鎌倉幕府の成立

■鎌倉幕府の成立

源頼朝の挙兵によって、関東には武士の、武士による、武士のための政権が誕生した。鎌倉幕府の本質とは何か?

▶︎諸説ある鎌倉幕府成立年

 治承・承久の内乱によって、平氏を追討、滅ぼした源頼朝。以仁王(もちひとおう)の令旨を受け取り、北条時政らとともに挙兵以来、関東の武士たちの本願をようやく果たし、鎌倉幕府成立した。 建久元(1190)年11月、頼朝は伊豆配流になって以来、初めて京へと上洛し、後白河上皇と会談した。権大納言右近衛大将に任ぜられた。その2年後にあたる建久3(1192)年には後白河上皇が没し、ついに頼朝は征夷大将軍に任ぜられる。

 

 従来の歴史教科書では、頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年を「鎌倉幕府の成立」として記載していた。しかし、最近の教科書では、次のように、1185年を鎌倉幕府の成立としている。「1185(文治元)年、平氏の滅亡後、頼朝の支配権の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都に送って法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当たり5升の兵糧米を徴収する権利、さらに諸国の国衛の実権を握る在庁宮人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての鎌倉幕府が成立した」 (『詳説日本史B改訂版』山川出版社)

 すなわち、先述したように、頼朝は時政を交渉役にして義経捜索を名目に、それまでの荘園公領制に加えて、全国に守護・地頭を置くことを後白河上皇に認めさせた。このときをもって、鎌倉を中心とする武家政権が成立したとしている。

 他方、第1章でも説明してきた通り、鎌倉幕府の本質とはなんだっだかといえば、頼朝をリーダーにいただいた「武士の、武士による、武士のための政権」であった。各地の武士たちは自分たちの所領が、朝廷の影響から脱したかたちで安堵されることを望んだ。には「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という有名な言葉がある。御恩と奉公の強い主従関係で結ばれた、頼朝と御家人の関係にもこれは当てはまる。頼朝の御家人である関東の武士たちは、それぞれ仲間意識を持ち、御家人の1人がその権利を侵害されたならば、頼朝の指揮のもと、みんなで協力して敵と戦った。この相互協力の関係を機能的に行うため、頼朝というリーダーを必要とした、とも言えるだろう。この「頼朝とその仲間たち」というような関係が築かれたとき、すなわち、以仁王の令旨を受け、挙兵し、鎌倉入りを果たした1180年鎌倉幕府の成立と考えることもできるだろう。

権門体制は、歴史学者黒田俊雄が提唱した日本の中世国家体制に関する学説。岩波講座『日本歴史 中世2』で「中世の国家と天皇」というタイトルで発表した。 この「権門体制論」は戦前の歴史学者平泉澄の研究を継承したものとする、歴史学者今谷明の指摘もある。

 中世における国家体制を考える際に、権門体制論と東国国家論というものがあることはすでに述べた通りである。この区分に従うなら1185年説と1192年説はいずれも朝廷が幕府にお墨付きを与え、公認した出来事を契機としており、その意味では権門体制論的な歴史観に立った説と言えるだろう。

東国国家論」は、天皇と将軍を並置し、上下の関係とはしません。 京都の天皇が貴族を従えて支配を行うのと同様に、鎌倉の将軍は、武士たちを組織して東国を治めている。

 他方で「頼朝とその仲間たち」が挙兵し、鎌倉入りを果たした1180年説は、東国に朝廷の影響から脱した別の政治主体が誕生したことを意味する。つまり、東国国家論的な歴史観に立った説と言えるかもしれない。 

■鎌倉幕府の統治機構と経済基盤

「源腰朝とその仲間たち」が確立した鎌倉幕府はとんな仕組みだったのか。これだけは押さえておきたい。鎌倉幕府の統治機構と経済基盤

▶︎政所・侍所・問注所が支える幕府運営

 鎌倉幕府の統治機構は、将軍=鎌倉殿である源頼朝を中心に、軍事・警察を司る侍所、財政や将軍家務・政務を司る政所訴訟・裁判を司るとされる問注所が設けられた。

 

