い壁とフラットルーフで出来た機能主義的な集合住宅群を建設した。1927年開催の「シュトウットガルト住宅展」である。

 このようにドイツやフランスで勃興したモダニズムの潮流は、北欧では異なるかたちで受け入れられていく。当時、北欧では民族主義的な機運が熟し、工芸を尊重する風潮にあった。機能主義を額面通りに受け取るのではなく、北欧の伝統的な工芸技術とのブレンドが求められる中で、スウェーデンのエーリック・グンナール・アスプルンド(1885−1940)、フィンランドのアルヴァアールト(1898−1976)、そしてデンマークのアルネ・ヤコブセン(1902−1971)という3国の建築家が北欧モダニズムを牽引していく。

 ヨーロッパの機能主義を北欧流にアレンジした成果は1930年開催の「ストックホルム国際博覧会(住宅工芸デザイン展)」に見られる。この博覧会は、スウェーデン工芸協会理事であったグレゴール・パウルソン(1889−1977)が総監督となり、アスプルンドに主任建築家を任じて組織したものである。

 パウルソンはこの博覧会を、フランスの「エスプリ・ヌーヴォー館」やドイツの「シュトゥットガルト住宅展」が提示したヨーロッパ中央のモダニズムから遅れを取り戻し、追い付くためだけのイベントとしては考えていなかった。むしろ、1919年の「イェーテポリ博覧会」でスウェーデン工芸協会が掲げた「日用品より美しく」というスローガンを体現するため、そして、モダニズムズムをベースにしながらも、使いやすさ、美しさ、そして人びとの暮らしを豊かにするデザインを意図していた。アスプルンドはパウルソンの解釈を理解した上で、博覧会の会場を鉄とガラスのモダンなパビリオンで構成し、近代建築の精神を見事に視覚化した。

 この博覧会を契機に、北欧諸国における建築とデザインの近代化が本格化していく。アールトは「ストックホルム国際博覧会」のオープニング・セレモニーに参加し、友人アスプルンドが成し得た、北欧流の機能主義の社会的メッセージを賞賛した。そして1933年完成の「パイミオのサナトリウム」で、名実共に機能主義をフィンランドの地に開花させた。同様に、「ストックホルム国際博覧会」に足を運んだヤコブセンは、1929年、機能主義の象徴であるフラットループで白い箱型の「自邸」を完成させる。1929年27歳に建築家として独立し、モダニズムの旗手として活動を始めた矢先のことである。

 しかしその後、時期は異なるが、アスプルンドもアールトもヤコブセンもモダニズムを卒業して、それぞれが自国の地に根差した表現に移行していった。3人の北欧モダニズムは、機能主義を受け入れながらも、北欧特有の木材や職人の工芸技術を再評価するまでの通過点であった。それはまさにバウハウス初期にグロピウスが目指した「建築を中心とする総合芸術」の具現化への道のりだった。

▶︎デンマーク王立芸術アカデミー(1924-1927・22~25歳)

  1924年、22歳のヤコブセンはデンマーク王立芸術アカデミーに進学し、建築学部の教授であった建築家のカイ・フィスカ(1893−1965)に師事した。

 同年、家具科が新設され初代講師にコーレ・クリント(1888−1954)が着任する。クリントは、人間工学の観点から人の動作や日用品のサイズに合わせて家具の寸法を標準化したデザイナーであり、建築家でもあった。また、過去の事例を徹底的に研究した上で現代的な形に作り上げる手法を確立していた。

 バウハウスが過去を否定してゼロから素材や技術を開発したのに対してクリントの手法は、18世紀のイギリスの家具に美的な合理性を見出し、機能と形のプロセスを見直して、より洗練した形に仕上げていくものだった。このように再びデザインする手法を「リ・デザイン」という。リ・デザインの手法は、以降のデンマークのデザイナーが共有するデザイン原理となったが、単なる模倣だと思われる危険性もはらんでいた。

