土浦城

■城の黎明・・・土浦城の登場と近世城郭への道のり

▶︎土浦城の前提

 土浦の地名が歴史上最初に現れるのは、「東寺百合文書」に含まれる元徳元(1329)年の結解状(けちげじょう)です。これ以降、土浦が登場するのは、永享7(1435)年の「常陸国富有人注文」で、その中に「土浦郷若泉三郎」という人物が現れます。

 

2 常陸国信太庄上条京進絹代括解状[複軌元徳元(1329)年12月4日当館所載庶本:京轟府立京都学・歴彩館所蔵(国宝)東寺百合文書に含まれる、信太庄上条内の年貢納入状況をまとめた報告書です。信太庄の地頭代定覚(じょうかく)が、東寺の雑掌定祐(ざっょうじょうゆう)に宛てたものです。雑掌は荘園領主から派遣される荘官の一つです。上条内三郷のうち「土浦」の名が記されており、史料上の初見です。

 若泉氏は、康永3(1344)年の軍忠状に、武蔵武士児玉党の「若泉太郎次郎」という人物が小田・関城近辺の合戦に従事したとあることから、この親族ではないかと考えられます。これ以降、若泉氏は戦功に絡んで土浦近辺の領地を与えられたことが推察できます。

4 別府事実軍忠状[写真] 康永3(1344)年2月 国立国会図書館所蔵・武蔵国の武将別府事実が高師冬に提出した戦況報告書です。師冬催促に従った幸美は、暦応4(1341)年5月9日に小田周辺に出陣、11月18日に小田(治久)が降参すると関城を攻めました。26日には夜戦が起こり、中間(ちゅうげん・従者)の男二郎四郎が左肩を射抜かれたことを報告しています。

 では、なぜ土浦の地が選ばれたのでしょうか。土浦は霞ケ浦に流入する最大河川である桜川の入江にあり、鎌倉街道をはじめとする主要な道路が付近を通っていました。このことから、交通の要衝を押さえるのに適した土地でした。桜川の流域にあり、小田氏の本拠地であった小田城からは、青磁や古瀬戸皿、瀬戸美濃の皿などが出土しています。

 また霞ケ浦を経由してヒトやモノ、文化、宗教などが土浦周辺へもたらされました。土浦も流通において重要な場所であったと考えられます。土浦城の立地[写真]『発掘された土浦城』より土浦は、北側の新治台地と南側の筑波柵台地と、その間の桜川低地から成り立っています。土浦城は、桜川低地の砂や泥などが堆積した自然堤防の上ににいはり築かれました。

▶︎小田氏の支配と土浦城

 小田氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の茨城県南地域で勢力を誇りました。初代八田知家が常陸国守護職に任じられると、以後小田氏は15代にわたりこの地を治めました。

 明応5(1496)年のものとみられる小田政治(まさはる)の書状には、土浦は戦(いくさ)において重要な場所として登場します。当時の史料や「寛永諸家系図伝」によれば、永正13(1516)年頃に小田氏の家臣であった菅谷勝貞(すげのやかつさだ)が若泉五郎右衛門から土浦を攻め取っています。これ以降、菅谷氏は土浦を本拠地として主君小田氏を支えました。

6 小田政治革状[写真](明応5〔1496〕年)10月24日一般財団法人石川武美記念図書館所蔵 政治が真楽軒(真壁尚幹・ひさもと)に宛てた書状です。小田(北条)顕家(政治兄)が小田城に攻め寄せようとした際、菅谷彦次郎・田土部兵したこと、政治の父成治を永興院へ移すこと、政治が土浦へ向かい、顕家攻略の談合を画策していたことが記されています。

7 寛永諸家系図伝(菅谷氏)[写真]江戸時代 国立公文書館所蔵
寛永年間に江戸幕府が編纂したの系譜集です。菅谷氏は紀氏の流れを汲むとされています。このうち勝貞の項には、小田氏治に仕え数度の戦功があったこと、土浦の若泉五郎右衛門を攻めて城を得たこと、その後は代々土浦城を居城としたことが記されています。

9 関東幕注文[複製]永禄4(1561)年以降\当館所蔵 米沢市上杉博物館所蔵(国宝)
越後国の上杉政虎(まさとら・後の謙信)に味方した小田周辺の武将の氏名と家紋を記した文書です。常陸国には「小田中務少輔(なかつかのしょう・氏治)すはま(州浜)」をはじめ、小田氏の武将11人とその家紋が記されています。土浦城主であった「菅谷左衛門尉(政貞・まささだ)きつこう之内ノきちかう(亀甲に桔梗)」の名もあります。

 小田氏は政治の代に領地を最も広げましたが、その後度重なる戦乱により徐々に衰退しました。特に政治の子氏治(うじはる・1534〜1601)は本拠地の小田城を幾度も失い、土浦城を立て直しの拠点として利用しました。

 天正18(1590)年の小田原北条氏征討に伴い、土浦城は徳川家康に接収され、小田氏の支配は終わりを迎えました。小田氏は旗本として存続しますが、地元においてはその存在は風化することなく、氏治の150回忌法要が行われるなど、後の時代に幾度か回顧されました。

 

