常陸守護と小田氏

■常陸守護と小田氏

■はじめに

 治承四年(1180)8月17日深夜から翌18日早朝にかけて、源頼朝配下の北条時政ら士卒(武士と雑兵(ぞうひょう))は伊豆国山木郷にある平兼盛の館を襲撃し、館主兼隆の首級を手にした。いわゆる夜討ちである。兼隆は京都からの流人(流罪(るざい)に処せられた罪人)であったが、その身が平氏一門の出身であるため、やがて免罪、この時は伊豆国の目代(代官などの役人の事)として国内に威を振っていた。流人頼朝とは大分異なる平氏政権の処遇である。

 夜討ちをかけたのが源頼朝。清和源氏の嫡流にして平治の乱(平治元年〔259〕)で平清盛に追討された源義朝の嫡男である。乱の翌年捕縛され、伊豆国に流されて配所「蛭ケ小島」(真の比定地は不明)で青春の日々を過ごしていた。清盛によって築かれた強力な政権の捕虜として、頼朝は東国伊豆の片田舎での生活を比較的自由に暮らした。そして、多くの知己(ちき・単に知合い・知人)を得た。亡父義朝に至る源氏は、10世紀以来武士団の棟梁としての武名を高め、義朝の代には相模国を中心にして勢力を張った。頼朝の知己の中には義朝との主従の緑をもつ者も多く、あるいは平氏政権を疑う者もいた。伊豆国田方郡の土豪北条時政も忠実に平氏政権下の京への番役を奉仕する坂東平氏流の小武家であるが、娘政子が頼朝の妻になるに及んで、この貴種(高貴な家柄に属していた人)頼朝を推戴(すいたい・団体などの長として、あおぐこと)して自己勢力の拡大を図ろうと傾いていた。

 

 妻の実家北条氏の勢力を得、また知己の理解を支えとした頼朝の平氏政権への反抗は、この夜討ちを皮切りとして続行された。この月23日、伊豆山を越えて相模国へ進撃した頼朝であったが、石橋山の合戦で平氏方大庭景親の軍に敗れ、一時、箱根山中に籠るが月末には三浦氏の援助安房国に逃走した。安房・上総・下総の三国で上総・千葉両氏(いずれも坂東平氏流)の参陣を得てからの頼朝軍の進撃は快く、武蔵国を経由して10月6日には再び相模国へ入り、父祖縁故の地鎌倉に落ち着いた。10月18日の駿河国富士川の合戦で征東軍を京都に追い返した頼朝は、11月には常陸国の佐竹氏を討つなど東国武家の臣従の応答を問いつつ源氏政権の確立に努めた

 この過程で、平清盛は病没し(養和元年〔1181)、文治元年(1185)3月には長門壇ノ浦の海戦で平氏は全滅した。一方、寿永2年(1183)10月、後白河法皇を代表とする朝廷は頼朝の東海・東山両道実質的支配を認め頼朝の武家政権は公的に始動していった。元暦元年(1184)10月には、先年設置した侍所に加えて公文所(文治元年に政所と改称)・問注所を設け、この二機関には京都側吏僚大江広元・三善康信を長官として招き置いた。この年の11月にはいねゆる守護・地頭設置の権利を獲得して、武家政権としての荘園・公領の支配形態が組織化されている。

 

 建久元年(1190)11月、久しぶりに上洛した頼朝には朝廷より権大納言兼右近衛大将の官途(官職)が与えられたが、翌月辞任して鎌倉へ戻った。そして、後白河法皇死去直後の建久3年7月、頼朝は念願の征夷大将軍に任官している。武官としての征夷大将軍の位階は低いが、既に正二位に昇叙(上級の官位に叙せられること)されていた頼朝の意図はこれにあった。この時、右近衛大将に任官した頼朝の居館を通例に従い「幕府」と呼んだが(幕府は近衛府の唐名<とうめい・日本の律令制下の官職名・部署名を、同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたもの>)、辞任して征夷大将軍となっても引き続いてこう呼ばれた。鎌倉幕府はこのようにして成立したのである。