 ヤコブセンクリントの1期生として学んだ。後にヤコブセンの作品にまつわる類似性の批判は、往々にしてこの問題に起因する。

 23歳のヤコブセンカイ・フィスカ設計の「パリ万国博覧会デンマーク館」(1925)のプロジェクトに参加し、自身の設計した椅子が銀メダルを受賞する。ヤコブセンの処女作は、クリント直伝の「リ・デザイン」の下、装飾を省き、直線とエッジを強調したシャープかつ上質な仕上がりの肘掛け椅子だった。

 大学での卒業設計が、建築家の将来の作風を方向付けるといっても過言ではない。1926年24歳のヤコブセンは地元のクランペンボーを敷地に選び、「国立ミュージアム」を設計した。それはビーチに沿ってひたすら低く長い建築で、後年の「ロドオア市庁舎」や「ムンケゴー小学校」、「セントキャサリンズ・カレッジ」のイメージを彷彿とさせる。植物が好きなヤコブセンらしく、外観透視図には大きな樹木と、建物の奥にある森のような公園を丁寧に描いている。内部の展示室にはガラス製の展示ケースと、その中の展示物を克明なタッチで描き出した。断面図には「SASロイヤルホテル」を思わせる美しい螺旋階段が現れている。勾配の付いた屋根と、煉瓦の外壁には、師であるカイ・フィスカ設計の「オーフス大学」の影響が見られる。「オーフス大学」をモチーフとして正統な古典建築の秩序を生かしながらも、現代的にアレンジするり・デザインの手法を読み取ることができる。ヤコブセンはこの設計案でアカデミーのゴールドメダルを受賞した。1927年、25歳の明るい未来を予感させる卒業であった。

▶︎フンキス(1927−1937・25~35歳)

 1927年、25歳のヤコブセンはコペンハーゲン市の建築課に就職し、技術学校時代に知り合ったマリー・イエストロツプ・ホルムと結婚した。ふたりの息子を授かるが、マリーの奔放な性格とヤコブセンの内向的性格のギャップから長くは続かなかった。マリーは才気あふれる女性で、芸術的な友人と交流があった。そのうちのひとりが、「PHランプ」で成功を収めていたポール・ヘニングセン(1894−1967)だ。

 ヘニングセンは『クリティスク・レヴュー』誌(1926−1928)を編集し、積極的にデザイン評論を行い、機能主義だけでなく伝統やクラフトマンシップを尊重した北欧モダニズムの重要性を説いていたヤコブセンは一時的には機能主義の建築家(フンキス)と呼ばれたが、独自の北欧モダニズムに移行していく。転換点は1943年にポール・ヘニングセン夫妻と2組で決行したスウェーデンヘの亡命だった。ヤコブセンは1946年にデンマークに帰国したのを境に、母国の伝統や気候風土に適した建築へと変貌を遂げていく。

 とはいえ、ヤコブセンは「フンキス」として鮮烈なデビューを飾った。1929年、27歳で「未来の家」のコンペに幼なじみのフレミング・ラツセンと共同で勝利し、受賞案の実物モデルがコペンハーゲンの「フォーラム住宅展示会」(1929)で展示されて話題となった。また、ル・コルビュジェやミースに続き、フラットルーフの白い箱を思わせる自邸も完成させた。装飾を一切排除した機能主義スタイルの建築はメディアにも大きく取り上げられた。ヤコブセンは独立し、一躍デンマークのモダニズムの担い手として名を馳せた。

 1931年、29歳でクランペンボー地区の「ベルビュー海水浴場」の指名コンペで勝利したのをきっかけに、ベルビュービーチのリゾート開発にかかわっていく。ビーチのキオスク、更衣室、監視塔、そしてビーチを望むようにシアター、レストラン、集合住宅、乗馬クラブ、さらにスタッフのユニホームに至るまで、共通のコンセプトに基づき総合的にデザインした。まさに現代でいうところのCI計画の実践である。

