ユリウス・カエサルのローマ

■ユリウス・カエサルのローマ

小倉 隆志

歴史発見!西洋古代史~メソピタミアからギリシャ・ローマまで~』の講座は、西洋古代文明の夜明けと発展を、メソポタミア・ギリシャ・ローマの各文明の発展と衰退を見ながら、わかりやすく楽しく学びます。

 更には、現代社会がいかに影響を受け、私達の生活や習慣と関わりがあるかについても学んでいきます。


■1-録音22分  古代ローマ-1

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  共和制ローマってのはですね、先週をやったんですけども、王様が追い出された後にルキウス・ユニウス・ブルータスという人物が、初代の執政官、いわゆる指導者なりました。このいかなる人物だろうと王座に就くことは許さないで、どんな人であろうとローマ市民の自由を犯すことはできないという。以後に王に代わる国の最高位者として、1年ごとに市民集会で執政官が選ばれた2人なんですね、独裁しないように。これ以降というものは、ローマというのは1年ごとに選ばれて者が、個人よりも法が支配する国家になる

 法治国家のいわゆる原型みたいなものがローマの中に見られるができます。人間の行動原則を哲学に求めてギリシャ人が来て、宗教に求めるユダヤ人がいて、法律に求めたローマ人がいたというふうにこの塩野七生さんという方は言ってますね我々の行動原則というものは何かっていうことをですね、考えてみると、いいかなというふうに思います。

 実は先週やった内容で先週の復習になりますけども、ローマはですね本当に都市国家として小さなローマから始まってですね、だんだんの領土拡大して、ついにローマ共和国がイタリア半島ですね。いわゆる今のイタリアの部分を占領するなりました。その後ローマ共和国は地中海世界の覇権をかけて、その当時のですね、フェニキア人の植民地であるカルタゴっていう植民地国家と戦うようになりました。これがポエニ戦争と言いますね。

 3回にわたるぽエニ戦争があり、そしてローマ共和国はハンニバルなどですね、非常に強い敵もいたんですけれども、最終的にはハンニバルなどを打ち破ってカルタゴを下すとなります。そしてポエニに戦争でカルタゴを滅ぼした後は、ローマは地中海世界を自分たちのものとして地中海を我らの海というふうに言われるようになったんですね。

 このようにしてローマがどんどんどんどん大きく成長していきました。しかしですね、先ほど言ったカルタゴに出てきたカルタゴの将軍の始まりを超えてるんです。

 どんな超大国と言えども、長期にわたって安泰であり続けられないと、国外には敵がいなくてもな、国内に敵を持つようになると。外からの敵を寄せ付けないとしても、体の内部の病気に苦しまされる似てるんだと。後ににローマでは親に戦争の勝利に伴う社会構造の変化に適応できずに内乱の1世紀と呼ばれる混乱の時代が訪れることになりました。それが今日の内容になるんですね。

 ポニエ戦争後の内容を今日はちょっとやっています。その後いろんな問題が起きたんですね。どんな問題かというと、領土がどんどん広がっていって拡大する中で、海外の属州と言われる植民地を守るための条文が必要だったんですね。徴兵制度はもう足りなくなったと。いうのがありました。元老院議員にならないで、経済活動に専念する資本家の登場つまり、ビジネスマンが力を持つようになってきたってことなんですね。政治家だけではなくて、また長期の戦争が疲れて、苦しんで疲弊している中小農民が無産市民となっていたホームレスになりローマの大都市に流入してきたと。

 4番目イタリア半島の様々な都市が台頭し、ローマの支配に不満を持ち始めるという形で、様々な内側の問題が出てきたとかですね。こんな状況でですねこれらの問題を解決する、いくつかの人々が出てきました。最初はこのグラックス兄弟と言われる人が出てきて、この兄弟がですね、没落した農民の再建のために、大土地所有者が不法に占拠した土地を回収して無産市民に与えようとしたといわれます。

