鎌倉からのびる道

■東国のかたち・・・鎌倉からのびる道

▶︎東と西の同時侵攻

 文治5年(1189)から翌6年にあいつぐ奥羽合戦を通じて、源頼朝の軍事的テリトリーは津軽半島の外が浜(そとがはま)に達した。外が浜を含む津軽四郷地頭職(じとうしき)を最終的に獲得したのは、北条義時である。外が浜は中世日本の東境と認識される、まさに東国最奥の地であった。

  これより先、文治3年末から翌4年にかけて、頼朝の近臣である天野遠景(とおかげ)と宇都宮信房の軍勢が喜界島(きかいじま)に攻め入り、そこを占領する事件が起こっている。喜界島といえば、現在の南九州沖に連なる諸島を指し、津軽外が浜の対極に位置する中世日本の西の境界だ。

 挙兵前夜に安達盛長がみたという夢は、こうして12世紀末期内乱の終息とともに、現実のものとなったかのような筋立てである。頼朝は内乱を通じて、東西に長い中世の「日本国」をその武的支配下に置いた、という積極的な評価を与える歴史家も少なくない。

 かつての歴史叙述といえば、平氏を滅亡させたあとの頼朝軍が、義経の逃亡劇を媒介に奥羽へ侵攻する流ればかりを重視してきた傾向が強い。しかし、中世日本の西と東(現在の日本列島では南と北)の境界地域ではぼ同時に起こされた二つの軍事行動を有機的に結びつけて分析する視角は、もはや不可欠のものになりつつある。

 ただし、文治5年までに頼朝の軍事的権力が中世日本を均質に覆ったわけではもちろんない。東国と西国とのあいだには、頼朝との政治的関係で厳然たる質的な差異が横たわったままである。

▶︎東国の自律と負担

 文治6年(1189)から建久元年(1190)に改元が行われるころまでに、東国と西国の境目ははぼ越後・信濃・三河以東に線引きされる。頼朝の軍事政権はこの巨大な征服地を学んだ泡沫的な東国の枠組みを固めることに腐心しつづけねばならなかった。

 しかも、その枠組みとは、文治4年6月に頼朝が春秋の彼岸と鶴岡八幡宮の放生会期間中に東国で殺生を禁断することを決めた際も、諸国にそれを宣下してもらうため朝廷に奏聞(そうもん・天子に申し上げること)する必要があったように、京都との切れざる関係性のうえに成り立つものである。

 10年におよぶ内乱を経てなお、東国という広域空間の軍事的な制圧を持続的に担保したのは、戦争にもとづく敵方所領の占領とその法的追認、そして朝廷の国司制度に依拠した知行国支配である。前者は地頭職の設置、後者は関東知行国にあたる。

」という言葉には過去の人物が持っていた土地や屋敷などの財産、地位や業績などの意味を有しており、鎌倉時代には「本司跡」・「謀反人跡」・「父祖跡」などその所職・所領が持つ性格や履歴を示す場合があった。鎌倉幕府はその成立期に御家人に対して給付・安堵した所職や所領のその後の変動(相続・分割・譲渡など)の情報を必ずしも全て掌握している訳ではなかったため、かつての所有者の「跡」を単位として御家人役を現時点の所有者に対して賦課したのである。

 これ以外にも頼朝は、寿永2年(1183)10月宣旨の内容にもとづき、東国のなかで謀叛人跡ではない便宜の荘園を自主的に知行する権利を認められていた。頼朝らはそれを「自然知行」と表現して、荘園の現地経営と年貢物の納入を請け負った(五味文彦氏、高橋裕次氏による)。なかには、年貢などの納入先(御倉)や納入方法ルール(済例)を承知しないまま知行し、京都の荘園領主側とトラブルになった例も少なくない。

知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。日本の歴史上の領主はヨーロッパの農奴制における領主のように無制限に所領の土地と人民を私有財産として所有したのではなく、徴税権・支配権にかかわる一定の権利義務の体系を所持した存在であった。この体系が知行であり、日本史における領主階層のあり方を理解する上で、知行の概念の理解は欠かせない。

