古代ローマ時代の国々

■古代ローマ時代の国々

mp3メモを入力

■録音16分  古代ローマ時代の国々

 イタリアのローマとは関係がないんですね。また首都もコンスタンティノープルと言われている今のトルコのイスタンブールにあたる場所なんですね。なので、ローマ人によるローマ帝国っていうのはいわゆる西ローマ帝国でして、東ローマ帝国という主にギリシャ人による名前がローマ帝国という東ローマ帝国名前になってんですね。

(東ローマ帝国の版図の変遷)

 なので、実際的にこのローマの古代世界っていうのは、西ローマ帝国が滅亡したとともに、古代というのが終わってるんですね。今日あのローマの内容に入る前にですね、どのようにしてローマの都市国家・ローマというものが始まったかということで、実はこれ前にギリシャの内容我々ちょっと数週間前にやったんですけれども、ギリシャにはいろいろな文明がありました。

 クレタ文明とミケーネ文明トロイヤ文明というのがあるんですけども、この伝説とされるトロイア戦争っていうのがありました。これはギリシャの詩人のホメロスの叙事詩イリアスに物語られている。

 

 イギリス王国連合とトロイア王国の10年にわたる戦争なんですね。これどんなものかといいますとトロイの王子のパリスという人物が、スパルタンのお姫様でギリシャの美女と言われたヘレネを誘拐してトロイアに連れて行った。からこの女性が奪われたということお姫様を奪われたということがきっかけになって始まった10年後の戦争。これですね、このはい、ギリシャ連合とトロイア王国の戦争なんですね。ミケーネのギリシャのアガメムノンの将軍として有名なアキレス側に立ったオデュッセウスなど、様々なギリシャの英雄がトロイを攻撃したんですね。

 トロイ側もヘクトルなどの優秀な将軍で戦ったんですけども、最終的にはギリシャ軍は有志を忍ばせた巨大な木馬を作り、和平の贈り物と偽って城門を開けたときに、この木馬の中に忍び込んでいた兵士たちが出てきて、トロイを焼き払ってトロイを滅ぼしたという、トロイの木馬作戦と有名なそういうものがあるんですね。

 このコンピュータウイルスでも、トロイの木馬というコンピュータウイルスがかつてあって、添付ファイルを開いたら添付ファイルからウイルスが出てくるというのがあったんですね。

(中断・・・はい。田中さんを音、丈夫でしょうか?大丈夫です。もしよろしければ簡単に自己紹介をお願いできますでしょうか? 私ですか。はい。はい。簡単に人です私は茨城県土浦市から発信してます。世界史については少し高校時代に勉強したくらいであまりよくわかりません。ただイタリアに25歳のときに行って現場を見てきました。ただちょっとだけです。はい。ありがとうございます。)

 はいそうですねこのようなトロイの木馬作戦によってトロイ文明が滅ぼされたんですけれども、その文面の中で唯一生き延びたと言われている人物が家康という人物なんですね。彼はこのISは唯一逃げ延びて漂流した結果最終的にはイタリアのローマにたどり着いたと言われてるんですそして彼の思想のロムルスとレムスが双子の兄弟がですね。BC753年にローマを建国したという伝説があるという。

 これはローマの建国神話なんです実際にこのINAやすさの子孫かどうかわからないですねつまり伝説によるならば、つまりローマ人というのは、トロイ人の末裔であるという、そういうことになったわけですね。このように何て言うんでしょうね、戦争に負けた落ち武者というか落ちぶれた人々がどこかに行き着いてそこで新たな町を始めたっていうのは結構いろいろなところでも話あります。例えば日本の最後の都市はどこでしょうかってあるんですけども諸説ありますけれども、