 彼らはBC123年護民間と言われることに民衆の立場を守る人々のその役割に当選して、必死に有利な改革、植民都市建設やローマ市内の穀物配給など、無産市民が喜ぶ政策を掲げたんですけれども、その当時の特権の取り巻きの特権階級って言うんでしょうかね。元老院議員たちの動向の反対にあって、回復が挫折してしまいます。

 さらに、BC121年に元老院の最終勧告というですね。つまり、このルールに従わないとあなたは国家反逆者であるという。非常に厳しい、そのような勧告を元老院が出して、それによって彼らは民衆のリーダーとなってグラックス兄弟は、国家反逆者のレッテルが貼られて殺ろされてしまう。志半ばでグラックス兄弟が殺されて死んでしまうんですね、残念ながら。

 このような中で後に出てきた人物が、ガイウス・マリウスという人ですね。ならば、軍政改革を行い、職業軍人が官僚として生まれました。書いてあるのは、失業者問題が福祉の充実では解消しきれない問題であることは、その理由が失業とは生活手段を失うだけじゃなく、人間の存在理由を失うことにまで繋がったと。グラックス兄弟では農地を与えて植民都市を建設して、公共事業でそれを解決しようとしたんですけども、死んでしまったんですね。

 マリウスはこれの失業者たちを軍隊に吸収したつまり、職業軍人として彼らを用いることによって、彼らのアイデンティティと彼らの生活を回復させようとしたというのがあるんですね。はい。そういうのがありました。次に出てきた人物はですね民主派といわれるものに対する族派キウス・コルネリウス・スッラという人物ですね、先ほどの軍制改革を行ったマリウスというのは民主派って言われました。

 それに反発する保守的な元老派の貴族たちですね、民主派に対する貴族たちは閥族派と言われたんです。そのリーダーとして、マリウスの副将として活躍したスッラという人物が台頭して、国家がですね民主派と閥族派の内乱に発展するようになったんですね。BC81年にスッラが勝利して、独裁官(ディクタトール)に就任し改革を実行する。独裁官に就任して改革を実行しますね。彼は権力を握るとですね。民主派の周りを粛清したんですね。

 つまり、彼らはこの武力で弾圧する恐怖政治の元祖のようなものになったですね。自分に忠実な軍で動かして政権を場をつまり軍事力による権力を手にする悪い先例なしまったとありました。

 でこの処罰者名簿にはですね、マリウスの義理の甥だってユリウス・カエサルはいたんです。彼は危うく殺されそうになるんですね。しかし、まだこのときから18歳でスッラの支持者、果てはローマで尊敬されているウエスタの巫女からまでも、除名嘆願が相次いで、スッラもこれに同意すると、スッラは「君達にはわからないのかね、あの若者の中には多くのマリウスがいるということを」語ったと伝えられる。つまり非常にこのスッラという人物は独裁者になったんですけども、カエサルという人物が弱冠13歳ながらも、只者ではないということを薄々気づいていたという。人が見る目がおそらく、あったと思われますね。

 はい。でこの後はですねこのカエサルではなく、またあの偉大なる将軍としてポンペイウスという人がいます。ポンペイウスはローマのアレクサンドロスという別名を持ってる人で、彼もスッラの率いる閥族派の武将として活躍したんですけども、無位無官ながらスッラのために戦い民衆派を次々と破るんですね。BC71年にはスパルタカスの反乱を鎮圧し、スッラが廃止していた護民官職と、騎士階級から奪っていた裁判権を付加させるんですね。BC70年ポンペイウスクラッススという金持ちなんですけども彼らが執政官に就任しました。だから非常に暴力に対して、戦争に対しては才能があったんですね。このその通りですね、あの地中海世界に海賊が挟まってました海賊がいると、もう普通に貿易とか船の運航ができなくなっちゃうんですね。いかにして海賊を討伐するかということで、BC67年に海賊討伐のために以下の法案が起結されました。

 

