石山修武の建築が見る夢

■石山修武の建築が見る夢(2008)

石山修武

 2007年にはほぼ完成したカンボジアの首都プノンペンの《ひろしまハウス≫以降、現在進行形の仕事を見て頂く。そして未来への不安をつき抜ける夢を共有したい。世田谷美術館での私の初めての本格的な個展では先ず何よりもそれを考えた。これから先何をどのように成そうとしているのかを見ていただく必要にかられたからだ。

 やろうとしている事の筋道はほぼ決まっている。ただ私のこれ迄のささやかな仕事らしきはいつも死者をも含む他者とのやりとりの中で成されてきた。社会や、歴史を構成する人間との応答の中から生み出されてきた。依頼主や現場で実際に建築を作る人々との直接的な対話や、その力につき動かされて「物体」らしきもの

を作ってきた。その成果、辿り書いた地点が≪ひろしまハウス≫という建築物であった。

 現代は不安に満ち溢れている。皆さんも、そして私も。≪ひろしまハウス≫は原爆投下によって20世紀を象徴する悲劇の一つに遭遇した広島市民皆さんと共同によって生み出された。広島市の市民団体が、あの悲劇の備忘録として、同じようにしたポルポト政権下によるジェノサイド(大量虐殺)、そして都市の廃嘘化を体験したプノンペン市に、平和を共に希求し、再学習する場としての建築物の建設を望んだのだった。大きな共感と使命感を持って取り組んだ。

 あり得るやも知れぬ市民社会の理想のモデルを一つ端的に表現できたと考える。建築表現とは獲得すべき社会モデルを物質を介して形にする事だ。今はグローバリゼーション下の大量消費社会である。資本だけが自由に地球を標準化し規格する力の表現を行使し得る。我々は物を、文化でさえも買う事、そして使い捨てる事によってしか生活を表現し得ていない。その事実に誰もが本能的な危惧を感じているが、他になす術が無いので大波に呑み込まれるままだ。

 大量に消費して、膨大にゴミを廃棄し続けている。大量に生産する企業社会の膨張の論理と一蓮托生のまま恐らくは破滅への道を走り続けている。

 ≪ひろしまハウス≫建設はそれに対して、あり得るだろうもうーつの道を示した。これは消費社会の自動律による産物ではない市民社会の協同による建築である。共同し、共有し得る建築ではあるが税金で作る公共建築ではない。市民の自発的共同募金形式で先ずは建設資金が集められ、集まった金で漸次段階的に建設された。

 最終的に公共の金も導入されたが、それは市民の築いた礎が評価されての事だ。それ故に公共建築には無い自発性の尊厳が内在している。設計及び工事の統轄者であった私の役割はそんな市民の直接的協同の尊厳を建築の形に表現する事であった。一つづつ煉瓦を積み続けた人間達の表現の意思を物体としてまとめる事であった。

 この建築の以前にも機会に恵まれて同様試みた事はあった。《幻庵≫《開拓者の家>は自立した個人の尊慮を共に表現した。

 松崎町の仕事は、職人たちの労働の中にある事の務持を。

 唐桑町では地域住民の自前の物語り作り意志を、

 気仙沼市は公海に生きるの陸の人間達異なる自由な精神を表現した。

 その後もその盲目の人間達ハンディを負ったマイノリティ達そして子供渇望とでも呼ぶべきを、表現してきた。私自身の我執やケチな芸術性を表現したのではない。《ひろしウス≫が一段落して、その事をはっきりして言えるようになった。

 人間は未進化な生物でもあり、協同へ純粋理論を仲々に理解し得ない。形が視える物体には言語以上の働きをする事が。《ひろしまハウス≫は日本からは遠いから訪ねるのは困難だ。でもこれは市民社会モデルへの標識であるから、こういう物体こういうやり方で実現した事、その事自体が多くの人間に伝わってくれれば、演説や静かな言説と同様な働きをしてくれるろう。大きな立体はそれ自体がメッセージとしての図形になり得る。

