■ベルリンを生き抜く
■ナチスの暴威にユダヤ人は祈るのみ
竹久夢二がウイーンを去ってベルリンへ移ったのは、翌年の1933年1月10日前後と思われる。十二月二↑三日付の高橋しげへの嘉に「朝九時に夜があけて四時頃暮れる欧州の憂うつさ。明るいロサンゼルスがなつかしい。メインのホテルがなつかしい……。私は年越しをウヰンでしてベルリンへいくでせう。どちらにも親切にしてくれる人がありますから……」一月九日の日付で横浜の友人・高相利郎に書く・・・・「三月にべルリンで展覧会と講習をやることになつてウヰンを立ってきましたが」と。
命ありて旅に三とせの春に会ふ カナンはいづこなお遠みかも
ユダヤ民族の久遠の聖地カナンへ夢二が行きたがっていたのは事実だが、今やドイツのユダヤ人にそれは見果てぬ夢と化しつつある。
前年(1933年)7月31日の総選挙でナチス党は三七・八パーセントの得票ながら第一党(230議席)にのし上がった。社民(133議席)と共産(89議席)が手を組めば、ヒトラーの勢いを阻止できたのだが、左翼はお互いを敵視するだけ。同じ年11月6日の総選挙でナチスは三四議席を減らしたが、11議席を増やした共産党は左翼統一戦線を結集するどころか、非合法化された。
十二月二日シュライヒャー内閣が成立したが、翌年一月二十八日政権は崩壊。重責ヒンデンブルグ大統領はなんとナチス党党首ヒトラーを首相に任命した。ドイツ第三帝国は民主主義的な手続きで生まれた独裁国である。ナチスの動きは早かった。二月二十七日、ベルリンの国会議事堂が不審火で焼かれ、真相がわからぬままに、全国に戒厳令を敷く絶好の口実となった。だが、ベルリンの夢二には生き延びることが何よりの課題にあった。二度目のベルリンであり、何か期するものがあるようだ。しかし・・・
つまつまとばんに鰯を添へてくふ 伯林にわれ年を越えつつ
その年の暮れをようやく乗り切って、夢二はベルリン市内の「ペンション・オリエンテ」にねぐらを構えた。日本大使館の人々は親切で、中でも長井亜歴山(アレキサンダーの意味。母親がドイツ人だった。
戦後、読売新聞の従業員組合を率い、正力社長退陣を求める大争議を指導。1948年に本共産党に入党(1950年脱党)したが、ベルリン時代はシンパ程度であったらしい。マルクス・レーニン主義の影響を受けた者は多く、その中から戦前戦後を通じて、日本における共産主義の理論的指導者を多く生んでいる。
政治学者の加藤哲郎は、粘り強い調査を続けて、夢二と留学生グループとのつながりを発見しょうとしているが、まだ成功していない。当時ベルリン在留の画家としては、島崎蓊(おう)助(藤村の息子)、内田巌(魯庵の息子)がいたが、いずれもつながりはなかったようだ。鈴木は最初ナチスの勢いを軽く見たのか、ベルリンでも共産党の強い地域ではこんなジョークが流行っていると言っている。「ベルリンはビフテキだ。外は褐色、中は赤」(前掲書)。しかし結局、ベルリンは褐色化がますます進み、ついには焦土と化してしまったのはご存知のとおり。
焚書事件に戻る。問題は夢二がそれを目撃したか、しなかったかである。そのころ、欧州オペラ界のプリマドンナ、ミチコ・タナカ(田中路子)が夫ユリウス・マインル(ウィーンのコーヒー王)とともにべルリンにも滞在していて、焚書の光景を目撃した(角田房子「ミチコ・タナカ 男たちへの讃歌」新つのだ潮社、一九八二年)。克明な調査に基づく角田の筆の確かさには定評がある。この本には夢二が夫妻と一緒にいたとは何も書いてない (この日の『夢二日記』はむろんない)。もう一つの説は、ドキュメンタリー映像作家の故・藤林伸治(藤林についてはあとで詳しく述べる)が、直接ミチコから電話で聞いたという話で、「そうだ、あのとき夢二さんもいたわ。……途中で気がついたら、夢二さんはいつのまにナチスの焚書(米陸軍撮影)か姿を消していた……」(藤林伸治「知られざる夢二」、監修・夢二郷土美術館『望郷の山河』所収、一九九〇年)。
真の答えはウィーンのマインル商会資料室に埋もれているかもしれない。夢二が現場に立ち会わせたとして、スケッチを一枚も残していないことは責められまい。そんなゆとりはなかっただろう。米陸軍が振った写真をここに挙げる(全米ホロコースト祈念博物館提供)。
それでもベルリンの市内の様子は一見平穏だった。ナチスの党章を描いた大幡が夢二のスケッチ帖に記録されているが、ユダヤ人以外の人々にとっては、「日々これ事もなし」であった。夢二の彩色ペン画『ベルリンの公園』(夢二郷土美術館蔵)が、それを示す。市内のウィッテルスバッヒヤー広場の光景だという。