 では、この鎌倉幕府の成立によって、常陸国の武士団はどのように変質していったのであろうか。

■幕府成立後の常陸武士団

▶︎常陸武士団の動き

 将門の乱(935〜40年)後の常陸国では、平国香の子息で乱鎮圧の功労者でもある平貞盛の系統が著しい氏族の展開をみせた。貞盛の弟・繁盛の子息・維幹(貞盛の養子となったとの説もある)の子孫は、「」を家の通字として世代を継ぎ、吉田郡以南の国内郡・荘・郷・保単位に庶子家(宗家ないし本家より別れた一族)を派生させていった。この氏族を「常陸平氏」と呼ぶ。この氏族のうち多気義幹(佐谷義幹)・下妻広幹・東条忠幹・鹿島成幹・小栗重成・豊田頼幹(政幹の孫カ)など筑波郡・茨城郡・新治郡・信太郡・鹿島郡、そして下総国豊田郡を本拠とする諸氏は頼朝挙兵時には頼朝討伐軍として動き、平氏政権への奉公ぶりをみせたのである。

 また奥州後三年の役(1083〜87年)を鎮圧した源義家(八幡太郎)の弟義光は、乱後その功により常陸介・甲斐守を歴任するが、嘉承元年(1106)には平垂幹(常陸平氏)と与党して下野国足利荘の源義国義家の子)と戦っている。

 

 そして義光の子息義業は重幹(繁幹)の子息清幹の娘を妻とし、その子息昌義は久慈東郡佐竹郷を名字の地として土着した。常陸平氏勢力と結び付きつつ常陸北部に勢力を扶植(勢力などを、植えつけ拡大する)したこの源氏族を佐竹氏という。この後、佐竹氏の支配領域は常陸国奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・那珂東・那珂西・佐都東・佐都西の七郡)に及び、頼朝挙兵時隆義・秀義父子は平氏方として動いており、治承4年(1180)11月、頼朝の討伐を受けてその支配体制は一時崩壊した。

 新治郡は12世紀前半までに郡の解体が進み、東郡・中郡・西郡・小栗御厨(伊勢神宮領荘園)に分立している。このうち中郡には後二条師通流大中臣頼継(上総介)の所領が成立し、子息頼経はこの郡を名字の地として中郡氏の始祖となった。頼経の養子三郎経高(足利氏)は保元の乱(1256年)で源義朝に従軍するなど、この氏族は親頼朝派の北陸武士団となっていた。

 さらに南北両条に分立した新治西郡では、南条(関都ともいう)に秀郷流藤原氏の大方氏(下総国豊田郡大方郷〔八千町〕)が進出し関氏が成立、北条(伊佐郡ともいう)には山陰藤原氏族の伊達朝宗(常陸入道念西)が勢力を扶植した。両氏ともに源氏方の常陸武士団として常陸平氏・佐竹氏とは異っており、特に関二郎俊平の源義朝軍に属しての保元の乱出陣は、この氏族の位置を明証するものである。

 この他、那珂東郡から分立した国井保には頼信流源氏の国井氏の支配が展開しているが、この時期武士団として輪郭は不明である。あるいは新治東郡笠間保)における宇都宮氏族塩谷朝業の子息時朝の入部は、時朝を始祖とする笠間氏の成立を思わせるが、頼朝挙兵の常陸武士団として扱うには不明の点が多い。

 このように、源頼朝が挙兵し、平氏政権の倒壊を目指した頃の常陸武士団の動きは微妙であり、中でも反頼朝勢力の目立つこの国は、頼朝の深く懸念する地であった。頼朝政権の推移を早々と見極めた小栗氏が佐竹氏追討後の頼朝自身の来館を得たり、寿永2年1183)2月の志田義広の乱における小栗重成の軍功は、常陸国武士団の時局へ対応を示すものであり、八田知家の常陸国への関与とともに常陸国武家勢力関係の新たな始動である。

▶︎八田知家の登場

 源頼朝の幕府創設以前、しかも父義朝および平清盛らが、中央での武門の力量を否応なく発揮したのが、保元のであった。鳥羽上皇の死後、後白河天皇の皇位継承を不満とする崇徳上皇は公然と反意を示し、左大臣藤原頼長・為義・平忠正らを与党として挙兵した。