 それでヘラクレスの柱と言われていたジブラルタル海峡の東海岸から400スタディオン以内陸地支配権を制する。15人の副官を任命する権利および徴税請負人の融資から希望するだけ戦費を使用する権利と200隻の軍艦を与えるとともに、兵士と漕ぎ手の募集を一切を委ねる事と、これはつまり、もう国のお金を使って軍隊も自由に使って、あなたの好きなように軍隊とお金動かしていいと

 インペリウム(軍事指揮権)ですね。この法案はすごく反対されるんですけども、ポンペウスの支持者たちによって可決されてしまいました。つまりこのこのこのあまりにも強大な権力をポンペウスに与えるということですね。これで常備軍の軍備が2倍になり、ポンペウスの軍艦12万人の重装兵5000の騎兵を率いて海賊掃討作戦になるとそれこれぐらいの非常に大きな力、インペリウムというこの軍事指揮権なのですね、インペリウという言葉が元になってエンペラーなりました。エンペラーは皇帝の意味ですね。エンペラーの語源は、軍事資金を見せるインペリウムですね。

 その後ですねBC66年にこの海賊討伐が終わった後に、護民官ガイウス・マニリウスが「現在保有する海軍と制海権を保持したままポンペイウスにトルコのですね小アジアにあるミトリダテス王・テグラネス王の討伐をやってくれないかと、海賊を征伐した後の戦争を遂行させる。これはポンペウスに独裁権を認めるに等しいとして元老院の反発を受けるが、民衆の暴力を恐れた元老院たちによって法案が可決される。海賊王国の征伐した後の別の王国の王様を討伐してくれないかと。これもこのポンペウスがですね与えて、この強大な指揮権が与えられることを元老院が反対したんですけども、しかし、民衆の暴力を恐れた元老院によって法が可決され、結局これによってまたポンペウスはこの国を討伐したのです。

 つまりこのように陸地・海上支配権、国家予算の使用許可とか軍隊編成、将軍の任命許可、これは3年の期限付きとはいえ、ローマ皇帝の原型になる。

 そのようなシステムのもとになっていたんです。はい。ポンペウスはですねこのBC64年に世界征服者としてオケアノスの全周に足跡を残したいと熱望して紅海に向かうと、ボスポロス海峡で守備隊を置いて、自らは大軍を率いてミトリダテスを追撃する。その後シリア、ユダヤを制圧し、これをローマの属州としたという。

 周辺の小王国を次々と征服し、ローマの従属国とした。その家来たちはポンペウスの家来のような存在となった。つまり、本編最大のこのですね。軍事的な才能を持って次々とローマの周辺にある国々を支配して政府にしていったんですね、世界征服者だと。でその当時はですね、もちろんアメリカなんてものはないんですね。認められ、見つけられてないんですアメリカもオーストラリアもないんです。なので、ここの図がその当時の世界地図ですね。ヨーロッパはエウローパと言われていたんですね、北アフリカも南アフリカとかそっちまでわからないですね。なので、リュビアやって言われてましたリビアにある北アフリカ、そしてアジアと言っても中国とか日本なんて見つかってないんですね。

 なので、この短いこの中アラブの中近東がアジアと言われていて、この周りを海が囲んでいてこの周りの海の方とオケアヌスていったんですね。「オケアヌス」っていうのが英語のオーシャン(ocean・大洋)の言葉のもとなりました。そのようにポンペイウスは非常に才能を持ってですね国々を治めていったんですけども、しかし、以来のポンペウスは歴史が古く後の偉大な1人の人物になれなかったと、ローマ史上の偉大なる個人にはポンペウスではなくて別の人物がなるほどになると。

 いうことで、そのポンペウスの後に出てきた人物が、ユリウス・カエサルという人ですね。英語ジュリアス・シーザーといいます。ドイツ語カイザといい、ロシア語でサーリといい、全部皇帝を表す言葉の語源になったのが、いわゆるこの古代だけど中世・近世の皇帝を話す言葉になったのが、ユリウス・カエサルという人物です。