コーポレート・アイデンティティ(英: corporate identity 略称: CI)は、企業文化を構築し特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、またわかりやすいメッセージで発信し社会と共有することで存在価値を高めていく企業戦略のひとつ。CI、CI 計画、CI プロジェクトなどとも呼ばれる。

 1932年、更衣室、シャワー、クローク機能をもつコスタル・バスと白と水色のストライプのさまざまなキオスクがヤコブセンによってデザインされ、「ベルビュー海水浴場」がオープンする。1934年、「マットソン乗馬クラブ」(1933−1934)、「ベラヴィスタ集合住宅」(193~1934)が竣工。1937年、「ベルビューシアター」(1935−1937)、「テキサコ・ガソリンスタンド」(1937)が竣工。そして、「カヤッククラブ」(1938)が竣工し、一連の白い建築群のリゾート開発が完成する。

 「未来の家」、「自邸」、ベルビュー地区の白い建築群はヤコブセンの「フンキス」としての名声を確かなものとした。

▶︎アスプルンド・スクール(1937−1940・35~38歳)

 ヤコブセンから見るとエーリック・グンナール・アスプルンドは17歳年上の憧れの存在であった。ヤコブセンがまだ建築を学ぶ学生だった頃から、アスプルンドは「森の礼拝堂」(1918−1920)、「スカンディア・シネマ」(1921−1923)、「ストックホルム市立図書館」(1921−1928)といった作品で北欧を代表する建築家の地位を確立していた。

 「ストックホルム国際博覧会」の翌年、1931年にアスプルンドは母校であるスウェーデン王立工科大学に教授として就任し、「われわれの時代の建築は日本建築に近付く」と記念講演で論じた。折しもヨーロッパにジャポニスムのブームが到来し、日本建築や工芸に関する情報が広まっていた。アスプルンドは日本建築がもつ空間の流動性、可変性、そして自然素材とクラフトマンシップにこれからの北欧の建築の在り方を見出していた。この時期からふたりの交流は密度を増す。ヤコブセンは頻繁にスウェーデンのアスプルンドの下を訪れては建築談義に花を咲かせた。アスプルンドが学生を連れてヤコブセンの事務所に訪れることもあった。 1937年、ヤコブセンは建築家のエリック・ムラー(1909−2002)と共同で「オーフス市庁舎」(1937−1942)のコンペに勝利する。ちょうどアスプルンドが「イエーテボリ裁判所」の増築(1934−1937)を完成させた翌年のことだった。ヤコブセンは、アスプルンドの裁判所を手本に市庁舎を手掛けた。メインホールの上部トップライトからの光天井、木をふんだんに用いた内壁内部の手摺の繊細な縦桟のデザイン、階段の蹴上げと踏み面の断面を連続的に見せるささら板のデザイン、随所に設置した木の文字盤の大きな壁掛け時計に類似点が散見される。ヤコブセンは外壁のファサードや時計塔の設置に関しても逐一アスプルンドに相談した。そしてアスプルンドもヤコブセンを若き教え子とみなして、快く指導した。

ヤコブセンの夏の家」(1938)と、「アルスプンドの夏の家」(1936-1937)にも交流の跡を垣間見ることができる。意見を交換しながら設計を進めたのだろう。個室からリビングまでの廊下を、ふたりとも地形の傾斜に沿って軸線上に配置し、リビングルームだけ海に向けて軸を傾ける構成を試みている。アスプルンドが1室だけ傾けたのに対し、ヤコブセンは連続的に先端を湾曲させた。

 アスプルンドが1940年に短い生涯を閉じるまで、ふたりの交流は続いた。師匠亡きあと、ヤコブセンはアスプルンドの面影を追いつつ、独自に空間を展開していく。

▶︎スウェーデン亡命と帰還(1943−1946・41~44歳)

