武力による政治の誕生

■武力による政治の誕生

本郷和人

▶︎幕府をつくった主従の骨格  

 源氏と平氏は不倶戴天(ふぐたいてん・非常に強い恨みや憎しみという意味)の仇敵(きゅうてき・かたき)として戦ったわけではないから、「源平の戦い」という括(くく)りはおかしい、と述べた.ところ、日本史研究者ではない友人から批判のメールを頂戴した。源頼朝の主だった家来である北条時政三浦氏・千葉氏・上総氏なども平氏であるから、あなたの言っていることはごく当たり前のことであって、そうした言及は前々からなされているよ、との指摘であった。

 説明に工夫が必要なので、その節はいろいろと書き散らしてお茶を濁した(なんと不誠実な!)のだが、それは少し違うのだ。1209(承元3)年、侍所の長官であった和田義盛が、自分のこれまでの長きにわたる働き毒して、上総介に任官させていただきたい、と三代将軍源実朝に願い出た。

 国司の一等官は「守(かみ)」なのだが、上総・上野・常陸は親王が「」になるしきたりであって、通常は「守」が置かれない。二等官である「介」が他国の「守」と同格である(織田上総介信長や吉良上野介義央(よしなか)のごとくに、上総守・上野守と言れないのはそのため)。義盛は上総国の実質的な第一国司に任じてよしなか欲しい、と願ったことになる。実朝が母の政子に相談したところ、亡き頼朝どのが「侍は国司に任じない」と定められたから、認めるのはいかがなものか、という。母の意見を重んじた実朝は義盛の願いをただちには承諾できず、これが義盛の反乱の一因となった。

 侍は国司になれない。一方で源氏の一門は源義経が伊予守、源範頼が三河守、平賀義信が武蔵守など、国司に任官している。このことから分かるのは、将軍である源頼朝のもとには国司に任じる源氏「一門」と、任じられない「」とがいる、ということ。侍は身分が家来に見られているわけだが、両者の相違は源頼朝との関係に顕著である。侍は家来としで完全に臣従している。一門は家来でもあるが、親戚でもあるのだ。平賀義信の子息の朝雅(もとまさ)を将軍にかつぐ策謀があったことから推測すると、源義経や大内惟義など、一門の人は「将軍=侍たちの主人」になることが可能だった。のちに足利尊氏がなんなく将軍に就任して、いるのは、まさにそのゆえであろう。

 「源平の戦い」と称する時、源氏か平氏かが問題になるのは、この一門に限られる。家来として仕える侍は、出自が源氏でも平氏でも藤原氏でも何ら関係ない。わたしが先に注目したのは、関東の王にならんがために、源頼朝が同じ源氏一門佐竹秀義や志田義広と戦っていることである。これで源氏と平氏の争い、はないだろう。

 佐竹征伐の際、「吾妻鏡』は秀義の家人に痛烈な頼朝批判を叫ばせる。「鎌倉殿は国家の謀反人である平家を討たずに、なぜ源氏一門であるわが佐竹を攻撃するのか。なすべきことが違うではないかと。鈍いわたしはこれを読んだ時、「吾妻鏡』のロジックにようやく気が付いた。「平家は反逆者である。その反逆者を討ち滅ぼして成立した鎌倉幕府は、「善きもの」であり、正義を体現するのだ」というのがそれであろう。

 

 『平家物語』は「栄えるものは必ず滅ぶ」とする仏教の諸行無常の理念に基づく。滅びゆく平家に寄り添いながらも、善悪の価値をとくには付与していない。平家は重きもの〃でもク悪しきもの〃でもなく、ク滅びゆくもの″である。「吾妻鏡』はこれとはまったく対照的で、幕府を擁護する強烈なメッセージをもっている。そうすると、「源平の戦い」という歴史認識の淵源は、「善の源氏VS悪の平氏」の構図を内蔵する言責鏡」に求めることができるかも知れない。 世にいう「源平の戦い」が単純な源氏と平氏の闘争でなかったとすれば、その結果として生まれた幕府権力とはいったい何であったのか。再考してみる価値はありそうである。主人と従者の関係、人と人とが織りなす上下の関係を考えながら、武家の政権、幕府の特徴に言い及んでみたい。