 で彼に関しては、いかなる軍隊になっても勝利しただろうし、どんな国に生まれても指導者になっただろう。モンテスキューは言っていたんですね。指導者に求めない姿勢は次の五つである。知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御能力、持続する意志、カエサルだけがこれを持ってたとイタリアの教科書。ローマが産んだ天才であるとドイツの歴史家の抜群の闘争力素晴らしい寛容性、享楽好きと知識欲と思えるような野心を見事にマッチさせた多彩な才能というふうに、「エドワード・ギボン」という歴史家からあらゆる意味でいろいろな形で言われてる人なんですね。

 この人物は、いろんなことを言われますけども彼はBC100年に帝王切開に誕生したんですね。皆さん例えば帝王切開ってね、もちろん言いますけども、要は誰かと言うんですけども、これはラテン語でクト・カエサルオと言ってるんですね。なので、帝王切開の帝王は誰かというとこれはカエサルのことですね。元々私ね帝王切開というふうに言いますけどその帝王とカエサルの言葉です。

 カエサルは最初はですねとてつもないこの浪費家であり女たらしとして有名だったそうなんですが、さっきは天文学的でBC61年に前法務官としてイスパニア項目前にカエサルが高飛びすることを恐れて出発を妨げたため、カエサルは最大の債権者クラッススというのは、大金持ちですね、いわゆる。今までトランプ大統領はトランプさんみたいですかね、泣きついて債務保証してもらい、任地に出発したと。塩野七生さんは「借金が少額のうちは債権者が強者だが額が増大するや、この関係は逆転するという点をカエサルが突いた」と言ってるんですね。

 つまりカエサルが破産してしまったら、たくさんのお金を貸したクラッススとしては大変なことになるので、債権者クラッススは、カエサルを全力で支えるようになると。さらに国家予算級に至った借金の理由として愛人たちのプレゼント代が使われている。自ら選んだ高額な品物を女たちに贈ったので女たちは嫉妬もつかみ合いもなく列を作って順番が来るのを待つかのようにおとなしく愛人になっていた面白いことが書いてあるんですけれども、そんな人物が、ただ彼が40歳になると、この世界が彼を中心に回り始めると言われてるんですね。

 BC60年にカエサルはヒスパニアに帰還して、政官(コンスル)に立候補します。ポンペウス、カエサルの仲介によりクラッススと和解し、ポンペウス、カエサルに協力し、第1次三頭政治というのは整理するんですね。それは偉大な将軍であるポンペイウスと、大金持ちのクラッススと非常に民衆から人気が高いとされたですね。この3人で国家を動かしていこうという密約みたいなもんですね。これが第1回三頭政治にされました。公ではないんですけど、この元老院の反対のためにここには達成できなかったものを3人で団結してやっていきましょうというそういうことですね。これが第1回三頭政治です。

 この後カエサルはどのようなところに向かっていったかというと、ガリア征服戦争というものに行きます。これは何かというとですね、これはあのガリアっていうのはその当時の西ヨーロッパのことですね。

 はい。その後がその際にガリアでしょうなんです。ガリアを知ることはその後1000年ヨーロッパの意味を知ることと同じであるとカエサルのガリア戦争というのは、西ヨーロッパの歴史を左右することになりBC58年にカエサル執政官の全執政官の中で、ガリアの続総督に就任し、彼は自分の武力によって次々と西ヨーロッパのガリア人を征服して自分で領土をどんどん広げていくんですね、ヘルメティー族の抑圧を抑えた後に翌年にはガリアと述べるベルガエルとはベルギーね、あのベルギーから参加されてらっしゃる方も言いますけども、このまさにガリアンなんですね。ベルギーは、そのガリア北東部のベルガエ人というのがベルギー人の始まりです。諸部族を制圧しました。

