ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群(ヴァイマルとデッサウのバウハウスとそのかんれんいさんぐん)は、ドイツの世界遺産のひとつ。ドイツのモダニズム建築に重要な影響を及ぼした建築学校バウハウスにかかわる物件がまとめて登録されている。バウハウスはヴァイマル、デッサウ、ベルリンの順に移転したが、最後のベルリンは末期のごく短い期間しか存在しておらず、世界遺産登録物件には含まれていない。
■歴史
■ヴァイマル
バウハウスは、1919年に、ヴァルター・グロピウスの手によって保守的な都市ヴァイマルに建設された。これはヴァイマル美術工芸学校(the Weimar School of Arts and Crafts)とヴァイマル美術アカデミー(the Weimar Academy of Fine Arts)を合併したものだった。
彼は開校の辞で、職人や芸術家の間に傲岸な障壁を生起する階級差別を排した、新たな職人ギルドを打ち立てることを宣言した。第一次世界大戦前のヴァイマルの作業場にあったものは、戦争中にほとんどが売却された。バウハウスにとっての初期の狙いは、建築学校、技術学校、美術アカデミーを混成したものになることであったが、内外で論争が惹起された。
グロピウスは、終戦と共に歴史の新しい時代が始まったのだということを説いた。彼は、この新しい時代を反映した新しい建築様式を創出しようとしていた。建築や消費財における彼の様式は、機能的かつ安価で、大量生産に適したものであった。彼は最後まで芸術と技術を、芸術的主張を伴いつつも高性能であるような機能主義に高めることを目指して、統一しようとした。バウハウスは、雑誌『バウハウス』を発刊すると共に、「バウハウス叢書」(Bauhausbücher)も刊行した。
アメリカ合衆国やイギリスが持っている原材料がドイツには欠けていたので、彼らはその分熟練労働力が持つ練達さと、革新的で高性能な商品を輸出する能力に頼らなければならなかった。したがってデザイナーが必要になり、そのための芸術教育の新しい形式もまた要請された。バウハウスの理念は、芸術家は産業と共に働いて鍛えられるというものだった。
テオ・ファン・デスブルク(Theo van Doesburg)とその批評の出現は、グロピウスに影響を与えた。彼は当時、ヨハネス・イッテンによって教えられていたもの、すなわち表現主義は、彼の意図していたものではないことを悟った。イッテンは結局学校を去り、後任にはモホイ=ナジ・ラースローが就いた。
バウハウスへのテューリンゲン議会の支援は、社会民主党に由来していたが、1924年2月に、社会民主党は州議会の与党から転落した。文部省は六ヶ月契約でスタッフを置き、助成金を半減させた。彼らはすでに資金調達のための別の拠り所を探していた。彼は1925年3月末をもってヴァイマルのバウハウスを閉校することを発表した。
バウハウスがデッサウに移った後のヴァイマルにも、保守的政治体制に余り対抗的ではない教師やスタッフと共に、工業デザイン学校が残った。この学校は建築・土木工科大学(the Technical University of Architecture and Civil Engineering)として知られたが、1996年にバウハウス大学(Bauhaus University Weimar)と改称した。
■デッサウ
バウハウス大学本部棟(Main building of the Weimar Academy for Architecture and Building Arts – University, ID729-001)- 所在地Weimar, Geschwister-Scholl-Strasse 8 デッサウ・バウハウス(The Bauhaus, ID 729-004)