▶︎主人と家人とはどういう関わりか

 日本の歴史の担い手が長く武士であったことは否定しがたい史実であるから、武士社会形成の基礎となる主従制を考察することは何としても必要である。将軍権力のもとに形成された主従の関係について、簡単に説明しておこう。

 将軍を直接の主人と仰いで、その従者(家人とか家来とかいう)となった武士は御家人(将軍の家人なので敬して「御」がついた)と呼ばれた。御家人は地頭という地位(泣く子と地頭には勝てぬ、の地頭。現地の事実上の支配者である)への任命を通じて、先祖伝来の所領の支配権を保証された。これが「本領の安堵」である。武士たち、社会存在として呼び変えると「在地領主」たちは、文字通り命がけで維持し、守り抜いてきた「一所懸命の地」の保全こそを渇望していた。幕府が組織されるまで、彼らの権利を擁護してくれる権力は存在しなかったのである。だから幕府が積極的に本領安堵に努めることは、なにものにもまさる将軍の「御恩」なのであった。御恩にはもうーつ、「新恩の給与」があって、これは抜群の功績(生命の危険を顧みずに働いた結果であることが多い)に酬いるため、新たな領地が授与されることをいう。

 

 御恩は「奉公」とよぶ義務をともなう。将軍への奉公は苛烈であって、生命を要求された。戦場での献身である。御家人は将軍のため、命を的に戦った。将軍家と御家人の「御恩と奉公」によって形成された主従の関係は、しばしばヨーロッパの王と騎士の主従制に比べられる。ヨーロッパ中世の在地領主は、王に忠誠を誓って騎士として叙任される。騎士は重装騎兵として戦場に赴き、標章として金もしくは金メッキの拍車(靴のかかとの部分に装着する馬具)をつけた。

 

 死が隣り合わせにある厳しい戦いの日々は騎士道を育んだが、それを武士道、またの馬前で討ち死することが最高の栄誉だ、と御家人たちはしばしば口にする。いや、経験を積んだ武士だって人間だもの、どうせ強がりだろう、と思っていた。だが、たとえば斎藤実盛という歴戦の士は〈(東国の武士は)いくさはまた、親もうたれよ子もうたれよ、死ぬれば乗りこえ乗りこえたたかうに侯(「家物語」)と語っている。

 将軍と御家人り掌と御家人の「御恩と奉公」によって形成された主従の関係は、しばしばヨーロッパの王と騎士の主従制に比べられる。ヨーロッパ中世の在地領主は、王に忠誠を誓って騎士として叙任される。騎士は重装騎兵として戦場に赴き、標章として金もしくは金メッキの拍車靴のかかとの部分に装着する馬具)をつけた。死が隣り合わせにある厳しい戦いの日々は騎士道を育んだが、その武士道、またその原型となつた「兵(つわもの)の道(鎌倉時代の初め頃に武士たちのあいだで、漠然とではあるが共有されていた)」と比較してみるのも興味深い。

 戦闘での勇敢さは、もちろん両者の根幹をなす。騎士道精神の代表たる誠実・清貧などの徳目も、「吾妻鏡」をひろげると容易に見ることができる。また強者である騎士と武士は、ともに弱者(庶民、女性や子ども)を慈しむ視線を、建て前にせよ養成していく。騎士のそれは「ノブレス・オブリージュ」として結実するし、武士はやがて「撫民(ブミン)」(民を愛せよ)を標榜(主義主張などをかかげて公然と示すこと)するように富のだ。

ノブレス・オブリージュとは、直訳すると「高貴さは強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。

 ただ、キリスト教会との関係が密接でテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団など、騎士修道会を多数組織した騎士に比べ、武士が仕えたのは今のところ、あくまでも世俗権力であったと認識されている。この点からすると、寺院や神社が組織す僧兵・神人を含みこんだ武士論を、新たに展開する必要があるのかもしれない。もう一つ、高貴な女性との関わり方が騎士と武士とは大いに異なる。貴婦人への想いを胸に秘めた騎士道物語の隆盛に比べると、武士を主題にした文学作品自体があまり作られていない。

