鎌倉幕府の戦争と政争

■鎌倉幕府の戦争と政争

▶︎牧氏(まきし)の変と伊賀氏の変・・・不安定な権力継承

 鎌倉殿(将軍)の継承は、必ずしも安定的におこなわれたわけではなく、内部抗争をともなうこともあった。ここでは、源実朝の擁立直後の内紛(牡氏のと、北条義時の急死直後の新将軍・執権擁立計画(伊賀氏の変)を取り上げよう。

 正治元年(1199)、源頼朝が急死して以降、鎌倉幕府の主導権をめぐる権力闘争が繰り広げられることになる。そのなかで、北条時政は自身の室牧氏に踊らされ娘婿平賀朝雅(ともまさ・信濃源氏)を源実朝にかえて鎌倉殿に擁立しょうと画策するも失敗し、逆に時政が失脚することになる。この元久二年(1205)に生起した事件を「牧氏の変」と呼ぶ。

 牧氏の変のきっかけは、平賀朝雅と武蔵武士畠山重忠の子重保との口論であったこ牧氏はそのことを北条義時に告訴し、同じく時政の娘婿であった稲毛重成(重忠のいとこ)も重忠謀反を幕府に訴えた。その結果、重忠とその一族は幕府によって滅亡させられたのである。また、実は重忠も時政の娘婿であったが、時政が武蔵国支配(支配権は重忠が保持)をもくろんでいたらしく、重忠は障害となっていたのである。

 しかし、鎌倉殿を実朝から朝雅へかえることについて北条義時・政子は拒絶する姿勢を見せ実朝を義時邸で保護した。また、正当な理由なく重恩を滅亡させたことへの反発から、義時に味方する者のほうが多く朝雅の鎌倉殿擁立は失敗した。そして、時政は出家して伊豆に下向し、かわって義時政所別当に就任して、大江広元とともに幕政運営に携わった。

 その後、実朝は鶴岡八幡宮で暗殺され、公武交渉の結果、まだ幼い藤原(九条)頼経(よりつね)が次期鎌倉殿として下向する(北条政子が事実上の鎌倉殿として頼経を後見)。そして、承久の乱を乗り切った幕府に、次の試練が訪れる。それは、元仁元年(1224)の北条義時の急死である。義時の死後、政子は、六波羅探題として在京していた北条泰時・時房を鎌倉に呼び戻したが、鎌倉殿・執権の地位をめぐつて別の勢力も動いていた。

 すなわち、義時の後室伊賀氏とその兄伊賀光宗が中心となり、義時の娘婿一条実雅(さねまさ・源頼朝の義理の兄弟能保(よしやす)の子。頼経とともに鎌倉に下向)を鎌倉殿に、伊賀氏の子政村北条泰時の異母弟)を執権にする計画を立てていたのである。

 しかし、三浦義村以下の宿老を味方につけた政子は、伊賀氏の計画を阻止することに成功した。その結果、実雅(さねまさ)は越前国へ、光宗は信濃国へ配流となり、伊賀氏伊豆国に籠居という処分になつた。この一件を「伊賀氏の変」と呼ぶ。ただし、政村は処分されず、光宗政子の死後に復権していることから、この「計画」はでっち上げだったのかもしれない。(工藤祐一)

▶︎寛元・建長の政変・・・追放された摂家将軍

 承久の乱後、鎌倉幕府の執権は北条泰時経時(つねとき)時頼と継承されていくが、政権運営は必ずしも順風満帆(まんぱん)ではなかった。

 とりわけ、北条経時・時頼の両政権期で最大の障害となったのは、藤原(九条)頼経・頼嗣(よりつぐ)父子(彼らを「摂家将軍」と呼ぶ)と結びついた名越氏などの北条氏一門、三浦氏・千葉氏などの有力御家人、大江氏・三善氏などの吏僚層(役人・官吏・つかさびと)を含む一大勢力であった。この幕府内での対立は、一般に、「執権派」と「将軍派」とに分類され、両者を軸に政治史の理解が深められている (ただし、両派とも一枚岩ではなく、単純に分けられないことには注意が必要である)。