 何年か前から私は自分でも驚いたのだが、銅版画をやり始めた。時に絵も描き始めた。極々自然にであった。建築的表現が他者との共同を表現する困難に疲れてしまったのか、と不安でもあった。

 振り返れば、1996年から私はコンピューターに自分のサイトを開設した。今は世田谷日記と題した項目を中心にほぼ毎日のように更新している。アレは止めた方が良いよの忠告も多かったが、今はあきれ果てられたようでそれも聴こえてこない。確かにこれは私的情報の垂れ流しではあるが、論文のようなエッセイを書くのと日記状を公開するのとはどんな違いがあるのか。

 皆、他人に自分をシェアーするのに変りないのではないか。その連続線上に銅版画等の平面表現があるようだと気付いた。そう考えなければ不安は消えない。芸術家に幾たりかの知人は居る。が率直に言って芸術作品らしきにあんまり関心は今まで無かった。その自立した価値が解らないのだ。それよりも、美術館やギャラリー、画廊の社会的システムと作品の価値の関係性の方へ眼が行ってしまう。何故こんな美術品らしきが美術館という現代消費社会のカテドラルの土建的存在と同じ位の値段なんだ。20年ローンで建てている住宅よりも高いのかと不思議である。

 銅版画や絵はひと山当ててやろうと血走った眼で始めたわけでない。気がついたらやり始めていけれども純粋な表現衝動からでも無さそうだ。他者によって生かされてきた私にそんなものがあるけがないし、あればひた隠しにするであろう。でもやり始めてしまったのは歴然としている。しかも銅版画やドローイングには歩くアンモナイトや魚や鳥、巨大な山岳らしき荒地、そして聳え立つ伽藍、しかも強大な王のための伽藍らしきが頻繁に登場するではないか。これ等らは明かに非社会的内容であり、それしか無い。

 常日頃だけには手を出まいと考えていた世界の映像群でもある。何故なんだとフロトあるいはユングに自己診断しようとする。怪し気な密教界の知識迄引っ張り出す。でも全然解らない。ただの気まぐれにしては作業に持続性があり過ぎる。

 そうか、これはコンピューターによるコミュニケーション、というより一方通行的自己公開の小史と関連しているに違いないと、了解したのがつい最近の事。この展覧会の準備作業も大づめになった頃のことだ。世田谷村と名付けた私の住居では畑を作っている。猫の額程の小さなものだが野菜を育て、花も育てている。以前は自給自足を目指すと本気になっていた。屋上の畑と合わせれば毎日の食卓のシソ、パセリ位の添え物位は自給しているのかも知れないが、全部まかなうのは無理だ。では何故こんな中途半端な事をしているのか。どうやら畑を作り、種をまく段取り他を考えるのは建築設計と同じ位に複雑で面白い。建築は多くの人間達との協同社会モデルの総合的表現だが、自作の畑は独人でやれる。でも相手が土や太陽や風。そして土中のミミズやイモ虫、鳥のフン、鳥の掘り返し、虫の類との共同である。小さな畑一つにどれ程多くの有機体、生物が世界らしきを構築しようとしているのかが良く解る。

 

 《世田谷村≫の畑は人工肥料は使わない。みんな生活から出る生ゴミの類である。土の改良改善もこれに頼る。だから生活とも関連している。それで畑が姿を現わす。《世田谷村≫ではエネルギーの自給も試みたがまだ上手くいかない。どんどん試みる金が今は無いから遅々として進まぬ。新しい試みるには金が必要だ。エネルギー関係に金を使って、建築はもう少し小さく作っておけば良かったと反省しきりである。が、この反省、内省と言っても良い位だが、それも畑作りの生活から生まれたと考えれば良いか。これから先の計画はだからそれ等の総体験を踏まえたものになる。

