第3章1932―1945

第3章 1932―1945

 1932年、柳瀬はプロレタリア運動に深く関わったことにより逮捕され、活動を厳しく制限されます。妻の死など苦境をへて、再び絵画を描き始めた柳瀬は、日本各地や中国大陸を旅し、俳句や写真に取り組みました。しかし、新たな展開が期待された矢先、1945年5月の空襲で命を落とします。

■柳瀬正夢 西落合時代

 1933年9月、市ヶ谷刑務所を出所した柳瀬は、2人の子どもとともに上落合に住み始める。淀橋区落合地域は、左翼文化人が多く住んでいたことから“落合ソヴュト”と呼ばれることもあった。妻と死に別れ、失意の底から再起を図る時期、柳瀬は落合で過ごすことになる。

 友人の小林勇らは、柳瀬に油絵を描くことを勧めた。小林は、内田巌や大河内信敬を通じて、松下春雄という画家が亡くなったことを知り、そのアトリエを借りられるよう交渉したという。淀橋区西落合1の306がその住所で、1934年春に入居した。

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 隣には、洋画家の鬼頭鍋三郎の家があった。帝展に出品する光風会会員の鬼頭は、1923年に「サンサシオン」という美術グループを、同じく名古屋出身の松下や冨澤有焦男らと作っていた。鬼頭は、松下と同様、冨澤の緑で、本郷絵画研究所の岡田三郎助に師事したことがある。鬼頭と知り合った柳瀬は、初めてアトリエのある家に暮らし、洋画家らしい生活スタイルを実践した。保釈中の柳瀬は、政治運動に関わることができなかったので、職業画家の道を探るべく、油絵の研究を続けた小林勇を描いた《Kの像》、婦人労働者をモデルにした《青バスの車掌》、卓上静物の《仮面》などの作品が生み出された。写生旅行へ頻繁に出か臥国内各地や満州を訪ねて風景画の制作に勤しんだ。

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 アトリエでは、研究会や絵画教室も行った。1935年、松山文雄、加藤悦郎、小野沢亘らと研究会を結成し、白石寛を講師に過一度彫塑講習会を開いてデッサンの勉強をした。柳瀬の下に、絵を学びたいと思う労働者や文化人が集うようになり、それは「コペル会」へと発展するユ。またこの頃、大田耕土らとカリカチュア研究会や東京漫画研究所を立ち上げ、若い漫画家の育成に尽力した時期でもあった。

■コペル会

 柳瀬の教え子が作った絵画サークル。会の名前は、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』の主人公のあだ名、コペルに由来する。1940年3月16日から18日まで、銀座の中央画廊で、写生派コペル第1回展が開催された。柳瀬も《島の娘》を特別出品している。また柳瀬は、看護婦、青バスの車掌など、それぞれの職場で働きながら絵を描く教え子たちの姿を描いている。

■岡崎精郎(おかざきせいろう)

 農民運動家。高知県吾川郡秋山村生まれ。県立第一中学校を卒業後、画家を志して上京。岸田劉生に師事し、草土社同人となるが、病気のため帰郷。武者小路実篤らの「新しき村」に共感し、被差別部落の問題に目覚め、自らの田畑を小作人に解放した。1929年、吾川郡農民組合を組織し、農民の推薦で秋山村長となる。県内の小作争議を支援し、1935年全国農民組合高知県連の委員長となった。翌年県議会議員に繰り上げ当選したが、39歳の若さで没した。柳瀬と知り合ったのは、1936年1月、東京の協調会館で開かれた全国農民組合第15回大会だった。

■『難癖』

1938俳句会

 柳原極堂主宰、阿部里雪編集により1932年10月に創刊された俳誌。途中2度の休刊を経て、1942年9月まで計118冊が発刊された。表紙絵は、創刊当初は下村為山が手掛けたが、1941年9月号より柳瀬が担当。併せて1941年4月号より「柳瀬蓼科」の名で廃刊までに計307句が投稿掲載された。なお、柳瀬は難頭の句会へも1941年6月に初めて出席して以降、たびたび顔を出し、極堂や里雪らと親交を深めた。

■柳瀬正夢と俳人たち

 10代の頃より、詩や短歌など文学創作にも積極的であった柳瀬だが、亡くなるまでの約10年間に深く傾倒したのが俳句であった。すでに1920年代には、『ホトトギス』『土上』といった俳誌の表紙絵や挿絵を担当しており、俳句との関係はここから始まるとも言ってよいだろうが、この時点ではあくまで一連の装丁や挿絵の仕事と同性格のものであった。やがて、正岡子規の遺志を受け継いだ同郷の俳人たち一柳原極堂、五百木親亭、阿部里雪らと知り合い、交友する中で、柳瀬自身も句作に励むようになる。