 例えばその典子さんどこだ思われますか。よろしいですか。はい町というか日本の最後の一番古い白い移設はもちろんありますけど一般的にこうじゃないかなっていう。日本でも一番古い都市の一つというか、卑弥呼がいたところそうですねありますね。はい。一つ言えるのは例えば奈良って町がありますね。うん奈良で奈良はもちろん平城京とかもありますし日本で一番古い都市の一つだと思うんですけども、奈良っていう言葉自体、韓国語で「奈良」っていうのは国という意味なんですね。我々の国でウリナラとかっていうんですけどもならっていうのは観光で国という意味なんですもちろんこれも諸説あるんですけども、例えば韓国では三国時代、「高句麗「百済・新羅」とかそのような国々が争って、その三国時代の中で負けた百済の人々がこの朝鮮半島から逃げ延びて日本に流れ着いて、それで町を築いたんじゃないかというふうな話もありますね。

 このローマの話のように、実際どこまで本当かわからないですただならという言葉は、国という意味があります例えば、それ以外にも例えばですね埼玉に住んでる方はさ埼玉には高麗川っていうのがあるんですけども、漢字で高麗(こま・こうらい)と書くんですね。まさに韓国の高麗という本来の国の名前なんです。また高麗神社というのも埼玉にあるんですけども、おそらくこれは韓国・朝鮮半島の高麗の人々が何らかの形で流れ着いて、日本に住んでいたそのエリアに住んでいたんじゃないかと。なので川とも高麗川と書いてあり高麗神社という神社があったりするんですね。そのような様々な歴史の流れっていうのはあるのかもしれないですね。

 はい。この建国のロムルスとリムスっていうのがあるんですねこれはこれも軍神マルスとの間にできた双子でこれはまさに伝説神話的な話なんですけども、狼にそだてられて、その後羊飼いに引き取られ、これイタリアのローマにこのロムレスの像があるそうなんですねこの狼の乳を飲んでいるというオオカミに育てられたという。ただこの王位をめぐってロムルスがレムルスが殺害したという、よくあることですね兄弟同士の権力をめぐる争いですね、生き残ったロムルスがパラティーの丘に、都市国家ローマを建国したのがBC753年の4月21日であるとつまりロムルスという名前からロウマという名前が伝わるわけですね。はい。

 このローマという国はどのようなシステムを持っているかというならば、国を三つの期間に分けてそれを追うと元老院と市民集会であると言われてるんです。市民集会によって王が選出され100人の長老たちによる王の助言機関としての元老院があったんです。市民集会はローマ市民全員による直接民主的なこのような構成になったんです。このローマですねその領土を次々と拡大していったんですけどもその周辺のサビーニ族といわれる人々を征服しましたけれども、その後に彼らに完全なローマ市民権を与えたそうなんです。つまり、敗者を奴隷化したり虐待するというよりは自分たちに同化させ、ローマの強大化に寄与したと。このやり方ほどローマの強大化に寄与したやり方ないと。つまり征服された民族を何か奴隷のように扱ったり虐殺したりするというよりは、むしろ自分たちの民族に取り込んでしまったと。

 優秀な人材を取り入れたと。これがローマの強大化に寄与したんじゃないかと言われてるんですね。2代目のヌマという人物はですね、それまで暴力と戦争によって築かれたローマに法と習慣による確かさをされようとしたと。戦争の神といわれるヤヌスに捧げる信念を立てて、出入り口の扉が戦争してる最中には開けられ、平和の時期には投じられたと。当時の43年は閉じられているつまり平和な時期だったんです。

 その後240年のBC202第1次ポエニ戦争の後、少し閉じられその後BC31年のカエサルの時代にようやく3度目に閉じられたと言われるほどに、つまりローマというのはしょっちゅう戦争していたというふうに言うことができるんですね。このヌマが制定した暦ですね1月から12月までで、いろんな経緯がありJanuaryっていうのはNellyはヤヌスという神の名前フェブラリーは清めるという意味。マーチは軍神マルス、エイプリルは花開くという言葉からメインは吸水性になってますけども、の名前から来てんですね。はい準備は6月は言うのという女神、そして面白いのは、この後西来週再来週やりますけども、7月は従来はジュリアスシーザーもしくはラテン語にユリウスカエサルというローマ帝国の土台を築いた人物が、