 はい。でその後はですね、カエサルはですね、BC52年ゲルマニアはジャーマンでドイツですね、ドイツのガーリア進出を退けライン川防衛戦を作ったんです。ローマ帝国滅亡に至るまで、このカエサルのその国家に対する思想というものありましたその思想は何かというならば、川が国境になるんだということですね。川が国境になるのがいいと、これはカエサルの考えだったんです。

 それによってこのライン側と、ドナウ川のですね。ドナウ川が国境として使われるべきだというふうに彼は考えました。BC55年およびBC54年にブリタニアさらにイギリスに遠征したんですね。ここで事実上最初のブリタニアに軍を率いて攻め込んだのがカエサルだったんです。これでカエサルは戦闘に勝利を治めて原住民の支配者になりました。そして彼は未開のブリタニアを明らかにしたというんですね。

 BC55年8月26日大英帝国の歴史の始まりであると。チャーチルが言ったんですが、これはどういう意味かと言うならば、これはですね、このドイツがですね、いわゆるライン側防衛線を築いて、そしてそこではまだあなたたちは何も知らない原住民だったんじゃないかと。そして先にイギリスがローマ帝国に入って先に文明化しましたよという、つまりこの順番みたいなものですね。つまりこのイギリスが文明国家になったけれどもドイツはまだまだ時代遅れじゃないかということを、その通り第二次世界大戦で何度も争っていたチャーチルが、このドイツをある意味馬鹿にするような形で言ったということなんですね。

 はい。BC52年は「ガリア将軍のヴェルキンゲトリクスとのアレシア包囲戦」を行いました。この最大の戦いは52年に「アルウェルニ族の族長ウェルキンゲトリクスとの戦い」だったと、この日ほとんどのガリアの部族が敵対したんですけども、カエサルは、アレシアの戦いでこれを下したと、これらの遠征によってカエサルはガリア全土をローマの属州としました。このようにしていわゆる西ヨーロッパがローマ世界に組み入れられたと、イギリス・フランス地方・ライン川までがローマ世界に踏み入れたというふうになったんですね。このようになりました。

■2-録音12分  古代ローマ-2

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 ローマ世界がカエサルによって西ヨーロッパに踏み入れるようになったということなんですね。でカエサルはですねその戦争が終わった後に「ガリア戦記」というその戦争の内容をある文学として書いたんですね。歴史的な書物として、開催はこのようにしてガリア戦記を記した文書を用いる言葉の選択で決まると言ったんですけども、そのまま本まで書いている。つまり戦争するだけじゃなくて、どこまでこの2000年間に、カエサルの業績に関しては意見がわかれないでもなかったが、カエサルの文章力については誰もがこの一致して称賛したと。————————-

 2000年後でさえも今も岩波文庫であります。買えますね本屋さんで、人格が高く光り輝く壮麗で高貴で何よりも理性的であるというローマのキケロという弁論家が行ってますね。このようにあらゆる戦争もできる、演説も踏まえ、塩素指定、また文学もできるといろんな才能を持ってるチームだったんです。しかしですねこのような中で彼はどんどん力を蓄えていったんですが、最終的にですねこの元老院派から非常に危ぶまれるようになります。このままでは彼がローマを支配してしまうんではないかというふうにカエサルのあまりのこの強大な力に人々が怯えるようになんですね。

 このカエサルが内戦を引き起こす際の後ろ盾となるんじゃないかとガリアの領土が元老院はローマを追うカエサルを警戒するようになりました。このようにして元老院側とカエサル側が対立するようになっていたんですね。三頭政治の一角を担っていたクラッススは戦死してしまいます。ポンペウスですね非常に才能の勝負のポンペウスは元老院側に着きました。BC53年にパルキア遠征していたクラッススが戦死してしまうんです。

 三頭政治は崩壊しポンペイウスはカエサルと距離を置き、元老院側に接近したため両者の対立が顕在化したんですね。BC49年ポンペウスと元老院がカエサルを国家の敵と宣言しました。そしてカエサルのガリア総統職解任および本国送還を命じる元老院の最終勧告、クラッスス兄弟に出された元老院最終勧告が出されたんです。つまりこれはどういうことかというと、全ての軍隊を解除して、つまりその何もすべての武装解除してローマ本国に戻ってきなさいということなんですね。

