在日朝鮮人・歴史-1

■前近代の朝・日関係史

朴鐘鳴 

▶︎はじめに

 朝鮮と日本の関係は、弥生時代以前に朝鮮半島から人々が日本列島に渡来してきたことに始まり、交流は徳川末までの二千余年間続いた。一時的に、元寇や倭寇、豊臣秀吉の朝鮮侵略など、敵対的な時期もあったが、前近代の朝・日間の公的な在り方は長い間友好的であり、ほぼ平和的な関係が保たれていた。政府間の交渉がなかったり、とぎれたりした期間にも、人間の往来や、文化の交流は続けられた。

 日本では、中国文化の影響や交流を重視し、朝鮮との関係を軽視する傾向がいまだに払拭されていない。前近代の日本にとって、最も親しい国は朝鮮であり、文化・経済の交流が盛んに行われた相手国も朝鮮であったことを忘れてはならない。

▶︎ 朝鮮と弥生時代

 朝鮮では、紀元前6000年頃から櫛目文土器に代表される新石器時代が始まる。朝鮮半島で発見された新石器時代の遺跡数は約150ヶ所にものぼる。

 紀元前2000年代の青銅器時代の到来とともに無文土器文化が開花し、その分布は朝鮮半島のみならず、西は遼河流域から東は鴫緑江(アムロクカン)、中国東北地方にまで及ぶ。青銅器文化の発展は、これらの地域で村落共同体を古代国家へと発展させ、紀元前1000年紀には、古朝鮮・扶余・辰国が成立した。

 

 日本列島では、約一万年前に縄文土器に代表される縄文時代を迎えるが、朝鮮と日本の交流は、すでにこの時代にもあった。九州地方の縄文時代前期の曽畑(そばた)式土器は、櫛目文土器の強い影響下で成立したとされている。

 朝鮮と日本の交流が本格的になるのは弥生時代からである。紀元前4~3世紀頃北九州に始まった弥生文化は、稲作・金属器(青銅器・鉄器)・弥生式土器を特徴としている。この文化は、朝鮮半島から古代人たちが大量に日本へ移住して来たことによって始まった。

 従来稲作は弥生時代から始まると思われていた。しかし最近発掘された、縄文時代晩期に属する福同市板付遺跡、佐賀県菜畑遺跡、福岡県曲り田遺跡などから、水田の遺構や炭化米が発見され、これによって、稲作農耕は縄文時代晩期に北九州から始まったと考えられるようになった。

 ところで、朝鮮や日本の稲作の祖型は中国の長江下流域といわれている。日本の水田稲作の伝播経路については諸説があるが、大別して、朝鮮半島から九州北部へ、中国長江下流や江南(華南)の地域から九州北部、南部へと伝わったとする説である。

 縄文晩期・弥生時代の稲の品種はすべてジャポニカ型(短粒)である。長江下流域ではジャポニカ型とインディカ型(長粒)の両種が古くから栽培されていたので、その地域から直接日本へ伝播したのであれば、インディカ型も出土しなければならないが、その例はない。

 一方、朝鮮でも近年稲作遺跡が発見されている。例えば、ピョンヤン市の南京遺跡では、3000年前のジャポニカ型炭化米が250粒出土し、欣岩里(京畿道礪州郡)・桧菊里(忠清南道扶余郡)遺跡でもジャポニカ型炭化米が発見された。つまり、日本の稲作は朝鮮半島から伝えられたものと考えられる。それも、朝鮮の稲作にともなう諸文化の移植という形で始まった。縄文晩期の水稲耕作技術が、初期からかなり完成された形で日本に導入されたことからもそのことはうかがえるのである。

 弥生時代には、そのほかに石庖丁、有柄式磨製石剣、蛤刃石斧など朝鮮半島製の磨製石器が出土する。細形鋼剣・鋼矛・鋼文・多鉦細文鏡などの青銅器類も北九州から出土するが、それらは、紀元前1000年紀の朝鮮での細形銅剣関係文化が、日本列島へ伝えられたものである。

 また、弥生時代には古代朝鮮の領域によく見られる支石墓や箱式石棺墓などが新しく出現する。

 これら稲作・青銅器・墓制の出現は、それらの文化を身につけた数多くの朝鮮移住民たちの渡来を意味していよう。

 山口県土井ケ浜では230体以上、その他福岡県立岩・佐賀県三津永田遺跡などから出土した人骨は、面長で長身であった。吉野ヶ里遺跡でもそうであった。これらの人々は、丸顔で背の低い従来の縄文人とまったく系統の異なる人々であることから、朝鮮移住民たちだと考えられている。

