パクス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)
■パクス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)
<内容>
『歴史発見!西洋古代史~メソピタミアからギリシャ・ローマまで~』の講座は、西洋古代文明の夜明けと発展を、メソポタミア・ギリシャ・ローマの各文明の発展と衰退を見ながら、わかりやすく楽しく学びます。
更には、現代社会がいかに影響を受け、私達の生活や習慣と関わりがあるかについても学んでいきます。
■録音分 パクス・ロマーナ(ローマ帝国による平和)
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今日はあのローマの大ローマローマ帝国になるところまでの内容についてやっていく予定なんですね。はい。私元々そうですね本業は聖書してたんです僕の仕事やっているんですけれども珍しい仕事だと思うんですけれども、山梨で仕事しているときにこの歴史の講座を生涯学習講座という形で担当したことがありまして、そのときの内容が元になって、去年からオンラインでやらせていただいてるという形になってます。
この内容ですね8回のコースなんですけれども、最初がメソポタミアで次の3回がギリシャで、次はイスラエルの内容ですね。3回ローマの内容をやって今日が最後なんですね。実はあのこれ毎回毎回8週間ごとに8週目が終わったらまた1週目の内容に戻って繰り返しているんですけども、ちょっと今のところ今年はですね今日が最後で、なる予定なんです
また来年ちょっと予定をみて再開できればいいかなと思ってるんですけども。そんな形になっております。はい。
でローマのですね内容なんですけども、前回前々回参加された方はご存知かもしれないんですけども、いきなりこのローマってのはローマ帝国になったわけではなくて、最初のBC753年に王国として、小さな都市国家として始まり2509年にそれが共和国になったんですね、共和制という、BC27年に帝国になるんですけども、今日そのところ、やる予定ですその後このローマ帝国っていうのは東と西に分裂して、西ローマが476年、東ローマは1453年に滅亡したんですけども、実際的にはこのローマ人によるイタリア半島のローマを首都とするローマ帝国っていうのは西ローマ帝国なので、それが実際的には476年に滅亡してこれが実際的にはローマ世界の終わりだと言われてるんですね広大の終わりだと思ってるんですね。この東ローマは生き延びるんですけども1000年近くその後も続くんですけども、実際的にはローマ人ではなくてギリシャ人が中心で、しかも姑もローマではなくて、今現在トルコのイスタンブールにあたるこの本スタジオぷるという場所が、首都だったんですね。実際的にはローマ字によるローマ帝国がないんですね。そしてそして王政が終わってこの共和政ローマっていうのは2週間前にありました。
この最初の死生観っていうのが、ブルータスという人で、ローマにはいかなる人であろうと王位に就くことがあってはならず。1年ごとに2人の死生観と呼ばれる人々が選ばれると、それ人よりも方が支配する法治国家の源になったと。いうようなことやったんですね。でこの彼らのこのイタリアの大ローマというと四国がどんどん広がって、最終的にはイタリア半島統一して、そんな光栄に戦争と言われるこの北アフリカのですねカルタゴとの戦いに勝利した後、地中海世界を支配するようになったと、地中海は我らの海と言われるようになったということなんですね。先週はそのカエサルの内容でありましたざっとおさらいするんですけどもBC100年に生まれて非常に才能を持っている人物であったんですね。彼はそのがりや征服戦争と言われる戦争によって西ヨーロッパとまたイギリスを実際的なローマ世界に組み込んだ人なんですねこの戦争によって征服することによって、だからカエサルのおかげでいわゆる西ヨーロッパと言われるものがローマ世界に組み入れられたというふうに言えます。