▶︎土浦城の機能と整備

 天正18(1590)年の小田原北条氏征討の後、土浦城は結城秀康(1574〜1507)の支配となりました。関ケ原の戦いの後、慶長6(1601)年に、秀康は土浦城の機能と整備 天正18(1590)年の小田原北条氏征討の後、土浦城は結城秀康(1574〜1607)の支配となりました。関ケ原の戦いの後、慶長六(1601)年に、秀康は越前国北の庄(福井県福井市の中世要衝地)に転封となり、松平(藤井)信一(1539~1624)が入城します。以後、城主は松平(藤井)家、西尾家、朽木家、土屋家、松平(大河内)家と度々代わりました。貞享四(1687)年に土屋政直が再び入城すると、城主は土屋家となりました。

 

 この間、歴代城主の整備により、城は徐々に変貌を遂げました。土浦城の伝来を記した「土浦城記」には、松平信一時代の慶長八(1603)年には南門・北門・西門などが建てられ、西尾忠照(1613〜54)時代の元和8(1622)年には、大手(追手)門が櫓門に改められたことなどが記されています。

 

 また、近年発見された史料によれば、天和2(1682)年、松平信興は家臣山本菅助晴方)に土浦城の普請(土木・建築の工事)を命じています。晴方は甲斐国の武田氏に仕えた足軽大将の山本菅助の流れを汲んでいます。軍学に通じていたことから、信興の家臣となりました。晴方の尽力により、北門の二重丸馬出や、南門の角馬出が築造されました。土浦城は戦国期に用いられた城郭を、改築・拡張を行いながら歴代城主により継承されました。

21 常州土浦城図正保2(1645)年頃 当館所蔵 茨城県指定文化財

 正保期の土浦城を描いたとされる絵図です。この時期幕府は全国の城の軍事機能を把握すべく、諸大名に城絵図の提出を命じました。本図の「侍町」「足軽町」「深田」などの表現や描き方などは、正保城絵図と類似しています。また絵図には貞享2(1685)年から同3年に建設される南門の角馬出や北門の二重丸馬出は描かれていません。

20 松平信一肖像 江戸時代月岡神社所蔵 公益財団法人 上山城土資料館

 束帯姿の松平信一を描いた肖像画です。「寛政重修諸家譜」によれば、信一は今川義元に仕えていましたが、永禄2(1559)年には徳川家康の家臣となっています。慶長5(1600)年の上杉討伐では徳川秀忠の詰める下野国宇都宮城に馳せ参じました。石田三成謀反の情報が入ると、秀忠は信一に下総国布川城を守り佐竹義宣の侵攻に備えるよう命じました。この活躍から土浦城と3万5千石の知行が与えられました。

22 無銘書(土浦城受取記録)天和3(1683)年高崎市立中央図書館 高崎市指定文化財 

松平(大河内)信興が土浦城を受け取った際に城下に出した触などをまとめた文書です。ここには、二の丸内に城外の者などを入れてはならない旨や、大手(追手)門の鍵を深井茂兵衛が、掃手門の鍵を山本菅助の配下にあったの田中清右衛門が管理していたことなどが記されています。本書は高崎藩家老を務めた大河内家に伝来しました。

23 御家事向大概附録江戸時代高崎市立中央図書館所蔵 高崎市指定文化財土浦城絵図をはじめとする城絵図や、天明3(1783)年の浅間山噴火の被害状況に関する記述がまとめられた文書です。絵図は土浦・壬生・村上・高崎の城が描かれています。いずれも描き方が江戸時代に作成された城郭の縄張図の集成「主図合結記」に類似していることから、その写しと考えられます。本書も高崎藩家老を務めた大河内家に伝来しました。

24 山本家略系図・由緒書江戸時代個人所蔵

山本家は代々菅助を名乗り、戦国時代には甲斐武田氏の家臣として活躍しました。武田氏滅亡後に牢人(浪人)となりますが、3代目菅助(三郎右衛門)の代に永井家に仕えました。しかし4代目菅助(晴方)は同家が延宝8(1680)年に改易となり、再び牢人になります。その後天和2(1682)年に松平信興に仕官しました。

25 天野長重苦状 天和3(1683)年11月7日 個人所蔵(沼津市明治史料館寄託)

旗本天野弥玉石宥門(長重)が山本菅助晴方に宛てた書状です。土浦城の要害普請(地勢がけわしく、敵を防ぐのに適している所の土木・建築の工事)について山本菅助が普請惣奉行に任じられたことが記されています。

26 土浦城古土居・新土居郭切開数之覚 江戸時代前期個人所蔵(沼津市明治史料)

土浦城新旧土塁(土居)の間数を書き留めた記録です。高津馬出とまなべ(真鍋)馬出がそれぞれ新土居と記されていることから、新たに普請されていたことが分かります。古土居は総間数1,952間(約3.5km)、新土居1,018間余(約1.8km)であったと記されています。

27 御本丸御屋形図江戸時代個人所蔵土浦城本丸御殿を描いた平面図です。本丸御殿は櫓門がある南側に玄関があり、二間続きの広間が隣接しています。広間番の日記の内容や江戸城での広間利用の事例から、広間では藩に関わる儀礼などが行われたと考えられます。また御殿の西側には家臣が藩主に謁見をする居間がありました。

28 御城敷地坪数書上図江戸時代個人所蔵土浦城の各施設の広さを書き取った文書です。本丸は南北に23間(約41.4m)、東西48間(約86.4m)、稔坪数1,297坪(4,280Id)とあります。このほか櫓・門・蔵・井戸などの寸法や位置が記されています。櫓については東西及び太鼓櫓が記され、このうち二十間櫓が二つとあります。