 一方、上野国御家人である高山・小林氏の申請により、幕府が荘園領主と交渉して一定額の年貢納入を条件に現地支配を一手に委託された高山御厨のようなケースもある(『吾妻鏡』)。東国武士が御家入を条件に現地支配を一手に委託された高山御厨のようなケースもある(「吾妻鏡」)しく東国武士が御家人となったことによる所領支配上のメリットといってよい。

没官領【もっかんりょう】平安時代後期以降,謀反(むへん)・大逆(たいぎゃく)など国家反逆罪を犯した人物から,付加刑として官に没収された所領。 律では田宅・資財の没官と規定され,土地(所領)には限られていなかったが,平安時代後期以降は所領が主な対象とされた

 没官領(もっかんりょう)と自然知行、あるいは知行国支配を通じて、東国に所在する公領や荘園の大半は幕府の影響下におかれたとみて間違いない。それは頼朝による武士や京下りの官人たちへの所領安堵・給与の原資となり、幕府にも一定の収入を生み出す一方で、首都の貴族社会に対して官物や年責等の納入義務を負うものであった。

 頼朝の責任のもとに、個々の荘園ごとに地頭が年貢を京都へ送るにせよ、鎌倉を公納物が経由するせよ、そうしたある種の契約関係が東国という空間に即して、かつ源頼朝の軍事組織を構成要素に成り立っているところに、それまでにない歴史的特質がある。

 内乱後の東国という空間認識は、京都や畿内近国をはじめとする東国以外の地域との人やモノの移動のあり方によって強く規定されている。それゆえに東国は自立的に閉じた空間としては存立しえず、絶えず京都以下の西国との交通体系を維持・改変して再生産する宿命を背負っていた。内乱を勝ち抜いた頼朝が東国の枠組みを固めていくプロセスで、京都との交通路整備に意を傾けたゆえんである。

 とりわけ重要なのは、京都・畿内近国と東国をつなぐ東西交通の基幹ルートから外れていた鎌倉を核に据える新たな交通網の構築であった。その一貫として、平氏滅亡後、奥羽合戦の前後から頼朝自身がかかわった象徴的な行動として、文治4年正月にスタートする二所詣に注目しよう。

二所詣(にしょもう)・・・鎌倉幕府の将軍が毎年正月恒例の行事として伊豆国伊豆山権現 (→伊豆山神社 ) と相模国箱根権現 (→箱根神社 ) に参詣したこと。 二所参詣ともいう。 源頼朝の二所権現崇拝に始る。

▶︎二所詣のコース変更

 二所詣とは、走湯山(伊豆山)と箱根の両権現に三嶋社を加えた三社に、頼朝が数多くの御家人からなる随兵を連れて参詣する行事だ。最初の二所詣では、精進潔斎を行い鎌倉を発った頼朝の行列が走湯山〜三嶋〜箱根の順で三社を参詣した。

 ところが、平泉藤原氏を倒した翌年の文治6年正月からは、箱根〜三嶋〜走湯山のルートに変更された。その理由は『吾妻鏡』によると、鎌倉から走湯山に赴く途中の石橋山に頼朝が立ち寄ることを避けるよう、参詣を引率する先達が進言したためという。

 文治4年に開始された当初の二所詣の行列は、鎌倉から相模湾岸沿いに西を進み走湯山のある熱海にいたるコースを採用していた。これをわざわざ変更して、箱根権現から三嶋社に進むコースを優先した背景には、前年末に後白河院とのやりとりで文治6年後半の上洛を決めていた頼朝にとって、鎌倉から箱根越えを経る東西ルートをみずから率先して定着させようとする意図があったのではないか。

▶︎駿河以西の交通路整備

 その前提をなす交通路の整備もすでに動き出していた。源頼朝は文治元年11月に東海道の駅路について指示を出し、文治3年3月には、美濃守護の大内惟義による美濃国内での新しい宿駅の建設申請が許可された。文治五年十月にも、手越平太家綱(てごしへいたいえつな)の求めに応じて、駿河国麻利子(現在の静岡市駿河区丸子)を所領として浪人を招き寄せ、やはり新しい宿駅をつくる計画が進められている(『吾妻鏡』)。