 中でも、五百木諷亭主宰の雑誌『日本及日本人』の記者や、柳原極堂の右腕として俳誌『難頭』の編集に従事した阿部里雪は、柳瀬に句作の指導をし重要な存在である。柳瀬の俳号である「蓼科」(りょうか)の名付け親も里雪であった。両者の出会いは、1934年9月に田端の大龍寺で行われた正岡子規の33回忌であったと言うが、その3ヶ月前に柳瀬が阿部里雪に宛てたハガキが今回見出されたので、実際はさらに遡る可能性がある。1936年6月、里雪に誘われて、柳瀬は在京の愛媛県人会「一茎会」に参加、ここで諷亭の似顔絵を措き、諷亭は「親亭の顔とも見えて風涼し」の句をそこに書き添えた。1941年頃より、柳瀬は本格的に里雪から俳句の指導を受け始めたようで、翌年にかけて難頭の句会に頻繁に出席していた様子が、句稿の日記から分かる。その成果は、『難頭』などに投稿掲載された多くの句を経て、最終的に、生前での刊行がかなわなかった句集『山の絵』とつながっていく。 本展で初めてまとまって公開される阿部里雪旧蔵の柳瀬作品は、いずれも即興的なものであるが、それゆえに両者の親密な交友をしのばせる。その中にあって、柳瀬による極堂の似顔絵に、「己か影墨なりと思ふ冬こもり」という極堂自筆句が添えらたた掛軸は、それまでの挿絵的気分を膜した堂々たる“俳画”として、象徴的な1点と言える。

■夢と大陸は人生において、9度にわたって大陸を訪れて

1936大陸北京 1936農民組合 1937夏川八朗 1938俳句会 1939北京写真

 最初の訪問は1929年のことで、新居格、戸川秋甘、堀口九万一らと読売新聞社満蒙視察団に参加、満州と上海に滞在した。1931年には朝臥大連、事天を、1932年には上海を旅行したが、特高により手挙、拘留されたのほこの直後であった。

 拘留が解かれた後、大陸への訪問は頻繁になり、1936年には満州、1937年には中国東北地方、1938年忙は満鉄北支事務局の招聴で天津、北京、大同、雲崗を訪問する。さらに1939年には華北交通の招きで天津、北京、1942年には満鉄弘報課の招聴で新京、ハルビン、マンチュリー、三河、黒河、牡丹江、ロシア入植地・ロマノフカ村など、1945年には再び新京、奉天を訪れている。招時に助力したのが柳瀬の友人で満鉄の社員から華北交通に転じた城所英一であったという。

 本展出品の大陸を題材とする油彩、写真、スケッチは、1938年と1939年の活動が中心である。漫画家としての国内での活動を制限された柳瀬が1920年代半ばに中断していた油彩に再び取り組むようになる。1930年代後半から1940年代にかけて柳瀬は大陸だけでなく松山、佐渡、伊豆、阿蘇など日本各地を旅行し、スケッチに励んだ。アトリエに腰を据えて制作に打ち込むよりも、旅先で新しい風物に出会いながら制作することを好んだ画家だったといぇる。また、旅先での活動の中でも、北京や雲崗で取り組んだ一連の写真は、柳瀬の新境地である。

■山と渓谷

194ア山と渓谷』76号

 柳瀬が生涯にわたり、たびたび訪れた場所の一つが熊本県の阿蘇であった。「私は26年の昔に、1ヶ月ほど栃木を根拠にこの山を描きこの附近を描き漁った。」とあるように、阿蘇を訪れた際のスケッチブックに臥鮎返りの滝、阿蘇草千里、栃木温泉などが描かれている。また「水前寺見物」「栃木に来た日」と題された文章からはその旅の過程を知ることができる。柳瀬が阿蘇を訪れたのは1917年。阿蘇への入口である立野駅が開業したのが1916年11月11日であり、17歳の少年のフットワークの軽さに驚かされる。この旅行で柳瀬が栃木温泉を描いた《阿蘇の黄昏と渓》などの油彩画を残している。スケッチブックから1935年にも再び阿蘇を訪れたことがわかるが、阿蘇を描いた現存する油彩画が再び登場するのは1940年になってからである。1940年9月に福岡、小倉、門司で開催された「柳瀬正夢画伯油絵展」で主に中国を描いた作品が展示されたが、前月の8月に柳瀬は阿蘇を訪れ、そこで描いた8点の油彩画と1点の素描を加えて出品している。第一白川橋梁、大観望、烏帽子岳、噴火口と実に広範囲を訪れている。「ここの位置からなつかしく景観する向ふ山も、後ろ山も、温泉も、渓流も、今ははや一瞬に消えさり唯あるものは向ふ渓のどてつ腹と鉄橋と汽笛、それだけの構図しかなくなった。」10代に訪れた際の景色は変われど、若き日に訪れた大地を再び踏みしめて、画家としてのスタート地点にあった日々を思い起こしたのではないだろうか。晩年に阿蘇を描いた一連の作品からは、再び絵筆をとった柳瀬の新境地がうかがえる。

