13人の合議制の始まり

■13人の合議制の始まり

源頼朝の死後始まった13人の合議制。将軍への権力集中を抑止する仕組みは、いったいどんなものだったのか?

▶︎頼朝の死後に発足13人の合議制開始

 建久10(1199)年1月、源頼朝の突然の死を受けて、嫡男の頼家が二代将軍に就任した。

 しかし、わずかその3カ月後、鎌倉幕府は、13人の有力御家人による合議制を導入することになる。『吾妻鏡』には次のように記されでいる。「様々な訴訟については、羽林(頼家のこと)が直に決断されることを停止し、今後は大小のことについては13人が話し合って処置すること。そのほかの者が理由もなく訴訟のことを(頼家に)取り次いではならない、と定められた」(『吾妻鏡』建久10年4月12日、引用は本郷和人『承久の乱』文春新書より一部修正、以下同)

 つまり、今後は北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の13人が合議によって鎌倉幕府の政務運営を行うということである。

 

 年若い頼家の政務を補佐する仕組みとも言われるが、他方で、暗君とされる頼家を政治的実権から遠ざける意図があったとされる。『吾妻鏡』には、頼家は側近の専横を許し、御家人の土地の境界争いについてもろくに話も聞かずに独断で裁定を行ったとされている。13人の合議制により、今までのように政治へ関与することができなくなったのだった。

 この13人の合議制に選出された御家人それぞれについては、本書巻頭を参照してもらうとして、ここではなぜ、この13人が選ばれたのか、その構成を見ていくことで、合議制の意図を改めて考えてみた

▶︎なぜ、この13人が選ばれたのか

 13人を概観しでみると、まず鎌倉幕府の重要な役職についていた人物が選出されていることがわかる。鎌倉幕府は、のちの官僚体制が確立した江戸幕府ほど複雑な組織ではなかった。言ってしまえば、非常に・素朴な機構である。大きな部門で政所、侍所、問注所があったことはよく知られている。

 役職で言えば、政所からは別当(=長官)の大江広元、侍所からは同じく別当の和田義盛、そして所司(=次官)の梶原景時が合議制メンバーに選出されている。

 また、問注所の長官職である執事の三善康信もメンバー入りしている。 また、頼朝自身、鎌倉幕府の確立の際には文官を重用していたことで知られる。当時の武士たちは読み書きができないのが一般的で、政権運営の際にはどうしても読み書きができる人間が必要となる。そのため、文官系の武士たちが鎌倉幕府では中枢に置かれる場合が多い。それは13人の合議制も例外ではない。

 中原親能二階堂行政のふたりは文官枠で合議制に入った可能性が高い。また、役職枠であると同時に、文官枠でもあるのが大江広元、三善康信のふたりである。

 

 これに加えで、北条時政も読み書きのできる武士で、彼が残した自筆の書状は大変美しい字で書かれている。頼朝の名代として上洛し、後白河上皇らを相手にさまざまな交渉を行ったことを見ても、彼は文武の両方を担えたオールラウンダーだったと思われる。その意味では文官も兼任できた。また、梶原景時も読み書きができ文武に優れた武士と言われている。彼もまた文官を兼任できる貴重な存在だったと言えるだろう。

 同様に、足立遠元もまた、政所の前身となる公文所の役人として働いた武士だった。彼もまた文官兼任枠で選出された武士だったと思われる。

 他方、武力・軍事力的には優れているが、13人の合議制に選ばれなかった有力御家人たちがいる。

 

 たとえば、下総を代表する武士・千葉常胤、下野を代表する武士・小山朝政、武蔵を代表する武士・畠山重忠らは、実力からすれば13人の合議制に入っていてもおかしくない。鎌倉武士の鑑とも言われる畠山重忠のような、武士らしい武士が選出されていないことを見ると、合議制は政治を運営するための、文官的な能力が評価された選出だったようだ。

▶︎北条派と反北条派13人の合議制の実態

 役職枠、文官枠に加えて、源氏将軍家との姻戚枠も、選出理由のひとつだったであろうと思われる。北条時政や義時は、頼朝の正室・政子の実家である。父子2人が選出されているのは、異例と言えるが、姻戚枠として説明できなくもない。

