国立民族学博物館

■国立民族学博物館

■日本民俗学の新たな出発

▶︎国立歴史民俗博物館の創設

▶︎国立民族学博物館

 前述のように,白鳥庫吉(くらきち)や渋沢敬三らによる日本民族学会の設立は昭和9年1934)のことで、昭和14年には東京都下の保谷村に日本民族学会附属研究所と附属民族学博物館とが設立されていました。そして,国立の民族学博物館の建設構想は,昭和15年の皇紀2600年記念事業のなかの1つとして,白鳥庫吉,石黒忠篤,渋沢敬三の3人が中心となって政府に建策する動きがありました。

  

 しかし,それは黒板勝美国史館建設案に吸収されて実現へは至りませんでした。戦時体制下の昭和17年には文部省に民族研究所が創設され,日本民族学会とその附属研究所は発展的解消となりました。それに代わって文部省民族研究所の外郭団体として財団法人日本民族学協会が設立され,機関誌『民族学研究』と附属民族学博物館の運営とがその新しい協会にひきつがれました。その後は戦争の激化の中で・民族学協会も十分な活動はできず,多摩地区の保谷村も空襲の対象の範囲に入るなどせっかく収集された民具資料の保存も危ない状況となりました。その戦中戦後の困難な時期にあって,渋沢の要請によって民族学博物館を保守したのは,前述のように吉田三郎宮本馨太郎の2人でした。

 戦後になると,日本民族学協会も活動を再開し・保谷村の附属民族学博物館昭和27年(1952)には博物館法の施行とともに正式の博物館としての登録を受けました。そして,昭和29年には日本民族学協会は学会結成20周年を記念して・東南アジア稲作民族文化綜合調査を計画し,昭和39年3月までにべトナム・タイ,カンボジア,ラオスからインドネシア,インド,ネパールまで3次にわたる調査団を送って大量の資料を収集することができました。

 しかし・日本民族学協会の財政状態は思わしくなく、附属民族学博物館の維持運営ももはや民間の一財団では苦しくなり,標本資料一切を国に寄贈することとなりました。昭和37年には東京都品川区豊町にあった文部省学術局学術課史料館(文学研究資料館史料館)の新収蔵庫へと大量の標本資料類が移送されました。

 附属民族学博物館を手放した日本民族学協会から切り離すかたちで、昭和39年(1964・オリンピック開催)にあらためて日本民族学会が発足します。その昭和30年代から40年代初めにかけて国では総理府や文化庁を中心に明治百年記念事業として国立の歴史博物館建設の計画が進められていました。そこで・日本民族学会としても国立民族学研究博物館の設置へ向けての運動が始められました。

 明治百年に当たるのは昭和42年(1967)でしたが,昭和45年(1970)には大阪千里で世界万国博覧会が開催されることになっていました。そのテーマ館のチーフ・プロデューサーは画家で彫刻家の岡本太郎でした。

 岡本はフランスのパリ大学民族学科の出身で,民族学への関心がきわめて高く,テーマ館の展示の一部に世界各地の民俗資料を使って過去・現在・未来の世界を表現する構想を立て、その妖精のもとづいて民族学者の泉靖一と梅澤忠夫の二人がそのための収集団を組織しました。その収集団は「日本万国博覧会世界民族資料調査収集団」という名で大量の民族資料の収集を行なっていきました。そして,それが国立民族学博物館の設立へと深く結び付いていきました。

 昭和42年の明治百年に先立ってその数年前からさまざまな記念事業の計画が作られましたが,その1つに国立の歴史博物館建設の計画がありました。その検討委貞の1人でもあった岡本太郎は,民族学博物館の必要なことを強く力説し,歴史博物館と民族博物館を両翼に配して中央に民族学研究所を置くという案を提示しました。しかし,文部省は,民族学研究博物館はこの明治百年記念事業とは別途に構想を進めているので記念事業からは外して検討するという方針を示します。戦前の文部省民族研究所の存在がそれに関係していた可能性もあります。

 そうして,東京首都圏への国立歴史民俗博物館大阪千里の万博公園跡地への国立民族学博物館の創設へという流れとなりました。昭和45年3月から開催された世界万国博覧会が9月に閉幕すると,国立民族学研究博物館の用地はその万博公園跡地ということでかたまっていきましたが,実はその設置形態が問題でした。それまで博物館設置の根拠となる法律には2種類があり,公立・私立の博物館は博物館法で,国立博物館(上野の東京国立博物館,京都,奈良の国立博物館)は文部省設置法でした。