 ■羽仁説子のことばより

1937夏川八朗

 「柳瀬さんは一切漫画をかかぬことで転向を誓い、出て来られた。生活のために『子供之友』に私がつづけているお話の挿絵をかいていただいたこともある。私のかくお話の中に、少年ミケランジェロをフィレンツェの都市を展望する丘の上
に描いてくださったときなど臥南沢の暖炉の前で、私の話を聞きながら、フィレンツェの歴史だの写真だのを詳しく詳しく調べてかかれる「でぶおじちゃん」の集中ぶりに、三人の子どもは感じいっているようでした。(中略)五郎さんの友人として、私と三人の子どもたちに示してくださったあたたかい心くぼりを、いまも感謝しています。

■原田磯夫(はらだいそお)

 新聞記者、編集者。福岡県北九州市生。朝日新聞西部本社で新聞記者として活躍。1968年から1981年まで、『九州人』全157冊を編集発行し、地域文化の振興忙貢献した。原田は、柳瀬が1940年9月に福岡で個展を開催した際に尽力している。個展終了後に、柳瀬と原田夫妻らが一緒に皿倉山に登るなど、家族ぐるみで交流があった。《原田磯夫兄像》は、柳瀬が個展で福岡に滞在していた際に描かれたものである。

 ■全国農民組合

1935組合 1936農民組合1936岡崎精郎

 1928年、分裂していた農民運動団体が合同して結成された全国的農民組織(略称「全農」)。頻発する小作争議を指導し、自作農も含む広範な農民の要求をかかげて運動を展開した。左派に対する官憲の弾圧が激しくなると、1931年の第4回大会で運動方針の対立が表面化し、総本部と全国会議(全会)に内部分裂した。1934年の凶作に際し、小作法制定など生活保証要求の運動に取り組む中で、全会派の総本 部復帰の機運が高まり、1936年には組織的な再統一を達成して農民運動は高揚した。

■展覧会の感想

第三章」は悲痛な受難の時代である。彼の逮捕・拘留と、そのさなかの愛妻の急逝に始まり、言論統制下での表現の抑圧、そして空襲下の新宿駅前における無残な死に終わる。生え抜きの社会主義者だった柳瀬にとって苦悩と蹉跌に苛まれ、茨の道を歩まされる十数年だったろうが、にもかかわらず、この時期の作品は絶望や諦念の翳りはなく、静謐な温かみと人間的な成熟を感じさせる。これこそ柳瀬の偉大さの証しではなかろうか。

 執行猶予中の身ゆえ一切の政治的な言動を封じられ、時事諷刺漫画の執筆も禁じられたため、1930年代後半の柳瀬は子供向け絵雑誌(『子供之友』と『コドモノクニ』)を主たる活動の舞台とする。期せずして30年代初頭レニングラードでの「オベリウ」詩人や前衛画家たちとよく似た運命だが、残された僅かな活動分野に賭ける気持ちからか、彼の童画には深く切実な思いが滲んでいる。多くのロシア絵本を手にした(ナウカ社の大竹博吉からの提供という)のもこの時期だった。

 この時期、彼は讀賣新聞に復帰し、『よみうり少年新聞』に子供向けコマ漫画を連載して見事な成果を挙げたが、このあたりは前に武蔵野美大での展覧会(→柳瀬正夢の炸裂する才能)でつぶさに観たからもう驚きはない。
 この時期に再び油彩画に復帰した彼が描いた肖像画のしみじみとした味わいである。モデルは当時の彼が最も信頼していた出版人の小林勇(《Kの像》1934)、彼を師と仰ぐ絵画サークル「コペル会」の素人画家たち(《市バスの車掌 白手袋をはめる》1936、《白衣の婦人》1937頃)など身近な人々だが、どれも被写体に寄せる揺るぎない愛情と信頼が滲んだ画面である。最晩年のマレーヴィチの一連の肖像画がふと脳裏をよぎる。
 市井の人々に寄せる共感は、この時期に彼が再三訪れた満洲でしたためた素描(とりわけ子供たちを描いたスケッチ)、数多く撮ったスナップ写真にも共通する特色だ。満鉄の招聘による彼の大陸旅行そのものは時局迎合との誹りを免れまいが、旅先で出逢った民衆に注ぐ柳瀬の眼差しには心からの親近感と愛着に溢れている。このような時代の所産でなければどんなにか良かったろうに!

1948.烏帽子阿蘇噴火口 1945年 新宿西口広場付近空襲にて死亡 1936年二葉亭四迷3sl5-1942原田1943戦争10144873BwE6B791E5AD90E5A4ABE4BABA-ed5ca引っ越したアトリエ下落合下落合アトリエ正夢と子ども1939北京写真1938俳句会1937夏川八朗1936農民組合1936朝鮮1936大陸北京1936岡崎精郎1935組合194ア山と渓谷』76号