 そこでカエサルに迫られた選択はルビコン川を渡るかどうかということだったんです。当時軍を率いてルビコン川を渡るということ、イタリア本土に入ることは厳しく禁じられていたんです。イタリア半島に入るときには必ず軍隊を解除しなければいけない。

 この二つの選択ですね。兵は言われた通りに軍隊を解除してローマに帰れば、元老院と組んだポンペイウス側に糾弾されて政治生命が終わるということですね。次の選択は軍隊を率いてルビコン川を渡るならば、ローマは内戦に突入すると、カエサル対本ペースのライセンスとする入試カエサルは国家反逆者とみなされると。いうことです。今もですねルビコン川を渡るっていう言葉は使われますね。人々のあのだったかそういうことわざというかですね、これは運命をかけて後戻りできない。

 もう重大な決断を下しても断固として後戻りできない行動することを呼び込むが終わってるっていうんですね。はい。このカエサルはですね生涯自分の考えに忠実に生きようとしていたんです。それはローマの国家のシステムを改造することで、ローマに新しい秩序をもたらすことですね。ルビコン川を越えないで元老院の最終勧告に屈してしまうならば、内戦を回避されますけども、新秩序の充実が夢に終わってしまい、それでは彼の50年間の人生の意味がないと悔のない人生を生きたのならば彼は許さなかった。ローマ軍のものに書いてます。

 ローマ軍が北はルビコン、南はブリンディシを前に解散しなければならないと、軍隊を率いてのルビコン川を渡るのは法を犯すだけでなく、カエサルに従うにはたった一つの軍団だけが従うとしたと。ルビコン川を望むカエサルにしばらく経つのにこう言ったんですね。ここを超えれば人間世界の悲劇であるとを得なければは破滅であると、以降宿敵の待つローマへ。賽は投げられたですね。これも有名な言葉です。カエサルは賽は投げられたサイコロですね。「DIE IS CAST」って書いてありますけど、つまりこれはどういうことかちょっとこの結果はどうなったとしてももう行動するしかないということを投げられたといいます。これも今もですね、使われたりするそういう言葉ですねだから、本当にカエサルの言葉がいろいろな形で今も使われてますことわざのように。

「賽は投げられた」とは、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前49年1月10日、元老院のグナエウス・ポンペイウスに背き軍を率いて南下し北イタリアのルビコン川を通過する際に言ったとして知られる言葉。当時のカエサルはガリア総督だった。出典はスエトニウスの文章 である。 (ウィキペディア)

 結局彼らはルビコン川を渡ってしまいました。そしてローマが内戦に突入したんですね。はい。この後どうだったかというとですね、ルビコン川を超えたカエサルは、イタリア半島の生活を目指したんですね。以外にもですねポンペウスとこの元老院のは本当にルビコン川を超えてくると思ってなかったのかもしれないですね超えてきたんでびっくりしてしまって、もう逃げてしまったんですね。なので、呼び込んだ超えた後は何の苦もなく開催を簡単にローマを制圧します。元老院議員はこのポンペウスにしたがってギリシャの方に逃げたんですね。でこのようで、すんなりとカエサルはローマ・イタリア半島を支配するようになり、結局元老院議員側とポンペウスがギリシャ逃げて、ギリシャの方で最後の決戦をするようになったということです。

 BC48年のファルサロスの戦いという戦いで兵力に衰えながらも優れた戦術によって勝利を収めます。ポンペウスはエジプト逃げたんですけども、9月29日にアレクサンドリアに上陸しようとした際に、プトレマイオス13世の側近によって、殺されたんです。後を追ったカエサルがアレクサンドラについてのはその数日後でした。はいこのようにしてファルサロスというギリシャのですね。

