日本の神像

■日本の神像

三橋 健

▶︎はじめに

 神像には木彫像や絵像、そして神道曼荼羅と称される一群の絵画作品、仏教と神道の習合の中から生まれた垂迹(すいじゃく)神像、あるいは社寺から信者に護符として頒布された神々の御影などがある。

 これらは、現在、神道美術と総称されるが、以前は垂迹美術と称され、なかでも木彫の神像などは、仏像の一傍流として扱われ、それらがどのような精神性を表したもので、いかなる世界観を背景にして制作されたものかはあまり考慮されなかった

 もともと日本の神々は姿形をあらわさないものと考えられた。現在でも神道はその考え方に立脚している。また、神々のことを口にすることはタブーであり、どうしても話題にしたいときは、その神の名の前に「(掛介麻久母畏伎)かけまくもかしこき(声に出して言うのも畏れ多い)」という慣用表現が使われてきた。だから、神像は仏像と違って披見(ひけん・書面などを開いて、見ること)は許されず、また拝む対象ではない。

 

 江戸後期の国学者・斎藤彦麿は随筆「神の御姿」(『傍廂(かたびさし)』所収)で、

「神の御姿を画(えが)くは、恐るべく慎むべきことなり。人の目には見え給(たま)はぬ故に、隠身(かくれみ)といふを、略(はぶ)きて神とはいへるなり」 

 と述べている。この一文は江戸時代において神々の御影が盛んに描かれていたことを示している。だから彦麿は、そのことを「恐るべく慎むべきこと」と戒めているのである。

 ところで、近年、仏教美術史の側から「霊木から顕現した仏像」といった見方がなされ、日本人古来の精神性が造像にどのような影響を与えたかに高い関心が寄せられている。そこで、あらためて神々の御像(みかた)を見つめてみると、仏像の影響を受け継ぎつつ、神像ならではの表現が試みられていたり、素朴な造形のなかに、あえてそのように造られたりしたことの理由が見えてくる。とりもなおさず、神聖なものに対する日本人の感性そのもののあらわれであり、それを再発見し、改めて認識する。

■神と仏の世界を行き来する僧形神

▶︎心身離脱と神の御像の造立

 三重県桑名市多度町の多度大社に遺された『神宮寺伽藍縁起井資財帳』によると、天平宝字7年(763)12月22日のこと、満願禅師が多度神社の東方、有井の地に道場を構え、丈六の阿弥陀を造って礼拝していたとき、ある人に多度神があらわれてこう託宣(神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること)した。「吾は長い間、罪業を重ねた報いとして、神道(神の身の意)を受けている。願わくは、永久に神の身を離れ、仏教に帰依したい」と。

 そこで満願は、多度神の希求に応えるため、神が鎮まる神坐山(かみくらやま)の南方の樹木を伐り、その用材で小堂(多度神宮寺)を建て、神の御像を造立して多度大菩薩と称したとある。

 この託宣には、多度神が神の身を離れて仏教に帰依したいという神身離脱の思想がみられる。

 本来、神域の樹を伐採するという満願の行為は、神(神道)を軽んじる行為である。

 

僧形神像・・・日本における神像は、僧形神という姿形で表されたのが最初と考えられている。ちなみに、僧形像とは僧侶の姿をした像のこと。僧侶の肖像を指す場合は、わざわざ僧形と呼ばない。僧形神、僧形八幡神のように、神格化された存在が僧侶の姿で表された場合にのみ用いられる。なお、男性の出家修行者のことを比丘ともいい、比丘形の菩薩である地蔵菩薩像と僧形神像はしばしば混同される。

 それは『日本書紀』孝徳天皇即位前紀に、天皇が難波生国魂社(いくくにたまのやしろ)の樹を伐ったのに対し「神道を軽(あなず)りたまふ」と注記されていることからも明らかである。

 それなのに、天皇や満願があえて神域の樹を伐採したのはなぜか

 すなわち、生国魂神は四天王寺堂塔建立の用材として、また多度神は神宮寺と多度大菩薩の造立の用材として、それらの神域の樹木を寺院に喜捨(きしゃ・寺社や貧乏な人に施し物を、喜んですること)することで、仏教への帰依を表明したのである。その行為は神道(神)の軽視のようにも見えるが、神による神身離脱の希求に応える具体的な行いだったのである。

▶︎神仏習合の深化と表現の多様化

 神道の思想・信仰・習俗などに基づいて制作された造形芸術を神道美術という。ただ、この名称が一般的に用いられるようになるのはさほど古いことではない。神道美術という語は明治時代にも使われているが、昭和30年代まではもっばら垂迹(すいじゃく)美術と称され、仏教美術の一分野として取り扱われていた。それは垂迹美術が、その名前の通り本地垂迹説に基づいて生み出されたものだからである。

 本地垂逆説とは何か。これは本地たる仏・菩薩が人々を救済するため、権(かり)に日本の神の姿をとってあらわれることである。つまり日本古来の神と仏教の仏・菩薩が一体かつ共存しているという、いわゆる神仏習合に基づく考え方である。