 さて、ここで質問です。御家人は全国で何人くらいいたのでしょう? ちなみに1200年ごろ、日本の総人口は800万人ほどと推定されます。

 恥ずかしい話だが、わたしはサラリーマンにもたとえられる江戸時代の武士のイメージを強くもっていたために、かなり大量の御家人の存在を疑おうとしなかった。ところが実際に史料にあたってみると、幕府成立前後の讃岐国では30人に欠けるほど。若狭国で33人。伊予国では地頭が置かれた土地が29カ所なので、御家人の数も同じくらい。西国はともかく少ない。一国に30名ほどしかいないのだ。

 これに対しさすがに東国は数倍の値を示す。1185(文治元)年に源頼朝と源義経の関係が決裂した時、頼朝のもとに集まった東国15ヶ国の御家人は2095人という。単純に一国平均にすると139人で、西国の4.5倍はいる勘定である。それにしても江戸時代の武士とはまるで違う。これでは軍記物語が勇ましく書き記すような「何万騎の大軍勢」など、あり得るはずもない。

 

 さて、主従の繋がりがそもそもどのようにして結ばれたのか、具体的な例を見てみよう。幕府を創設した源頼朝の直接の先祖として有名な源義家の弟に、源義光(1045〜1127)という人がいた。石清水八幡宮で元服して八幡太郎と呼ばれた兄に対し、三井寺の新羅明神で元服したので新羅三郎を名乗った(次兄の義綱賀茂二郎である)。彼の子孫からは嫡流の佐竹氏、信玄で有名な甲斐の武田氏、武家礼法の家である小笠原氏、それに先述した平賀氏がでた。義光は北常陸に根拠を置き、それは佐竹氏に継承されていく。

 佐竹氏は戦国時代に常陸一国を制圧し、水戸に城下町を建設した。だが、関ケ原の戦いで西軍に属したために減封されて秋田へ国替えになり(領内の美人を根こそぎ秋田に連れて行ったため、秋田美人が誕生したという俗説がある)、江戸時代を生き抜いて明治維新を迎える。とてつもなく長い歴史(事績を明らかにできる点では、おそらく武家で随一だろう)を有する武家の名門である。ちなみにわたしは千鳥ケ淵にある千秋文庫で古文書を読む会を長く催させていただいているが、この文庫は秋田藩佐竹家の文書や遺品を数多く収蔵する。

 

 白河上皇の側近、藤原顕季(あきすえ・1055〜1123)という貴族が、陸奥国の菊田荘の領有権をめぐって義光と争った。この荘園は陸奥国と常陸国の国境、福島県いわき市南部にあって、義光の本拠地にほど近い。諍(いさか)いの詳しい経過は不明だが、おそらくは常陸北部に密着して勢力圏を築いた義光が、さらに北への進出を図ったものと思われる。藤原顕季は上皇を頼った。ところが上皇はなかなか判断を示さない。不審に思った顕季が尋ねると、上皇の答えは次のようであった。この争い、汝に理があることは明らかである。けれども、いまそうした裁定を下すことが適当だろうか。あの荘園一ヵ所が失われたとしても、汝はさほど困るまい。だが源義光はあの一カ所に命を懸けている(すなわち、「一所懸命」)のだそうだ。道理にしたがって裁いたら、弁(わきま)えのない武士が何をしでかすかもしれぬ、と躊躇しているのだ。どうだ、いっそのこと譲ってやってはどうか。

 藤原顕季(あきすえ)はなるほどと思い、上皇の勧めに従うことにした。義光を自邸に呼び、譲り状を書いて与えた。義光はたいへんに喜んだ。客の座を立って改めて侍所(顕季の家来が控える場所)に座り直し、名簿を書いて顕季に差し出した。名簿はみょうぶ。官位・姓名・年月日などが記される。服従・奉仕のあかしとして、従者から主人へ奉呈される書き付けである。義光はここで、あなたの家来になります、と誓約したのである。

 

 

 それからしばらく。ある夜、顕季は伏見の鳥羽殿を退出し、少数の召使いだけを連れて京に向かっていた。すると甲冑を着した騎馬武者5、6騎がどこからともなく現れ、前後についた。恐ろしくなつた顕季が召使いに事情を尋ねさせたところ、武者がいう。怪しい者ではございません。夜になってお供も連れずにご退出になるので、義光があなたさまを警護するよう、われわれを差し向けたのです。これを聞いた顕季は、いまさらながらに上皇のご深慮に感じ入った。もしも義光を敵に回していたら。今は身を守ってくれているこの頼もしい武者たちは、逆の行動に出たかもしれぬのだ(『古事談』・十訓抄』より)。

