第2章 1923―1932
芸術の革命から革命の芸術
1923年9月1日(大正12年)の関東大震災は、柳瀬の画業に決定的な影響を与えます。柳瀬は次第に絵画から離れ、時局を巧みに諷刺した漫画やポスターなど、グラフィックの世界に活躍の場を移しました。
柳瀬は自叙伝でこのように回想している。それほど関東大震災は、彼に大きな影響を及ぼしたのである。震災直後、混乱に乗じて社会主義者を弾圧がする動きが起こり、柳瀬も自宅に居るところを連行された。拘留を解かれたあとしばらくは門司で過ごしたが、やがて東京に戻った後、最初に取り組んだのが、震災後の東京をスケッチブックに克明に描き留めることであった。下宿先の梅子と結婚するのもこの頃であった。少年時代に夢想した理想の女性の名から小夜子と呼んだ。
関東大震災と柳瀬正夢
1923年9月1日の関東大震災は、死者・行方不明者10万人に及ぶ、日本史上最大の被害をもたらした地震災害であった。震災直後には流言飛語が発生し、自警団などにより多数の朝鮮人や中国人が虐殺され、官憲により社会主義者や無政府主義者がとらえられ殺害された。柳瀬は、震災の直前まで評論家の大山郁夫と房州に出かけ、東京に戻ってまもなく震災に遭遇した。9月6日、戸塚町の大山郁夫宅で留守番をしていて、憲兵隊の家宅捜索に立ち会うことになった。その様子を無意識に鉛筆で紙に描きとめようとして、中尉に写生禁止を命令されたという。
その夜、中野町の下宿先にいたところを、憲兵隊に踏み込まれ、淀橋警察署戸塚分署(現在の戸塚警察署)に拘留された。連行の途中で近隣の住民からは朝鮮人として罵倒を受ける体験をした。5日目には釈放されたが、長谷川如是閑の忠告に従って父のいる門司へ避難した。10月上旬には東京へ戻り、被災した市内をスケッチして歩き、3冊のスケッチブックを残した。上野、浅草から始まり、猛火が襲った下町全域をほぼ網羅しており、記録は日本橋付近で終わっている。震災は、青年の心に大きな衝撃を与え、後年自ら伝記風にこう記した。「彼の生年?大正十二年。月日は?九月一日。全く真面目で言つてゐるのである。彼はぐうだらでありし過去の檻複をば此の日きれいさつぱりと棄てたから、関東大震災の焼土の中に。そして彼の更生使命は?組織的無産階級解放運動。」関東大震災の過酷な体験が、柳瀬をしてプロレタリア画家の道に運命づけたのである。(武居利史)
村山知義(むらやまともよし)の影響
美術家、デザイナー、演出家、劇作家、小説家など多彩な顔を持ち「日本のダ・ゲインチ」と称される。1922年にドイツに渡り、ダダや構成主義に触れ、帰国。柳瀬らと「マヴォ」を結成、パフォーマンスやダンス、『朝から夜中まで』に代表される舞台美術、バラック装飾、イラストレーションなど目覚しい活動を繰り広げ、1920年代の日本の近代美術に決定的な影響を与えた。1920年代後半から左傾化し、以降は演劇の活動に主軸を置いた。
■マブォ・三科
「劇場の三科」1925年5月30日、築地小劇場で開催されたパフォーマンス。「三科」は1924年10月にマヴォ、旧未来派美術協会、旧アクションなどの新興美術運動に関わった美術家たちによって組織され、木下秀一郎、村山知義、神原泰らとともに柳瀬も結成に参加した。「劇場の三科」プログラムには演劇、ダンス、朗読など12の演目が記載され、新聞評などから爆音や閃光に観客が驚かされる、破天荒な公演であったことがうかがえる。柳瀬は、村山、下川凹天、吉田諌言らを出演させ、『+−+−+−×÷=休日』を発表した。美術家、デザイナー、演出家、劇作家、小説家など多彩な顔を持ち「日本のダ・ゲインチ」と称される。1922年にドイツに渡り、ダダや構成主義に触れ、帰国。柳瀬らと「マヴォ」を結成、パフォーマンスやダンス、『朝から夜中まで』に代表される舞台美術、バラック装飾、イラストレーションなど目覚しい活動を繰り広げ、1920年代の日本の近代美術に決定的な影響を与えた。1920年代後半から左傾化し、以降は演劇の活動に主軸を置いた。
■演劇 漫画 ポスター
日本漫画会