 手越という名字は、丸子の東方的1kmに位置する駿河国手越宿を連想させ、おそらくは手越宿の長者が内乱の過程で頼朝の御家人となったものであろう。

 駿河・遠江の御家人には、このような宿の長者が多く含まれ、かれらとその拠点を編成することによって、この地域の主要な陸路、すなわち中世の東海道を鎌倉が再編成していったとされる(高橋典華氏による)。

 中世の東海道は、古代官道を踏襲した自明のものではなく、また既存の宿駅を結び直すだけでもなく、駿河以西で重点的にみられる宿駅の新設を含めて、内乱以後から新たに生み出されたものといってよい。とくに鎌倉側の焦眉の課題としては、最初の二所詣で三浦義澄が浮橋を用意したという相模川の西側と東側との接続を含めて、鎌倉と伊豆を結ぶルートをどのように設定し日常化させるか、にあったはずだ。

 駿河以西の宿駅新設と二所詣の順路変更・固定とが、本来一体的な整備計画に沿って構想されたか否かはわからない。しかし結果として、これら文治年間を通した二つの動きは、建久に改元された直後の頼朝本人の行動により接続されることになった。

 内乱時に伊豆と駿河の国境を流れる黄瀬川(きせがわ)までしか西に進まなかった頼朝が、多くの御家人たちを従えて総勢1,000人にもおよぶ行列をかたちづくり、鎌倉を発して京都に進んだからである。鎌倉から相模国の懐島宿(ふところじましゅく・現在の神奈川県茅ヶ崎市)まで連なったという行列の人の波が、西へと移動しながらひと筋の陸路を浮かび上がらせつづけたであろう。

 建久元年の頼朝上洛は、12世紀末期の内乱を経て中世の東海道を整え、さらに定着をはかるうえでの一大事業となった。つづく建久3年に国ごとに駅屋の奉行を定め、同5年に駅屋ごとに早馬と公的物資の運送にあたる人夫を常置させており(『吾妻鏡』)、頼朝の意気込み御家人たちの意識と行動を強く律したものと思われる。

▶︎前右大将家

 建久元年(1190)11月上旬に京都へ入った頼朝は、後白河院や後鳥羽天皇、さらに九条兼実と面会し、権大納言そして右近衛(うこのえ)大将に任じられ、翌12月初め両官を辞したのち中旬には京都をあとにした。鎌倉への帰着は建久元年末で、約2週間の行程である。

 後白河院のもとめる今回の上洛によって、頼朝は権大納言と右大将という前官を得ることとなった。京都の貴族社会にも一定の地歩を保ちつつ、頼朝は武官の最高峰にある左大将に次ぐ右大将の前任者という権威基調して、鎌倉に設置した自身の家政機関である政所を「前右大将家政所」にあらためた。その政所をはじめ、問注所・侍所などの職員や京都守護、鎮西(ちんぜい)奉行などが任命しなおされたことも特筆されよう。

 これを機に、御家人などに所領を与える証書を頼朝個人の文書から「前右大将政所」が発給する下文に変更することが打ち出され家という機構を介した支配方式への刷新をめざしたのである。

▶︎都市鎌倉の発展

 幕府の機構整備にかぎらず、文治から建久に改元されるまでの数年間に、鎌倉は都市としての性格を急速に高めた

 

 頼朝が鎌倉に入り邸宅大倉邸)の築造にとりかかったのは、治承4年(1180)10月のことであったが、はぼ同時に開始される鶴岡八幡宮の移建につづき、元暦元年(1184)11月には亡父源義朝の菩提を弔う勝長寿院の造営が始まり、鎌倉における大規模年土木工事の嚆矢(こうし・物事のはじまり)となった。平泉藤原氏との戦争からもどった文治5年末にも、平泉にあった寺院を模して二階建ての永福寺(ようふくじ)を建立し始めている。平泉侵攻にともなう死者の供養が目的という。

 