 ヨーロッパでは騎士叙任の儀式をもって、臣従の証しとする。主君の前に脆いて頭を垂れる騎士の肩を、主君が長剣の平で叩く。この所作によって騎士は正式な従者となる。これに対し日本では名簿を奉呈する。源義光の「義光」を諱(いみな・人の死後尊敬しておくる称号)というが、これは「忌み名」であって、日常生活においてはめつたに用いない。同輩や目下の者が呼びかける時は「三郎さま」とか「新羅三郎どの」など、通称を用いる。また、官職を得ていれば「刑部丞どの(ぎょうぶのじょう・刑部省の第三等官)」など、もっぱらそちらを用いる。限られた目上の者だけが、「これ、義光よ」と諱を口にできるのだ。それを考慮すると、どうぞ私を諱でお呼び下さい、と名簿を差し上げる儀式は、主従関係の設定にふさわしいといえるだろう。

 義光従者となる代わりに、荘園を御恩として与えられ。本領安堵と新恩給与をもって御恩とした鎌倉幕府よりはるか以前から、主従は土地を媒介として関係を結んでいたことが確認できる。ただし土地の他に、御恩にはもうーつ大事なものがあった。それが官位の授与であつた。官位を授けてくれる、あるいは授与の便宜を図ってくれる人に対し、臣従をもって酬いるのである。

 朝廷では座次(ざじ)争論(座して議論すること)と呼ばれる争いがしばしば起きている。前近代に生きる貴人は自らの位置づけに極めて鋭敏な感覚をもち、しかるべき待遇を受けることでプライドを満足させた。だから序列が可視化される儀式に参加する時、自分はだれの上でだれの下か、に神経質なほどに気を配る。各人が帯びる位階と官職によって座を定めれば問題は起きないはずなのだが、従一位で内大臣のAと正二位で右大臣のB。位階はAが上。官職はBが上さてどちらを上座に置くか、などのケース淫争いが生じる。当薯にこだわりが強いと、それを原因にふて腐れて辞任してしまうこともあった。

 自他の位置関係に敏感なのは武士も同じであった。それがしは頼朝様に昔かぇ仕えしている。何を、おれは国へ帰れば広大な土地を治めているぞ。いやいや、わたしは京都生活が長いので、やんごとない(非常に尊い)人脈ならだれにも負けはせぬよ。御家人を測る尺度はさまざまであり得たから、優劣が定まらない。この時に重宝されたのが、朝廷が与えてくれる位階と官職だつたのである。もちろん武士たちが獲得できる官位は低レベルなもので、名ばかりの符号に過ぎなかった。それでも彼らの執着ははなはだしく、入手の便宜を図ってくれる貴人に対して、家来の礼を執ることを厭わなかったのである。

▶︎頼朝の罵声が聞こえてくる文書

 1185(文治元)年、壇ノ浦で平家を滅ぼした武士たちは京都で念願の官職を手に入れ、それをに残されている。(「吾妻鏡」元歴2.4.15)

 面白 命令する 東国の侍のうち、任官した着たちに。

 本国に戻ることを停止し、おのおの在京して公務に勤めるように。

  添付する人名の一覧を一通。

 右、任官した者は(中略)永く都の外に出ることを思いとどまり、在京して守護の役を勤めるように。すでに朝廷の宮人の列に加わつたからには、東国に引きこもつてよいわけはない。命令に背いて墨俣川より東に下ってきたら、あるいは本領を没収し、あるいは斬罪を朝廷に申請することを伝える。

    元暦二年四月十五日

 東国の住人で任官した者たち。

 兵衛尉(佐藤)忠信(ひようえのじようただのぶ) 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の従者の分際で衛府の官職に任命されるなど、昔からなかったことだ。身の程を知れ。イタチにも劣る。

 渋谷馬允(しぶやうまのじょう・重助)たびたびの合戦で勇猛だつたので、前からのご勘当を許して召し使われるところだったが、衛府に任官して首を斬られるとは。よくよく前もって準備して、鍛冶屋に命じて首筋に厚く鉄を巻いておけ。

