古代建築とその職能の歴史

■古代建築とその職能の歴史について

松村 淳 

 ここでいう建築界とはピエール・ブルデューの提唱する「界champ」の概念である。この概念で分析する予定の建築界とは明治維新以降に生成したものと考えている。明治政府の推し進める富国強兵・殖産興業政策の一環として、工学寮につくられた工部大学校を拠点とし、欧米より、冶金や化学などと同じくして、建築術も伝えられた。教育に当たったのは高額の報酬で招かれた技師たち(お雇い外国人)であった。

 

 彼らによってもたらされた建築術は、西欧風の建物の設計と施工の技術であった。「アーキテクチャ=建築」「アーキテクト=建築家」という概念は確かに明治に輸入されたものであったが、明治以前にも建物は建設されてきたし、それを建設するプロフェッションとしての大工や工匠が存在していた。明治以降にこのような前近代の建築生産システムが全滅し、すべて欧米に範をとった建築術へと変更されたのでは決してない。大工が建物の設計施工を請け負う業態も依然として残っているし、寺社仏間は古来より続く宮大工が連綿とその営繕を請け負っている。つまり、現在の日本の建築界は古来より続く、日本独自の建築生産システム明治時代に導入きれた建築生産システムとが併存している状態が続いているのである。

 そうした事実をふまえると、改めて日本古来の建築生産システムを概観しておく必要性が明らかになってくる。

 建築史は日本の文化史の中で決してその扱いは小さくない。むしろ大きいと言ってもよいだろう。しかしながら、そこに展開されている記述は「大仏棟」「天竺様」などといった「建築様式史」である。ある建築が「誰の命令によって」造られたかについては述べられているものの、それがどういう工匠の手によって、どのような生産方法において造られたのかについての記述はほとんどないのが現状である。

 建築史家の関野克は1947年に著した「登呂遺跡と建築史の反省」と題した論考の中で、建築史が様式の歴史に陥ってしまっていることを以下のように喝破する。

 

 このはなばなしい様式の繒巻(絵巻物)の展開こそは従来の建築史の基盤であった。しかもその陰に多数の住宅建築は同じ金属の道具を用いる木工技術によるものでありながら、無意匠的存在として従来の建築史の中にはいることは出来なかったのであった。様式の繒巻をのみ愛するものは建築史に法隆寺、伊勢神宮や茶室を期待し、所謂意匠に沈潜し、人間の合理的所産であり、時代とともに偉大となるべき技術の墓場となるだろう。様式史が建築の墓場であると悟ったとき、始めて様式史は技術史と同じく建築史の基盤のうえにたつことが許される(関野克1947p.5)。

 建築史が様式更に比重を置いたものになっていることをきわめて厳しい言葉で糾弾し、技術史の重要性を説いている。関野がここで技術史の重要性を説いているのには大きな理由がある。それは関野が登呂遺跡を調査した時に発見した以下のような事実である。  私が登呂遺跡を訪れとき、何よりも驚いたことは、金属器おそらく鉄器」による木工技術の進歩であって、従来弥生式時代について夢想すらしなかったところである。大岡實博士・浅野技師は法隆寺の木工技術と比して大差ないと言われている。

 

(中略)日本の建築が木造建築に終始し、僅かに道具として近世竪挽きの大鋸が付加されたに過ぎないことを思うとき、歴史時代の様式の多彩にも似ず、技術の遅々として容易に進歩しなかったことがわかる(関野1947)。

 登呂遺跡に使われた技術が、法隆寺に使われたそれと大差がないということは別の学者も指摘している。中川武は法隆寺に動員されている技術を「金具や瓦、石などの建築としては新しい素材や技術も、古墳時代の剣や銅鏡をつくる技術、須恵器をく技術、古墳を築造する石工の技術としてすでにあったものを転用したものであった」(中川1987)と述べている。

 