 デンマークは1940年にドイツに占領されて、ドイツ軍による取り締まりが厳しくなっていた。1943年、テキスタイル職人のヨナ・ムラーと再婚したヤコブセンは、「スモーク・ハウス」(1943)の完成を待って中立国スウェーデンヘの亡命を決断する。ユダヤ系のヤコブセンにはゲシュタポの迫害が迫りつつあった。

 事務所の経理を弁護士に任せ、自分の留守中にも少数の所員で継続する体制を整えた。友人のポール・へニングセンは、レジスタンス運動に協力していたため亡命の必要に迫られていた。同年9月30日、ヤコブセン夫妻とポール・ヘニングセン夫、そして漕ぎ手の5人は小さなボートを漕いでコペンハーゲンから船出し、対岸の街の明かりを目指した。ナチス警備艇のサーチライトをかいくぐっての決死の逃亡劇である。約4時間をかけて国境であるエーレスンド海峡を渡り、対岸のランズクルーナにたどり着いた。

自邸の植物の写真を撮る1960年頃のヤコブセン。ヤコブセンは花や植物を愛して膨大な数の写真を撮影した。その中には壁紙やテキスタイルデザインのモデルとして撮影したものもある。

 10月初めにはストックホルムに移動して、スヴェン・マルケリウス(1889−1972)に迎えられた。マルケリウスはスウェーデンのモダニズムを代表する建築家で、「ストックホルム国際博覧会」の主要メンバーのひとりである。マルケリウスと親交があり、ストックホルムにも事務所があったアルヴァ・アールトヤコブセンに小さなアパートを手配した。また、スウェーデン最大の住宅協同組合(HSB)の設計事務所での仕事も世話してくれたが、長くは続かなかった。その後ヤコブセンは幾つかの住宅コンペに参加し、一軒の住宅(1944−1945)を手掛けるが、主にファブリックや壁紙等のテキスタイルデザインに専念した。ヤコブセンが草花の水彩画を描き、シルクスクリーンに熟練していたヨナがプリントした。彼らのテキスタイルデザインは、ノーデイスカ・コンパニーをはじめとするスウェーデンのデパートで販売され、ナショナルミュージアムの買取りとなることもあった。亡命期間中、ヤコブセンスウェーデンの植生を徹底的に研究した。その甲斐もあって、ヤコブセンは植栽に関する高度な専門性を獲得した。

 1946年、終戦を受けてヤコブセンは祖国デンマークに帰還する。戦後第一作として「ベラヴィスタ集合住宅」の隣の敷地に計画したのは、「スーホルムI」(1946−1950)という低層のテラスハウスである。ヤコブセンは祖国デンマークの伝統や風土に回帰し、デンマーク伝統の黄色い煉瓦と、セメント瓦の勾配屋根を用いた。専用の玄関と庭付きの5棟の住居ユニットを海への視界を確保するため雁行に並べた。キッチンとダイニングを1階に配してリビングルームを2階に置く構成は、かつて「夏の家」で試みた空間構成と共通する。

  ヤコブセンは最も海側の住戸を自宅とした。そして、地下に新しい設計事務所を構えて再出発の体制を整えた。専用の庭には300種以上の植物を植えて亡命時からの植物研究を継続した。さらに第2期工事として「スーホルムⅡ」(1949−1951)、第3期工事として「スーホルムⅢ」(1953−1954)を建設した。

▶︎学校建築のトータルデザイン(1948−1964・46~62歳)

 ヤコブセンは4つの校舎を手掛けている。「ホービュー・セントラルスクール」(1948−1950)、「ムンケゴー小学校」(1948−1957)、「ニュエア小学校」(1959−1964)そしてイギリスのオックスフォード大学「セントキャサリンズ・カレッジ」(1959−1964)である。これらの建築では、材料選定、自然採光、植栽、インテリアエレメントに共通した理念が感じられる。特に細部まで気を配った「ムンケゴー小学校」の出来映えが、後に「セントキャサリンズ・カレッジ」の設計者として選ばれる決定的理由となった。