 兵衛尉(後藤)基清(もときよ) 目はネズミ眼で、ただ伺候(しこう)しておればいいものを、任官などとんでもない。

 刑部丞(梶原)友景(ともかげ) 声はしわがれ、後頭部の頭髪も刑部丞のがらではない。

 兵衛尉(梶原)景高(かげたか) 悪い心構えの者で、前から愚か者だとはご覧になっていたが、任官するとは。まことに見苦しい。

 馬允(中村) ウソをつくだけが得意で、知りもせずに任官するのを好み、揖斐荘(いびのしょう)の知行を失うとは。かわいそうに、うまくいかないやつよ。悪馬細工でもしておれ。

 右衛門尉(平山)季重(すえしげ) 顔はふわふわしていて、とんでもない任官である。

 右衛門尉(八田)友家(ともいえ)

 兵衛尉(小山) 朝政(ともまさ) 

 この二人が鎮西に下向する途中、京都で任官したことは、クズ馬が道草を食うようなものである。

 小山朝政、八田知家、後藤基清などはトップクラスの御家人である。梶原景高景時の二男一ノ谷の合戦で一番乗りの手柄を立てた。平山季重も「平家物語」などに頻出する武勇の士である。彼らが得た官職は兵衛尉、馬允、右衛門尉など。朝廷からすれば不特定多数に与え得る軽微な官職である。まずは彼らほどの武士が、こんな官職を欲しがったことに注目すべきだろう。ついで、たいした官職でもないのに、頼朝が激怒している理由を考えなければならない。

 武士が官職を欲しがることは、のちのちまで続いた。とりあえず鎌倉時代を見てみると、有力御家人は幕府の許可を得た上で相当な金額を朝廷に支払い、官職を買得した。たとえば「二階堂家文書』をみると、鎌倉時代末、幕府吏僚の一人、二階堂行雄左衛門少尉を100貫で買っている。東大寺の修理費を捻出するための朝廷の売官に応募したのだ。これは今でいえば警視庁の幹部職に当たるが、もちろんすでに実体はない。本来それが有していた権限と義務はもうないのだ。一貫は10万円ほどなので、名誉のためだけに、行雄はなんと1,000万円も支出した。位階や官職は、自己をうまく表現する教養に乏しい武士にとって、垂涎(すいぜん・ある物を手に入れたいと強く思うこと)の的であったのだ。

 

 主従制の特徴として、兼参(けんざん・二か所につとめること)という要素を忘れてはならない。義光は顕季の家人になった。だが、おそらく命を賭けてまでは奉仕しないだろう。この程度の主人であれば、他に何人ももつことができそうだ。平安時代後期から鎌倉時代前期にかけては、貴族と武士とを問わず、主従関係はとくに緩やかだった。主人が複数の従者をもつのは当然だ野従者も複数の主人をもった。何人もの主人のもとに参じる。これを兼参といった。

 二条定高を覚えておられるだろうか? 彼は九条道家のもとで朝廷と幕府の交渉を管轄した。彼は道家に仕えていた。また中納言の官職を有する、れっきとした天皇の臣下であった。彼のように実務に精通した中級貴族は、その才を買われ、上皇や女院、摂関家や大臣家などに奉仕した。それぞれの家政の面倒を見る代わりに、荘園の利益や俸禄を与えられ、官位昇進を強力にバックアップしてもらった。鎌倉後期になって院政が盛んになると、代々の上皇たちは彼らを積極的に政治に登用する。仕事も権力も奪われた上級貴族たちは「まったく無礼なやつらだ。ちょつと前まではわれわれに奉仕してペコペコしていたくせに。最近は道で会っても、ろくに挨拶もしないじゃないか」とぼやくことになる。

 こうした不満をエネルギーとして『職原抄(しょくげんしょう)』という書物をまとめたのが北畠親房で、これには官職の故実がまとめられている。大納言で引退した親房は、ライバルの吉田定房に対して猛烈に腹を立てていた。定房は長いあいだ中納言で引退するルールになつていた実務貴族の出身ながら、後醍醐天皇の信任を受け、このクラスの人では初めて内大臣に昇ったのである。実務貴族たちは確かに生き延びる力に長けていて、室町時代になると今度はすかさず将軍足利家に取り入っていく。その代表が有名な日野富子の実家であり、将軍正室を輩出した日野家である。