  さて、幕府内における「執権派」「将軍派」の対立は、どのように推移したのだろうか。

 まず、北条経時政権期の寛元2年(1244)、頼経から頼嗣への将軍交替がおこなわれた。これには、鎌倉へ下向して20年余り経つ頼経の勢力を削減したいという経時の狙いがあったと考えられる。しかし、頼経は引き続き鎌倉に居続け、「大殿」として存在感を発揮している(大殿は摂関家の家長に開いられる呼称であり、摂関家出身の頼経の「家」は摂関家に準じる存在であった)。

 その後、体調を崩していた北条経時は「寄合」によって弟の時頼に執権譲り、寛元4年閏4月に死去する(鎌倉後期に実質的な幕府の意思決定機関となる「寄合」の史料上の初見である)。この「寄合」の開催は、得宗(とくそう)に対抗しうる名越光時らに主導権を握らせないための緊急的な措置であったと見られる。

手元の資料によると「得宗(とくそう)」は北条氏本家のことだそう。ネットで調べると、北条氏本家の当主(≒惣領:家督相続予定者)をさすのだとか。「得宗」の由来は、2代執権北条義時の法名・別称だと言われているみたいですが、真相は謎。また、得宗家に仕えた人たちを「御内人(みうちびと)」と呼び、彼ら家臣が御家人に代わって、次々と要職に就き、幕府の政治に絡んでいきます。得宗専制政治の始まりです。

 そして、経時の死去直後から鎌倉で騒動が発生し、同年5月末には、藤原頼経と名越光時とを中心として、時頼を排斥しようとする陰謀が露顕した。摂関家の当主であった藤原(近衛)兼経には、頼経が父の道家と共謀し、武士たち(名越光時ら)に時頼を討たせようとしたこと、その陰謀が発覚して頼経幽閉され、京都に送還へ送還されることが情報としてもたらされている。この閏四月からの一連の騒動を「寛元の政変」と呼ぶ(『鎌倉年代記』では「宮騒動」とするが、由来ははっきりしない)。

  

 この政変後の処理によって、名越氏など「将軍派」の勢力が削減された。そして、七月には頼経が京都へ送還され、その余波を受けて、父道家の京都政界における存在感も低下している(関東申次(もうしつぎ)が道家から藤原(西園寺)実氏(さねうじ)に交替したとされる)。なお、『吾妻鏡』には、親将軍勢力の中心人物であった三浦光村が、涙を流しながら頼経に「もう一度鎌倉にお迎えいたします」と述べた逸話があるが、後の宝治合戦の伏線として創作・挿入されたとおぼしい。

 ところで、この寛元の政変は、北条時頼の外戚である安達氏が主導していたという指摘がある。また、三浦氏が滅ぼされた宝治合戦も、時頼の意図とは別に安達氏によって開戦している。これらの事件を通じて、時頼政権の安定化とともに、安達氏は特権的な地位の確保に成功したのである。

 話を幕府政治の動向に戻そう。時頼に嫡子時宗が誕生した建長3年(1251)の末、幕府内で高い家格を有し、北条氏得宗家と婚姻を通じて密接な関係にあった足利泰氏自由出家の罪で処罰された。その後、了行法師(りょうぎょうほっし)・矢作常氏(やはぎつねうじ)長久連(ちょうひさつら)らが謀叛の疑いで捕縛され、処罰されている。了行と常氏は、宝冶合戦で三浦氏とともに討伐された千葉氏に連なり、かつ九条家とも密接な関係を有していたとされる。

 また、了行の出身である原氏(はらし)は足利氏と接点があり、加えて久連泰氏の家人である可能性が高いという。これらから、九条家(道家・頼経)や足利氏が謀叛に関与していたと考えられている。

