図説・鎌倉幕府

■図説・鎌倉幕府

田中大喜 

▶︎序に変えて

 「鎌倉幕府」は、おそらく日本中世史のなかで最も有名な歴史用語ではなかろうか。編者が小中学生の頃には、鎌倉幕府の成立年は1192年と教えられており、「いい国つくろう、鎌倉幕府」という実によくできた語呂合わせで、全国の小中学生の脳裏に「鎌倉幕府」という用語が刻み込まれていったように思われる。最近では、教科書でも鎌倉幕府の成立年の見直しが図られたため、右の語呂合わせが学校の教育現場で使われることはなくなったかもしれないが、それでも「最初の武家政権」という強いインパクトで、「鎌倉幕府」は今もなお人びとの脳裏に刻み込まれ続けていることだろう。

 鎌倉幕府を有名にした背景には、上記に述べた絶妙な語呂合わせの影響も無視できないが、それ以上に堅剛以来の重厚な研究史があることを忘れてはならない。これによって、鎌倉幕府は成立から滅亡に至るまでの政治史をはじめ、権力構造・訴訟制度・軍事制度・経済基盤など、さまざまな側面から実態が詳細に明らかにされているのである。しかし、こうした重厚な研究史にもとづく豊かな研究成果を社会に広く発信することは容易ではない。そこでここでは、鎌倉幕府に関係する膨大な研究の到達点を、豊富な図版を交えながらわかりやすく示すことで、これに努めた。各項目には参考文献を付したので、これをご参照いただくことで研究史を確認しながら、内容を吟味することができるはずである。

▶︎梶原景時の乱・・・頼朝最側近のたどった運命

 正治元年(1199)正月、初代将軍源頼朝の急死を受け、子頼家が鎌倉殿を継承した。この年の冬、阿波局(北条時政娘・政子妹)が御家人結城朝光(ともみつ)に「景時の讒言(ざんげん・他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと)であなたは誅殺(ちゅうさつ・罪ある者を、その罪を理由として殺すこと)される」と告げたのをきっかけに、有力御家人六十六人が共同で頼家に対し景時追放を直訴するに至った。

 

 年が明け、頼朝の一周忌が過ぎた頃、景時は籠居(ろうきょ・家の中にとじこもっていること)していた相模一宮(さがのいちのみや・神奈川県寒川町)から上洛を企てるも、駿河国清見関(きよみがせき・静岡市清水区)で一族もろとも討伐された。『愚管抄』が「一ノ郎等(いちのろうとう)」と記す頼朝側近中の側近であった景時は、主人の死から一年で族滅したのだった。

 頼朝の最側近だけあって、『平家物語』や『吾妻鏡』にも多く登場するが、その人物像は概して傲慢で陰湿である。頼朝に謹言して源義経失脚の要因をつくつたとの逸話は、特に有名である。

 ただ、景時を悪く描く逸話は、滅亡から逆算して歪曲された面もある。頼朝が景時を重用したのには、それなりの理由があったに違いない。例えば、木曾義仲の追討後、京都から鎌倉へ義経をはじめ五人から合戦結果が報告されてきたが、景時だけ討ち取り・生け捕りにした敵方のリストも付けていたので、頼朝が大変感心したという。

 景時は政治面や軍事面で有能さを発揮しており、京都へ派遣されて朝廷との交渉役を務めるなど、頼朝のあつい信頼を得ていた。幕政においては、侍所の所司(しょし・官庁の役人)に抜擢されている。所司は次官で、長官の別当は和田義盛であったが、実際の活動においては義盛に勝るとも劣らない存在感を示している。

 また、「言語を巧みにするの士」ともされた景時は、和歌にも優れた才能を示している。『平家物語』をはじめ請書に、和歌を詠んだ逸話が残っている。こうした文化面での有能さも、頼朝の歓心を買ったのだろう。

 後継者である頼家の乳母夫(めのと・貴人の子の養育にあたる男性)になっていたことから、頼朝死後も引き続き頼朝・頼家二代にわたり、あまりに将軍個人との関係を深めすぎたことが、他の御家人から弾劾される結果へとつながったのである。(下村周大郎)

▶︎比企能員(ひきよしかず)の変・・・陰謀と将軍殺し

比企氏・・・平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。)

 『吾妻鏡』から変の経緯をみよう。建仁3年(1203)7月20日、予想された。将軍・頼家は重病に陥り、万一の事態が予想された。そこで、8月27日、頼家嫡子の一幡(いちまん)に惣守護職(そうしゅごしき)と関東28ヶ国の地頭職を、弟の千幡(せんまん・のちの実朝)に関西38ヶ国の地頭職を譲る決定をする。日本のすべての守護と地頭を任命できる鎌倉殿の権限を二人に分割したのである。一幡の母は比企能貝の娘、対する千幡の母北条政子であり、比企氏と北条氏、両勢力の対立が背後にあった。