▶︎ 三国時代と古墳・飛鳥時代

 三国時代とは朝鮮に高句麗(コグリョ)・百済(ベクジェ)・新羅(シンラ・伽耶も含む)が併立した時代で、日本の古墳・飛鳥時代に相当する。三国時代は、弥生時代に次ぐ朝鮮移住民たちの第二の渡来の時代と言える。

 

 この頃朝鮮では、三国間の争いが継続していた。南下政策をとる高句麗は427年、国内(クツネ)城(輯安・チュプアン)からピョンヤンに遷都し、475年には百済王を敗死させ、その首都を漢城(ハンソン・京畿道広州・コワンジュ)から熊津(ウンジン・思清南道公州・コンジュ)へと追いやった。

 

 このような激動する情勢のなかで、朝鮮から日本へ人々がやってきたのである。彼らの多くは、優れた技術を身につけていた。5世紀後半に新技術をもって渡来した人々を「今来(いまき)の才伎(てひと)」と呼んでいるのは、その一例である。「今釆の才伎」とは、漢陶部(あやのすえつくりべ)・鞍部(くらつくりべ)・錦部(にしごりべ)・画部(えかきべ)らに代表される技術者集団のことであり、その文化・技術は、すでに渡日(とにち・来)していた、王仁(わに・和適吉師・わにきし)の子孫である西文氏(かわちのふみうじ・西漠氏)や阿知使主(あちおみ)の子孫である東漢(やまとのあや)氏などに代表される文化、技術にとってかわるものであった。

 最後に日本への集団移住が行われたのは7世紀後半である。新羅・唐連合軍により660年百済が、668年高句麗が滅び、多くの人々が亡命して来た。例えば、百済の男女400人を近江国に居住させ、高句麗の人を常陸国(茨城県)に移し、武蔵国(埼玉児)に高麗(高句麗)郡を置いたことなどが記録に残っている。高麗郡には、高麗神社があり祭神の高麗若光は、この周辺の移住民たちを統率し、関東地方を開拓したことで知られている。

 日本に渡来した人々の数を、縄文時代から古墳時代に至る人口統計をもとに推定した研究によると、紀元前3〜後7世紀の1000年間に約150万人が渡来したという。年平均、数100人から数1000人の移住民が日本に釆たことになる。この説は、日本に残っている数多くの、古代朝鮮と関連する遺跡や遺物などから勘案しても、ほぼ妥当といえよう。

 これら朝鮮三国の移住民たちが、日本文化に与えた影響も大であった。3世紀末・4世紀初頭から始まる古墳時代の墓室形式は、5世紀には竪穴式石室から横穴式石室に変遷していく。この変化は、高句麗・百済の横穴式石室の影響下に、4世紀末北九州に最初に出現したものが、日本全土へと広がったことによる。

 

 石室内の構造だけでなく、最近では日本独自の墳丘型式とされている前方後円墳も、源流が朝鮮三国にある、という説が出されている。

全羅南道の長鼓山古墳、慶尚南通の桧鶴洞一号墳などは、前方後円墳と共通する墳丘型式の古墳といわれている。また、朝鮮北部の鴨緑江左岸の慈江道の楚山郡雲坪里、慈城郡松岩里の古墳群から、前方後円形の積石塚が数基発見されている。

 副葬品も4世紀代には祭祀的なものが主であったが、5世紀後半ごろには馬具・甲胃・須恵器などの軍事的で実用的なものへと変化していった。

 

 このような古墳の造営方法や副葬品の変化には、『日本書紀』にみられるように、陶部(すえつくりべ)、鞍部(くらつくりべ)など多数の朝鮮技術者集団(先述の今来の才伎)の活躍があった。

 大和政権の中心地であった畿内における朝鮮移住民の正確な数は算定できないが、京畿居住の貴族や豪族諸氏の系譜を集成した『新撰姓氏(しょうじ)録』(814年)によると、氏総数1182氏の内、諸蕃(諸外国人、ほとんど朝鮮出自)と記されている渡来人の氏族は326氏で、その約3分の1に相当する。代表的な氏族は、秦氏(新羅系)、東漢氏・西漢氏・和氏・百済王氏(百済系)、高麗(こま)氏(高句麗系)などである。彼らが、京都・大阪・奈良そして関東地方に定住し、神社や氏寺を建て、豪族、貴族として活躍したことは広く知られている。