 一方、後白河天皇方には頼長の兄関白忠通・為義嫡男義朝・忠正甥清盛らが従うき富家も準両氏も親族を分断しての対立がみられた。この年の7月10日崇徳天皇の白河御所への攻略に参陣した源義朝配下の東国武士は多く、その中に常陸の中郡三郎・関二郎俊平(源義朝軍に属す)とともに下野の八田四郎(四男・知家)の名がみえる。

 

 この乱における八田四郎の戦功は不明だが、源氏武士団に属しつつ、下野国の住人として参戦したこの人物こそ」八田知家である。「武者所」「右馬允」空知家の履歴所伝から、鳥羽院政および後白河政権下の在京武士であったと加われる。加えて、源義朝の任下野守はその指揮下に入る機会ともなった。この知家の兄朝綱(下野国御家人宇都宮氏の祖)も「鳥羽院武者所」「後白河院北面」を歴任したといわれ、この氏族の武士的映像が確認される。そして、朝綱・知家の父は宗綱(八田権守)、祖父は宗円(宇都宮座主)、曾祖父は藤原兼房であり、さらに二代遡及して藤原道兼(関白)に及ぶ。いわゆる粟田関白道兼流藤原氏である。宗円の関東下向を、前九年の役に際して阿倍頼時調伏のため源頼義・同義家が同伴したと解釈する書もあるが、不明の点も多い。

 ともかく、この宗円が下野国河内郡の古社宇都宮(『延書式』所載、名神大社二荒山神社)で奉斎権(座主)を得たことけ事実のようであり、息男宗綱も「宇都宮座主」の地位を質している。そして、この父子二代にわたって私領の形成と氏族の在地武士化の傾向を顕著に展開していったのである。このよう勢力強化の拠点として、宗綱が八田権守と称されるように「八田」なる名字の地を想定できるのであるが、その現在地への比定となると容易ではない。通説の如く現筑西市八田辺りに比定する説に対して、これを積極的に比定する説があるわけではないが、大いに疑問を呈示する余地はある。まず第一に下野国河内郡内宇都宮座主(職)を有するこの氏族が、何故隣国常陸国域において私領形成を図るのかである。第二に、この時期の常陸国八田は新治郡分解の最中にあって、常陸平氏流氏族の入部(小栗氏の分立)と伊勢神宮(内宮)領小栗保(御厨へと発展)の成立がみられた地域である。第三に、佐竹氏討伐後の源頼朝が立ち寄った「八田館」は小栗十郎重成が下司として居住する小栗御厨の中にあったという。つまり、常陸国新治郡中央部の小貝川(蚕飼川)流域は常陸平氏流小栗氏の所領が展開していた。

 以上の点から、宗円父子の私領形成の場を常陸国内に求めることの不自然さを指摘しておきたいが、同時にこれに該当する地域は下野国内にも未検出である。なお、この想定は通例に従って名字の地を比定する観点に立っての場合であり、「八田」を地名に限定しないこの氏族の呼称とみれば比定地探しは無意味である。宗綱の子朝綱も八田を号したようであるが、その子成綱の代には宇都宮を名字とし、八田の名字は朝綱の弟知家の系統に相承されていった。

 保元の乱以後の下野国住人八田四郎の行動はしばらく不明である。この乱の三年後に起った平治の乱(1159年)では、在京源氏方武士団は棟梁源義朝の敗北によって勢力を失い、やがて平清盛を中心とする平氏政権の強大化の中にとり込まれていった。下野八田氏(宇都宮氏)とて例外ではなく、宇都宮朝綱の平氏の下知(命令)による在京・大番役勤仕は明白である。寿永元年(1182)以後、この朝綱・従弟(いとこ)信房らが宇都宮氏として伊豆挙兵後の頼朝のもとに参候することは、この氏族の御家人化を実現するが、八田四郎の頼朝政権への接近はきわめて独自的である。