本地垂迹とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す)であるとする考えである。

神仏習合とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教現象。神仏混淆ともいう。 当初は仏教が主、神道が従であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。

 そこで垂迹美術の諸作品をながめていくと、確かに神と仏が共存しており、それを神道美術とか仏教美術とかに分けるべきでなく、これこそが日本の宗教美術だという思いがしてくる。とはいえ、学問上ではやはり神道美術として考えていく必要があろう。「本地垂迹」という考え方は、平安前期に成立したけれども、それが深化の度を増すのは鎌倉・室町時代である。そしてその思想に基づくさまざまな造形芸術が制作された。

 その内容は多岐にわたるが、大きく垂迹絵画・垂迹彫刻・垂迹工芸に分類される。

垂迹絵画は春日曼荼羅図山王曼荼羅図能野曼荼羅図八幡曼荼羅図などがあり、また垂迹彫刻は僧形(そうぎょう)八幡神像・雨宝(うほう)童子像・牛頭(ごず)天王像・蔵王権現像など、そして垂迹工芸は御正体(みしょうたい)・鏡像・懸仏(かけぼとけ)などがある。これら垂迹美術の最たる神道曼荼羅は、護法神を慰めるために行われた法楽(ほうらく)、あるいは本地仏(ほんじぶつ)へ供物を捧げる本地供(ほんじく)の場などに掛けられ、その前で儀式が行われたのである。これら法楽や本地供を行ったのは供僧(ぐそう)であり、彼らは参集した人々に向かって神道曼荼羅の絵解きもしたであろう。そのようなわけで、垂迹絵画の多くが寺院側により制作されたと考えられる。

■神々の本地仏が宿る神域

▶︎春日社と興福寺

氏寺とは、飛鳥時代に古墳、特に前方後円墳に代わって在地首長やヤマト王権構成員として君臨してきた有力氏族や王族の新たな祭祀儀礼の場として造られるようになった仏教の寺院である。中世頃からしだいに菩提寺とも呼ばれるようになった。

 

 春日社の西に隣接する興福寺は、和銅3年(710)、藤原氏の氏寺として現在地に建立された。氏神祭祀の伝統から、藤原氏の長者はもともと興福寺僧徒の春日社参詣認めなかったといわれるが、神仏習合が進んだ11世紀末には、「春日明神は興福寺を守護し、興福寺は春日明神を扶持す」(『扶桑略記』)というまでに一体化し、やがて興福寺は春日社の支配を強めていくのみならず、祭祀にも関与するようになる。有名な「春日若宮おん祭」も、もとは興福寺大衆の発願(ほつがん)によるものだった。

 

▶︎「春日若宮おん祭」で祈られる神

 春日若宮おん祭は春日大社の摂社(せっしゃ)若宮の祭礼である。若宮の祭神は天押雲根命で、本社第三殿の天児屋根命と第四殿の比売神の間に生まれた御子神という。長保五年(100 3)3月、小さな蛇の姿で顕現したと伝え、水神(龍神)としての神格をそなえている。当初は母神(第四殿)の殿内、のちに第二殿と第三殿の間に祀られたが、長承(ちょうしょう)年間、大雨洪水や飢饉が相次ぎ、疫病が蔓延したので、同4年(1135)2月、現在地に社殿を造営し、おん祭を始めると、天災が治まったという。以来、おん祭は今日まで途切れることなく行われてきている。

▶︎解き明かされた神と仏の関係

この世の神々は,人間を救済し済度しようとする仏や菩薩がいろいろな姿であらわれた化身,すなわち垂迹(すいじやく)身であるとし,その根本である仏・菩薩のことを本地仏という。 これは仏教が日本に渡来してから起こった思想で,仏も神も淵源をたずねるとみな同体であるという考え,すなわち本地垂迹説である。

 春日の曼荼羅図は、描かれた内容により、春日鹿曼荼羅、春日宮曼荼羅、春日社寺曼荼羅、春日本地仏量奈羅、春日本曼荼羅などと称されているが、時代の風潮に傾き、神仏習合の様相をより顕(あら)わにしていく。「鹿曼荼羅」の場合、前項の神鹿に榊を一本立てたものから、榊に神鏡を掛け、その鏡面に本地仏(ほんじぶつ)を描いたものへと推移していく。また「宮曼荼羅」は、御蓋山(みかさやま)や春日四社殿・若宮殿の上空に、それぞれの祭神に対応する本地仏をはっきりと描くようになる。 祭神と本地仏の主なものを掲げると、春日四所の第一殿の武甕槌命(たけみかずちのみこと)は釈社如来。

▶︎寺が一体となった世界観

 春日社寺曼荼羅・・・本地仏が影向(ようごう)している御蓋山と春日社の境内に加え、隣接する興福寺(画面下)をひとつの構図で描く、社寺曼荼羅。実際は南面している興福寺の境内を90度回転させて正面から見せ、この寺が春日社の神域と一体であることが強調されている。(絹本著色、室町時代、奈良国立博物館蔵)

 