はい。間に入り、8月のオーガストは、いわゆるこのローマ初代皇帝で、カエサルの養子になったアウグストゥスが、この8月に入りこんでるんですね。で、従来とオーガストか、ジュリアスシーザーカエサルとアウグストゥスが入り込んだことによって、実は7月からですね、9月から設定マドンナの意味なんですねOctoberは8月の意味なんです。つまりオクトパスってたこタコ8本足があるのでオクトパス(octopus)ですね。8角形(octagon)のことが起きた後っていうんすけども、もうねOctober8を意味するんですけども、12年10月なってる弱点は7を意味するのに9月になってるNovember2000も9月10月なのに、9番10番なのに11月12月になってるのはなぜかと言うならば、この2ヶ月に返されると、うつが紛れ込んだことによってずれてるという非常に面白いということになってるんですね。

 はい。今ももちろん英語で使われてますよね。でこの3代目トゥールス・オスピリオスという王様、トゥッルス・ホスティリウスという人物はヌマ王の治世で地力を蓄えた。力を蓄えたローマで拡大方針を採用し、ラテン人都市アルバ・ロンガを征服し、またアルバの貴族がローマの貴族として元老院議員としても与えられたと。

 この中に後にユリウスカエサルを出したユリウス一門が含まれていると。この王様は雷に打たれて死んだと言われてますね。で4代目王アンクス・マルキウスというのは2代目王・ヌマの孫だったんですね。

 平和な姿勢を期さ期待されていたんですけどもお爺さんとは異なって戦争ばかりしていたと。しかし、内政にも能力を発揮して初めてローマに水道を引く。海辺のオスティアを征服してローマに塩をもたらした。

 つまりこの時代になってようやく都市国家のローマが、港に辿り着いた。海にまで広がったという。そして自分たちの港を持つようになったというふうに言われてます。5代目の王ルクィニウス・プリスクスはエトルリア人つまり、この地図にもありますようにローマの北側に位置するエトルリア人だったんですね。戦争に勝利しても土地の住民はローマに移住させず、代わりに戦利品をローマに運んだ。近隣都市国家はしばらく静かになり、平和時は兵士を使って水道建設し、ローマには水道技術がなかったのでエトルリアから技術を導入した。

 というふうに言われてます。エトルリアは技術的にはローマよりも優れていたですね、王は次の王位を狙う先王の息子により暗殺されてしまいました。そしてこの6代目の王です。

 セルヴィウス・トゥッリウスですね。トゥッリウスからは孤児であり先王の養子でもあったエトルリア人のルヴィウス・トゥッリウスがいる選ばれた。この王が建築した城壁は「セルヴィウスの城壁」と呼ばれ、今もところどころ残ってる。つまりもう2500年近くのときを超えて残ってるんです。ローマの七つの丘を囲むという大規模なものであり、軍政の改革も行い、戦法も開発したと、王は5代目の王の孫タルクィニウスによって殺されたんですね。はい。そして最後の7代目が最後の王の「尊大なタルクィニウス」という人物ですけども、彼は前王の葬儀を禁じ、先王派の議員を全員殺してしまう暴君だったんですね。王の即位にあたって市民集会の選出も元老院の承認もなく一方的だったと。その後の政治も言論や市民協議会に諮(はかる)ることなく、つまり独裁政治を行ったということなんですね。

この市民の評判が悪くなりこの独裁政治に対するローマ市民の怒りが爆発し、ルキウス・ユニウス・ブルータスを中心として、この王を追放すると、という動きが起こりました。戦の途中だった王はこの事態を知って、急いでローマに戻ったんですけどもは全て門は全て閉じられた後だったと、王は従う兵士を連れてエトルリアに連れて行った。

 つまりこのようにして王様があまりにも独裁者であったがゆえに、このローマ人たちはこの独裁政治に嫌気がさして最終的には王様追い出したという形でローマ王国が終わったんですね。そしてこの時代の後に、共和政ローマのローマが、王国から共和国になったということであるんです。