 秦氏は、5世紀後半頃太秦地域(京都市右京区)に定着し、ほとんど未開発だったこの地に、すぐれた土木技術をもって葛野の大堰を完成させ、桂川一帯の治水と合わせ、潅漑に成功した。そして、莫大な財力を背景に、平安遷都などにも大きく貢献した山城最大の豪族であった。

 前記した西文(かわちのふみ)氏の始祖である王仁は、5世紀初め、百済から日本に初めて文字を伝え、その後裔一族(西文民)は、歴代の朝廷で学問や記録・文書の作成などの職務にたずさわった。

 

 6世紀の前半は、百済から五経博士らによって日本に儒教が伝えられ、また6世紀の中頃には百済から仏教が伝わり、日本では飛鳥時代を迎える。

 飛鳥文化は、三国時代の朝鮮仏教文化の強い影響の下で形成開花したものであった。日本最初の本格的寺院である飛鳥寺(法輿寺・元輿寺)は、高句麗の清岩里(チョンアムリ)廃寺や、陵(チョルン)寺址の伽藍配置と同様の一塔三金堂様式である。飛鳥寺の本尊、飛鳥大仏を鋳造したのは、法隆寺の釈迦三尊像の作者でもある百済系の鞍作止利(くらつくりのとり)あった。

 

 世界最古の木造建築である法隆寺の西院伽藍は、朝鮮三国の建築様式の影響を強く受けている。金堂・五重塔・中門・南門の柱がエンタシスであること、金堂・塔が二重基壇上に立っていること、またそれらが卍崩し勾欄(こうらん)人字形割束(わり

づか)等の装飾をもつことなどである。金堂の壁画は高句麗僧曇徴の作と伝えられている。このほかにも薬師如来・救世観音・百済観音像など、移住民の手によって多くの国宝級の仏像が作られたものと考えられる。

  

 中宮寺にある天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の下絵を書いた東漢末賢(やまとあやのまけん)らをはじめとする7世紀末までの、古文献に見える画家その他絵画に関わる人物は、すべて朝鮮からの渡来人であった。

 

▶︎ 統合新羅・潮海と日本

 統合新羅とは、668年新羅が三国を統合した時期から935年高麗(コリョ)によって併合されるまでの国家をいう。渤海は、698年高句麗の遺民たちによって建国され、926年まで朝鮮半島北部から中国東北地方までの広大な領域を支配した国家をいう。日本では奈良、平安時代にあたる。

   

 前述のように660年、新羅と唐の連合軍によって百済は滅んだ。しかし旧百済の貴族や民衆はなぉ戦いを続けた。百済と友好・同盟の関係にあった大和政権は、支援の軍を百済に派遣した(663年)が、白村江(錦江・クムガン)の戦いで新撃唐の連合軍に大敗した。当時の大和政権内には百済系移住民や、その子孫たちが相当数いたので、百済が滅亡したあとも一定の支援を惜しまなかったのであろう。

 新羅は唐との関係に不安を抱いていたことなどから、高句麗との戦いにあたって、後方の安全を確保するため、敵対していた日本に668年使節を派遣して国交を再開し、779年まで、それぞれの思惑はあっても、基本的に友好関係を持続した。

 この間、新羅から日本への使節は47回にも達し、日本からの遣新羅使は25回に及んだ。新羅からの使節団は初期は30~40人程度であったが、732年には147人、742年は187人、752年、東大寺の大仏開眼のときは新羅王子・金泰廉(キムテリョ)700人以上の使節団とともに来日している。その後の使節団は、ほぼ200人以上であった。日本からの遣新羅使も703年には204人が派遣されている。

 従来日本では遣唐使がクローズアップされているが、遣唐使は第1回が630年で最後が838年、この200年間に15回だけである(しかも基本的に唐からの使者は来ない)が、遣新羅使は100年の間に25回も送られている(新羅と日本の使者が相互往来)。特に、完成段階に達したといわれる大宝律令(701年)制定直前の30年間に、大和政権は9回も遣新羅使を派遣しているのに対し、その間の遣唐使は皆無である。新羅では、681年従来の律令に加え格式をも編纂し、律令制の基本形式が完備された。このことから、日本の律令の成立に新羅の与えた影響も相当のものであったことがうかがえるのである。