 頼朝軍の入部前後における鎌倉の都市的軸線が、六浦道などの東西方向に走るストリートによって規定されていたことはすでにふれたが、鶴岡八幡宮の現在地への移建をうけて、寿永元年(1182)3月には同宮と由比ケ浜を結ぶ参詣道(さんけいみち)が修築される。のちの若宮大路(おおじ)で、東西道路と交差する南北方向のストリート敷設の端緒となった。

 こののちしばらく内乱の激化と広域化によって、鎌倉のインフラ整備は停滞を余儀なくされたらしい。しかし、平氏滅亡後の文治年間に入り、南関東を中心とした有力御家人たちが鎌倉に宿所を続々と構える状況ともあいまって、再び道路整備が活発化する。

 『吾妻鏡』によると、文治4年前後に集中して、梶原景時や八田知家などの有力御家人が犯した失態の代償として、鎌倉中の道路を造ることがしばしば頼朝から命じられている。のちに若宮大路の側溝 東国のかたち溝を修築したとき、決まった長さを区切って複数の御家人たちに割り当てる方式が採用された。そこから類推すれば、大名クラスの景時や知家には単独で小路レベルの道路整備にあたらせたのであろう。文治元年に京都の六条八幡宮が造営された際、堂舎ごとに景時や知家ら大名たちに賦課された例も参考となる。

 都市鎌倉の道路建設が文治年間から加速する背景には、頼朝の意向で林立しはじめた大寺社での儀礼参加とのかかわりもあったはずだ。

 頼朝が最初に意を注いだ勝長寿院の落慶供養は文治元年10月で、そのセレモニーに参列する頼朝と御家人たちの行列は、以後の定型化した幕府行列の先例となった。それは、鎌倉殿を推戴した御家人たちの政治的関係を行列内の配置で明示し、行列に参加する者と行列を見る者のいずれにも可視化したデモンストレーションであった(滑川敦子氏による)。

 鶴岡参詣なども加わり頻度を増していく、そうした鎌倉内での幕府行列と行進を成り立たせるためにも、都市としての鎌倉の道路網整備は急がねばならなかったと思われる。12世紀末期の鎌倉はその意味で、中世東国の「首都」としての機能を強く意識しながら、都市的発展を遂げつつあった

▶︎頼朝と巻狩り

 建久2年もその延長線上にあると思われた3月初め、鎌倉は思いがけず大火に見舞われ、幕府はおろか鶴岡八幡宮と若宮などが一気に焼失してしまう。

 数日後に都市の再建は開始され、冬にはほぼ建築物の復興が成し遂げられた。そこに後白河院不予の報せが届いたのは年末も押し迫ったころで、翌3年3月に後白河死去する。頼朝の服喪は5月までつづいた。

 内乱後初の上洛から鎌倉にもどった頼朝は、建久3年前半まで雌伏(しふく・将来に活躍の日を期しながら、他の下に屈従すること)を余儀なくされた。ところが6月に頼朝は征夷大将軍に補任され、遅くとも8月からは「将軍家政所」の下文を大量に発給しはじめる。頼朝が花押を据えて発給していた下文との差し替えは、実質的にはここから実現していくようだ。

 頼朝は鎮守府将軍に任じた祖先源頼義の先例を勘案して、「大将軍」への任命を望み、朝廷側の検討結果として征夷大将軍が選択されたらしい(櫻井陽子氏による)。後世の歴史家が云々するはど、当の本人は「征夷」にこだわりはなかったようだ。

 しかし、後白河の一周忌があける同4年夏から、征夷大将軍を辞する建久7年前半までの丸3年間は、東国内部の骨格をかたちづくるべく、頼朝みずからが奔走したことも事実である。

 建久4年の3月から5月にかけて、頼朝が満を持して仕掛けた最大のイベントは、信濃の三原野、下野の那須野、そして駿河の富士野で行われた3カ月におよぶ巻狩りである(木村茂光氏による)。

 まず、三原野那須野の巻狩りは、武蔵・上野・信濃・下野・常陸御家人を動員しつつ、そのなかから卓越した弓馬の技術をもち、頼朝への忠誠心に抜きんでた22人の武士を選んで、かれらにのみ弓箭(きゅうせん・弓矢で戦うこと)を帯びて武装することを許した点に特色がある。