 これがBC509年で、最初の創始者はルキウス・ユニウス・ブルータスと言われて初代執政官と言われたんですね。ここにあるように「以後ローマはいかなる人物であろうと王位に就くことはは許さずいかなる人物であろうとローマ市民の自由を侵すことを許さないと、以後は王に変わる2人、国の最高位者として、1年ごとに市民集会で選出されると、また1年ごとに2人が選ばれると。そのようにして独裁政治にならないように二人の執政官を創設した。」このチェックするシステムを作ったというんで、これ以降は自由を得たローマ人がどのように来たか、平時・戦時に関わらず、つまりローマはこの法によって選ばれる個人よりも、法が支配する法治国家の源になったというふうに言えるんですね。

 でよく言われてるのはこれは塩見七生さんという方が言ったんですけども、人間の行動原理を哲学に求めたギリシャ人、宗教に求めたユダヤ人、法律に求めたいローマ人というふうに言えるんですね。

 だから様々な国の人々の行動基準というのがおそらく違うんじゃないかと。「日本人の行動基準は何か」というと、本音を考えることができます。日本人の行動を聞いて、もしかしたらもちろんルールは守りますけれども他人の目とか、他人が人を自分をどう思ってるかっていうこともあるかもしれないですね。人それぞれの様々な行動原則があります。

 そしてこのローマですね。様々な困難にも直面しました。ケルト族といわれる、その当時西ヨーロッパ全体にいたケルト人。今ではもうケルトっていうともうアイルランドぐらいにしかいないと言われてるんですね。ケルト人であれば、でもこの時代は西ヨーロッパ全体にいたこのケルト人。彼が勇猛で知られ、ローマ市内に侵略し略奪の限りを尽くしたと。ローマは身代金を多額の身代金を支払うことでようやくケルト人は立ち去っていったと。

 つまり非常にこのような国家的な危機もこのローマは体験しながら徐々に成長していったということなんですね。ついにそのような困難を乗り越えてイタリア半島とします。それは本当凄いことではあるんですけども、ようやくつまりこれで我々が今のイタリアと言われる国を、これがイタリアだというそういう意識で見られるようなイタリア半島全体をローマが収めるようになりました。いろんな理由があると思います

 人材を十分に活用するための全ての要則を貴族だけでなく、平民に対応した特権階級を持たなかった。同盟の所支配された部族にも、ローマ市民権を与えてローマの増加を促したと。このような形で勢力を増やしに中央イタリアのサーブに産む族も次第に大きい南イタリアのギリシャ継承としての生活も成し遂げました。

 つまりこのBC270年前後に、ルビコン川つまり北のルビコン川から南雨椎名海峡に至る、いわゆるイタリア半島の統一を完成したと。紀元前753年からついに、実に500年近い。ときをかけて、ローマをこのようにイタリア半島を形づくっていったところなんです。はい。

 このようにしてどんどんどんどんと勢力を拡大していくローマ共和国が初めてというか実際的に本当に大きなライバルとして直面したのが、これがカルタゴですね。このカルタゴとの戦争ぽいに先生とやってます。260年から146年まで3回にわたる戦いが行われたんですけども、カルタゴとは何かというとこのフェニキア人これも実はギリシャの文面の内容のときにちょっと学んだんです。

 実は、フェニキア人はぽい2Kと冬による植民都市のフェニキア人の本国。つまり本国が実はレバノンらへん中東イスラエルのいわゆるレバノンの辺が、フェニキア人の本拠地だったんですけども、彼らの本拠地が滅んだと思うカルタゴは植民国家であるにもかかわらず、大きく栄えて地中海世界のあらゆる海洋のですね、海の働きを支配するようになっていたということなんです。海洋国家として栄えたんですね。光栄にっていうのはフェニキアって意味もありまして、ポエニ戦争というのはフェニキアにとの戦争という意味からあります。はい。このフェニキア人というのは非常に海上貿易に活躍しABC15世紀から8世紀までですね。

 範囲を極めたとさらにこのカルタゴと言われる有名な色一番有名な植民都市が海外職員として広がったと洗剤にはレバノン杉を使用したんですよね。だからギリシャ人。かるたフェニキア人フェリペに消えずにいわゆるカルタゴのね、投資効果気づいたギリシャ人カフェにケアセンターの非常に海洋民族として活躍したんです。あらゆる場所に植民地を作りましたこのフェニキア人との戦争第一次ポイント戦争ですね、ローマはシチリアとの覇権を巡って戦ったんです。