 これらの事実は、登呂遺跡の建築群を築いた工人の技術の先進性を表すと同時に、建築技術がそれ以降ほとんど進歩しなかったこともあらわしている。

 目を奪われやすい様式に傾注するのではなく、背景として沈潜しがちな技術に目を向けよという関野の指摘は正しい。しかし、ある様式の背後にある技術を描き出すだけでは、建築史をひとつの社会史として再構成しようという本稿の試みをまっとうすることはできない。

 建築物の生産には建物の設計からはじまり、建築材料の調達、加工、施工のための人員の動員とその教育など、高度な分業とその統合のためのシステムが必要である。しかも、使える技術的資源はきわめて限られているのである。そのような状況下で人々はいかにして、巨大な伽藍を持つ寺院建築を数多く作ることに成功したのだろうか。

 大和朝廷成立前後までさかのぼり、日本における建築生産システムの起源にせまりつつ、古代から中世以前までを対象とした建築生産と職能の歴史を振り返りつつ、その歴史的変遷を記述する試みである

■日本古代の建築生産システム

▶︎その起源

 洋の東西を問わず、文明の黎明期には巨大な建築物が建設された。それはしばしば「王や皇帝」の権力の象徴であったと語られる。エジプトのピラミッドなど現存するものも少なくないが、アレクサンドリアの大灯台やバビロンの空中庭園など、伝説の中に謳われる巨大建造物はいまでも我々のロマンを掻き立てるのに十分である。

 

 それらは王の絶対的な権力に服従させられた奴隷労働によって成立したと長い間考えられてきた。しかし、現在では、例えばエジプトのピラミッドの建設工事は農閑期の農民に与えられた公共工事であるとの考え方が定説になってきていることにも象徴されるように、ある程度の規模を持つ建築物の建造の背後には高度な人民の統制/動員システムが働いていたとみるべきなのである。つまり、巨大建造物は、それを構築した文明が相応の人民統制/動員システムを整えていたことの証左である。

 さて、日本における建築史をどこまでさかのぼるのかは、重要な検討事項である。一般に、常設の建物が現れたのは狩猟採集型ライフスタイルから定住型ライフスタイルが定着した弥生時代である。おそらくそれらはムラ人が協力し合って建造したものであり、建築を専門としたプロフェッションの指揮監督のもとに建てられたものではないからだ。

 初期の極めて簡単なつくりの建物なら、素人が力を合わせて建設することが可能であっただろう。しかし、建物が住宅のレベルを超えて、巨大化複雑化すると専門の職能の存在が必要になる。それでは、いつ頃から建物の建築を専門にした職能が出現したのだろうか。 日本における最初の建築技術者の名は日本書紀にみることができるという。建築評論家の川添登は以下のように記述している。

 

 猪名部真根(いなべ の まね、生没年不詳)という大工は石をあてて斧で木材をけずり、終日けずっていても石に刃をあてて傷つけることが絶対なかったといわれ、また闘雞御田(つげのみた・猪名部御田)は、日本で初めて楼閣をつくり、そのかどのに登って上を走ること飛ぶようだったというが、ここに当時の人たちがかれらの高度な技術を驚嘆の眼をもって眺め、同時に人を驚ろかす大木造建築の建設が行われたことを推察させる(川添1965)

『日本書紀』(にほんしょき=奈良時代に書かれた歴史の本)には、新羅王(しらぎおう=古代の朝鮮半 島南東部にあった新羅国の王様)から船造りの技術者が派遣(はけん=任務を負わせて他の場所に行かせる こと)住み着いたことが記され、猪名部御田(いなべのみた)という人物の名前が見られます。 猪名部御 田は、新羅国から「船を焼いた代償(だいしょう=代わりのものでつぐなうこと)として送られてきた帰化 人(きかじん=よその国から来て住みついた人)の子孫」だろうといわれています。彼は建築・造船などの 木工技術(もっこうぎじゅつ=木を使って色々なものを作る技術)に大変優れていて、船造りだけでなく宮 殿建設に関わるなど、大活躍しました。非常に高い所にある柱の上でも、まるで猿が走るように身軽に動き 回っていたそうです。「猪名部」の姓(せい=名字、上の名前)は、大和朝廷の職業部の一つである「猪名部」または「為奈部」〔いなべ〕に属したことから付けられました。

