■「鎌倉殿」御家人八田知家と名門常陸小田氏
▶︎下野武士八田知家、常陸国守護となる
守護とは鎌倉時代初頭に設置された役職で、国内の軍事動員(大番催促)や、謀反や殺害をした者の逮捕・裁判を行う権限を有していました。これらの職務をまとめて大犯(たいぼん)三箇条といいます。常陸国において守護を任されたのが、八田知家でした。文治5年(1189)7月には、源頼朝が奥州藤原氏を討つために平泉(現岩手県西磐井郡平泉町)へ進軍した際、知家を東海道大将軍に任じ、常陸国内の武士を動員するよう命じています。このことから、知家は文治5年以前に常陸国守護に補任されたと考えられています。
「常陸固守護八田知家」と耳にすると、知家は常陸国の武士と想像する方も多いと思います。しかし、現存する系図類を確認すると、知家は下野国の武士宇都宮氏の系譜を引く人物であることが明らかとなります。また、建久3年(1192)に知家が鎌倉幕府政所から受け取った「鎌倉将軍家政所下文」には、本木郡(茂木保現栃木県芳賀郡茂木町)住人と明記されています。つまり知家は下野国の武士であったのです。
第42回特別展「東城寺と『山ノ荘』・・・古代からのタイムカプセル、未来へ」では、平安時代から鎌倉時代初頭の常陸国南部を中心とする地域は、多気(たけ)氏を本宗家とする常陸平氏の影響力が強い地域であることを紹介しました。下野国を出自とする知家にとって、常陸国の支配は容易なものではありませんでした。ではなぜ知家は、支配が困難な地域の守護に選ばれたのでしょうか。知家の活躍に関する記録は、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』に記されています。
知家に関する記述の多くは、源頼朝や頼家など鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の側近としての仕事ぶりに関するものです。将軍や幕府の信頼が、一国の守護就任に結び付いたと考えられます。
吾妻鏡13世紀から14世紀にかけて鎌倉幕府が編纂した歴史書。治承4年(1180)から文永2年(1286)までが編年体で記されている。九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』などの日記や文学作品、御家人の家伝文書などを用いて編纂している。幕府執権の北条氏が編纂を主導したため、曲筆や年月記載の誤りが散見されるなど留意すべき点も多い。
▶︎八田氏、常陸国へ入り込む
守護となった知家は、常陸国の中で影響力を持ち始めます。『吾妻鏡』によれば、建久元年10月3日に源頼朝が上洛する際、随行する予定の知家が常陸国から遅参したため、頼朝の機嫌を損ねたという記事があります。知家が任国へ足を運んでいたことを示す最初の記述です。
知家が、より大きな影響力をもつきっかけになったのが、建久4年に起きた「建久4年の政変」です。前述の通り、常陸国南部では多気氏が勢力を誇っており、多気山城のある北条(現つくば市北条)を拠点としていました。建久4年、知家は曾我兄弟の仇討ちに伴う世間の混乱に乗じて、動きがあると幕府へ報告します。これに対して義幹は多気山城へ籠城しました。
(現つくば市北条)を拠点と多気義幹に野心(謀反)の動きありと幕府へ報告します。その後、義幹(よしもと)は幕府へ出頭したものの、事の次第を弁明できず、所領の筑波郡・南部((現かすみがうら市千代田地区・石岡市・小美玉市周辺)・北郡(現石岡市八郷地区周辺)などを没収され、身柄は岡部泰綱(やすつな)のもとへ預けられました。没収された地域の一部は知家に与えられたとも考えられています。この後、知家は同6年に筑波山麓の六所神社(現つくば市臼井)へ懸仏(かけぼとけ・鏡板に仏や神の像を刻んだり貼り付けた器物)を、建永年間(1206〜7)には極楽寺(現つくば市小田)へ銅鐘を寄進しました。
多気氏を失脚させた知家は、北条時政へ長年恨みを抱いていたという理由から、義幹の弟である下妻広幹を梟首(きょうしゅ・さらし首)にしています。多気氏・下妻氏と、常陸平氏の勢力を少しずつ削いでいった八田氏は、常陸国国府(現石岡市総社)の大掾氏が有する大掾職も手に入れようと試みます。ただしこの策略はうまくはいかず、安貞元年(1227)12月26日に、大掾職の希望は「非分の望み」(分不相応な要求)であると、知家の子知重(二代)は幕府政所から厳しく諌められました。