犬を連れて歩く若い二人連れ、ベンチに憩う人々、はるかに望む教会。よく描き込んだ大きなペン画である。色彩もあっさりして、いかにも平和な光景である。岡山の郷土美術館にはほとんど同じ図柄のペン画が二枚ある。一枚は当時ベルリンに留学していた徳川養親(のちの昭和天皇の書侍従長)が夢二からもらったもの。ほかの一枚は画商から入手したという。
■イツテン・シューレでの夢二ゼミ
ところで夢二は、二月から市内の画学校イッテン・シューレ(「一天画塾」は夢二の当て字)で、日本画の特別講義をすることになつていた。
1926年にはベルリンにて学校を設立する。これが後に「イッテン・シューレ(Itten Schule)」となる。この学校には日本からの留学生もおり、日本との接点もあった。イッテンは日本美術に関しても造詣が深かったという。
ヨハネス・イッテンは総合造形美術教育で有名なヴァルター・グロピウスの率いるバウハウスの重鎮だつたが、教育方法の違いから別れシューレて自らの学校を作った。東洋思想の影響を受け、頭を剃りあげた一見異相の人物である。スイス国籍でユダヤ人ではない。スイスにいるイッテンの息子トーマス氏に、電話でバウハウスとの絶縁のいきさつをぎつとしたが「とても複雑な事情だったらしく自分もよく知らない」とのこと。
シューレには東洋画を教える日本人が先にいたが、事情があって辞めた後釜を探していたということを他で聞いたが、息子によると、そういう事実はないという。となると、夢二のほうから売り込んだということになるか。日本大使館が仲介にあたったという説はトーマス氏も否定している。何しろかなりの薄給なのである。週二回午後二時間のゼミ形式で学生は九人、報酬は月200マルク。普通のタイピストで月150から200マルクは取るから、夢二の収入はほんの小遣いにしかならない。
九人の受講生のうち七人までがユダヤ人。夢二は講義の準備に苦労したらしい。何しろ日本語の文献がそばにあるわけでなし、カリフォルニアで愛読した『万葉集』はロサンゼルスに置いてきた。「俳句集だけ持ってきたがこれはよかった「日記』)。講義だけでなく実技を交えて火曜と金曜の二回、二月のそのうちユダヤ人の学生は減るし、最後はシューレ自体、二十七日にナチスの突撃隊に襲われて、次の日閉鎖。イッテンがナチスににらまれたのは、ドイツへの帰化を拒否したこと
ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ
ました」と、二月豆で友人の高相利郎に書いている(夢二書簡』2)。三月二十八日の高相への手紙では「ヒトラアのシシフンジン的強行政治で、町はひっくり返るさはぎです」とある。先に書いたようにユダヤ商店のボイコットは実質的に始まっていたが、今度は公式である。
(三月三十日)明日からナッチはユダヤ人の店へ壁紙をするという。不買同盟だ、「雇人はかいこす べからず」大きなデパアトをどうするか、赴くところ人力の勢ひといふものは怖しい。ベルリンのナチス化は、かなり徹底的で激しさを増し、夢二を哀しませる。
(四月一日)ひるめしをボエームへ食ひにゆく道々、店のガラス窓に不審紙にいろいろすったものが貼りつけた。ドクトルの名札にも、Judeとかマークとかをガラスヘペンキで描いたところもある。殆ど気の利いた店はみんなそれだ。チコチンの家はといって見るとここにも赤紙だ。展覧会はとてもおじやんであらう。それはとまれ、世界のよろんがどう動くか。どこか猶太人(ユダヤ人)の住む十地はないか。猶太国の建設が見たい。ぞろと街を歩く人のぶきみさ。葬列よりも重く寂しい。思いひたったナチスの若者の、鉄兜の銭入をがちゃつかせてゆく勇ましさも何か寂しい。
日記にはイッテン・シューレのことが一切書いてない。ナチスの突撃隊による襲撃のこともない。夢二がもっとも力を注ぎ、これこそ米欧の旅の成果といっていい「日本画に就いての概念」せめては夢と遷する講義案(「藤林資料」竹久−65)を、少し抄録してみよう。私はドイツ語は大方忘れてしまったが、何よりも夢二の日本語はかなり良質だから、これをドイツ語に訳すのは至難の業であっただろう。
日本画の学習は、物から心へ、心から手への会得である。日本画に体系的学説のなき所以である。この一文も、論理的とならず、断片的感想たるもそのゆゑである。・・・・・
西洋画に於ては、光の中に物を見る。物を表現するために、まず面を求める。面を描くためには必然に陰影を作る。陰影を描くことによって、塊と奥行が生れる。光の中に見らるる物の存在状態を描くことにより、画面は完成されたと言はれる。・・・
日本画に於ては、心の中に物を見る。物の表現を物の発生状態を辿ることに始める。ゆゑに経過は面とならずして、線として表はれる。これ線が動的・求心的・時間的なるがため、内在生活の端的表現に適する所以である。線は、塊の完全なる象徴となることにより、内的衝動を明かにし表現し、ここに画面が生れる。・・・