 「ホービュー・セントラルスクール」と同時期に着手した「ムンケゴー小学校」は1957年に完成する。東西に4列の教室棟を平行に並べ、南北に5列の廊下を垂直に貫通する格子状の構成である。教室の南面にはそれぞれ中庭がある。壁は黄色い煉瓦積みで、屋根はアスファルトルーフィングの上にアルミシートを葺いた。教室様には屋根勾配のずれを利用して上部から光を採り込む「スーホルムI」の断面形状を応用した。

 2重の窓ガラスにはルーバーが仕込んであり夏場の南の光を遮断する仕組みだ。教室を仕切る煉瓦の壁も2垂で、問には砂を充填し遮音性を高めている。格子状プランで単調に反復してつくった中庭には、異なる舗石パターンと植栽と彫刻を施し、空間に変化を与えた。また、学校生活の道具すべてをデザインした。小学生の体格に応じた3段階の大きさのプライウッド・チェア、ステージの鍛帳とカーテン、照明器具、透明な樹脂製のスピーカー等である。中でも照明器具は「ムンケゴー」という名でルイスポールセン社から商品化されて、以降のさまざまなプロジェクトに用いられた。

 ここで、ヤコブセンがイギリスで大学の校舎を手掛けるまでの経緯を紹介する。1957年、オックスフォードでは「セントキャサリンズ・カレッジ」の新キャンパス計画が始まる。敷地を決め、基金を立ち上げ、新キャンパスのための建築家選定委員会が設立された。彼らは多くの現代建築を視察するため、イギリスとアメリカを巡り、最終的にデンマークの建築家も視野に入れた。

 「ルイジアナ美術館」を設計したヴイルヘム・ヴォラート(1920−2007)、「シドニー・オペラハウス」をつくったヨーン・ウッソン(1918−2000)、「オーフス大学」を手掛けたC・F・ムラー(1898−1988)、そしてヤコブセンがリストアップされた。

 1958年11月、コミッティはデンマークを訪問した。竣工したばかりの「ロドオア市庁舎」と「ムンケゴー小学校」の仕事ぶりが決め手となってヤコブセンが最有力候補となった。委員会の中心となり活動したのは、後に学長となるアラン・ブロックである。彼は「ムンケゴー小学校」を視察した感想を次のように述べている。「一目見て気に入った。スケール、素材と色、中庭の植栽までもが完全に調和している。子供たちはまるで自分の家にいるようだ。ムンケゴー小学校を歩きながら、私たちは2年間探し続けた建築家をついに見つけたと確信した」

 1959年57歳、ヤコブセンは新キャンパスの正式な設計者としてオックスフォードに招待された。プロジェクトについて打ち合わせた際に、ランドスケープデザイン、インテリアデザイン、家具と什器のデザインを含む総合的な設計を手掛けることも受諾した。イギリスの大学の設計に他国の建築家を選ぶにあたり大きな議論があったが、学内のみならず『タイム』誌などの世論の擁護があったことが幸いした。数か月後、ヤコブセンは完成予想模型をロンドンに持参し、委員会を大いに満足させた。かくして1960年10月、ヤコブセンの計画案は最終的な合意に達し、ロンドンにてプレス発表が行われた。11月4日、女王陛下とエジンバラ公爵とオクスフォード大学長が定礎式を執り行った。

▶︎建築を彩るプロダクトデザイン(1952−1960・50~58歳)

 1952年50歳、ヤコブセンは世界で初めて背と座を一体化して3次元成形したプライウッド・チェアの開発に成功する。かの有名な「アントチェア」の誕生である。

 1955年には改良版として「セブンチェア」を発表した。成形技術や接着剤の進化がより難しい形状の成形を可能にし、座り心地を高め、不安定であった3本脚から4本脚に変更した。「アントチェア」と「セブンチェア」は商業的に大成功を収め、ひいてはヤコブセンのプロダクトデザイナーとしての信頼性を高め、以降の製品開発と量産に拍車がかかった。