このようにしてこの解釈がだんだんだんだん力を蓄えていったことで、ガリア戦争が終わった後には、いわゆる元老院と言われる既得権益の人々との争いが激しくなったんですね。そしてこのままでいくとカエサルを野放しにしておくわけにはいかないと。いう形でカエサルが支配する北アフリカですね、北アメリカじゃなくてその大西ヨーロッパと元老院側の人々との間の内戦状態に入ったんです。最終的には元老院議員側の一番将軍でもあったホームページうす。が破られて、最終的にこのカエサルがローマ世界を第一人者として統治するようになっていったというところを先週だったんですね。ただ残念ながら枯れてしまうロウマ世界を新たにしようとする志半ばで暗殺されてしまったということを先週ちょっとお話したんです。そのようにしてこのカエサルが暗殺された後に、どういうふうになってたかっていうのは今日やる内容で、その彼は密かにですね、後継者としてオクタヴィアヌスという人を任命してましたね彼は弱冠18歳で周りの人々は誰も彼のことを知らなかったんですね。
カエサルの実際にはクレオパトラとの間に生まれた子供とかもっと近い親戚がいるんですけども、結構遠縁のオクタヴィアヌスを知らない間に、カエサルは後継者にしていたんです。この彼がそのいわゆるオクタヴィアヌスという人で後のローマの初代皇帝になる人なんですね。英語に書いてあるんですけども、志半ばで倒れた甲斐さんの後を継いで内乱を勝ち抜いて地中海世界を統一して訂正帝国にしたんですね。ローマでの平和と言われるこのパックスローマなんていうのを実現したんです。このアウグストゥスというのはラテン語で尊厳あるものという意味があります。このような名前ですね。はい本名はオクタヴィアヌスといいます。このカエサルはですねこう言ってたんですね人間ならば誰にでも現実の全てが見えるわけではないと多くの人が見たいと願う現実しか見てないと。言ったんですね。
庄野七海さんというこのローマ人の物語を書いた人は、カエサルは多くの人が見たくない現実、つまりも共和制が実際的には崩壊しているという現状をありのまま見せたのに対して小楠は多くの人が見たいと願っている。現実をあえて見せながら、本人だけが現実を見続けて、世界を変えたのであるというふうに書いてありますこの内容をちょっとやっていきたいと思うんですね。このローマ字の物語では天才の後をついた天才でない人物がどうやって天才が到達できなかった目標に達したのかというようなことを書いてありますカエサルという人はですね、先週もやったんですけども、何をやらせても戦争させても演説をさせても文章を書かせても天才的な才能を発揮するそのような人物であったんですね。オクタヴィアヌスはそうではなかったですし、BC63年に生まれたんですけども、彼が政治に参加したのはBC46年でカエサルが非スパにスペインですね遠征に従ったんですけども、すぐ病気で倒れちゃったんで病気が治るとする戦場に船で行ったんですけど船が難破してしまった漂流してしまったとかですね。
で彼はパルティ編成には司令官として赴くことになっていたけれども、だから虚弱体質で軍人としての才能がないという人だったんです。それを補うべく生涯の盟友となる亜久里っぱという人物と彼は電話になりますつまり彼の本当に右腕となって、戦うこのアグリパーク事実がこの彼のもとに常にいるようになりました。で彼はですねかオクタヴィアヌスはギリシャの西海岸で留学中であったときに、カエサルの暗殺を知り、急遽ローマに帰ったんですね。その途中で自分が後継者に任命されていたほど。するんですね以外にも、でそのとき18歳で誰も周りに知る人がいない無名の青年だった彼が一躍有名になったんですね。そしてそれ以後に彼は自分が燻すユリウスカエサルオクタヴィアヌスというふうに名乗るようになりました。はい。で彼はですねローマに戻った彼は軍団兵の支持が厚い名称であり、民主派の政治家だったとして人気だカエサルの葬儀を行うんですね。
次第に頭角を現すになりましたそれに対して非常に良いこのいや、嫌がったですね。よく思わない人物が事実上解散が主因だとは自分こそがやローマの第一人者になるはずであると、自分もそうなるべきであると、それに考えていた将軍であるアントニウスですねマルクスアントニウスという。そのとき単独の死生観になっていたマルクス