 

 しかし,この新たな国立民族学研究博物館はそれらとは異なる新しい国立大学共同利用機関の博物館という区分に位置づけられる方向へと展開していきました。つまり,国立学校設置法にもとづく新たな第3の形態へとなったのです。その方向が現れ始めたのは昭和47年5月30日に提出された調査会議の「基本構想」のころでした。これはひじょうに大きな意味がありました。博物館でありながら調査,資料収集,研究,展示を総合的に行なう先端的な研究機関として,研究部のポストは教授・助教授・助手というまきに大学以上の恵まれた研究環境の創設へと向かったのです。

 ただし,調査会議や創設準備室の段階から使ってきた国立民族学研究博物館の仮称は,これを修正せざるを得ないことになります。それは建設予定用地が日本万国博覧会記念公園内であったためでした。建設省都市局から都市公園法にもとづく施設しか建設できない,それは陳列館であり,大学などの研究施設は不可能である,という強い姿勢が示されたのでした。

 そこで昭和48年夏ころから昭和49年1月末まで文部省大学学術局と都市局との間のねばり強い長い交渉の結果「学」は残し,「研究」ははずすという折衷案が取り決められたのでした。

 そうして,ついに国立民族学博物館の設置が法律で定められたのが昭和49年6月7日のことでした。梅棹(うめさお)忠夫初代館長(1920−2010)のもと,建築の一応の工事を終えて展示の一般公開がはじめられたのが昭和52年11月でした。その組織は第1から第5まで5つの研究部に10の研究部門が設けられ,それに所属する教授・助教授・助手の教官の定員が49名ほど確保されたのでした。

 最先端の民族学の学問拠点としての恵まれた研究環境を得て日本の民族学は大きく発展し,また若い研究者もここから数多く育っていきました。そうして渋沢敬三たちの長年の念願の一部がようやくかなったのでした。

▶︎国立歴史民俗博物館

 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の建設計画が公式に決ったのは,昭和41年(1966)11月に明治百年記念事業の1つとして閣議決定された時点でした。しかし,それまでには長い前史がありました。その1つが前述のような歴史学者黒板勝美を中心とする紀元2600年記念事業の1つとしての国史館(仮称)の建設計画でした。

 

 昭和15年が紀元2600年にあたっていましたが,昭和11年に紀元2,600年祝典評議員会が内閣に設置されると,その委員となった黒板は事業の1つとして国史館(仮称)の建設を主唱し,11月の第2回稔会でそれが事業決定されました。黒板の構想した国史館は単なる博物館ではなく,日本の歴史的文化の綜合的な研究所であったといわれています。

 その後,その国史館建設事業は文部省の所管となり,計画の具体化がはかられるとともに,建設予定地も現在の千代田区霞が閑1丁目の帝国議会旧議事堂跡地に内定していたようです。しかし,事業決定直後に黒板が病に倒れたこともあり,その後は戦争の激化の中で実現することはありませんでした。

 戦後,昭和25年に文化財保護法が成立して文化財保護委員会が設置されると,歴史や文化の資源保存と活用とが要望されるようになり,国立民俗博物館設立への運動が始まりました。昭和28年10月,日本民俗学会,日本民族学協会,日本人類学会,日本常民文化研究所は,あいついで国立民俗博物館新設に関する建議書を文化財保護委員会に浸出しました。同年12月には日本博物館協会も設立要望を決議するとともに,渋沢敬三たちは国立民俗博物館設立に関する要望書を参議院に提出しました。しかし,なかなか採択にはいたでした。

 大きく動き始めるのは,昭和42年(1967)に迎える明治百年記念事案の一つとしての国立歴史博物館の建設構想の提示からでした。昭和41年4月5日,給理府に明治百年記念準備委貞会が設置されます。その委員となった坂本太郎は,みずから希望して事業部会に所属し,日本の歴史を一貫する国立歴史博物館の建設を主唱しました。そして,その歴史博物館以外にも歴史民族博物館や民族博物館や明治記念博物館などさまざまな提案がなされていった中で,前述のように文部省民族学研究博物館は別途に構想するので,この記念事業からは外し,日本に関する歴史民俗博物館を設置したいとの意見を提出しました。そして前述のように東京首都圏への国立歴史民俗博物館,大阪千里の万博公園跡地への国立民族博物館の創設へという方針が固まっていきました。東京首都圏での国立歴史民俗博物館の建設用地についても紆余曲折があり難航しましたが、国や県など関係者の尽力によって千葉県佐倉市の現在地に落ち着くことになりました。