 9月2日、比企能員は病床の頼家に対し、北条時政を討つことを持ちかけ、頼家も許可を与えた。しかし、障子を隔ててこれを聞いた政子は、急いでこの陰謀を時政に知らせた。時政は一計を案じ、仏事にかこつけて能員を自邸に招き、暗殺した。だましうちである。頭目を尖った比企一族は、一幡の屋形(小御所・こごしょ)に立て籠もる。そこに対し、北条政子の命令で幕府の大軍が押し寄せた。奮戦空しく比企一族は討ち取られ、一幡は混乱のなかで死亡した。

 比企氏側の残党狩りと戦後処理が始まったが、予想外なことに、9月5目、頼家の病状が回復した。事件を知った頼家は激怒したが、結局出家させられ、伊豆の修善寺 (静岡県伊豆市)に幽閉されてしまう。翌年の元久元年7月18日、伊豆にて頼家は死去した。死の詳しい事情については「吾妻鏡』は記さないが、『愚管抄』の記事などから、北条氏側による暗殺と推測される。おそらくは、能員と頼家の謀議も、「吾妻鏡」の曲筆なのではないか。

 血なまぐさい過程を経て、千幡は元服して 源実朝として鎌倉殿の地位につき、北条政子の協力のもと、外祖父の北条時政が実権を握る体制が成立した。時政は邸宅に実朝を迎え入れ、鎌倉殿の意思をうけたまわるという体裁で、時政一人の署判による文書を御家人たちに発給したのであった。 (木下竜馬)

▶︎畠山重忠の乱・・・名門武蔵武士の落日

 畠山重忠は、幕府有力者のひとりであり、武蔵武士を名実ともに代表する存在だった。その背景から述べよう。

 鎌倉幕府成立以前の武蔵国は有力武士団が数多く存在したが、そのなかでも平良文を祖とする秩父平氏は最有力の武士であり、国衛を拠点としながら、秩父氏、江戸氏、河越氏畠山氏などが各地に枝分かれしていった。重忠は、そんな秩父平氏の嫡流として誕生した。

 

 武蔵国は平氏知行国であり、秩父平氏も平氏政権に従った。頼朝が挙兵した際は、平氏側として重忠は初陣を飾り、挙兵に応じた三浦氏の軍勢と戦っている。しかし房総半島に逃げた頼朝が勢いを得ると、他の秩父平氏とともに頼朝に臣従し、頼朝を武蔵国に迎え入れた。これ以降重忠は頼朝方の有力者のひとりとなり、頼朝の鎌倉入りや建久年間の上洛では名誉ある先陣を務めた。重忠は武蔵国留守所惣検校職に任ぜられ、武蔵国衛を掌握する存在として頼朝に認められた。

 

 頼朝が進めていった合戦で、重忠は活躍していく。寿永二年(1183)には 源義経の指揮下で上洛して木曾義仲軍と戦い生田(いくた)ノ森・一ノ谷の戦いでは平氏軍と戦った。そこでの伝説的な活躍は後世の軍記物にくわしい。文学上の虚構とされているものの、いわゆる「鶴越の坂落とし」で義経軍が騎馬で崖を駆け下るなか、馬を怪我させぬよう、重忠だけは愛馬を担いでいったという話は、重忠が情け深く武勇優れた侍として記憶されていたことを示す。また、奥州合戦でも先陣を務め、鎌倉軍の中核を担った。

 重忠の人柄は、文治三年(1187)の『吾妻鏡』の挿話でも描かれる。梶原景時の讒言(ざんげん)で、重忠は謀反を疑われ、使者に伴われ鎌倉に出頭したし、その場で重忠は「謀反を企んでいるという噂が立つのは、かえって名誉である」と言い放ったという。重忠の率直さ、豪胆さ、そして自信のほどを示すものである。

 かくして畠山重忠は、幕府内の最有力武士のひとりとして、重要地・武蔵の要となった。頼朝は重忠を厚過しており、北条時政の娘二人を重忠とその従兄弟の稲毛重成に嫁がせ、姻族としている。

 頼朝死後も重忠は有力者としての地位を保ったが、比企能員(よしかず)の変を経て北条時政が権力を握ると、関係が微妙になってくる。建仁3年(1203)10月27日には、武蔵国の武士らに対し、時政に忠誠を誓わせる命令が出ている。武蔵国に進出する気配を見せる時政にとって、重忠は邪魔者に映ったであろう。建仁巳年(一二〇四)正月二十人口には、「時政が重忠との合戦に敗れた」という誤報が京に伝わっており、同年11月4日には平賀朝雅時政の婿、前武蔵守)と重忠の嫡男・重保(しげやす)が口論している。時政と重忠の村立は次第にあきらかになっていった。

 元久2年(1205年)6月21日、異変は起きた。「吾妻鏡』によって記そう。この日、北条時政は牧の方(時政の後妻)、平賀朝雅(ともまさ)と図って重忠らを殺害しょうとし、息子の義時・時房に協力を呼びかけた。ふたりは重忠のこれまでの勲功を挙げて反対するが、時政は無言で席を立ってしまう。