  

 ここに登場する闘雞御田は、猪名部御田ともいい、猪名部真横と同じ大工の民部に属していたという。そして彼は新羅王から送られた船大工の末裔だという。現在でも最新の建築に造船技術が用いられていることを考えてもこの事実には何の違和感もない。ここでいう猪名部とは何か。猪名部について建築史家の伊藤ていじは次のように述べる。

 

 今までの私たちの建築史は、猪名部の存在を 見落としてきたように思う。結論だけを先に言えばそれは品部の一種であり、各民族に身分的に隷属し、木工技術を通してサービスを提供していた工匠集団を指している。私たちが今日大工と称している技術者のもっとも古い存在形態である。その猪名部が応神王朝時代に新設され、その伴造に帰化人が任命されたのである。(伊藤1967)

伴造(とものみやつこ)は、連とも重なり、また連の下でヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。 「伴」は友・供と同音でヤマト王権の長である大王に奉仕する意味があり、「造」は集団の長としての意味があった。伴造には連のような上位の姓を持つ者も含まれるが、狭義では造・首などの中位以下の姓を持つ者を指す。

 その他、日本で最古の宮殿建設者で紀伊を根拠地とした忌部や、物部多芸連などが建設技術者の家系としてあげられている。彼らは兵庫県の猪名川のあたりに居住したから猪名部と称されるようになったのではないかとの見解を伊藤は記しているが、同時にたとえばなぜ「匠」部などと称されずに「猪名」部などと称されるようになったのかについては「見当もつかない」と述べている)。

 

  ここで大和朝廷の頃の行政組織について簡単に触れておきたい。大和朝廷では大王=天皇のもとに、大臣、大連が置かれ、その下に大夫が置かれていた。地方には、国造、県主、稲置という序列で行政官が配置されていた。一方職能集団としては伴造伴、品部という序列があった。品部には以下のようなものがあった。いくつか例を挙げると、鉄器をつくる韓鍛冶吾臥 須恵器をつくる陶造部、機織りを担当する錦織部、馬具をつくる鞍作部、そして建築を担当する猪名部などがあった。

▶︎仏教の伝来と日本古代建築生産システムの確立

 彼らが活躍したのは5世紀であるが、渡来人による建設が盛んになるのは、仏教伝来後の6世紀からである。それは仏教の伝来と大いに関係がある。仏教が日本にもたらされたのが6世紀である。

新訂建築学大系によると、紀伊野草讃岐国にいた忌部氏の品部が建築と密接な関係にあったと記されている。ゆえに、私は当初この忌部(いんべ)が猪名部(いなべ)と変化したのではないかと考えた。彼らが住んでいたところが 兵庫県の猪名川周辺であったが、猪名部が住んでいたので猪名川と名付けられたのではなく、猪名川の由来は 「古くからこの地方に住みついていた山直阿我奈賀という者の名前、「あがなが」がなまったもの」という見解が 国土交通省のウェブサイトに記載されている。ということは、忌部と猪名部とは名前と職能が偶然似ているだけで全くの別物であると考えたほうがよさそうである。伊藤ていじも、以下のように忌部=伊那部説を否定する。「木工事の工匠の集団として伊那部の存在を無視し、斎部(忌部とも書く)こそそれにあたると説く人もあることもまた事実である。しかし私はこの説をとることはできない。」と述べ、その理由として斎部は「イミすなわち神祭にかかわることであったとみるべきである」(伊藤1967)。と述べている。