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第2回三頭政治と始めるんですね。第1回三頭政治というのは、カエサルとポンペイウスと、またクラススという3人の人物によって行われたんですけども、資源で43年にボローニャに置いてオクタヴィアヌスとアントニウスと恵比寿にある国家再建3人委員会というのをつくって、これはカエサルを暗殺した人々を粛清するというこの元老院側の排除に乗り出したということなんですね。
でこのようにしてこの3人を中心にして、このカエサルを暗殺した人々を、復讐すると粛清するという名目で争いが内乱がまた始まるようになりましたこの義元老院側っていうのはギリシャで兵を集めていた。マルクスブルータスとオーカスを残すのみになっていたんですね。またBC42年には、カエサルはですね、神格化されるようになったんですに、この日本日本のちょっと感覚に出るかもしれないんですけど神のようになったと神になったと真空によるとなった。
これでつまりオクタヴィアヌスが、上の方になったというですね、薄いカエサルが神として認められるようになり、その用紙ですからねオクタヴィアヌスは神の子と呼ばれるようになると、1本アントニウスオクタヴィアヌスの影響をそれで返されの神格化に反対したがこのためにローマ市宮カエサルの大平からの支持を失うことになったというふうに言われてます。最終的にはこのフィリピンの戦いというところで、いわゆるブルータスとか橋口という元老院側の人々と、アントニウス遠く旅ランスの連合が戦って、ついには薄っすらが勝利しました。このときは、アントニウスと、オクタヴィアヌスは共に協力して戦ってたんですね。
それで元の因果を粛正し、敗れた樫尾とブルータスの2人は最終的に自害するようになったと。これ彼らがカエサル暗殺した中心人物なんですけども彼らは自害して終わるようになったと。いうことでした。また次にですね多分明日は第2の腹心と言われる、キャストもお出になりました。はい。ごめんなさいプラスですね、オクタヴィアヌスが合う合うグリップが右腕であるならばマイナスの左腕というような事務ですね、軍需グリップに対してマイナス外交交渉といわゆる外務大臣みたいなですね、グリップがね国防大臣であるならば天池の人は財務大臣だと。そしてその役割を十分に果たすために自分の出世コースと言われている古巣そごうのルームと言われるものを犠牲にしてまでも、オクタヴィアのその施設顧問のようになって彼に使えたと、在来種結合文化振興に従事して、今メセナと言われる文化振興の語源になった事務所でもありました。
はい。このような形でですねこのローマ世界っていうのは黄緑色のこのギリシャに至る領域がこのアントニウスが支配し、この西ヨーロッパなどのオオムラサキの部分オクタヴィアヌスが支配し、またちゃんと政治の一角を担っていたマルクスデビルズといわれる人々は北アフリカ、そしてこのシチリア島らへんをホームページ上の次男であったせくすポンペオステージますが、支配してる状況だったんですね。こんな中で三頭政治が成立し中央の言論や金で養った後も、地方では元老院派が残っていたんですそれが、このポンペイウスの次男であるセクストンペースですね。BC36担うロックスおきの海戦でせくすポンペイウスは、グリップが引き6度その部分に敗北し、また35年にアントニオさんの手のものに使う処刑されるようになりました。はい。そしてまたこの三頭正常になっていたもののフィールズという事務所ですね、シリアを占拠したオクタヴィアヌスとリフィル諏訪ポンペイウスの討伐後に起きたフェンスを追い出して資料を独占するつもりでいたんですけども、それがばれてしまうんですね。