 そして初めて最初の海外属種ぷろびんしあってですね、英語ではこの田舎とかそういう値のプロフィールって言ったりしますけども、これはそのプロベイシアという俗臭というところを着てる植民都市ですね。ただこの七里半島征服したんですけどもこのとき、七里半島のシラクさといわれる年だけは有名なアルキメデスの活躍でローマ支配を願われて、第2回族となったどうでしょうか加納さんこのアルキメデスって何をした人か覚えてますか。

可能性覚えますはい。すいません。名前は覚えてますけど、ちょっとすいません良い知識ありません。はいこれあの、理科の授業でやったの浮力を発言した人ですねこの、この写真の絵にあるようにこのなんていうんでしょうね。海水には物を浮かせる力があるとその浮力というのは、水の中をなんていうんですか、水の中に入った容積に比例するというそういうアルキメデスの法則を発見した科学者ですねはい、彼が天才的な頭脳を発揮してローマ人たちに立ち向かったと言われてるんですけど面白い。

 のがありまして、1人でローマ軍2番を苦しめたアレック目ですの発明兵器があると言われてるんですね。一つは鉤爪と言われているこの図にあるようにこのテコの原理を利用して、ローマ軍の船を持ち上げて叩きつけて壊すという、またよくあるクロスボウの透析機械。これ本当かなと思うんですけど、私子供のときにやったような、虫眼鏡ですね。焦点を合わせて何かが火で燃やすように、もう拡大版でもっとこの丸で太陽光線を利用した虫眼鏡のレーザー光線のような、これでこの敵を攻撃するというこんなことまで考えて、天才的な頭脳によって、苦しめたしかし最終的には負け殺されてしまいます。

 で、第2回のオープンに戦争が非常に有名なものでして高度のときには、カルタゴ側の有名な戦争の天才と言われるハンニバルと言われる所が出てきますね。で彼はですね非常にすごいことをやったんですけどもつまり彼の独創的なこの戦いは何かというならば、映画本当ならばこのカルタゴからローマにはですね南側から攻めればいいものを彼はイベリア半島スペインを経由してアルプス山脈の上から、軍手がアルプス山脈を越えて、それでローマに上から攻めたという。

 後で最初ありますけども、何とかの像までも連れて、カルタゴの軍隊は象と兵士を連れて歩くサメを超えたという非常にすごいことだったんですね。ここに書いてありますけど29歳の総司令官は平成を集めさせ東の方させていたと、あそこはもうイタリアであると左に入りさえすればローマの常務の前に立ったと同じことになると、ここで下りだけでありにアルプスを越えた後は一つか二つの戦争をやれば、我々は全員体の種になると、この手術を勉強したのかこれより2000年後のイタリアに攻めることになる。ナポレオンはこのアルプスの峠の上で兵士たちに向かい、これと全く同じ種の演説をしていると。言われてます。はい。

 このような強いので北から攻めたということですね。ローマ人たちもまるで予期しなかったんです。でこのような形でカルタゴのハンニバルが北から攻めてきてですね、有名な空間での回線というのが行われましたこれは先述の大最高傑作と言われていてBC216年の8月に観念という場所で起こったローマ軍とカルタゴの戦いでハンニバル率いるカルタゴ軍がローマの大群包囲殲滅した戦いとして名高いと、2倍にもわたる敵を取り囲んで殲滅した戦いであって、今も、なんていうんでしょうねアメリカとか日本はそうかもしれないけど、陸軍士官学校とかで、いわゆる戦術の勉強をするときにこの間の戦いが使われるほどに歴史的に有名な、戦術的な戦いであると。言われています。ちょっとお待ちください。このローマ区はですね軍編5万5000含めた歩兵7万戸、計6000円と、ここに一番の予備軍いたそうなんです。そして借りたことは重曹3万戸を歩兵8000と、そして騎兵ですね枯れた部分はその騎兵といわれる馬を使った騎馬を牧場たいというんですか、それをを非常に有効に活用して、この騎兵を持って敵を打ち破って突破して後ろに回り込んで囲んで攻撃すると、というそのような戦法を編み出したんです実はこれも前にやったんですけどもこのやり方を編み出したその将軍と処分というかその王様が元々は、これよりも昔の時代のギリシャのアレキサンダー大王だったんですね。