 ちょうどこの頃、ヤコブセンはデンマーク初の高層ビルとなる「SASロイヤルホテル」(1955−1960)の設計に着手する。スカンジナビア航空(SAS)がコペンハーゲンの中央駅前に北欧の玄関口として最新鋭の旅客ターミナルと近代的ホテルをヤコブセンに依頼したからだ。「ロドオア市庁舎」(1952−1956)の設計においてデンマーク初のカーテンウオールを経験していたヤコブセンは、いよいよ先駆的なカーテンウオールの高層ビルに挑戦する。

 高層のカーテンウオールは、シカゴでミース・フアン・デル・ローエが設計した26階の「レイク・ショア・ドライブ・アパートメント」(1951)とニューヨークでSOMが設計した24階の「レバーハウス」(1952)がすでに実現していた。

 ヤコブセンが1956年に発表した「SASロイヤルホテル」の完成イメージは後者に酷似していた。ただし、デンマーク芸術図書館のアーカイブには、ヤコブセンが高層ブロックのレイアウトに数多くのオルタナティブをスタディしたドローイングが残されている。結果的に低く長い低層棟の上にガラスの箱が直立するイメージに落ち着いたのであれば、これもまたり・デザインの末の結論だと言えるだろう。確かに外観イメージは似ていたが、建築の細部はオリジナリティに満ち溢れていた。外装ではカーテンウオールのアルミ枠の見付けにこだわり、極限までの細さを追求した。インテリアでは、ドアノブ、電気のスイッチ、照明器具、椅子、テーブル、フォーク、ナイフ、調味料入れ、キャンドルスタンド、グラス、絨毯、カーテンなど、最先端のホテルライフを彩るありとあらゆるインテリアエレメントをオープンに向けて次々とゼロからデザイン開発していった。

 1958年、パリ装飾芸術美術館で「北欧のかたち展」が開催された。ヤコブセンは「SASロイヤルホテル」のために開発したさまざまなプロダクトを展示し、建築とインテリアのトータルデザインをアピールした。中でも、同年開発に成功した「エッグチェア」と「スワンチェア」が衆目を集めた。「エッグチェア」に腰掛けると左右の視界が遮られ、体は丸い背もたれにすっぽりと包み込まれる。喧騒の中にあっても個室のようなパーソナルスペースを創出するこの椅子は、「SASロイヤルホテル」のロビーに欠かかすことのできない一品に仕上がった。

 1960年、「SASロイヤルホテル」はデンマーク初の高層ビルを受け入れるか否かの激しい議論の中で完成した。新しい建築を椰撤する一方で、人びとは競うようにエレベーターで20階のロビーに昇り、地上70mからの展望を楽しんだ。繊細な窓枠のファサードがコペンハーゲンの空に溶け込んだように、ヤコブセンの意欲的な試みは次第に市民に受け入れられていった。「SASロイヤルホテル」は「エッグチェア」と「スワンチェア」と並び、デンマークのモダンデザインのアイコンとなった。

▶︎トータルデザインの集大成(1961−1971・59~69歳)

 1961年59歳、ヤコブセンは「デンマーク国立銀行」(1961−1971,1972−1978)の指名コンペに参加した。歴史的建造物である旧銀行をどう扱うか、また、銀行業務を中断せずに増築することが設計の要点であった。カイ・フィスカを含めた4名の建築家は、いずれも歴史的建物を保全する案を考えたが、ヤコブセンは唯一残さない案を提示してコンペに勝利した。銀行業務を滞らせることなく、紙幣印刷所を含む建物全体を3段階で建設するフェイジングが勝因となった。第1段階で紙幣印刷所と事務棟の北側、第2段階でエントランスホールと事務棟の南側、そして第3段階で西側の低層棟に着手する。1965年に事務棟の北側に取り掛かり、1970年4月に第一段階の工事が完了した。1971年2月には行員が北側に引っ越し、新銀行での業務の開始を見届けたところで、ヤコブセンは3月24日に突然死去する。多くの仕事を抱え、働き詰めだった中での心臓発作・69歳だった。