1923年3月に創立された新聞漫画家に画家団体。1915年に発足した日本初の団体である東京漫画会を前身とする。画会は、漫画家の親睦と地位向上を目的東京朝日新聞の岡本一平らが結成しように漫画祭を開催し、漫画雑誌『トノ1発行して外国漫画の紹介も試みた。読売新聞に在籍した柳瀬は、東京・三越呉服店での会員展に出品し、同会主催の漫画や名流似顔漫画展(青山会館)で出品している。
清水勲『日本漫画の事典』三省堂、1989年8月、漫画柳瀬が初めて漫画を投稿したのは1916年の『美術週報』である。『我等』でカットを描き、『読売新聞』で議会漫画を描きながら、『種蒔く人』や『日本及日本人』にも寄稿して、漫画の風刺精神を養った。やがて村山知義がドイツから持ち帰る画集をきっかけにジョージ・グロスに大きな感化を受け、1929年に鉄塔書院から『無産階級の画家 ゲオルグ・グロッス』を刊行した。1925年創刊の『無産者新聞』では、無産階級の視点を明確に打ち出し、桜の枝を使った力強い筆線による独特の描法を編み出した。ウイリアム・グロッパーらアメリカ左翼漫画を研究し、国際的な視野の下で、社会変革の思想的立場にたつ漫画の可能性を切りひらいた。『無産者新聞』の仕事は、1930年の叢文閣版『柳瀬正夢画集』に結実したが、それは「この時代の一つの記念碑であり、プロレタリア漫画の代表的な金字塔」となった。1930年からの『読売サンデー漫画』に連載した「金持ち教育」は、ジョージ・マクマナスの「親爺教育」をもじった風刺漫画で、コミックという新しい分野への進出でもあった。
また、『よみうり少年新聞』では「ヂャアヂャカパン太」や「パン太の冒険」の子ども向けコミックを手がけた。これらの仕事を通じて、柳瀬の漫画表現の幅は大きく広がる。
かつて新興美術時代、柳瀬は絵画様式を「写象、漫象、没象」の3つに分けて考えたことがある。「漫象とは漫画に於ける思想内容と表現様式と漫画精神を有意識に無意識に借りてゐるもの、現代の新興派即ち後期印象派辺りからダゝイズムに到る形象画の最端までの総ては此の類型に属する」。柳瀬は、漫画を現代絵画の本質ともいうべき、世界のとらえ方の問題として考えていたようで、画家は対象となる現実がいかにしてあるかを描かねばならず、「現代の画家一般は全て漫画家でなくてはならない」とさえ、述べたこともあった。
ジョージ・グロス ドイツ出身の画家。1910年代から辛辣な社会批判を主題にした作品を、油彩、版画、写真モンタージュ、書籍の挿絵、諷刺画など多彩な手段で発表した。1923年、村山知義がドイツから帰国してもたらしたグロスの書籍に柳瀬は夢中になり、大きな影響を受けた。グロスへの傾倒ぶりは繊細な線描、重ねられた様々な異なった空間の描写などその頃の彼の挿絵によく現れている。グロスに関する文章も多く、ついには1929年11月、鉄塔書院から『無産階級の画家 ゲオルグ・グロツス』を刊行した。グロス研究を通じて、社会のうちにある小市民的要素に対峙するためであった。
■前衛座
1926年に発足した劇団。先駆座は、日本プロレタリア文芸連盟演劇部の移動劇団「トランク劇場」へと展開したが、さらに本格的な劇団を目指して佐野碩、村山知義、千田是也、佐々木孝丸らが中心となって創設されたのが前衛座であった。柳瀬も同人として参加し、同年12月に築地小劇場で行われた第1回公演『解放されたドン・キホーテ』(ルナチャルスキー作)のポスターや第2回公演『手』(前田河広一郎作)の舞台装置などを担当した。27年に分裂し、前衛劇場と改称、28年東京左翼劇場に統合された。
■『戦旗』
1928年5月に創刊された全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌。プロレタリア文化運動を推進した中心的雑誌である。創刊号には、蔵原惟人の評論「プロレタリア・レアリズムへの道」が掲載され、小林多喜二「一九二八年三月十五日」「蟹工船」、徳永直「太陽のない街」、壷井繁治「兵営へ」、村山知義「暴力団記」などプロレタリア文学の代表的作品が生まれた。部数増大に伴って政治的宣伝・啓蒙の色彩が強まり、1930年9月に芸術運動機関誌として新たに『ナップ』が創刊されたが、1931年12月、弾圧のため発行不能となった。