 そして、建長4年春、将軍藤原頼嗣の更迭後嵯峨天皇の皇子宗尊親王(「親王将軍」のはじめ)の鎌倉下向が決定し、九条家の退潮が決定的となった。

 この建長3年末から翌年にかけて起こつた足利泰氏の自由出家・謀叛の発覚・藤原頼嗣の将軍更迭という一連の事件を「長の政変」と呼ぶ。この政変において、謀叛人らは、頼経を慕う寛元の政変・宝治合戦の敗者たちを糾合し、頼経将軍に戻し執権には時頼に替えて足利泰氏を据えるという計画を準備していたと考えられる。しかし、建長の政変後に関係者が処分された結果、得宗家が幕府内の実権を握ることが確定した。この権力構造は、来たる北条時宗政権の基層となったのである。

▶︎宝治合戦−「得宗専制」への転換点

 鎌倉中期の幕府は、三浦氏を中心として将軍藤原(九条)頼経・頼嗣に親しい勢力が形成されていた。

 そして、その存在は、北条氏による政権運営上の不安定要素でもあった。実際、寛元の政変後に、頼経京都に送還される際の三浦光村の逸話が「吾妻鏡』に記載されている。そのようななか、翌宝冶元年(1247)に北条氏と三浦氏との間での緊張関係が極限に達し、合戦となつたのが「宝治合戦」である(「三浦氏の乱」とも呼ぶ)。

 この宝治合戦にいたるまで、「吾妻鏡」の各所に北条氏あるいはその外戚安達氏三浦氏との確執という伏線が張られている。たとえば、執権北条時頼が、六波羅探題であった幕府重鎮の北条重時を鎌倉に下向させることを三浦泰村(光村の兄)に打診したたものの、泰村は拒絶した。この人事は、時頼の舅(しゅうと)である重時を政権に迎え入れることによって、末確立であった時頼の権力を強化する狙いがあり、時頼との血禄関係が薄い三浦氏は、自らの政治的立場が不利になることを恐れて拒絶したと考えられている。

  

 また、出家して高野山(和歌山県高野町)にいた安達景盛が、わぎわぎ下山して鎌倉を訪れ、時頼三浦氏との開戦を要求し、さらに子の安達義景、孫の泰盛を叱責するという逸話もある。義景・泰盛への叱責は、煮え切らない時頼を説得できなかった八つ当たりに近いと思われるが、その背景には、安達氏が、時頼の外戚でありながら三浦氏にかわって幕府内での特権的な地位を確立できていないことが考えられる。その後、安達氏によると思われる立て札が鶴岡八幡宮の鳥居の前に立てられ、泰村の邸宅で落書が見つかるなど、徐々に三浦氏は追い詰められた。

 このような「吾妻鏡」の記述から、通説では、時頼が外戚安達氏と協力し、三浦氏に対して挑発を操りかえしたことで間戦にいたると考えられている。ただ、「吾妻鏡」から見える時頼と泰村との関係は、開戦直前まで良好であったのか記録から乏しい。泰村の次男駒石丸(こまいしまる)を自身の養子にすることで縁戚関係を結んでいる。さらに、将軍藤原頼嗣(よりつぐ)の室で時頼の妹であった檜皮姫(ひわだひめ)が亡くなった際、その喪に服すために時頼が泰村邸に渡っている。このことから明らかなように、時頼と泰村開戦を回避するための努力を続けていた。

 しかし、すでに述べたように、三浦氏にかわって特権的な地位をねらう安達氏、とりわけ安達景盛は、三浦氏を滅亡させるため、時頼の意図とは別に開戦を主張していた。一方、三浦氏の内部でも、光村が合戦の準備をすすめ、時頼邸にも武士が集結するなど、鎌倉中は大騒動となっていた。

 宝治元年6月5日、このような空気のなかで、時頼からの和平の書状が、御内人(みうちびと)の平盛綱を通じて泰村のもとに到来した。泰村も和平を受け入れ、政治的に解決されるはずであった。このような時頼の動きに反し、盛綱が時頼邸に帰着する前に、安達氏が三浦氏に攻撃をしかけ宝治合戦が勃発した。安達氏の先制攻撃に対し、時頼もなし崩し的に軍勢を差し向け、和田合戦以来となる市街戦が繰り広げられた。