 596年に蘇我馬子によって、日本ではじめての本格伽藍を持つ法輿寺(飛鳥寺)が建立されたとき。大陸や朝鮮半島から移り住んだ渡来人のなかには進んだ建築技術を持った者もいて、蘇我氏をはじめとする権力者は彼らを使って初期の仏教寺院の建立をすすめた。「588年から624年の間に、畿内では豪族による造寺の数が46に達したと言われる」(建築学大系編集委員会1976)。

 

 この史実は二つの疑問を招来する。ひとつは、なぜ急に数多くの寺院が建てられる様になったのかという疑問であり、いまひとつは、短い期間の申でしかも人数の極めて限られた渡来人の技術者(渡来工人)たちはどのようにして、数多くの寺院の建立を成し遂げたのだろうかという疑問である。

 ひとつめの疑問は「古墳から寺院へ」というキーワードがヒントになる。関西では6世紀、関東でも7世紀はじめまでに前方後円墳はつくられなくなる。「古墳はその後もつくられるが、前方後円墳という政治的モニュメントは終焉し、寺院造営という国家的モニュメントに変化」(岡本2002)した結果が寺院の建設ラッシュを招きよせたのである。

 ふたつ目の疑問は、どのようにして、短期間にこれほどの数の寺院を建設できたのかというものであるが、それを可能にした理由は、「日本にすでに存在した木工・金工・陶工などの職人に才支を教え、彼らを組織化し、寺院建築に参加させたからだ」(建築学大系編集委員会1976)という史実が明快な答えを提示する。冒頭に引用した関野克の文章にも述べられていたように、少なくとも弥生時代にまでさかのぼることのできる石工や木工の技術的蓄積が、相当程度進んでいたのである。中川武は法隆寺について「各部分にまで分解し、個々の細部を取り出して見れば、そこに適用されている個々の加工技術の質において、それ以前の伝統的建物のそれと異なるところはなく、原始時代と連続する同等の未熟な技術だった」(中川1987)と述べ、「古代の建築の特質は、未熟な加工労働力を大量に動員し、組織的に投入する生産組織と、低い労働力の質がもつ限界を、欠点としてではなく逆に長所として作用するように有機的に構成する設計方法にその秘密があつた」(中川1987)と分析している。

 つまり、渡来人たちは当時の日本人が持っていた素朴な技術を分析し、その限られた技術を組み合わせて、造ることのできる限界にチャレンジしていたのである。ゆえに彼らは自らが現場で作業をするというよりは、日本人の工人たちを指揮・監督する立場にあり、彼らを頂点とする集団生産体制がこの頃に確立したと考えられる。

■律令国家体制下における建築生産の確立

▶︎木工寮の誕生

 大豪族であった蘇我氏が実権を握った7世紀に、朝廷の建築生産組織は中国(隋)の制度を模倣した将作監となった。

将作監・・・中国,古代の建設省にあたる官庁。 宮室をはじめ陵廟,官衙などの公的営造を監督した。 秦に始り,将作寺,営繕監などとも呼ばれ,長官大匠,次官少匠のもとに建築,土木にたずさわる工匠,役徒らをかかえていた。

 この役所の長官には渡来人=飛鳥漢人があてられていた。彼らは蘇我氏の強大な権力を、その卓越したさまぎまな技術や学問により裏支えする役割を担っていた。645年に大化の改新が起こり、蘇我氏が排除された。それでも、飛鳥漢人たちの力は衰えず、依然として影響力を持ち続けた。建築は権力を誇示するためのシンボルとして重要視されていたため、最先端の技術を持つ集団を簡単に排除するわけにもいかなかったのだろう。

木工寮(もくりょう)は、律令制において宮内省に属する機関。和名はコダクミノツカサ(古多久美乃豆加佐)。 主に造営、および材木採集を掌り各職工を支配する役所である。

 そして、大化の改新当時の将作監が木工寮へと移り変わる。その時期を完全に特定することは困難であるが「おそらく奈良時代前期の末であろう」(渡邊2004 )という見解が有力である。