■柳瀬正夢とグラフィック
1920年、柳瀬は読売新聞に入社し、紙面に政治家の似顔絵や諷刺画を描いた。その後、『日本及日本人』や『種蒔く人』の挿絵や表紙などを手がけ、『現代画家番付』僕術倶楽部、1924年)には岡本一平、北沢楽天らとともに漫画家として名を連ねた。柳瀬は1924年頃から『文芸戦線』などでグロスに影響を受けたと思われる漫画を多く発表し始める。柳瀬は震災前にアメリカの雑誌『TheLiberator』でグロスを目にしており1、1929年には『無産階級の画家ゲオルグ・グロツス』(鉄塔書院)を著した。また、グロスの他にもウイリアム・グロッパーなどアメリカのプロレタリア漫画に影響を受けていたことが指摘されているヱ。 柳瀬は1920年代初めからジャーナリズムの世界に足を踏み入れていたが、三科が解体した1925年以降、プロレタリア美術運動に専心していく。『無産者新聞』や「全農」のポスター、雑誌『戦旗』に見られるような、エネルギーに満ちた力強いデザインが次々に生み出されていった。一方、『黒い仮面』や『義人ジミー』といった書籍の装偵などでは細やかな仕事を残しており、柳瀬のグラフィックは実に多彩である。サインは1920年代半ば頃から「夢」という字をくずしたサイン、1929年頃からはねじ釘の頭をあらわす「O」を多く用いた。
■展覧会感想
「第二章」は関東大震災に始まる。直接的には惨状を記録したスケッチブックが残る程度だが、憲兵隊に連行され五日間拘留されるなど生々しい体験は、自叙伝で九月一日こそわが誕生日だと述べるほど深甚な影響を及ぼしたらしい。これを境に柳瀬は「マヴォ」同人たちと距離を置き、ドイツの諷刺画家ジョージ・グロス(ゲオルゲ・グロッス)の強い感化の下、無産階級の視点に立ちつつ鋭くも闊達な時事漫画を描き出す(→「無題(農民の惨状)」『無産者新聞』1926 →「田中總理大臣閣下の公平な肥料分配論」『無産者新聞』1927)。
このセクションの出品作で初めて観て震撼させられたのは、《無題 Ⅲ》と仮題された大がかりなコラージュ作品(→展示写真 →作品部分 1926)。
横長が1.7メートルもあり、各種の企業債券やその広告類を全面に貼り混ぜた上に、グロテスクな裸形の人体群を水彩で描いた奇怪な問題作だ。残念なことに本展ではこの重要な大作に関しては展示キャプションでもカタログでも一言も解説してくれないので、作品制作の動機や意図については不明のままだが、そのインパクトは名状しがたくも強烈そのもの、作品の前で暫し茫然と立ち尽くした。
諷刺漫画家としての柳瀬の面目が躍如とするのは、讀売新聞漫画部スタッフとして描いた夥しい数の漫画である(原画も少なからず残存する)。とりわけ日曜版附録に連載したカラー漫画に彼の端倪すべからざるセンスと作画能力とが看取されよう(→「運藤爲太一家の迎春」1931)。
彼には典型的なプロレタリア美術としての宣伝ポスター(→「讀メ! 無産者新聞」1926、 →「五万の讀者と手を握れ 全民衆の味方 無産者新聞を讀め!!」1927)や雑誌表紙もあるが、今日の眼からみるとプロパガンダの手法が如何にも類型的で暑苦しく、流石に時代の限界を感じさせる。
もうひとつ、この時代の柳瀬と凡百のプロレタリア美術家とを分かつ決定的な作品がある。同じく讀賣新聞に連載されたルブラン作(松尾邦之助訳)活劇小説に寄せた挿絵がそれだ(→「真夜中から七時まで」1932)。小さな画像では委細が伝わるまいが、新聞挿絵の現物は海外の写真を巧みに貼り混ぜたコラージュ=フォトモンタージュ作品であり、柳瀬は同時代のハウスマン、ハートフィールド、あるいはモホイ=ナジらの先例を咀嚼して、秀逸なオリジナルに仕立てている。異質なイメージを衝突させつつ統合する能力は驚嘆に値しよう。
ここで言い添えておくなら、柳瀬正夢というと真っ先に想起されるサイン代わりの「ねじ釘」マーク(→これ)は、この「第二章」の時代に挿絵や装画の片隅に初めて登場する。彼は「夏川八朗」なる別名も好んで用い、しばしば「8RO」と署名するのだが、その場合「8」を上下に「ねじ釘」マークを二つ連ねた形で記しているのに気づいた。このマークによほど愛着があったに違いない。