逆にこのオクタヴィアヌスではなくテレビですが失脚しておくために交付して、これによって三等星の一杯が阿呆か交換しましたこのようにして0Pですが失脚したことで、東のアントニウスと西のオクタヴィアヌスと言われる2人の人物の間で、このローマ世界のですね、覇権を争うために、対立になりますカエサルが暗殺されたときに弱冠18歳でやった無名の青年がローマの半分を支配する。ようになっていったと。いうことなんですね。はい。このような形でこれこのようにして主に東側がアントニウス西側がオクタヴィアヌスが支配するようになったということなんです。このような状況でですねアントニウスはですね、春ティアと言われるいわゆるアラビアの方ですね、いわゆるイランの方を遠征にいい出かけたんですけども残念ながら結果は惨敗したんです。
エジプトに戻った司令官としてのイメージが大きく損なわれますね。ただそのときにこの案とニュースが出会ったのが皆さんもよく知っているであろう。クレオパトラですねクレオパトラはその前の世代のカエサルとも愛人関係になり、そしてアントニウスとも親密になり、だからこのクレオパトラの鼻が1センチ短ければ、世界が変わっていただろうというのはその歴史を動かすようカエサルとかアントニーとそんな人物と大津近づいたとこですね。特にこのクレオパトラが情報として軍隊を再建できるほどの財力を持ってたと。そんな中でクレオパトラと親密になったアントニウスは須磨のオクタヴィアを一方的に支援するとしこの一件はオクタヴィアヌスを大激怒させるようになりましたって。
つまりこのオクタヴィアっていうのはアントニウスの奥さんなんですけども、あろうことかオクタヴィアヌスの大根さんなんですね。名前が似てるとオクタヴィアヌスは、アントニウスはエジプト人と公式に結婚し、ローマ人の妻である姉を見捨てて、同町以下になったとこのように、弾劾したわけですね避難したわけです。つまり彼を攻撃する格好の材料を手に入れたんです。でもアントニウスがローマ人としての振る舞いを正さない限り、この内乱は終わらないというふうに、あれは非難しました。でそんな中でもなんという差ですね。BC34年には、アレクサンドロスヘリオスという事務所丸目様としていいメディアとカルチャーの方ともCクレオパトラには触れないかトリビアをあげて、クレオパトラを呼び返さリオンというカエサルの子供にはエジプト王だけでなく当方の主張を飲もうと認め、つまりこのカエサルを通してクレオパトラの間に生まれたカエサルこそが正統な後継者であると。
彼なりの大義名分と彼なりの神輿を担いで正しいのはオクタヴィアヌスではなくて、我々であると、その証拠としてカエサルの子供がこっちに入ると、いうふうに言ったんですね。はい。ただそんな中でも最終的にオクタヴィアヌスとですね、アントニウスは最終的なこの天下分け目の戦うするようになりました。それがアクティブの回線と言われるもので、この戦いにはですね、当時世界最大の海軍保有していたアントニウスとクレオパトラの群があったんですけども、彼は約230隻の大軍を投入しました対してオクタヴィアヌスの分は実質的な指揮官である立派は大きさを言ったとしても、機動力に勝る文化400隻を投入したと。
アグリッパのローマ字には珍しくて回線を得意とした処分だったそうなんです。このように彼が会社を任されたんですね。BC31年はですね、オクタヴィアヌスとグリップが率いる大軍は苦戦を強いられていたものの機動力と地の利により、選挙は徐々にアグリパーク反対理由に固めたと。すると船長から突然クレオパトラがエジプトに逃げたり、アントニウスのその後を追ったため、指揮官をしなった後にすぐは総崩れなくて、ですね。なぜこんなことが起こったのかわからないですけども、粘り強く戦っているこのアグリパークですね。オクタヴィアヌスの軍隊に対して、何かの拍子で突然おじけづいたのかクレオパトラが逃げるようなんです。それの中で本当にまとまって戦うべきだったと思うんですけどなぜか止まるんじゃなくて自分逃げちゃったのか。指導者がいないので総崩れになったと。いうことなんですね。
結局、ティームの開戦ではこれは、オクタヴィアヌスの文例が勝利しましたやんとニュースで良かったのはアレキサンドリア逃げたんですけれども、その後を追ってきた本当にそれは違いし、直後にクレオパトラも自害したためこのようにしてプトレマイオス町エジプトと言われている。アレキサンダー大王の後継者のプトレマイオスですねによるエジプト包丁であるプトレマイオスとエジプトは、この最後の女王であるクレオパトラを最後として滅びんだ