東洋の思想(岡倉天心の書より)
編者 大久保喬樹(おおくぼたかき)
序章 理想の広がり
①アジアの一体性
アジアは一体なのだ。ヒマラヤ山脈をはさんで東西に分かれる中国とインドといぅ二つの強大な文明それぞれの性格ほ、一方は孔子(儒教)の説く共同体主義に、他方はヴエーダ(古代インドの聖典)哲学の説く個人主義に示されるように、際立って対照的だが、それでも、こうした民族的隔たり、差異を乗り越え、究極的、普遍的な真理に到達しようとする幅広い精神の動きが、雪をいただくヒマラヤ山脈の障壁にもさえぎられず、一瞬たりとも途切れず流れつづけているのだ。この究極、普遍の真理への憧れこそはすべてのアジア民族が分かち合う共通の思想遺産であり、この憧れから、(仏教、イスラム教、キリスト教など)あらゆる世界的大宗教が生み出されることになったのだ。そしてまた、そこにこそ、地中海あるいはバルト海海洋民族(ヨーロッパ諸民族)のようにひたすら個別的な事柄にこだわり、人生の目的よりは手段ばかりを探し求める民族とほ根本的に区別されるべきアジア諸民族の本領があるのだ。
イスラムによって征服されるまでは、(インド)ベンガル沿岸の勇猛果敢な船乗りたちは、昔から続く海の道をたどってセイロン(スリランカ)、ジャワ、スマトラにまで植民地を築き、ビルマ(ミャンマー)、シャム(タイ)の沿岸民族と混血してアーリア民族の血統を広めてきた。さらには中国にまでも到達し、そのおかげで、中国とインドとは相互に交流し、固く結びつけられることになったのだった。
②アジア諸民族を結ぷ共通のネットワーク
アジアが一体だということは、いいかえれば、アジア諸民族がひとつの強力なネットワークを形作っているということなのだ。今は何事も分別、分類してしまう時代であるために、私たちは、指標というものが、結局、大海原を区分けしようとしてつけられた目安のようなものにすぎないこと、(判断を単純容易にするため)便宜的に作り出され、権威づけられた偽りの神々であることを忘れがちだ。そんな指標などというものは、ちょうど、本来交換可能なふたつの学問がそれぞれ別個に独立したものとして分類されているのと同様で、絶対的なものではない。
(インドの)デリーの歴史をたどると、いかにタタール(モンゴル)族が彼らの文化をイスラム世界に刻みつけたか、その跡がまざまざとうかがわれるが、一方(イラクの)バグダッドとその偉大なサラセン(アラブ)文化の物語には、ペルシャ(イラン)および中国の文明、芸術を同化吸収して、塊中海沿岸のフランク族(ヨーロッパ)諸国に対し誇示してみせるセム族(アラブ、ユダヤ等西アジア諸民族)の力が、同じように雄弁に語られている。アラブの騎士道、ペルシャ(イラン)の詩歌中国の倫理、インドの思想、これらすべては、古代アジア世界を満たしていた唯一晋遍の平和理想を物語っているのだ。この唯一普遍の平和理想からアジア全体に共通する暮らしが育っていったのであり、やがて、それぞれの地域に応じて異なった特徴をもつ文化が花開いたとしても、そこに確固たる境界線などはないのだ。
あの独特なイスラム文化にしても、見ようによっては、馬にまたがり、剣を手にした儒教であるとみなすことができる。ということは、逆に、黄河流域に古くから栄えた共同体主義(儒教)のうちにも、イスラム民族の著しい特徴である騎馬文化的な要素の痕跡が認められるということでもある。また西方から東方アジアにふたたび目を転じるなら、仏教-あらゆる東アジアの思想の河が流れこむ偉大な理想主義の大海-を彩っているのは、(インド)ガンジスの聖なる水ばかりではない。そこにはタタール諸民族の文化も加わって、新たな象徴、新たな組織、新たな献身のエネルギーを注ぎこみ、信仰の富をより豊かなものにしたからである。
しかしながら、こうした複雑なネットワークをまとめあげ、アジアの一体性を明確な姿に実現してきたのは日本であり、それこそほ日本に与えられた大いなる特権だった。インド、タタール双方の血を受け継ぎ、これらふたつの源泉から豊かな効 能を汲みとることによって、この民族は、アジア的精神のすべてを体現することになったのだ。一度として絶えたことのない皇統という比類のない誉れ、かつて外からの侵略を許したことのない民族としての誇り高い自尊心、島国としての孤立を守り、国外への膨張をつつしむことによって先祖伝来の理念、本能をそのまま守ってきた伝統性、こうした特性によって日本はアジアの思想、文化の保存を委託される貯蔵庫となってきた。
終章 展望
③アジアの伝統的ライフスタイル
アジアは単純簡素な暮らしを伝統としてきたが、それは、蒸気と電気に導かれて 発展してきた今日のヨーロッパと比べても、少しも恥ずかしくないものだ。昔なが らの商取引の世界、職人や行商人の世界、村の市場や祭日に立つ市の世界「小舟が 土地の産物を積んで大河を上り下りし、どの宮殿にも中庭が.あって旅の商人が織物や宝石をならべ、深窓の美女たちが品定めし、買い求めるといった世界はまだまっ たく死に絶えたわけではない。その形は変化するかもしれない。しかし、もしその精神が滅んでしまうのを見過ごすようなことがあれば、それはアジアにとって大変な損失となる。なぜなら、長年月にわたって築き上げられた工芸、装飾芸術の一切がこの精神のうちに保存されてきたからであり、万一これが失われるようなことがあったら、アジアは、見事な制作物を失うばかりでなく、それらせ作りだした職人の喜び、その個性的な感性、幾世代にもわたって手仕事により培われてきた人間性などの一切を失うことになるに違いないからである。自分の手で織った着物に身を包むということほ、自分自身の家に住まうこと、精神にそれ自身の領分を創りだしてやることにほかならない。