 源平争乱の打ち続く中、寿永二年二月に頼朝叔父志田義広(義憲)頼朝に抗して挙兵した。義広は平安末期の信太荘に勢力を有するが、この荘域へ関わった動機については明らかではない。頼朝軍の西方の間隙をつく形で鎌倉占拠を企画し、下妻広幹などの参加を得て常陸西方より下野国乃木宮(栃木県野木町)へと行軍し、ここで下野の雄族小山朝政と対戦した(野木宮合戦・上図右)。さらに、義広討伐軍は集結し八田武者所知家下妻四郎清氏広幹と同族カ)・小野寺太郎道綱小栗十郎重成宇都宮所信房(宇都宮信房カ)らが小手差原・小堤の合戦で義広を東山道筋へと敗走させた(志田義広の乱)。

 28日には義広軍の捕虜29人が頼朝の前に引き出され、八田知家・小栗重成・小山宗政・下河辺行平らが頼朝に対面した。これが『吾妻鏡』の伝える限りでの源頼朝と八田知家の最初の出会いの場である。知家嫡子知重もこの年の四月に頼朝寝所祇候衆の一員となるなど、知家父子の頼朝側近化が認められる。

『吾妻鏡』によると・・・1181年(治承5年)4月7日、源頼朝は、御家人の中から特に弓矢の技術に優れた者、また、頼朝に忠実な者を11名選んで、寝所近辺の警護を命じました。

 

 元暦元年(1184)8月〜同2年(文治元年1185〕)正月にかけて知家・知重父子は平家追討使源範頼供奉して九州の豊後国へ渡っている。この年3月には長門国壇ノ浦の海戦で平家は滅亡したが、この頃までに八田知家の御家人としての立場は不動のものとなったといえる。その後の行歴を『吾妻鏡』から抄出すると、

○元暦二年(文治元年1185)四月十五日条、頼朝の内挙亨朝廷よりの任官拝命を禁じられた「関東御家人」の中に八田右衛門尉友(知)家がいる。この禁令に背く者は尾張以東への帰参を許さず、本領を召し上げ、斬罪をも辞せずとの強いものであったが、既に官途を得たことは止むを得ず、結果として許容したようである。知家の「右衛門尉」任官はかかる平家討伐の論功行賞として獲得したものであった。

○文治元年(1185)十月二十四日条頼朝の発願で落慶の運びとなつた鎌倉勝長寿院の供養法会に知家・知(朝)重父子が参候している。

○文治二年(1186)正月三日条・八田知家、直衣始の儀に鶴岡八幡宮へ参詣する頼朝に供奉する。

○文治二年(1186)五月十日条・陸奥の藤原秀衡の貢馬献上に際し、八田知家が京進役を命ぜらる。

○文治三年(1187)正月十二日条・頼朝・頼家父子、御行始の儀に際して南御門所在の「八田知家宅」に入御する。

○文治三年(1187)四月二十九日条・伊勢国近津連名地頭八田太郎(知重)等、勅使駅家雑事対捍を誡められる。

○文治三年(1187)八月十五日条・八田知家、鶴岡放生会に際し頼朝に従う。

○文治四年(1188)三月十五日条・八田知家・知重父子、鶴岡大般若経供養に際し頼朝に供奉する。

○文治四年(1188)七月十一日条・輯家の着甲始の儀に際し、八田知家黒馬を献じ、朝重がこれを引く。

○文治四年(1188)十二月十一日条・義経追討の宣旨・院庁下文を携帯せる史生紀守康、八田知家宅に入る。

○文治五年(1189)四月十八日条・八田知家・知重父子、北条時連元服の儀に列する。

○文治五年(1189)六月九日条 八田知家・知)重父子、鶴岡塔供養に参侯する。

の如くである。文治5年7月に始まる頼朝の奥州追討を目前にしたこの時期までに、鎌倉南御門に宅を与えられ、且つ義経追討を伝える官使の入部をも許された八田氏の御家人としての立場が明瞭に描写されている。八田知家の頼朝側近としての登場はかかるものであるが同族宇都宮氏に比してその「本領」は依然として比定が困難である。