 武士に目を転じると、やはり彼らも複数の主人をもつ。この点で、一人の主人に仕える江戸時代の侍とは異なるのだ。義光もそうであろう。便利な実例なので他で何度も引用し、聊(いささ)かうんざりしているのだが、加藤光員(みつかず・光貞に罪はないけれど)という武士を紹介しよう。本領は伊勢国だったようだが、平家ともめ事を起こして伊豆国に逃れ、やがて源頼朝の挙兵に参加。弟の景廉(かげかど)が山木兼隆を討ち取るという大手柄(てがら)を挙げた。こののち多くの戦いに参加して幕府要人の一人となる。彼はふるさとの伊勢国に多くの所領を獲得するうち、伊勢神宮のトップである大中臣民の家来となった。京都では後鳥羽上皇の知遇を得て、検非違使に任じられた。もちろん鎌倉の将軍に仕える御雇人でもある。つまり、少なくとも三人の主人をもっていた。

 宮廷に身を置く人なら、兼参もかまわぬかもしれない。隠微な派閥抗争はあっただろうが、貴族の政争は命懸けの衝突には発展しなかったから、なんとか巧妙に立ち回ればよかったのだ。だが献身が求められるいくさ場での奉公となるとそうはいかない。だれを真の主人にするか旗幟(きし・自分の存在を明らかにするために立てるはた)を鮮明にする必要が生じた。

 1221(承久3)年の承久の乱では、上皇と将軍どちらの命令に従うべきか武士は厳しい選択を迫られた。悩んだ挙げ句、後鳥羽上皇に従った武士は相当数にのぼった。頼朝旗揚げからの従者であったにもかかわらず、先の加藤光貞京方についた。同じく挙兵時からの忠義な家人、佐々木一門からは嫡流の広綱(近江・長門・石見の守護)、経高(淡路の守護)、高重(阿波の守護)が京方に味方した。大内惟信も、源氏一門中で第一の厚遇を受けながら幕府に背いた。勝手に兵衛尉に任官し、「目はネズミ眼で」と頼朝に酷評された後藤基清(播磨の守護)も同様である。昨日まで主人と仰いでいた将軍に、弓を射かけたのである。

 こうした状況こそを、源頼朝は深く怖れていた。だから東国の武士たちに、鎌倉殿への献身を重んじるよう、くりかえし要求した。武士が朝廷に接近することは、とくに強く警戒した。長きにわたり、京都は政治と文化の中心地であった。草深い鎌倉とは異なる奥行きをもっていた。京都での暮らしに魅力を覚えて滞在が長引けば、御家人たちと天皇や貴族との鮮は深まるかもしれない。

 武士たちは荘園を基盤として生活を組み立てていた。荒野を開発して耕作に適した私有地を造成する。その地を中央の有力者に捧げて荘園とする。自身は現地の責任者となって実質的な支配を展開し、その地位を子々孫々に伝えていく。だから武士たちは源義光に見たように、荘園領主である皇族・貴族や大寺社との関わりを、深い浅いの差異はあっても必ず有していた。

 たいてい、荘園領主は武士を下賤ものと侮蔑し、自らすすんで交渉をもとうとはしていない。だが彼らが考えを改め、能動的に振る舞いはじめたらどうか。土地を給したり官職を与えたりしながら武士に恩恵を下賜(かし・身分の高い人からくださること)し、従者としての取り込みを画策すればどうか。それは鎌倉の「武」の勢力にとっては、まことに厄介な事態になる。献身を求める鎌倉殿との過酷な関わりを嫌い、京都へと回帰する。そうした御家人が多く現れたなら、誕生したばかりの脆弱な武人政権はたちまち崩壊してしまうであろう。

 

 報告なしに任官した御家人に、頼朝は激しい怒りを向ける。その理由がここにある。どなたかは忘れたが、著名な作家が頼朝の人間的な器量の小ささを指摘し、その根拠としてこの「吾妻鏡』の記事を挙げていた。自分の家臣が出世するのだから、むしろ喜ぶべきではないか。それを怒って一人一人の欠点をあげつらうとは、なんと了見の狭い男か、と。そうではないのだ。官職の授与には現代のわたしたちには計り知れぬ、重い価値がある。そのふるまいを通じて生じる、主従の関係がある。勝手な任官は、鎌倉殿が与(あず)かり知らぬ、京都と御家人の親密な接触を意味する。だからこそ御家人たちを強力に統制するために、いくさ場での献身を確保するために厳密に規制されねばならなかった(とはいえ、ネズミ眼や後頭部の頭髪をもちだすのは、どうかとも思うが)。