 その後の工事を、ヤコブセン事務所のパートナーであったハンス・ディシング(1926−1998)とオットー・ヴァイトリング(1930−)が引き継いだ。ディシング+ヴァイトリング建築事務所は1972年に第2、第3段階の工事に着工し、1978年に竣工した。彼らは同様に、同年に「ドイツのマインツ市庁舎」、1977年にはロンドンに「デンマーク大使館」を完成させた。

 こうして「デンマーク国立銀行」はヤコブセンの遺作となった。これまでのプロダクトデザインを総動員し、さらに混合水栓「ポーラ」、「バンカーズ・クロック」、「セブンチェア」を進化させた「エイトシリーズ」を新たにデザイン開発した。また、これまでの設計で培ったガーデニングの手腕も存分に発揮した。銀行西側の低層棟の岸卜全体をルーフガーデンとし東森様にはふたつの中庭を作った。さらに室内には植物の鉢を吊るガラスケースを導入し、思う存分に植物を建築にに取り入れている。国立銀行はまさにヤコブセンのトータルデザインの集大成となった。

 現在、ヤコブセンは妻のヨナ(1908−1995)と共にオードロップ墓地に埋葬されている。何ともヤコブセンらしい丸い形の墓石は、「シリンダライ」や水栓を担当した元所員、ティト・ヴァイラント(1941−)がヤコブセンの庭の石を用いてデザインした。

▶︎おわりに

 ヤコブセンのデザインの原点はふたつある。ひとつは卒業設計の「国立ミュージアム」、もうひとつは彼が愛してやまなかった植物である。

 デンマーク王立芸術アカデミーの卒業時にヤコブセンはひとつのスタイルに行き着く。それは低層や水平に長い直線的な建築である。卒業設計の「国立ミュージアム」をはじめ、「ベルビューコスタル・バス」、「カヤッククラブ」、「ロドオア市庁舎」、「ムンケゴー小学校」、「セントキャサリンズ.カレッジ」、「SASロイヤルホテル」低層部、「デンマーク国立銀行」では、そのスタイルを追求した。

 一方で、ヤコブセンはプロダクトデザインに曲線を多用している。「ベルビュービーチ監視塔」、「シリンダライン」は円筒で表現し、「アントチェア」、「エッグチェア」は有機的な弧で構成している。

 植物を好んでスケッチしたヤコブセンは、植栽そのものにも熱心に取り組んだ。「SASロイヤルホテル」と「デンマーク国立銀行」では植物の鉢をガラスケースに吊るし、温室を作った。また、「ムンケゴー小学校」や「ロドオア市庁舎」では廊下の端に土の区画を設けて緑地を作った。北欧の冬は長い。ヤコブセンは、室内に緑のオアシスを切望したのだ。そして、ヤコブセンにとって家具もまた枯れることのない植物だったのではないか。「エッグチェア」や「スワンチェア」の丸みを帯びた形状は植物にインスパイアされたものだ。

 それらの形はヤコブセンがこの世で一番美しい植物と称賛したサボテンや、好んで「SASロイヤルホテル」の各室に置いた蘭の花の形にも見えてくる。

 建築の直線的な構成とプロダクトデザインのオーガニックな形状という対比が、ヤコブセンのトータルデザインを特徴付けている。彼は建築という不変のプロポーションに永遠性を託し、プロダクトデザインという再生産される製品に色あせない未来を託した。

 21世紀となった今日、ヤコブセンの魅力は古びるどころか、むしろ今日的なデザインのアイコンとして人びとに認識されている。