 そして、攻勢に耐えきれなくなった泰村・光村ら三浦一族は、源頼朝の甘草堂に立て籠もり、自刃することになった。その数は500人、うち御家人の一族は260人にのぼったと伝えられている。死に場所に頼朝の法華堂を選択したのは、頼朝の幕府とともにあったという三浦氏の歴史を確認するとともに、北条氏・安達氏に対してその立場を強烈に主張するためだったのだろう。翌日、泰村の娘婿であった千葉秀胤が討たれ、三浦与党とみられていた御家人も討伐されている。

 以上が宝治合戦のあらましである。最後に、その戦後処理についてみておきたい。まず、朝廷に対しては、「三浦一族が謀叛を起こし謀殺された」という報告がなされている。これが幕府の宝治合戦に対する公式見解であった。また、北条重時が鎌倉へ下向して複数執権体制(いわゆる執権・連署)へ移行し、時頼権力の強化がなされた。そして、北条一門の権力伸張がすすみ、幕府の政務・儀礼などでは、これまでの分的な枠組みを超えて、無位無官であっても北条氏が上席を占めるようになるなど「得宗専制」の画期となったことが指摘されている。

 一方、三浦氏は、一族の中心であった泰村・光村を失ったものの、北条方に与した佐原系三浦氏が彼らの社会的な地位を継承し、その多くは、鎌倉幕府滅亡後も生き残り、中世末まで存続している。(工藤祐一)

▶︎二月騒動・・・執権・時宗の非情

 文永 9年(1272)2月、鎌倉と京都でそれはほぼ同時に起きた。11日、評定衆であった名越時章(なごえときあきら)とその弟の教時(のりとき)が、執権・時宗の家人などによって襲われ、殺害された。

評定衆・・・鎌倉,室町幕府の職名。 執権のもとで裁判,政務を合議した職員。 執権を中心とする合議体制の整備確立を意図して嘉禄1 (1225) 年北条泰時が新設。 政所執事,問注所執事,引付頭人はいずれも評定衆を兼務し,幕府権力の中枢であった。

 ついで15日、六波羅北方(きたかた)探題・北条義宗が南方(みなみかた)探題・北条時輔と六波羅で合戦し、時輔が討ち取られた。これを二月騒動という(『倶暦間記』)。

 時輔らが謀反の計画を立てたため、先んじて時宗らが兵を起こしたと後代の史書は語るが、あまりにも謎が多い事件である。なかでも不可解なのは、名越時章の罪は誤りだったとして討手(敵や罪人などを殺しまたはとらえるために向かう人)は処刑、教時の討手も賞罰なしという処置となったことである。時輔時宗の異母兄であり、得宗一族として相応に遇されてはいたものの、嫡子である時宗とは一線を画されており、反時宗派に担がれる恐れはあったかもしれない。また名越家は代々得宗家と微妙な対立関係にあり、宗尊親王(むねたかしんのう)追放の際には教時が挙兵しょうとした前歴があった。これら潜在的に敵対しうる有力者を粛清し、モンゴル襲来に向けて一族統制を固めようとした時宗による策謀だった可能性は十分にある。鎌倉の討手たちへの不可解な処置は、時宗らの軍事行動にさしたる正当性がないことを暗示している。

 

 日蓮は 『立正安国論」で他国侵逼難(しんぴつなん・外国の侵略)自界叛逆難(ほんぎゃくなん・内乱)を予言していたが、この2月騒動は後者を証するものと考えられた。そして前者に対応するモンゴル襲来はもうそこまで迫っていた。

 なお時輔に関しては、生存説がしばらく囁(ささや)かれた(「興福寺略年代記」「野津本・のずぼん・北条系図など)。文永11年(1274)にはモンゴル襲来とともに時輔らが京に攻め上ってくるという噂があり(「勘仲記」・かんちゅうき)、弘安7年(128 4) には時輔その子が活動しているという情報によって幕府が取り締まりを強化している (「鰐淵寺・がくえんじ・文書」)