 この国立歴史民俗博物館の創設にあたっては,その設立への準備室長であり初代館長でもあった井上光貞(1917−83)の努力をここに特筆しておく必要があるでしょう。その第1は,当初は文化庁所轄の附属検閲として文化財の保護に資することを目的とする東京,京都,奈良にある国立博物館に近いもので,かつ調査研究をも目的とする東京の国立科学博物館と同様の形態で発足することが予定されていたのを,学術的な調査研究と資料の活用とを目的として一足先に設立されていた大阪千里の国立民族学博物館と同様な国立大学共同利用機関としての形態への変更を実現した点でした。この困難の克服はなみなみならぬ関係者の努力と・理解の賜物であり,後世忘れることのできない学問への恩恵でもあります。後世に続く人たちがこれを忘れてはバチが当たるといっても過言ではないでしょう。歴史は人間一人ひとりが創るものだという迫力ある事実がそこにはあります。

 

 井上光貞館長の特筆すべき決定の第2は,国立歴史民俗博物館という名称問題への決断でした。はじめのうちは国立歴史博物館と仮称されていたのが文化庁が担当官庁となるなかで国立歴史民俗博物館へとその仮称が変わってきていたことについて,民俗の名称を入れる入れないという問題で歴史学,考古学の委員と民俗学の委員との間での意見の対立があった状態に対して,「三学協業の理念」とその実践による新たな広義の歴史学の開拓をこの研究博物館の第1の目的でありその使命としたことでした。意見が分かれたなかで最終的に国立歴史民俗博物館の名称を決定していった井上館長の考えについて記された次の文章を引用しておくことにしましょう。

 歴博の準備室に入っていろいろと従来のいきさつを知り,また諸方面から検討を加えていくうちに,私の考え方は少しずつ変ってきた。それは,歴博のめざすべき学問的裏付けにおいて,従来の歴史学を軸とし,一方に考古学を,他方に民俗学をふまえたような方向を考えることに積極的な学問的意義があり,それに比べると,歴博の名称問題は,大局的には,マイナーな問題であるという考えが強くなってきたからである。(中略)

 考古学や民俗学のような有形・無形の「物」の調査研究にまつ広義の歴史学の形成がクローズアップされていることは明らかである。そのような学際的研究の場は,従来の学科制に束縛された大学の史学科では育ちにくいのであるが,たまたま歴博は,歴史学,考古学・民俗学の3部門の寄りあいとして構想されている。私はそのような機関こそ三つのグループからなる館員相互の共同作業を通じて,たとえば古代史と考古学,近世史と民俗学ないしたとえば3部門協力の民衆宗教史や・都市の歴史など,大学では形成しにくい共同研究のための日常的な場として、歴史学の一分野を形成できる。と信ずるものである。

 こうして,国立歴史民俗博物館は国立学校設置法の一部改正によって,昭和56年(1981)4月14日に設置され,昭和58年3月16日に開館式典が挙行され,18日から展示の一般公開がはじまりました。しかし、残念なことにその開館を直前にして井上光貞初代館長は2月27日に急逝してしまいました。しかし,井上光貞初代館長によって蒔いておかれた学問の種子は,情報資料研究部,歴史研究部,考古研究部,民俗研究部という5つの研究部に52人の教授・助教授・助手の研究部定員が確保されたことによって,その後,歴史学,考古学・民俗学の三学協業の掛け声の下に、歴史資料分析科学などの参加とともに新たな広義の歴史学の開拓へ向けて次々と大きな研究成果が蓄積され発信されていくこととなりました。とくに民俗学の研究職として国立の先端的研究機関に12のポストが得られたというのにはひじょうに大きな意味がありましが)。柳田国男がその生涯をかけて創設した日本民俗学の研究実践への道がようやくそこに大きく開けたのでした。そして、現在は平川南館長を中心にその研究活動が進められています。