 他の大多数の御家人たちは、頼朝に選抜された武士たちによる狩猟の実演を見せつけられる観客にも似た存在にすぎない。頼朝はあえてそうすることで、射手となったか否か問わず、参加した御家人たちの忠誠心に火を付けようとしたのである(高橋昌明氏による)。

 那須野巻狩りからわずか百後に芳された富士の巻狩りでは、動員した伊豆と駿河の御家人以外にも多数の武士たちが狩猟へと参加するなか、著名な曽我兄弟の敵討ち成功するなど戦場の緊張感が漂い、狩り場は異様な雰囲気に包まれた。

 もともと巻狩り狩猟をとおした軍事訓練だが、そこに多くの御家人を巻き込む実戦が起きたことで、頼朝が意図したかどうかは不明ながら、御家人たちの動揺は富士野の外側にも広がり、遠く常陸の御家人粛正や大掾家の勢力後退を招くこととなった。

 立てつづけに行われた三つの巻狩りは、坂東八カ国とそれ以外の地域をつなぐ出入り口にあたるエリアで催された。このことから、建久4年の巻狩りは、頼朝がその支配領域を誇示した政治的示威との評価がある。

 だが、挙兵以来の頼朝軍を担ってきた南関東の一部の武士団が、坂東八カ国の全域掌握した時期はあったものの、それほ過渡的な状況にすぎない。建久年間にいたる最終段階での頼朝の政治的・軍事的テリトリーは、さらに広範囲におよんで中世の東国を構成しており、坂東八カ国はその部分なのである。

 三原野・那須野・富士野が交通の要衝であることは確かだが、巻狩りが挙行きれた時期にそれらは「頼朝の支配領域」の境界ではない。坂東八カ国を均質な頼朝の軍事政権の基盤とする歴史的見方の産物は、もはや清算しなければなるまい。

▶︎巻狩りにみる政治目的

 巻狩りが行われた国々とそこに御家人が動員された国々について、内乱とのかかわりから、東国全体のなかでその地域的な性格を考えてみよう。すると、それらは本書が提唱してきた南関東の「環状線」をなす国々の外側を取り巻く、特定の地域であることに気づくはずだ。

 図式的に表現すると、問題の地域は、頼朝の軍事的テリトリーにいわば二次的に組み込まれた部分にあたる。治承から寿永にかけて、頼朝に対抗しうる軍事貴族が勢力を後退させたあと、軍事占領せずに同盟関係を含めて頼朝軍に参入してきた武士たちの本拠地が連なる地域なのである。さらにその外側には、頼朝やその忠軍な代官が軍事侵攻した越後などの北陸道地域と奥羽両国が拡がっていることはいうまでもない。

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 10年余にわたる内乱のプロセスに規定された東国の成り立ちでみると、建久4年の巻狩りは、鎌倉を中心とする三重円のうちBの部分で集中的に行われた。とりわけ信濃・下野・上野・駿河で頼朝本人は戦闘を行った経験がない。小山氏や新田氏、あるいは甲斐源氏や一部の信濃源氏などの武士たちと頼朝との人的な紐帯(ちゅうたい・二つのものを結びつけて、つながりを持たせる、大切なもの)が、かれの版図をなす東国の一定部分を支えてきたのだ。

 逆にいえば、北関東の東山道は源義仲らの影響力が排除され、「敗者の道」として頼朝の勢力下に入ったが、現地武士の多くは温存されていたのである。

 軍事演習としての巻狩りが内乱直後にそうした地域を選び、征夷大将軍となった願朝によって率先して挙行されたことにこそ意義がある。このような背景を理解してこそ、参加した御家人たちの忠誠心を煽るパフォーマンスや演出、さらには頼朝が上野国にある新田義重の館にわざわざ立ち寄った意味も浮かび上がってくるだろう。