 政所は、幕府の重要な経済基盤である関東御領(鎌倉殿=将軍が実効支配する荘園・国衝領)の経営、幕府が請け負う東国の荘園・国衛領年貢の京を中心的に行った。また、頼朝の死後には問注所が担ったとされる訴訟・裁判なども担ったとされる。

 いわゆる文官が中心となる機関であるが、初代別当(=長官)には京から下ってきた宮人・大江広元が任ぜられている。

【文官】・・・武官以外の官吏の旧称。 軍事以外の行政事務を取り扱う官吏。 ⇔武官

 頼朝は鎌倉幕府を確立する当初から文官を集めることに力を注いでいた。軍事的行動がメインで読み書きには劣っていた武士たちのなかにあって、政権運営を担う文官の重要性を頼朝は熟知していたと思われる。頼朝の死後に発足した13人の合議制にも、大江広元をはじめ、多くの文官が選出されているのはこのためであろう。

 侍所は御家人を統制する機関であり、全国の御家人リストを作成し、招集・動員された御家人たちの管理や確認を行い、戦場においては軍目付として御家人たちの行動を監督する役目を担った。

 平時の軍役としては、内裏や御所を警備する京都大番役、将軍御所を警備する鎌倉番役の管理も行っている。初代侍所別当には和田義盛が、次官にあたる所司には梶原景時が任ぜられている。

 問注所は、訴訟当事者への事情聴取と鎌倉殿への上申、その判決を仰ぐ機関として発足したとされる。

 当初は頼朝の邸宅の一部に置かれたが、問注所執事(=長官)を務めた三善康信の邸内に移され、頼朝の没後は将軍御所の別郭に移った。訴訟や裁判はその後、政所が担うようになり、実際、問注所がどのような機関だったかは、いまだに不明な点も多い。

▶︎荘園公領制と守護・地頭

 寿永2(1183)年後白河上皇は、東海・東山・北陸三道の荘園・公領において、年貢を払わない者は頼朝の判断で征伐を許可した「十月宣旨」を発している。

 荘園公領別においては、貴族である国司が国ごとに任命された。

 平安後期には国司自身が任地に赴くことは珍しく、京の下級宮人を目代として派遣し、現地から税などの上がりを送らせるようになる。

 この目代のもとで在地領主すなわち武士たちが在庁宮人を務めたのである。中央の保護を得ることで、在地領主である武士は自分の土地を守ることができた。

 他方、貴族や寺社に寄進することで、土地を安堵する方法が取られたが、寄進された貴族を上司、寄進する在地領主は下司と呼ばれ、下司と在庁宮人はほぼ同じクラスの人物であった。

下司(げし/げす)とは、中世日本の荘園や公領において、現地で実務を取っていた下級職員のこと。 惣公文(そうくもん)とも呼ばれる。

 土地を巡る問題はしばしば、訴訟に発展したが、頼朝の権限で守護・地頭が設置されることとなったのである。これにより、朝廷を通すことなく地元の訴訟の裁定を行うことができるようになり、関東の武士たちの本懐は達成 (目的を達成する)されたことになる。

 当初は関東御領、関東知行国に限定された権限だったが、平氏追討のなかで得た新たな占領地に地頭を置き、また義経捜索を名目に、これを全国に広げて恒久的な制度にしていったのである。

■源頼朝の急死

征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府の基盤をより磐石なものとした瀕腰朝。大姫の入内を画策し、朝廷との繋がりを強めるなか、腰朝自身が急死してしまう。

▶︎失敗に終わった大姫入内工作

 建久6(1195)年3月、源頼朝は、東大寺大仏殿の再建供養に参列するため、正室・北条政子とともに上洛。頼朝にとって伊豆配流後、2回目にして最後の京入りだった。この上洛の際に、頼朝と政子は、長女の大姫入内工作を行っている。