結果としてローマ軍の死傷者は5万、2人の節目がもう殺されてしまったと宣誓したと書かれた国の主張が約5000人にとどまったと圧倒的に体が処理したんです。ローマはこのような金の戦いによって非常に国家的なピンチに立たされます。しかし、このローマに救世主のように現れた範囲までって書いてありますけども、ハンニバルの攻撃をある意味そっくりそのままコピーしてもっと上手に戦ったいわゆる反ハンニバルのですと書いてありますけども、すきぴよと言われる。ローマの障害なしでてきましたピンチに立ったローマに1人の青年が現れたんですけども、若干24歳で40歳にならなければ本当は司令官になれないんです。しかし16歳も足りないにも関わらず私を司令官にしてくれと申し上げたんですねこれを拒めないほどローマ人材が不足していたと。そしてもう1人の天才となったということですねアレキサンダー大王このやり方を真似たのが実はハンニバルなんですね。

アレキサンダー大王の最も優秀な弟子が始まりだとすれば、そのハンニバルの最も優れたですよ好きだと言えると、そしてアレキサンダーは弟子の際のため席を持たなかったが、ハンニバルの場合はそうではなかったと、つまり実際に戦ったということなんですね。でこのようにしてですね、ハンニバルは北から攻めたんですけどもこれに対してスピードはですねもう直接、カルタゴに乗り込んだんですね。でもとにかくハンニバルスピードがカルタゴに本国に乗り込んだので、もうこれはもうハンニバルとしてはですねっていうカルタゴ本国としては、もうすぐにでもハンニバル引き返してほしいと戻ってきてほしいとあなたがイタリアにいる間に本国が責められてるということで急遽をですね、ハンニバルは本国のカルタゴに帰らざるを得なくなったんです。そこで座間と言われる場所で、変化はゲームの戦いと言われている前後の戦いを行われます。BC202年ですね、北アフリカの座まで行ったんですけども、このすきぴを率いるローマ軍がハンニバルを破ったんです。そして本に戦争の勝敗を決したんです。好きよハンニバルが以前からの改正で成し遂げた理想的な方へ作戦を借りた後に出して見事に成功させかるた部を改名させたんですね。

はい。どんな戦い方だったかというならば、ですね、ローマ軍歩兵2万7000騎兵2万2500円とプラスNVIDIAが実はこのNVIDIA軍っていうのは北瓜科の現在でもモーリタニアの変なんですけども、北アフリカのNVIDIA軍は元々間の戦いでは、ハンニバルかについてなんですが非常におもしろいことは、観念の戦いではハンニバル側に付いていた主な騎兵のアフリカ軍のアフリカの軍隊が今度スピードが2つついてるというこれはあのスピードの交渉によって、スピードの交渉によって騎兵を扱うメディア系たちがハンニバルではなくてスピードが見つかったということですね。これ有利になったんです。それに対してカルタゴは朝日さんも8000系2000円でこのさらには、映像を作った根崎と蔵も80t大ですねまで突進させる最初の突撃部隊として戦うの憎悪を用意したんですしかし、スキップをこのことも前もって計算してですね、像ってのはですね大きいんですけども、突進しかできないんですねそれも小回りが利かないので一度走り始めると、前にしか進めないとですね、本来ならば蔵が最初に突進して散らすかと思いきや、この図にも書いてあるんです。