 また、北条氏以上に関係が深いのが、比企能員(ひき よしかず)に代表される比企一族だった。頼朝の乳母・比企尼の甥(のちに養子)である能員は、娘の若狭局が頼家に嫁ぎ嫡男の一幡を生んでいる。二代将軍の外戚上して、鎌倉幕府の中枢に位置していた。

 比企尼の関係で言えば、安達盛長比企尼の娘婿で、伊豆配流となった頼朝に唯一付き従った古参の家臣である。将軍家と苦楽をともにした宿老(十分に経験を積んだ老人)が選出されているのは理解できる。

 このように考えると、なぜ、13人の合議制に選ばれているのかよくわからない人物が何人か浮上してくる。

 

 すなわち、残りの三浦義澄、八田知家である。この2人が合議制に入っていて、千葉常胤や畠山重恩らが入っていないのは何故か。それがこの合議制を創設した人間の意図を知る手がかりとなるのではないだろうか。

 三浦義澄は、三浦介を称していて、相模国を代表する武士だったことは間違いない。三浦半島に非常に大きな勢力を持っており、地域的にも北条氏と近しい関係にあったとされる。そのため、三浦義澄が13人の合議制に選出されているのは、北条時政の意向が強いのではないかと類推される。その意味では、役職枠として入っている和田義盛も三浦一族のため、北条派と考えてもおかしくない。

  八田知家は、常陸国の有力武士だった大掾氏の側近多気義幹(たけよしもと)の挙兵を未然に防ぎ、討ち取った人物である。義幹は曾我兄弟の仇討ちに乗じての挙兵を計画していた。仮にこの挙兵が北条時政と密かに通じてのクーデターだったとするならば、これを防いだ八田知家は、反・北条派、つまり梶原景時らのグループに分類されるのではないだろうか。

 北条派・比企・梶原派(頼家派)で13人の合議制を分けるとするならば、資料に乏しくその正体がよくわかっていない足立遠元についても、反北条派の可能性が高くなってくる。というのも、13人の合議制に選出されて以降、北条氏の意向が強い鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には全くと言っていいほど、登場しなくなるのだ。つまり、北条氏が権勢を振るうようになってからは全く活躍していないことになる。その意味で、足立還元は北条派ではなかったと考えられるのである。

 

 また、北条派か反北条派かで言えば、安達盛長は頼朝と政子との結婚を取り持った関係にある。北条氏とは切ってもきれない関係にあると言っても過言ではない。その後、安達氏は北条氏代々の嫁の生家となり、その関係をより深めていく。比企一族の関係者ではあるが、北条派と考えてよいだろう。

▶︎乳母のネットワークが繋ぐ鎌倉暮府

 もう1点、比企尼の関係から考えてみると、鎌倉幕府における有力御家人には、乳母のネットワークがあったことが窺える。幕府の中枢には頼朝の乳母に関係する御家人たちが名を連ねているのだ。

 そもそも平安時代後期から鎌倉時代にかけて、乳母や継母といった女性たちの権力は、今日の我々が考えている以上に大きかったとされる。

 たとえば、平治の乱後の処罰で、頼朝が命は取られず、伊豆配流の処分となったのは、平清盛の継母・池禅尼の嘆願によるところが大きい。

 頼朝の乳母としてその存在やまが知られているのは4人。山内尼、比企尼、寒河尼、そして三善康信の伯母である。

 比企尼の甥・養子で頼家の義理の父となった比企能貞はもちろん、安達盛長も比企尼の長女を妻としている。比企尼の次女、三女は頼家の乳母を務めており、比企一族は乳母のネットワークによって、北条氏よりもずっと強く、源氏将軍家に結びついていたと言えるだろう。

 

 寒河尼は下野の小山政光の後妻となった女性で、その間にできた子がのちの結城朝光である。朝光は梶原景時の失脚に大きく関わる人物だが、これについては本章で後述する。この寒河尼はもともと宇都宮の出身で、八田家の縁者だったと考えられる。その意味では、八田知家も乳母枠で13人の合議制に選出されたのかもしれない。

 また、先述したように、三善康信も伯母(母の妹)が頼朝の乳母だったとされる。

 さらには、文官枠の二階堂行政は、頼朝の実母の生家である熱田大宮司の家系だった。頼朝の母方の縁戚ということで、行政もまた13人の合議制に選出された可能性もある。このように見ていくと、13人の合議制にはこうした女性たち、乳母のネットワークが強く働いていたとも考えられるだろう。