ところで、八田氏の拠点はどこにあったのでしょうか。『吾妻鏡』に登場する知家・知重父子の記述は、鎌倉における事項が多くを占めています。また文治3年1月12日の記述によれば、鎌倉御所南門前に知家の邸宅が存在したことが確認できます。鎌倉は度々火災に見舞われており、建暦3年(1213)には知家宅が、建保5年(1217) には知重宅が類焼したことも記されています。このように、知家・知垂の代において、その活動拠点は鎌倉にあったと考えられます。
一方、この時期における常陸国内の拠点については、残念ながら判然としません。今日のつくば市小田の地に館を構えていたという説もあります。小田城跡の発掘成果によれば、4代小田時知の時期には確実に利用されていました。しかし、それ以前の時期については、戦国時代につながる小田城跡の本丸跡とは館の位置や範囲は異なっていた可能性が示されています。建久4年の政変とその後の経過を踏まえて考えると、八田氏は建久4年の政変によって多気氏を失脚させた後、筑波山麓の北条や小田近辺に拠点を構えたと推察されます。
▶︎八田氏から筑後氏、そして小田氏へ
八田知家の正式な名は、「藤原朝臣知家」です。下野国の宇都宮氏は藤原氏の系譜を引く一族なので、知家もまた「藤原」の氏を持っています。「朝臣」は姓といい、氏に付属する称号です。「八田」は家名といい、氏から分かれた一族の「名乗り」です。本来は源氏であるものの、足利や新田を名乗るように、知家も藤原氏でありながら八田と名乗るようになりました。この名乗りは地名や役職、地域の特徴など、さまざまなものが由来となりました。
知家が名乗った「八田」の由来については、知家の父とされる宗綱の「八田権守」という称から採ったとする説、知家の母とされる八田局に由来するという説、八田(現筑西市八田)の地名に由来するという説など、さまざまな仮説が立てられていますが、いずれも確証が得られていません。ただし『吾妻鏡』の記述から、元は宇都宮氏であった知家が、鎌倉時代には八田を名乗っていたことは確かです。 知家の子供たちは父と同じく八田を名乗っていましたが、『吾妻鏡』によれば、建仁三年(一二〇三)頃から「筑後」を名乗るようになります。これは『吾妻鏡』のみの話ではなく、先述の極楽寺鋼鐘を、知家は「筑後入道専念」の名で寄進をしています。一見すると、筑後国に移り住んだように錯覚しますが、そうではなく、筑後守という官職に由来しています。この頃、知家は筑後守という官職を得たことで、それまでの位階である従六位上から従五位下に昇進しました。知家の一族はこの昇進を機に、筑後守にちなんで受領名の「筑後」と呼ばれるようになったのです。
「小田」という名乗りがはじめて確認できるのは、知家から数えて四代目の当主となる時知の代です。『吾妻鏡』の中では、建長四年(一二五二)にはじめて「小田左衛門尉時知」と現れます。先代泰知に関する確かな記録は確認できませんが、時知の代までには「小田」を名乗っていました。「小田」の名乗りについては、小田城跡がある今日のつくば市小田に求める説が出されています。一方で、鎌倉時代における小田の地は南野荘の中にある集落であり、武士団が名乗る地名としては規模が小さいことも指摘されています。そのため、小田は小田の名乗りを陸奥国小田保(現宮城県遠田郡涌谷町周辺)に求める説も出されています。いずれの説も明確な根拠を欠くため結論は出ませんが、知家にはじまる一族が名乗りを変え、本家筋は「小田」という家名に落ち着いたことは確かです。
かめい家名八田家名の由来(大弐・大書=)(た伊・筑後・伊券…)(留守・庄司…)(足利・新田・三浦−・)(林・上田・−) など途領城名形官受役地地源・平・藤・橘… 真人・造…藤原 朝臣知家な受領名武士が位階(従五位下以上)を願い出て国守名を名乗ることを許されたもの。この場合、受領名と知行国名は一致しないことがほとんどであった。
▶︎南北朝の動乱を生き抜き、名門武家へ
鎌倉幕府が倒れ南北朝の動乱が起こると、治久(七代)は南朝方に与して北畠親房らと共に常陸国で戦っています。このため治久は、勤皇の志を持った南朝の忠臣として紹介されてきました。しかし、治久は本当に南朝の忠臣だったのでしょうか。 建武二年(三一三五)七月に、元鎌倉幕府執権北条高時の子時行が挙兵し、足利直義のいる鎌倉を攻略し ました。直義の兄尊氏は時行を討つために京から鎌倉を攻め、時行を敗走させました(中先代の乱)。これをきっかけに、関東では諸家が争い始めます。この年、治久は大操氏や佐竹氏らと頻繁に戦を行っています。全国的な混乱の中で自らの領地を守りつつ、領地を拡大しようとする中で起きた争いでした。南朝方の北畠顕家が常陸国へ下向すると、治久はこれに従い、近隣の諸家と戦います。治久にとって南朝方は、勢力争いの援軍ともいえるでしょう。また、戦に勝利し軍功を上げれば、南朝方から新たな領地を与えられる可能性もありました。