 義光の例から見えてくるもう一つの特徴は主従の関係が双務的(契約の両当事者が、互いに義務を負うこと)であることである。義光はご恩を与えられるのを待って初めて、奉公の実を示している。もしも荘園の権利を藤原顕季(あきすえ)が剥奪すれば、従者であることをただちにやめそうに見える。主人がご恩を施きなければ従者は従者でありつづける必要はない。この観点をふまえて実例を見直すと、中世の主従関係は契約として解釈した方が適当であるようだ。働きがいのない主人、いくら尽くしても酬いてくれない主人は、従者の方から見限る。「君は君たらずとも、臣は臣たれ」。主君が仮りに主君としてふさわしくない振る舞いをしようが、家臣は家臣としての義務を果たすべきだ、と説いた江戸時代の倫理観とはまるで異なる

 忠臣は二君に仕えず、ともいう。だが江戸時代に隣接する時代でも、武士たちは自分により良い活躍の場を与えてくれる主人を選んで、主家を変えた。高く評価してくれる、つまりは多くの禄(給料)を与えてくれるのが基本であるが、その他にも侍の面目とか、人格的相性とかが関係していて興味深い。彼らは主人が気に入らないと思えば、時に堂々と異議を申し立て、従属を拒絶した。

 

 大名に成り上がった武士の中では、藤堂高虎(とうどうたかとら)の経歴が面白い。浅井長政、阿閉貞征(あとじさだゆき)、磯野員昌(いそのかずまさ)と生国である近江国の領主に仕えたあと、信長の甥の津田信澄(のぶずみ)に仕える。ここでも長続きせずに出奔、羽柴秀長(はしばひでなが)に出会ってはじめて落ち着いた。秀長と兄の秀吉によって大名に取り立てられたが、早くから徳川家康に接近し、ついには伊勢・伊賀の国主、32万石の大大名に出世した。たびたび主を変えた彼は、嫉妬も手伝ってのことであろうが、当時から評判が芳しくなかつたらしい。

 

 高虎が仕えた津田信澄は明智光秀の娘婿であつたが、本能寺の変の直後に光秀との共謀を疑われて殺害された。このとき彼を討ち取ったのが、茶人・作庭家として名高い上田重安(法名は宗箇・そうか)であった。彼は丹羽長秀に仕えて一万石の禄をはみ、ついで豊臣秀吉の直臣(じきしん)となったあとに浪人し、やがて浅野家に出仕して再び一万石を得ている。天下人の直臣から一大名家の家臣になり、がずいぶん下がったように思えるが、そうしたことはあまり気にしていないようだ。重安と同じクラスでは、「槍の勘兵衛」として有名な渡辺勘兵衛(諱・いなみは了・さとる)がいる。

▶︎源頼朝の滅亡について

 1184(元暦元)年6月、朝廷は頼朝の推挙の通り、源氏3人を国司に任じた。弟の範頼が三河守、源広綱(ひろつな・以仁王とともに挙兵した源三位頼政の子)が駿河守、それに平賀義信が武蔵守である。任官を期待していた義経の名はそこにはなかった。

 8月6日、義経は頼朝の推挙を得ずに、後白河法皇によって左衛門少尉(検非違使を兼任)に任官し、従五位下に叙せられて院への昇殿を許された。鎌倉には(これは自分が望んだものではありません。ですが法皇はたびたびの勲功を無視できないと、強いて任じて下さいました。それで固辞する事ができませんでした)と報告した。この報に接した頼朝はたちまち顔色を変えた。(義経については事情があって任官を許さなかったのに、その思いに逆らうように、自身で熱望したのではないか)との疑いを強くもったのだ。彼は(あやつが我が意に背くことは今度ばかりではない)と怒り、義経を平氏追討の命令系統から外してしまう(吾妻鏡』)。苦戦する範頼を援護するために義経が用いられたのは、半年の後、翌年二月のことであった。