 大化の改新以前は、蘇我氏の強大な権力の背景の一つであった、飛鳥に在住していた漢人(飛鳥漢人)の一大勢力が、その進んだ技術によって建築生産を独占していた。しかし大化の改新後は、家柄ではなく能力重視による人材登用や、技術者の養成による成果が表れ、徐々に「脱」飛鳥漢人が進行していく。そこで必要とされるのが、新しい組織である。

 その結果、木工(もく)寮が生まれた。木工寮はいわば「上部」組織であり、実働部隊として下部組織には大量の人民を必要とする。木工寮の誕生は、下部組織としての人民動員体制が整ったということの証左であるといえよう。天武王朝期(673年3月20日 – 686年10月1日)に至り、ゆるぎめない権力体制が整い、全国的な人民の動員体制が完成したのである。

 

 木工寮における「技術系の職制は、大工・少工・長上工・番上工の階梯に分かれていた」(渡邊2004)。大工そして少工は、工人の職能ピラミッドの頂点としての機能を果たしており「今日のいわゆるアーキテクトの機能を果たしていた」(渡邊2004)。そして8世紀に入って平城京建設のために造営事業が急増すると、木工寮のみではまかないきれず、造営のために臨時官衛が設けられた。道東大寺司造薬師寺司、造大安寺司などがそれである。これらは、木工寮が正規の宮司(令内宮)であるのに対して、それらは令外宮とされた。

 このころ、盛んに造営事業が繰り広げられたが、下部組織の人員として駆り出された民衆の生活は荒廃し、逃亡が相次いだ。それは下部組織の事実上の崩壊を意味するのであるが、同時に、建築生産構造の脆弱さも意味していた。

▶︎木工寮を支えた政治システム・・・律令制度

 天智朝における内政改革としては、冠位二十六階の制定や全国的な戸籍である庚午年籍の作成などがあげられる。天智朝における内政改革、つづく天武朝ではさらに中央集権化が推し進められ、つづく持続朝における飛鳥浄御原令において律令国家の骨格が完成した占う。

■律令制度の崩壊と古代建築生産システムの衰退

 建築生産組織が事実上回らなくなり、奈良時代末期の建築生産は行き詰まりをみせる。理由はこれまで述べてきたとおりである。

 

そこで、桓武帝による平安遷都後に、建築生産組織の改編がなされた。それは下部組織の人民供給量に合わせて、上部組織をダウンサイジングすることであった。具体的には令外官として造られたいくつかの営繕宮司を整理統合、または廃止した。新規造営事業を担当する木工寮とは別に、既存の建物の修理・営繕を担当する修理職(しゅりしき)というものが818年に設置された。

 

 平安時代に入り、大陸との交渉が断絶すると大陸文化を背景とした様式の権威が薄れていく。「様」とは先述したとおり「大陸の建築の様なデザイン」という意味である。てっとり早く自らの権威を表象するために、すでにある大陸の権威の象徴を取り入れたのである。しかし、大陸様式の権威が薄れていくと、時の権力者の独自の美意識が表に出てくる。いわゆる「国風文化」の台頭である。そうなると権力者がデザイン統括を行うようになり、それまでアーキテクト的な機能を有していた大工は彼ら権力者の理想とするデザインを具現化させるための技能的な奉仕者へと変わっていくのである。

 律令制の衰退に伴い、寺院の造営を政府が直轄工事として行うことはできなくなっていた。そ こで考えられたのは、造営を国守の責任において遂行させる所課国と造国であった。所課国とは数国で一つの建築を造営する場合であり、造国とは一国の責任で、一宇(一棟 (ひとむね) の家・建物)あるいはそれ以上の 建物を造営する場合をいった(太田1959−2009)。

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。実際に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継を受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文書や事務の引継を行うことを「分付(する)」と称した