 新羅からの使節団には多くの商人が加わっていて、貿易も使節往来の主な目的の一つであった。新羅から日本へは、金・銀・銅・鉄・絹・鹿皮・虎皮・仏具・工芸品などが輸出され、日本からは、絹・絶・糸・綿などが輸出された。779年国交は断絶したが、9世紀の中葉頃までは張宝高のような豪商たちが、九州の太宰府を通じて日本と交易を行った。新羅と日本との関係は官民ともに9世紀の後半頃まで続く

 渤海も日本と友好関係を結んだ。渤海最初の使節が日本に釆たのは727年で、その使節団は武人の集団であり、24人で構成されていたが、出羽の地に漂着して16人を失い、平城京へは8人だけが到着した。渤海が使節を派遣した目的は、渤海の地が黒水靺鞨(マツカツ)・唐・新羅に隣接していて、常に緊張状態にあったことから、日本との外交関係が重要な意味をもったことにある。

 727年から922年までの200年間に渤海から日本への使節は35回、日本からの遣渤海使は22回、他方遣唐使は前述のように15回、唐から来日した使節は9回である。つまり、日本と唐の使節往来は24回、渤海とは48回もの交流が重ねられていることから、この時代は遣唐使時代というよりもそれ以上に遣渤海使の時代でもある。

 

 ちなみに渤海からの使節が多いのは、日本への「朝貢外交」のためではない。前記したように激動する東アジア情勢のなかでの渤海の積極的外交という側面を忘れてはならない。このことは、対立関係にあった唐にも潮海は705〜925年の間に222回使節を派遣していることからも確認できる。

 渤海使たちは、東京龍原府(トンギョンリョンウォン・現・春・グンシュン)から季節風などを利用して出発し、だいたい晩秋や冬にかけて来日した。到着地は、対馬暖流の影響で、北陸沿岸の地が多かった。そして初夏になって東海(日本海)を航海し帰国した。

 渤海使の数は、最初は20〜40人程度であったが、771年(第7回)には船17隻で325人が来日している。そして825年(第22回)以後は、100人規模となる。この使節のなかには多数の商人が加わっていて、彼らは天皇家とも、貴族や商人とも交易した。

 渤海から日本への輸出品は貂(てん)・虎・熊などの毛皮や朝鮮人参、蜂蜜などで、日本からは絹・絁(あしぎぬ・古代の絹織物)・綿・毛などの繊維製品が渤海に輸出された。

 渤海と日本の友好関係を示す一例がある。734年、日本からの遣唐使船一隻が帰航中、強い季節風にあおられ二五人が漂流してベトナムに漂着した。そこで、現地人に襲撃され四人だけが生き残った。四人はベトナムを脱出して再び長安に戻り、潮海国経由で七三八年、第二回潮海使とともに帰国した。さらに潮海が遣唐使の往来に便宜をはかった例もある。

 日本と唐との使節往来は200年間で二四回であるが、朝鮮(新羅・渤海)とは実に120回にも達する盛んな交流が続いた。あまり知られない史実である。7世紀後半から10世紀までの朝鮮と日本の関係は、まさに、平和的な外交関係そのものであったと言えよう。

▶︎ 高麗と日本・・・続く

 8世紀後半以降、新羅では王位継承をめぐる内乱が継続し、9世紀には不安な政情を反映して各地で農民暴動が頻発した。九世紀末には新羅全土が農民暴動でおおわれた。そのような動乱のなかで地方豪族が台頭し群雄割拠の時代を迎えたが、918年に王建が開城を都として高麗を建国し、935年の新羅の併合後、翌年に後百済(ほぼ全羅道一席)を別して朝鮮全土を統一した

 日本では、平安時代の後半から鎌倉時代、そして室町時代の初期までに当たり、10世紀から14世紀末までの時期である。

 日本は、新羅・潮海と外交活動を活発に行っていたが、高麗には無関心であった。日本と高麗との国交は1367年の高麗末期に結ばれるまで、400年以上も正式な外交関係がなかった。高麗の始祖王建は数回日本に修交を求めたが、平安貴族たちは海外事情にうとく、積極的に外交を開こうとしなかった。

 しかし民間レベルでは交流があった。『高麗史』 によると、11世紀に高麗を訪れた日本商人は9回、約300人で、積極的に貿易をした。日本商人は、螺舗・蒔絵の鞍・鏡匣(かがみばこ)・硯箱・日本扇・香炉・水銀・真珠などを高麗王に献上し、高麗からは、朝鮮人参・毛皮・金・銀・絹などを輸入した。