でも好き票はですね自分たちの軍隊をまるで何て言うんすかね、碁盤目状のように細かくこの分けたんですねブロックごとに隙間を作ったんですこの隙間を作ることによって、この像が突進してきたとしてもその隙間の間を通り抜けさせて、暖簾に腕押しのようにですね、法律でさせ抜けさせて、その後に、小回りが利かない憎悪を集中的に殺すと、そのような方法で立ち向かったですねそして、このスキップの軍隊は騎兵がたくさんいるので、それを用いて、須磨脇から突破して取り囲んで攻撃したと。そして最終的なローマの死者は1500淵温泉原隆2万歩1万5000円という形でこれで今度はこのカルタゴ側が壊滅的に敗北するんですね。14年前に金の貨幣に行ったのと同じ状態が座間の平均で再現された打者相手を変えてと。45歳の屈指の名将は郊外の偏差値が殺されるのを見るしかなかったとハンニバルの戦車長の座まで全滅したとハンニバルは推計を従えて逃げたとえ好き票が完全に変わったんですね。はい。これもですねこの戦争とは人間のあらゆる力を出せると言われるんですけども、それはハンニバルという個人的で一時的な力よりも、組織的でしかも実効性ローマの底力が混ざったと言えると、ハンニバルはスーパーマンだったんですけども、彼だけだったと彼以外の優秀な指導者でなかったと。

ただローマは元老院政治によって次々と優秀な姿勢が出て敗色濃厚の状態から徐々に抜け出していったと。ローマの執政官が失敗しても、元老院は彼を下ろさず戦争継続させたと。国としてのその賢さと粘り強さはその後の世界帝国への道へと繋がったんです。この戦後処理に見るのをまだ調査ってなるんですけども、戦争そのものよりもその後何をするかが大事ですね。一つは負け戦で捕虜になり、その後の力強化で戻ってきた死生観がいたと、また周囲の忠告を聞き入れないで大分でほぼ全滅させた海難事故の責任者がいると。普通の思考だと責任者は責任を取るためにいるのだから、財産生命名を募集すると死刑に処せると、これが普通だと考えると、ところがローマ違ったそうなんですね。この敵方のフォローになったものや事故の責任者に再び指揮を委ねるのは名誉挽回の機会を与えるという温情ではないと失敗を犯したのだから何学んだに違いないと考え、失敗から学ぶことができるし学ぶことCだと。いうんですね。これ都市が対照的なのはカルタゴであってローマに受けたハンニバルはあんなにも貢献したにもかかわらずですね、非常に立場が危うくなったんです。ローマに敗れ逃げ帰ってきた将軍を本国に召還されて試験だったとハンニバルもそのようになるかと思われたのでハンニバルは亡命してしまうんです。

結果的に自分たちの国から逃げてしまいます。ここでですねだって組織私の組織会社グループは、失敗を犯した部下をどのように扱うかと。非常に考えてみることができるテーマかなと思いますね。はい。で最終的な印象ですけど座間の戦いから数年後Fに亡命していたハンニバルは施設として同地を訪れたスピードまた再開しますしばしば言葉を交わすと言われていると。スピードが史上最も偉大な試験は誰だと思いますかというと、ハンニバルは第1にアレクサンドロス第2に議論のプロセス第3番目自分だと言ったんですね、スピード化されてもし座間の戦いであなたが私を破っていったらどうでしょうかというと、アレクサンドロスを超えて私が史上第1の指揮官になっていただろうと。

というふうに判断の答えだと、このエピソードが残ってます。またリリースのローマ史によれば始まる効果だったんですねいかなる超大国といえどももう長期にわたって安泰でつりあり続けることはできないと国外に敵を持たなくても国内に持つようになると、外からの敵を寄せ付けないが事件そのもの肉体でも体の内部の疾患に悩まされることにてると後にローマではぽい戦争の勝利に伴う社会構造の変化にうまく適応できず、内乱の一世紀と呼ばれる混乱の時代が、この後やってくるんですね。はい。最後の第3次本先生とその後にあるんですけども、すきぴお笑MdN詰め先ほどのスキップ用の孫率いるローマ軍がカルタゴを完全に生育して滅ぼしたんですね。陥落後のカルタゴは上駅の新年もいい市場も家もことごとく愛されたんですそして一番いい所が彼人も踏めない不毛の地となった消費者であったスピードMLS別れた後の滅亡を見ながら消費に教えることなく、こう嘆いたと言われてるんですね。いつか映画を誇るローマも同じ運命をたどるんだろうかと。言ったそうなんですね。