▶︎虚空に浮かぶ本地仏

 春日宮曼荼羅・・・宮曼荼羅とはぼ同じ構図ながら、本殿(左上、拡大図参照)と若宮の計5社の上空に、円相内に描かれた5体の仏菩薩が浮かんでいる。これらは5社の祭神それぞれの本地仏で、下のような対応関係にある。(絹本著色、鎌倉時代、重文、南市町自治会蔵、写真=奈良国立博物館、撮影=森村欣司)

■長保五年、春日若宮の神が顕現す

▶︎若々しくみなぎる神威

 「金剛般若波羅蜜多経」見返し絵より、僧侶の前に来臨した若宮神の図。その神威を表すようにひときわ大きく措かれ、手はみずからの本地とされた文殊菩薩の印を結んでいる。背景には御蓋山、かたわらに僧侶と神職らが描かれる。(鎌倉時代、重文、大東急記念文庫蔵)

▶︎難陀龍王立像

 仏法を守護する龍神で、長谷観音の脇侍2神のうちの一柱。単独では水をつかさどり、雨乞いの本尊とされる仏神だが、その姿は謡曲や能の「春日龍神」のモデルとなり、しばしば春日明神と同一視されている。(室町時代、東京・福蔵寺蔵)

 

▶︎中世に出現した謎の神

 春日赤童子画像・・・中世、春日社にあらわれたという赤色裸形の童子神像。不動明王の脇侍像に類似する容貌で、御蓋(みかさ)の雷神とも地主神ともいわれるが、詳細は不明。春日大社南門前に「赤童子出現石」がある。(近代の模本、個人蔵)

■疫紳となったスサノオの本地

▶︎究極の鬼神というべき容貌

 木造牛頭天王倚像・・・かつて牛頭天王を祭神とした津島神社近くの寺に伝わる貴重な遺例。牛頭天王の像は、頭上に牛頭を配するほかは一定していないが、当像は、正面に馬面、脇面に鬼神の顔を有する三面十二臂(ひ)の異様きわまりない像容である。

 

 牛頭天王立像・・・陸奥国弘前(くにひろさき)を代表する名利、最勝院に伝わる像。右手に斧左手に窮索を持ち牛頭を戴くという、最も一般的な例証で、疫病除けの御利益に霊験あらたかという。(江戸時代、青森県弘前市最勝院蔵)

 かつて武蔵国一宮・氷川神社(埼玉県)で頒布された素箋鳴尊(すさのおのみこと)の御影。(やよい文庫蔵)

■疫病の流行を抑えるきわめつきの鬼神

▶︎疫病除けとスサノオ信仰

 素箋鳴尊が除疫の神として信仰された歴史は古く、『備後国風土記逸文』には除疫神の武塔神が 「吾は速須佐能雄能神(はやすさのをのみこと)なり」と述べるように、武塔神の正体は素箋鳴尊神である。

 縁起のあらすじは、武塔神が蘇民(そみん・日本各地の国津神系の神を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される)と巨旦(こたん・「備後風土記」などに見える伝説上の人物)の兄弟に宿を乞うたところ、富貴な弟の巨旦は断ったが、貧しい兄の蘇民は快諾した。その後、武塔神は疫病を流行らせて巨旦の一族を滅ぼしたが、そのとき蘇民の娘が巨旦の家にいたので、武塔神は、娘の腰に茅(ち)の輪を着けて疫病から逃れさせたと記す。

 

 ここでは茅の輪くぐり神事の由来と素箋鳴尊が疫病除けの神であることを述べているが、除疫の神としての素箋鳴尊に対する信仰が盛んになるのは、素箋鳴尊が牛頭天王と習合した中世以降、この神は京都の祇園社播磨の広峰社尾張の津島社などに祀られた。

■厄除け、疫病除けの守り神

▶︎最も切実に求められた神

 庶民は神仏にさまざまな御利益を求めるが、最も切実なのは病気平癒(へいゆ)である。医術が進んでいない時代では、神々に病気の癒しを祈った。とくに恐れられたのは疫病で、別名「はやりやまい」「はやりやみ」と称されたように、短期間大流行てなる伝染病では多くの死者が出た。たとえば、急性伝染病のコレラは発病してから三日ぐらいでころりと死ぬことから「三日ころり」とか「とんころり」と呼ばれた。

 このような疫病を退治するのが疫病神である。素箋鳴尊は代表的な除疫神であるが、中世には衆生の病苦を救う薬師如来の垂迹である牛頭天王(ごずてんのう)と習合して、その霊威を増した。

▶︎悪神・悪霊の侵入を阻止

 猿田彦大神図・・・記紀神話で、高天原と葦原中国(この世)の境に立ち、天津神を導いたとされる猿田彦大神。民間信仰においては、村の境に祀られ、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐ塞の神、道祖神として崇められた。(明治時代、個人蔵)

▶︎百草を嘗めた医薬の祖神 

 神農図・・・古代中国の伝説の皇帝・神農は、百草を嘗め、身をもって効能を確かめた医祖として崇められ、世界最古の本草書「神農本草経」に名を残している。日本でも江戸時代ごろから広く信仰されるようになり、絵図や彫像がつくられた。(明治時代、川端玉章画、内藤記念くすり博物館蔵)