 そのうえで、むしろ注目したいのは、鎌倉から巻狩りに向かう頼朝たちの移動プロセス自体である。

 『曽我物語』諸本の叙述や小代行平置文などの史料から、頼朝らの移動行程は、おおむねつぎのように復元できる。

鎌倉(相模)→ 関戸(武蔵)→入間野(武蔵)→入間川(武蔵)→大倉(武蔵)→児玉(武蔵)→山 名(上野)→松井田(上野)→碓氷の南坂(上野)→信濃・三原野

 頼朝はこれらの宿駅で、それぞれ武蔵・上野・信濃の御家人たちを警固のために動員し、御家人の参否をチェックしたという(山本隆志氏による)。

 ところが、三原野の巻狩りを終えて下野の那須野に移動する際は、右のルートから武蔵北部の比企(ひき)郡で下野方面に分岐する陸路を通りながら(斉藤慎一氏による)、上野国の坂鼻宿(いたはなしゅく)をはじめとして、御家人を警固のために招集した形跡はない。

 宿駅への御家人の動員は、鎌倉から信濃までの経路に限定された処置であり(木村茂光氏による)、そこには巻狩り自体の政治的目的ともかかわる特定の意図があったはずだ。

 鎌倉を発した頼朝らが信濃の三原野までたどった右のルートは、鎌倉時代には「下道(しもつ道)」・武蔵路(むさしみち)などと呼ばれ、後世には鎌倉街道上道(かみつみち)といわれることになる陸路である。

 鎌倉から武蔵府中を通って西武蔵、西上野を北上し、徐々に西側へカーブして碓氷峠から信濃に抜ける、関東平野の南北縦断路といってよい。同様に上野と武蔵を南北方向につなぐ陸路は、古代の東山道武蔵路に系層するルートもある。しかし、「下道」はそれを踏襲せず、より西側を通過していく。

 東山道武蔵路の途上には、武蔵国最大の武士団である秩父平氏の有力武士で武蔵国府にも影響力をもつ河越重頼(かわごえしげより)の館などが立地するものの、「下道」はそれを避けているのだ(落合義明氏による)。これは重頼の謀殺および比企尼女子(河越尼)所生の童貞への家督継承による河越氏権力の換骨奪胎(すでにある作品を作り替えて、新しい作品を生み出す)無関係ではなかろう。

 

 12世紀半ばの秩父平氏の家督であった秩父垂隆は、上野国多胡郡に進出した源義賢を婿とし、武蔵国大蔵館に迎え入れた。秩父氏はまた、この多胡郡にも勢力をおよぼす武蔵国児玉郡の児玉党や東相模の三浦氏と婚姻関係を結んでいたこともわかっている。

 

 重隆の父重綱以来、秩父氏の家督は武蔵国府の最有力者の地位を継承した。秩父氏の重要拠点がある武蔵国比企郡の大蔵・菅谷から武蔵国府までの南北路を、かれらは足繁く往来したことであろう。

 このような秩父氏のネットワークや移動のかたちは、「下道」のルートとはぼ重なっている。秩父氏のかかわる12世紀以来の南北の交通体系をふまえつつ、鎌倉時代以降の「下道」の整備が行われたことは十分に想定されるところである。

 ただし肝心なことを忘れてはなるまい。「下道」すなわち鎌倉街道上道に収斂していく南北の交通体系と秩父平氏との関係を強調しすぎてはいけないことだ。

▶︎確立されゆく南北の道

 文治3年(1187)2月、信濃国高井郡保科宿の長者である遊女が訴訟のため鎌倉にやってきて、三浦義澄(よしずみ)邸に寄宿している(『吾妻鏡』)。義澄の兄杉本義宗(よしむね)から出る和田氏には高井姓の武士(義茂ら)がおり、三浦氏が北信濃の高井郡を本拠とした井1光盛の誅殺後に同郡地頭に補任された可能性がある。また、杉本義宗の子息である和田宗実の女子と上野国勢多郡の武士大屋秀忠との婚姻も知られる。

 

 「海の武士団」のイメージが強い三浦氏だが、北信濃の保科宿長者西上野との結びつきがある以上、三浦氏もまた相模から武蔵・上野を経て信濃にいたる南北交通にも進出したと考えねばならない。