このようにして3回の声に戦争としてローマが開かれた後を追う滅ぼして、結局この地中海世界地中海を支配するローマ我らの海湖の周りのステムに書いてありますけどもそのような場所に変えられ、ローマ共和国はますます広がってローマ帝国への道を進んでいくと。いうことであるんです。はい。はい今日はですねここで一旦終わりにしてマターそれぞれ感想などを聞きながら、わかっちゃっていいと思うんですけれども。はい典子さんいかがでしょうか?聞こえますかはい聞こえます。はい。どうでしたでしょうか?うん、私結構中の73の本とかも読んでるんではいろの人が知ってるのよな初心者向けだったかなっていうのは正直なところでつね。はいそうですね。はい。塩野七海さんの本を待つのは結構詳しいかなと思いますね。うん。はい。ありがとうございます。加納さんいかがでしょうか?ちょっとあまりそこら辺詳しくなくてちょっと申し訳ないんですけども、先ほど先生がおっしゃられた日本はどうかというお話なんですけども、日本って結構歯医者には厳しいというか、復活性がないというか、一度駄目になると、駄目にするみたいな、そういう文化なので、ちょっとそこがかなり違うんじゃないかなとちょっとあまり詳しくはわかりませんけど、ちらっと思いました。はい。わかりました。

はいありがとうございます。田中さんお願いします。聞こえますかはい聞こえます。はい。ええ。いろいろ詳しい内容の歴史、聞いて大変勉強になりました私らいのばかりですよ、私アレクサンダー大王ぐらいしか知らないような、50年前の話だし勉強したのが世界史の中でローマローマへ行ったのは、このような詳しい内容僕はわかりませんでしたあとカルタをっていうのがね、ちょっとよくわかんなかったんですが、カルト対応の紙の人類学上は能力高かったのかどうかと、エジプトにありましたよね、クレオパトラとか6とかなんか作って、文明も高かったんですけど、そのローマの300BC300年から200年とか出ましたね。はい。その頃の話の中でかるたをあんなに力があったっていうのは私はあまりよくわからなかったので、そういう文化としてはどうだったのかな。そういう武力的なあれは強かった人たちが多かったのか、あと何万人も死んでるってことで、意外と人口も高かったのかな。よくわかんないんですよ。そうですね職員としての中で一番大きくなったんですね。どちらかというところは北アフリカっていうとなんか黒人がいっぱいいるのかなっていう私は想像してたんで、数泊でやっぱり次集会っていう中の人たちっていう動いてたんですね

今では私達は北アフリカというと黒人というイメージがあります。その時代では北アフリカというと結構いわゆる人々の交流もありますし黒人だけとは言えないんですねそうじゃない、いわゆるヨーロッパのような人々もいたということですね今やっぱねスペインだとか力流動してたということでそうですねわかりましたありがとうございますありがとうございました。はい、そうですね。今日はですね、この内容でこの最後にお知らせなんですけれどもこちらの歴史の口座続けて、土曜日の8時から行われますまた来週と再来週がありますけども、一旦今年はこの大淵のこの2週で終わりになる予定ですそれ以外は金曜日はですね私元々正昭教えるの本業ですので、こちらの旧約聖書と新約聖書の内容をそれぞれ聖書の内容をZoomでやっています。

もう同じリンクでやっていますのでまた告知ず、エスパーかなどを知らせてますのでもしお時間のある方がいらっしゃれば、ご参考にしていただければと思います。はい。今日の内容メールの方に、PDFで先ほどのパワーポイントの方へ送らせていただきましたので、もしよければご参考にしていただければと思います。ごめんなさい。今日ですね、このような形で終わりにしたいと思います。はい。今日はどうもありがとうございました。よろしくお願いします。ありがとうございます。ありがとうございました。いたします。失礼します。