 日本はアジアモンスーンの天然のシェルターの中にある。寒過ぎず暑過ぎない。全ての都市の建築、都市住宅の屋根に畑を作った方が良い。少なくともそれを目指すべきだ。ての建築はエネルギー供給体になり得るし、又同時に食物を作る場にもなり得る。都市は消費の自動装置である現実を脱け出る必要がある。大地の大半は公園農場にしたら良い。消費社会の現実は週休2日と多くの休日を実現した。週の1日は皆自己表現の遊びに取り組んだら良い。自己表現の一つとして畑作りに取り組んでみるのはどうだろう。宮沢賢治の農民芸術概論を引く迄もなく、これは表現の極みですぞ。エネルギーの自給自足への試みと、ゴミ汚水処理再利用、そして畑でのいささかの食料の獲得。これらが連関して初めて、もう一つの社会モデルの径が出現する。それは個々人のライフスタイルと密接な関係がある。幾つかのバリエイションを示すが、その根底は消費生活を軸としたライフスタイルの微調整。修理が無ければビジョンは生み出し難いという事。そして、それは皆さんの想像力と思考力にかかっている。

 自分の身の廻りの事を考える。その脳内風景こそを環境と言うのだが、小生は生活道具作り、部屋の修理から住宅、建築まで、更には地域作りまで出来るだけの事は自分で、あるいは自分達の協同でやったらいい。その方法、あるいは目指すべき指標をモデルとして示した。モデルは模倣を望んでいる。真似られて初めて価値が発生するから。

 次にもう一つ都市への夢を提示した。都市をまるごと設計するのは不可能だ。そんな事は最初から不可能だし意味もない。都市は自ら自己生成し、成長変化する有機体だ。しかしながら建築的断片の何がしかを設計する事で都市を人間の生活に身近なものへ変化させるモデルとする事はできる。幾つかの国、政治体制も異る地域での建築を介して、都市をそんな目的への指標に据え変えてみた。ラテンアメリカでの仕事は特に焦点が絞られている。モバイル建築として、しかもその建築が映像、メッセージを生み出す装置として考えられているのが特色だ。環境は実物体によって形造られる固いものではない。先ず人間が居て生活しその脳内に形造られるものだ。今は実体の無い映像メディア情報によって枠付けられているヴァーチャル世界がとても強大だ。

 建築家が作り出せる狭く固定された世界にアクチュアリティ(現実性)はすでに無い。動き、交通し、発光する電子世界へのゲートをくぐらなければならない。幾つかの地球上の地点をモバイルする映像発声装置のアイディアを提示した。これは真近な近未来の社会像をも示そうとしたものである。

 私がこれから先、取り組もうとするのは述べてきた中にあり、それを具体的なかのプロジェクトで示した。これ等のプジェクトも全て現実の他者との応答の中から生み出されたものだ。それで「物語篇」はプロジェクトが生み出された過程も解るように現実とのやり取りが応答交信の内に表現されている。良いガイドブックになればと思う。

 2007年の7月から2008年の6月末までのl年間に描き続けたドローイングは私の生活と表現の全公開とでも言うべきもの。私の生活は私の表現でありたいと願うから。又、展覧会会期中も私及び研究室のスタッフは会場内に設けるミニ研究室でこれ等のプロジェクトを実現する為の作業をすすめる。この展覧会は現実社会に閉じ込められる事なく、未来にドキュメンタルに接続して小さくとも突破口を開ける。会場でお目にかかり、消費社会の現実と悪戦苦円の連続を目の当りにしてくだされば、夢というものが悪夢をも含みながら、戦いの未に得られるものである事を感じていただけるかも知れない。それが一番の望みです。

▶︎玄庵1975

▶︎Architecture リアスアーク美術館 japan

▶︎2012-0821 石山修武x李祖原 演講座談會 石山修武演講

Osamu Ishiyama – KANNONJI(観音寺)

▶︎漆喰芸術「伊豆の長八美術館」