 

 三浦氏は、頼朝将軍期に創設された御厩(みうまや)の別当(長官)を義澄・義村とつづけてつとめ、とくに義村と弟の佐原義連は、古代の官牧に系譜し内乱後に幕府が掌握した甲斐国小笠原牧遠江国笠原牧の管理にあたっていた。佐原義連の系統から奥羽合戦後に南奥の会津一帯を所領とする葦名氏が出てくることとあわせて、三浦氏と馬の関係は深く(高橋秀樹氏による)、その点からも三浦氏が内陸交通を重視した側面を明らかにする必要がある

 この点ともかかわるが、鎌倉街道上道はあくまで鎌倉を起点としており、相模の鎌倉と武蔵府中を南北に結ぶ直線的なルートが、秩父氏などの武蔵武士団によって内乱前に確立されていたといえまい。

 

 十二世紀段階のをつなぐ主要ルートは、すでに繰り返し書いたとおり、二つの国府を最短で結ぶ相模川流域の南北路であり、鎌倉はそこから外れている。頼朝も房総半島経由で武蔵国府に入ってからは、このルートを通って鎌倉にたどり着いた。鎌倉と武蔵国府の南北ルートが整備され、それを武蔵国府以北の列島縦断路と接続されて、徐々に鎌倉街道上道に仕立てられていくのは、やはり鎌倉に本拠を築き東国を版図と成しえた頼朝以降の強い意志がはたらいている

 

 信濃三原野巻狩りに向かう頼朝一行がこの鎌倉街道上道を通り、それに沿って本領を点在させる御家人たちに軍事的な動員をかけたのは、入間川宿のような新しい宿駅の建設を含む道路や周辺域の開発・整備(菱沼一意氏、落合義明氏による)を促しっつ、個々の武士団とそのネットワークを幕府のもとに再編・強化する軍用道路としての上道を確立させようとする(川合康氏による)、最初のデモンストレーションであったといえよう。

 なによりそれは、前述のような三重円によってモデル化される東国に、鎌倉から南北に貫く主要ルートを意識的に構築するものであった。東西交通に強く規定された内乱の勃発時との対比でいうと、奥羽合戦で鎌倉を起点とする南北交通を組み込んだ東国内の進軍ルートが組織的に実用され始め、建久4年の巻狩りに向かう移動がそれを体系化していく第一歩となる。

 

 そして、建久8年に頼朝が多数の御家人たちを引き連れて鎌倉を発ち、やはり「下道」を利用して信濃の善光寺に参詣するなど、軍事面以外にも頼朝が繰り返し往復することで、「下道」のような南北交通ルートの整備と定着が一層はかられていく。

 

 なお、頼朝は内乱前に焼失した善光寺の再建をバックアップし、その死後は政子が頼朝後家として善光寺への信仰をつづけている。現在、甲斐善光寺に所蔵される源頼朝木像は、頼朝の死を機に政子が造像させたもののようであり(黒田日出男氏による)、頼朝像としては現存する唯一の資料ということになる。

▶︎建久年間の画期

 鎌倉を「首都」に見立てた東国の交通体系とそれを利用する人やモノの動きが、建久年間を通じて、その姿をあらわし始めた。建久元年の頼朝上洛に先立つ海道の整備開始と新たな東西交通への取り組みも、この大きな見取り図のなかに位置づけてよいだろう。

 建久年間には、京都や畿内から鎌倉の招請に応じて高僧や公家が海道を往来し、その警固や接待を太平洋沿岸の宿駅ごとに幕府が御家人へ命ずる機会も増加する。建久6年に頼朝は北条政子に嫡男頼家をともなって、大量の御家人たちとともに再び上洛している。