 頼朝は、大姫がわずか6歳の頃に、木曾義仲の息子・清水義高許嫁(いいなずけ)とした。しかし、その後、義仲と対立しこれを討伐した際に、義高も殺してしまったのである。これに大きなショックを受けた大姫は、以来、心を病み」今でいう神経症の一種を患っていたとされる。

 

 自分のために不幸な境遇に陥った娘に償う父としての気持ちと、鎌倉幕府の政権基盤をより確かなものとするべく朝廷との関係を強化しょうとする鎌倉殿=将軍としての思惑が重なったのか、頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妻にしようと考えたのである。

 それまで朝廷とのパイプ役を担ったのは、太政大臣なども務めた九条兼実だった。反後白河上皇派でもあった兼実を通じて、大姫入内の実現を画策していた。

 

 しかし、その間に入った後白河上皇の側近・土御門通親(つちみかどみちちか)によって兼実は失脚させられてしまう。通親、そして同じく後白河上皇の寵愛を受けて権勢を振るった丹後局籠絡(ろうらく・他人をうまくまるめこんで、自分の思う通りにあやつること。)された頼朝と政子は、大姫入内のために莫大な贈物や荘園の安堵をさせられた。

 ところが、頼朝上洛から2年後、未だ入内が達成されないなかで、大姫が病死してしまい、この計画は失敗に終わる。さらにこの翌年、後鳥羽天皇は譲位し、土御門天皇が即位する。土御門天皇の母は通親の養女であった。結局、大姫入内は頼朝が朝廷に翻弄されるかたちで、何も成果を得られぬままに終わってしまった。

 

 鎌倉幕府は関東の武士たちが朝廷の影響から距離を取って、自立・独立を果たす目的で作ら一れたものである。義経の失脚その追討の原因も、後白河上皇から直接官位を任じられ、その結びつきを強めたことにあった。これが関東の武士たちの不信に繋がったのである。それは、頼朝とて例外ではなかったのかもしれない。

▶︎上総広常の暗殺関東武士とのズレ

 関東の武士に担がれたからこそ、頼朝はその結びつきを保つために京へは極力、近づかなかった。とはいえ、京で育った頼朝にとって、あくまでも天皇と朝廷の信任を得ることを重視していた節がある。また、新しい政治権力を確立しようとする際に、先行する権力主体からその正統性を承認される必要があるとも考えたのかもしれない。

 しかし、これは、朝廷・関西からの自立を考えた関東の武士たちとは、やはり大きく立場を異にすることだった。それは上総広常の殺害に見ることができる。

 広常は頼朝が房稔半島に逃亡したのちの再決起を支えた上総の有力武士である。富士川の戦い後、上洛しようとする頼朝に、関東に留まるよう進言した御家人の一人でもある。

 また、慈円「愚管抄」によれば、広常は頼朝に「あなたは関東のことだけを考えていればよい」と語ったとされる。つまり、朝廷のことまで口を出す必要はないと頼朝を諌めていたのではないか。これに対して、頼朝は「後白河上皇の命を受けた以上、涼を守るのは、武士の義務と考えている」と広常に伝えたという。

 京との結びつきを重視する頼朝にとって、関東は独立すればいい、京のことなんてどうでもいいという発想は、平将門のような幼稚な思想と大して変わらないのではないかと感じられたのかもしれない。将門のような敗者にならないためには、法的な根拠や正統性を朝廷から得る必要がある。そのように頼朝は考え、征夷大将軍の任命や守護・地頭の設置など、常に朝廷からの承諾を得ることをよしとした