 翌日、稲毛重成(時政と共謀していたという)によって鎌倉におびき出されていた畠山重保に討手が差し向けられ、合戦の末討ち取られた。そして重忠が鎌倉に攻め寄せてくるという情報に基づき北条義時を大将とする鎌倉幕府の大軍が北上した。率いる手勢わずかに134騎だった重忠軍は、武蔵国二俣川(横浜市旭区)において幕府軍を迎えうち、壮絶な戦死を遂げたのであった。義時は鎌倉に戻り、重忠の謀反のうわさが事実無根であったと再度時政に抗議しているが、返答の言葉はなかったという。

 

 畠山重忠の乱後、武蔵国は北条氏支配下にはいった。この乱は、北条氏による政略であり、幕府成立以前からの伝統をもつ武蔵武士の没落という節目にあたる事件であった。(木下竜馬)

▶︎和田合戦・・・都市鎌倉、初の大激戦

 建暦3年(1213)5月、和田義盛らが幕府軍と戦った和田合戦は、鎌倉でおこなわれた初の本格的市街戦であり、他の政変と比べても抜きんでた被害を及ぼした。背景と経緯を追っていこう。

 乱の頭目である和田義盛は、杉本義宗の子、三浦義明の孫である。三浦一族は相模国衛と関係して勢力を伸ばした雄族であり、頼朝挙兵直後から味方に参じ、数々の忠節を尽くした。なかでも義盛は、侍所別当(初期は侍別当であったともいう)として御家人統制の重責を担い、頼朝の厚い信任を得て、諸合戦で中核的な役割を果たした。頼朝死後、頼家の初政にあたって13人の合議制が敷かれたが、義盛は宿老としてその一人に選ばれている。和田合戦のとき67歳であった義盛は、嫡流三浦義村(義盛の甥にあたる)を官職、経験、幕府内の地位などさまざまな面で上回っており、「三浦ノ長者」(『愚管抄』)と表現される内実を伴っていた。

和田合戦の前提として、それと同年の2月に発覚した泉親衡(いずみちかひら)の乱がある。信濃国の泉親衡という武士が、頼家の遺児(千手丸、のち出家して栄実・えいじつ)を旗印として反逆を起こそうとした計画が察知され、中心人物130名、その家来200名が幕府によって捕縛された、一大事件である。そして捕縛されたなかには、和田義盛の息子らや甥も入っていた。義盛の嘆願によって息子らは赦免されたが、許されなかった。『吾妻鏡』は、これを義盛謀反の動機としている。

 同年3月ごろから鎌倉では兵の動きがあるなど雲行きが怪しくなっていたが、ついに5月2日、和田義盛と一族、そして土屋義清など相模国御家人らが鎌倉で蜂起した。三浦義村ははじめ義盛に味方すると約束していたが、裏切って計画を将軍御所に伝えた。かくして、和田義盛らと北条義時らの幕府軍とが全面的に戦う和田合戦が勃発したのである。

 和田方の軍勢は将軍御所に向かい、義時や大江広元の指揮下にある御家人らを攻撃して、御所を焼き尽くす大乱闘となった。剛力で鳴らした朝夷奈義秀(あさひなよしひで・義盛四男)の活躍は著名である。和田方はじりじりと押されていき、夜には由比が浜のほうまで撤退していった。しかし一夜明けた三日に、和田方の横山時兼が援軍を率いて腰越浦(こしごえうら)に到達したため、再度盛り返した和田方が鎌倉のなかまで攻め込み、激しい戦いが展開された。結局この日中に義盛ら主だったものは討ち死にし、和田合戦は終結した。四日に片瀬川のほとりにさらされた首の数は、234にのぼったという。幕府方の主だった死者50人、手負いは1,000人と記録されており、非常な激戦だったことがうかがえる。

 

 しかし、合戦の余波は続く。合戦の翌月には、西国に隠れた和田方の残党を幕府が警戒しているこ同年11月10日、泉親衡の乱で担がれた顕家遺児の千手丸は北条政子によって出家させられ栄実と名乗らされた。翌年11月13日、栄実とみられる頼家遺児を頭目として和田方の残党が京都で蜂起しようとした容疑で、大江広元の家人がこれらを討ち取っている。こ敗残者どうしが結びついたとも考えられるが、泉親衡の乱和田一族関与していたことも踏まえると、その結びつきはさかのぼる可能性もある。合戦の際、和田方が実朝の御所に火をつけたことを考えると、単なる義盛の私怨による挙兵とはいえず、実朝と義時・広元らが構成する幕府の体制そのものを否定する目的があったという説もある。

 乱の結果、北条義時は政所別当に加え、和田義盛が保っていた侍所別当の座を手に入れ、幕府内での地位を確固たるものとしたこまた、和田一族を土壇場で裏切った三浦義柑は、幕府政治に深く関わる有力者とをつた。親族を切り捨てた義村の冷徹な判断が、「三浦の犬は友を食う」とある。