 建久6年上洛の目的は、内乱で焼失した東大寺の再建式典への参加大姫の入内問題をめぐる折衝などが注目されてきたが、その一方で頼家の元服や天皇との面会を通じた鎌倉殿の後継者としての認定を得る大きな狙いもあった。頼朝はそれを果たすと、帰路の海道で近江・美濃・尾張二二河・遠江・駿河・伊豆の国境付近に立地する主だった宿駅を舞台に、各国の在庁宮人や守護などを呼び出し後継者頼家のお披露目兼ねた政治行動を取った。これに終わらず、相模に入り鎌倉に戻ったのち、頼朝は武蔵の国府に対しても、国務について政治方針を示している(木村茂光氏による)。重要なのは、鎌倉帰還のあとで武蔵への指示連絡が行われていることだ。(加来耕三)

 

 建久6年の頼朝たちの行動は、京都と鎌倉を結ぶ政治道路としての東海道とその発展をアピールするにとどまらず、伊豆→相模→鎌倉→武蔵いう形式で、鎌倉がそのルート上に敢然と位置づくことを強調したかったのであろう。

 鎌倉のかなり西方で相模国府から武蔵国府に入る経路ではなく、東海道で相模と武蔵を結ぶメインルートは必ず鎌倉を結節点とし、その鎌倉と武蔵をつなぐ道筋こそ整備途上の「下道」にほかならない。このような幕府の原理原則をみずから行動する政治的メッセージに託し、新しい鎌倉殿頼家への代替わりにむけて頼朝は発したのではなかったか。

 幕府要人の往来以外にも、東海道の日常的な使用頻度は内乱以前より格段に上昇した。より局所的にみると、もともと利用されてきた相模国府以西の陸路と東相模にある鎌倉との一体化、つまり相模川より東側のルート整備が重視されたはずで、毎年恒例の二所詣がこれに一役買うことになる。建久末年に稲毛重成が新造した相模川への架橋は、そうした動きの到達点をしめす象徴的な出来事になるはずだった。

 

 二所詣に際して、三浦義澄浮橋を用意したことを『吾妻鏡』がわざわざ特筆するほど、相模川難所としてのイメージが強い。その相模川の両岸を容易にアクセスできる橋の完成は意義深く、のちに三代将軍となる源実朝はこの橋が二所詣の要路となっていることを力説している(『吾妻鏡』)。

 しかし皮肉にも、建久10年1月の橋供養に参加した頼朝は鎌倉への帰途で馬上から崩れ落ち、まなく息をひきとる鎌倉を「首都」とした東国のかたちを創出しようとする作業が緒についたばかりの突然死であった。

■北条氏の成長

▶︎鎌倉殿の代替わり

 頼朝の訃報に接した朝廷の首脳部は、鎌倉殿の地位が頼家に継承されることすんなりと承認する宣旨の発給に動いた。その中心人物は、後鳥羽1皇の近臣み齢と撃、これま一頼朝と連携してきた経緯もある。

 源通親の主導で鎌倉殿の代替わりを後押しした格好だが、こののち京都では、適馨未遂の嫌奴を受けた三人の左衛門尉、かつての京都守護妄能保の郎等たちが掃縛されるなど、不可解な事空含めて公武間に波風が立つ。

 既定躇線となっていた頼家の擁立であるが、実際の代替わりに際し鎌倉では、頼朝時代の秩序と新しい鎌倉殿に期待される変革との摺り合わせが模索されていく。その言が東国の盟主として鎌倉殿にもとめられる紛争解決の役割だ。

 頼朝の父義朝らが12世紀に東国へ進出するにあたり、地域社会で競合関係にある武士団相互の紛争を掌る役割が決定的な意味をもったといわれる(野口実氏による)。それは内乱の結果として頼朝に拡大継承されることになったが、鎌倉に持ち込まれる事案の畳も質も内乱前とは大きく異なる。なにせ御家人となった武士だけでなく、京都の公家から毒嘉届く毎日である。

 頼朝はそれに対応するべく、行政と分かちがたく結びついた裁判の仕組みとそれをよく知る人材とを、京都から鎌倉に移植する方碧早くに採った。その代表格が素平義軍朝尉撃J一階堂行政らの京↑り宮人たちである。

 なかで臭江広元は政所の別当として、鎌倉殿頼朝を中心とする幕府の意志決定に他の追随差さない影響力を有した。頼朝専決の原則とは別に、広元が頼朝の判断を経ずに雷の裁決内容導くケース