たしかに、アジアは、時間を征服しょうと血眼になって邁進する鉄道からもたらされるような激烈な喜びというものは知らないできた。しかし、アジアには、巡礼や遊行僧など、はるかに奥深い旅の文化というものが今なお生きている。インドの修行者は村の主婦たちに食べ物を乞い、夕暮れ時になるとどこかの木の下に座って土地の農夫とおしゃべりしたり紫煙をくゆらせたりする。これこそは真の旅人ではないか。彼にとって田舎というものは単に山とか川とかの自然の地形だけから成り立っているのではない。田舎というのは、土地の風習や組織、人間的要素や伝統が結びついてできあがったものであり、たとえわずかな間であったとしても共に人生行路の喜びや悲しみを分かち合った友の心の優しさや友情にあふれているのである。日本の田舎人も、旅に出れば、道中、名所を訪れた折りには、かならず、発句(俳句)という短い詩を残していく。この発句は、どんな庶民にも手の届く芸術形式なのである。
このような経験を通じて、東洋的な個性というものは培われていく。それは、成熟し、生き生きとした知識であり、力強いと同時に思いやりのある人間性、その思想と感情が調和したありかたである。そして、また、このような交流を通じて、東洋的な人間関係というものは築かれていくのだ。それは、印刷された指針のようなものではなく、真の文化なのだ。
④アジアの伝統的精神文明の自覚
ア ジアの思想、科学、詩、芸術の秘められたエネルギーはこうしたところにあることを自覚しなければならない。伝統から引き離され、その民族性の本質である宗 教生活が衰退してしまうようなことがあれば、インドは、卑しく、インチキで、新奇な事柄はかりをあれがたがるようになってしまうだろう。中国も、精神文明 の代わりに物質的問題にばかりかまけているなら、古来の威厳と倫理を失って死の苦しみにもだえることになるだろう。この威厳と倫理があったからこそ、かっ て、中国商人が口にしたことは西洋の法的契約に等しい重みをもち、中国農民は繁栄の代名詞であったというのに。そして、アマ(天)の民族の祖国である日本 も、、その霊性の鏡の清らかさが曇り、魂の剣が鉄から鉛に劣化するようなことがあれば、全面的な破滅の姿をさらすことになるだろう。そうである以上、今 日、アジアの課題は、アジア的様式というものを守り、再建することなだが、そのためにほ、まず、こうした様式をしっかりと認識し、その自覚を高めなければ ならない。なぜなら、過去の影妄が未来を約束するものとなるかちだ。どんな木も、もともとその種に含まれた力以上に大きくなることはできない。生きるということは常に自分自身に立ち戻るということなのだ。
⑤ だが、今 日、押し寄せてくるおびただしい西洋思想に私たちほとまどっている。言うならば、ヤマトの鏡は曇らされている。日本は、維新によってたしかに過去に立ち戻 り、そこに必要とする新しい活力を求めようとしている。あらゆる真正な復古というものがそうであるように、この維新は新たな、異なったものをはらんだ回 帰なのである。足利時代に自然に対する献身として始まった芸術は、いまや、民族に対する献身、人間自身に対する献身となったのだ。私たちは「自分たちの歴史の中にこそ未来の秘密が隠されていることを本能的に知っているのであり、その 糸口を見出そうと懸命に模索を続けている。しかしながら、こうした考えが正しく、私たちの過去にこそ再生の契機が秘められているとしても、まずは、現在の 状態に強力な補強をはかることから始めることが必要だと認めなければならない。なぜなら、近代社会の卑俗さが灼(や)けつくような激しさで人生と芸術の喉をからからにしているからだ。
私たちは、今、闇を切り裂く稲妻のような剣の一振りを待ち望んで いる。なぜなら、その一振りにより重苦しい沈黙が破られて、新しい活力の雨が大地を蘇らせ、そこから花々が咲きだし、見渡す限り埋め尽くしてくれなければ ならないからだ。だが、その大いなる呼び声は、アジア自身から、民族古来のありかたにのっとって聞こえてこなければならない。
内からの勝利か、さもな くば外からの圧倒的な死か。
⑥ 八世紀の日本の文献ほど広汎な綜合の材料を提供するものはありません。日本の文献が、失われてしまったモデルを忠実に写しているのか、それとも作り変えているのか、それはわかりませんが、いずれにしてもこれらの文献は日本文化の特質をよく表しています。それには二つの面があります。日本は均質性の比較的高い一つての民族、一つの言語、一つの文化を形成していますが、それに加わった要素は様々であったに違いありません。ですから日本はまず出会いと混和の場所だったのです。ところが、旧大陸の東端というその地理的位置や、何度も繰り返された孤立のために、日本はまた一種のフィルターの役割も果したのです。別の言い方をするなら、蒸溜装置ランビキのようなもので、歴史の流れに運ばれて来た様々な物質を蒸溜して、少量の貴重なエッセンスだけを取り出すことができたのです。借用と綜合、シンクレティズム(混合)とオリジナリティ(独創)のこの反復交替が、世界における日本文化の位置と役割を規定するのにもっともふさわしいものと私は考えます。
(レブィストロース「世界の中の日本」)