茶道の天才利休は 「庭に花あれば、茶室に花を挿さず」と教える。全宇宙の中に唯一を求め、唯一の中に森羅万象を大観する手だてである。またこれは重複を避くる一の審美観である。およそ均斉は重複を意味し、運動の可能を阻止する形と見た。すべて足らざるままに置く心は、足らんとする未来を約束する面目Hである。・・・
かくして過去が未来に生きる。この生命の躍動は、物質の中に移入される精神が、物質をして有機的輝きを持たしめる。これ「気韻生動」 の趣きである。・・・
ずいぶん大上段に構えたものだが、私には、このあとに続く「日本の服装に於ける愛の表示」(同上)のほうが、夢二らしく面白い。
さてすべて近代西洋の服装は、肉体の姿勢や塊を露出することに力めるが、日本の服装は、肉体を包み隠すやうに着る。日本のキモノに於ては、身体を縛る紐を十本乃至十五本用ゐる。それほど健固に肉体を守るのである。これはしかし、日本の婦人が男の暴力を防ぐためではない。そんな風に着たキモノの腋(わき)の下や、袖口や褄先きから、汗ばむだ桜の花のやうな肉体が不用意にほの見ゆる。それがどれほど肉感的なシヤルムを持つてゐるか、これは日本の男のみが知ってゐる秘密である。この密(ひそ)やかな攻果を女の方も心得てゐる。この日本婦人のトリックは、西洋の婦人に見られない特質である。しかし、ひかへめがちな日本の婦人も一度男を許したうへは、何もかも、命さへも捧げて惜まない。日本に心中といふロマンチックな行事があるのもそのゆゑである。・・・(「藤林資料」竹久−65)
夢二がゼミ用の資料にしたと思われるものはほかにもう二つあり、中でも『線の描き方』は、東洋画の生命である「線」をいかにして描くかを、短い文章ながら外国人にもわかるように記号化したもの(「藤林資料」Y占-2)。もう一つは六月二十日にオープンした展覧会の「手引き」のために準備したと見られる「日本画の画法の概念-竹久夢二による-」の独文である。「手引き」は未見だが、内容は次に紹介する第二の批評文からある程度うかがえる。なおこの二つは長田幹雄の手を経て「藤林資料」の一部となつた。これらの資料はすべて記録映画『ヨーロッパの夢二』に生命をかけたものの未完に終わったドキュメンタリー映像作家・藤林伸治が遺し、法政大学大原社会問題研究所に寄託したものである(前に挙げたのを含めて、「藤林資料」と呼ぶ)。
六月二十六日を最後に夢二のゼミは終わり、六月二十八日を最後に、イッテン・シューレ(二大画塾)はナチスの圧迫によってドアを閉じた。
■「タケヒサ展」への批評
夢二はベルリンで何とかして展覧会を、せめて画会を開きたかった。帰りの船賃も必要だし、まだまだ金がいる。四月一日の日記にはナチスの圧力で「展覧会はとてもおじゃんであらう」とまで書き付けたが、三月の時点では日本人会の後押しでささやかな画会の見通しがつきそうだった。
夢二は願いをこめて三月十六日、〝メインのママ″こと高橋しげに手紙を書く。
近く私はここで展覧会をやりたいと思ってゐます。あなたがお引取りになつたといふ屏風の『炬燵(こたつ)』の方だけ展覧会に貸して頂けませんか、あれは私にすれば随分心の入った作品です。あれほどのものがここではとても描けません。あなたの友情の中にそれだけの寛大があるならば 幸甚です・・・。
しげはこの手紙を受け取ると「今夜此の手紙を落手したが返事を出さぬ事とする」と裏面に書き付けた。貸せとは返せという意味、夢二に貸したら戻ってくるあてはない、しげはそう考えたのだろう。『炬健』というこの作品は、どんなものか。しげが日本に残してきた娘の石田育は、若いときに見たその屏風の美しさを今でも覚えている。
貼り絵の枕屏風でした。ええ、二枚折りの。高さは一メートル足らず、八十センチぐらいでしょうか。若い女の人が掘りごたつに寄りかかっているところです。その布団が縮緬をそのまま貼りつけてましてね。夢二はきれいな端布(はぎれ)をよく集めていましたそうで、ええ、着物も縮緬でした。 顔と手は夢二流に描いたものでしたが。バックは金、といっても金箔でなく、袖に金粉をまぜたような……。コタツの上には十字架を刺繍した本がボンと置いてある、そんな図柄を覚えています。そう、夢二さんがヨーロッパから戻してくれないかと頼んできたのが、その作品です(一九八五年六月五日、著者とのインタビュー。さらにいえば、一九四五年六月五日の白昼、B軍29・二五〇機は西宮から垂水(たるみ)の間を絨鍛爆撃。摩耶山のふもとにあった高橋しげの実家は焼け、夢二の『炬燵」は灰になった)。