 その過程で、広常は頼朝の一番の腹心である梶原景時によって暗殺された。『愚管抄』には、広常は景時と一緒に囲碁が突如、碁盤の上に走り上がり、刀を抜いて広常をひと刺しに殺してしまったと記されている。『吾妻鏡』には記事がないが、当然、頼朝の命によるものだったことだろう。おそらく、京との結びつきを深める上で、広常の存在が邪魔になったと類推することができる。

▶︎頼朝の急死と曾我兄弟の仇討ち

 建久10(1199)年1月13日、大姫の死去からわずか2年後、頼朝は急逝した。その突然の死は、大きな謎に包まれていると言っても過言ではない。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、頼朝の最晩年の記録はほとんどといって残されていない建久7(1196)年から9年間の事績がまるまる抜け落ちており、頼朝の死の前後の記事もあまりにも簡略化されているのだ。

 死の前年末、頼朝は相模川での仏事からの帰路、不意に落馬し、その後体調を崩したとされる。おそらく脳梗塞や脳溢血のような病気だったと思われる。

 また、死の前後に関する記録が簡略化されていることから、後年、頼朝の暗殺を疑う説も唱えられた。その根拠のひとつに、建久4(1193)年5月に催された富士の大巻狩りと、その裏で進行した『曽我物語』でも有名な曾我兄弟の仇討ち事件があった。

 富士の裾野で行われた大巻狩りでは、頼朝の嫡男・頼家が鹿を射止めている。巻狩りにおける獲物は神からの贈物と考えられ、いわば頼家は将軍家の正統な後継者であることを、神から認められたことを意味する。こうして巻狩りはそのまま、頼家が祝福されたことを祝う祭りに転じた。

 ところが、その祭りが催される最中の同月訪日の夜になって、頼朝の側近の工藤祐経(すけつね)が、曾我十郎祐成(すけなり)と五郎時致(ときむね)の曾我兄弟によって殺されるという事件が起こつた。祐経は曾我兄弟の父親の仇だったとされる。この仇討ちは、祐経を殺すだけでは止まらず、曾我兄弟はその後も暴れ回り、多くの死傷者が出たとされ、頼朝らが逗留した宿所は混乱に包まれた。

 このとき頼朝が暗殺されたという誤報が鎌倉にまで伝わったとされる。この報を受けて、頼朝の弟で、平家討伐の総大将を務めた範頼は、北条政子のもとを訪れ、「兄上にもしものことがあっても、この範頼がおりますから、御心配は要りません」と慰めたという。しかし頼朝が鎌倉に帰還したのち、「自分になり代わり将軍になろうとした」ということで修善寺に流され、その後、暗殺されたとされる

 もし仮に曾我兄弟が本当に頼朝暗殺を画策しでおり、それに範頼も加担していたとすれば、その黒幕とは一体誰なのか。

 曾我兄弟のうち、弟の時致は、北条時政の「時」の字をもらっている。つまり、時政は烏帽子親だったわけだ。この仇討ち事件の混乱は、曾我兄弟と深い関係にある北条時政が密かに画策したクーデターだったのではないかとする説もある。

 『吾妻鏡』では、頼朝の晩年に向かうほど、時政の政治的な動きが少なくなっている。頼朝に敬遠されていた可能性も高いということだ。このままではまずいと、実権を握るためにクーデターを起こしたとも考えられる

 

 つまり、曾我兄弟を使った時政のクーデターは、頼朝に代わり範頼を将軍に据え、時政が実権を握るというものではないかということだ

 また、範頼が幽閉された修善寺は、北条氏の支配下にある地だ。そこで範頼が暗殺されたとすれば、時政は範頼の口封じをしたのではないか13人の合議制発足後、次第に権力欲を顕にした時政の姿を考えれば、そのように推測することもできるかもしれない。

 

 朝廷との繋がりを重視する頼朝。朝廷よりも自分たちの所領を安堵し、朝廷からの自立を進めたい御家人たち。そして、幕府の実権を握りたい北条氏。さまざまな思惑が、頼朝の死には交錯していたように見える。