 この場所でポンペウスを破られ、ポンペイウスはアレクサンドリアに逃げていくところで殺されてしまったと。いうことなんですね。はい。その後カエサルはですねエジプトの王室の内紛を処理してプトレマウスと最後の皇女でクレオクレオパトラをエジプトの王にしたというカエサルはこのようにしたんですね。クレオパトラがエジプト女王にありました。エジプトの平定後カエサルは親密になったクレオパトラ7世とエジプトで過ごした後、彼女は愛人になるんですね。

 フェニキアを迎え撃ち、パルナッケス2世を破り、ローマにいる腹心のガイウス・マティウスに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った(Veni、vivi,vici)」という有名なこの言葉を送ったんですね。その後ポンペイウスの遺児たちに勝利し、ついにローマの内戦が勝負終結し、ローマ世界を完全に支配するようになりました。

 このようにしてカエサルがローマ世界をの第三者になろうとしていたんですね。で彼はその後ですね終身独裁官なりましたそして、共和制を改造するために.義賊州民の議席を加えて元の600名から9名に増やして、いわゆる有名無実化させたと。

 代わって自分の終身独裁官に就任したと。つまりこれは司政官は毎年毎年選ばれなければいけないんですけども、終身独裁官というのは私は死ぬまで支配しますよという、私は死ぬまで独占してますという意味ですね。

 一点集中したんです権力が、しかしですね、これがある意味人々のこの基本方針を呼び起こしてカエサルはついに王様になろうとしてるんじゃないかと。カエサルは「共和制ローマを白昼夢に過ぎない。実態も外観もない。名前だけに過ぎない。」と私の発言は法律とみなされるべきだった。」と言われてるんです。つまりこのようにして人々はカエサルのいわゆる独裁を恐れるようになっていたんですね。夢占いがありました。BC44年に元老院に行くカエサルの随行者はブルータスという準備ですけども、妻のカリフォルニアが悪い夢ですなんか見て元老院に行かないでくださいって言ったんですね。

 一度は見合わせたけども結局行くようになったと。以前ですね3月15日に注意しなさいと予言した占い師がいたそうなんですけども、そのときに出会ったカエサルは何もなかったじゃないかと言ったんですけども、その占い師は3月15日はまだ終わってないよと。言ったんですね。そのようなことが起こりました。そしてその日にまさにカエサルは暗殺されてしまいます

 カエサルはですね身の安寧に汲々としているようで生きてる甲斐がないと、私は自分が信じる道に従って生きるので、だから他人がそう言っても当然であると。言ったんですね。事件は元老院の変え替え前に起こったとされ、ポンペイで劇場に隣接する列柱のでマルクス・ブルータスなどによって暗殺されました。23の刺し傷のうち二つ目の刺し傷が致命傷になったと降ろされるカエサルはブルータスお前もかと言ったと言われてます。これはシェイクスピアのですね「ジュリアス・シーザー」というこの戯曲の中でのセリフとして有名なセリフでありますね。

 いずれにせよカエサルは議員たちによって、刺し殺されてしまったです。はい。でそのときにですねカエサルはもちろん志半ばで死んでしまうんですけども、非常に面白いことに、あまりこの血縁関係もそれほど近くない18歳の無名な青年に過ぎなかったオクタヴィアヌスという人物を養子にしてたんですね。義理の息子にしてました。彼はカエサルの暗殺をギリシャで知るんです。急遽、ローマに帰りました。その途中でカエサルが自分を後継者に指名していた頃です。

 そして彼が18歳の無名の青年に過ぎなかったんですけども、一躍有名になり、そして以後ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスと名乗るようになりました。彼がローマ帝国の最初の皇帝であるアウグストゥスという人物になんですね。彼が結局カエサルの遺志を継いでローマの最初の皇帝になったという話であるんです。これは来週やっていきたいと思ってます。はい。はい今日はですねこのような内容でやってきたんですけれども、それぞれちょっとあの内容などです。