 10世紀の初めから11世紀の後半にかけては、藤原氏全盛の時代であり、いわゆる摂関政治の時代であった。摂関が権勢を誇った背景の一つとして官吏の任命権を掌握していたことがあげられる。ゆえに、受領などの官職につきたい中級下級貴族たちは摂関に服従・奉仕した。また、私領の保全をはかる宮人や百姓たちも、摂関に荘園寄進を行った。結果として摂関は政治的、経済的に大きな力を持つに至ったのである。

 そして、建築物の造営方法が中央集権的ではなく、国を定めてその国の負担とされたことにより、律令的な建築生産方式は失われていく。その方法は一つの国が一つの建物すべての建築を手掛ける場合(造国方式)と、複数の国が分担して建築を行う場合(所課国方式)の二種類があった。このような造国方式、所課国方式の制度は、10世紀半ば以後の建築生産方式の支配的な方法になっていく。

 造国により事業を完成すると、それに対してがある。賞は位階のこともあり、官職のこともある。それはさらに発展して、位階の加階、官職の任命が、造営を条件として行われるようになる。すなわち成功(売官)、栄爵(売位)であり、寺院の造営はもっばらこの方法によるようになった(太田〔1959〕)。ここで与えられる「」の建前は、「よく国を治めたために費用が集まり、工人や人夫を動員しえたためであると評価」(建築学大系編集委員会1976)されたからであった。

造国は普通は1国が1施設(殿舎・伽藍)の造営・修理を責任をもって行うことになっていたが、場合によっては複数国で1施設を担当する場合があり、この場合は所課国(しょかこく)と称された。造国・所課国を割り当てられることは国充と呼ばれ、その国の租は半免され、国衙が保有している不動穀や正税を財源とすることが許された。所定の公納(済物)を全て納めた上で、造営・修理を果たした国司は位階を進められた。

 所課国および造国を支配起動させ得たのは、時の権力者であり、摂関時代では摂関家が、院政時代では院が、平氏時代では平氏がその中心であった。この制度は時の権力者の、公的私的なつながりのあるすべての造営に用いられた。従来宮廷関係の作事に限られていた木工寮や修理職の技官の活動範囲が、このころから次第に、私人の別宅別荘などにまで広められていったのは、この事情のためであった。かくして造国および所課国の制度は、10世紀半葉以後の建築生産における支配的な方法となり、古代権力の滅亡するにいたるまで、ながく継承された(ibid)。

 その後造寺司が廃止され寺院内には造寺所が設けられた。例えば「東大寺の場合、造東大寺司は788年(延暦8)年に廃止された」(ibid)のため「自力で営繕を営まなければならなくなった大寺院は、寺院機構のなかに造寺所を設けた」(ibidp)のである。そこには専属の工人がいて、それぞれ「大工・長・連という三つの階層に分かれ、大工と長には給田が与えられていた」(太田〔1959〕2009)。

 しかし、その造寺所も活動の基盤であった封戸収入が「11世紀末ごろでは、修造が営めぬほど」(建築学大系編集委員会1976)激減し、その結果「封戸にかわる財源を得るため、社寺は積極的な荘園獲得にのりだし、荘民(しょうみん)の夫役や修理用途雑物に依存するようになった」。

▶︎古代建築生産システムとは

 古代建築の特質とは何か。その意匠的特質として、「強力な統一性」を挙げることができよう。

 寺院あるいは宮殿が、種々の営舎からなるとして認識され、それを有機的に結合させる一貫した様式と意匠の配慮があった。したがって1群の建築が、それぞれアーキテクト的機能が、統帥的権力をもって生産組織を把握していたからでもあり、そしてさらに、大陸様式の絶対的権威を背景として、設計における大少工自主性が確立されていたからでもある。(渡邊1959)

 渡邊が言うように「大少工」のアーキテクト的な職能は、大陸の「様式」の権威によって保たれていた。しかし遣唐使の廃止後は、その権威にもしだいに陰りが見えてくる。やがて時の権力者の美意識に依拠したデザインへと変わっていくのである。

  

■参考資料