古代・中世における武器・武具の祭祀利用の展開

■古代・中世における武器・武具の祭祀利用の展開

塚本敏夫(公益財団法人元興寺文化財研究所) 

■「儀仗としての武器・武具―鎮め・祈り・畏敬―」

▶︎はじめに

 古代の武器・武具は戦闘用としてのみ評価されてきた。 特に、古代の武具研究は古墳に埋納された甲冑を中心に論じ られており、古墳時代に短甲から小札甲への型式変化は、歩兵 から騎兵へとの戦闘形態の変化が指摘され、東アジアでの軍事 的緊張関係を推し量る資料として注目されてきた。

 従来、古墳以外で甲冑が出土する場所としては沖ノ島7 号祭 祀遺跡、飛鳥寺塔心礎跡および東大寺金堂須弥壇に限られてお り、何れもが儀仗用の鎮壇具や祭祀奉納品として確認されてき た。近年、古墳副葬品以外でも、祭祀具として二次利用した事 例が確認されてきた。そこで、武具を新たな視点で再調査を行 うことにより、武具としての機能だけでなく、祭祀具(鎮物) として用いられていた実態の一端について明らかにした(塚本 2014、2016、2017)。

 本論では、古墳時代から中世にかけて、今まで見落とされて きた資料を再評価し、武器・武具の祭祀利用がどのように始ま り、展開していったのかについて、事例を中心にその一端を報 告する。

1.古墳時代における武具祭祀の受容

 武具やその部品が古墳の副葬品以外の祭祀具として使用された 初例は現在のところ、関東地域である。 関東地域での様相 千葉市の古山遺跡の22 号住居跡(5 世紀前半)から鉄鏃1 点、 刀子1 点と革綴甲冑の部品と思われる鉄製三角板3 点と鉄製長方 板(帯金)1 点と勾玉が出土している。三角板には革綴の痕跡が 認められることから、組上がった甲冑を断ち切って納めた可能性 が高い。焼土層から焼失または片付けの可能性があろう。管見で は、武具の部品を使用する最古の例であろう。 また、他の焼失住居から鉄滓が数点出土している。千葉県地域 には弥生後期から岩井安町遺跡他、焼失住居を鉄滓で鎮める作法 があった可能性があろう。

 小札や小札甲が古墳の副葬品以外の祭祀具として使用された初 例は現在のところ一宮町の待山遺跡の2 号住居跡(5世紀後半) の覆土から小札は幅6~7㎜程の紐で巻かれた状態で出土した大 型の小札(膝甲の可能性が高い)であろう。明らかに武具以外の 意図が付加されたものであり、鎮物として住居の片付けに利用さ れたことが伺える。この部品を布や紐で巻く行為は他の単独で出 土する小札に共通しており、古墳時代後期の祭祀遺跡として有名 な坂城町の青木下遺跡での鉄鏃や鋤先、鎌が矢柄や柄から外され、 紐状の有機質で巻かれて出土している。鉄器の祭祀利用の作法と して注目される。 榛名山の噴火で埋没した祭祀遺跡である宮田諏訪原遺跡(5C 末 ~6C 前半)出土の小札(右前胴竪上第1 段の左端か後胴右端か) と小札甲と冑を着装した人骨、畳んで置かれた小札甲と骨札の付 属具や武器が出土した金井東裏遺跡(6C 前半)がある。

 これらは 榛名山の噴火(山の神・火の神)に対する鎮めの目的での献納の 可能性が高い。小札単体から小札甲のみ、最上級の小札甲装備し た人と段階的に献納品(鎮物)の質が上がっている実態が見てれよう。

 小札や小札甲の祭祀利用の系譜については、韓半島でも竹幕洞祭祀遺跡等、早い時期から百済地域で小札祭祀が行なわれており、金井東裏遺跡出土の骨札(鹿角製)からも、その関係性が注目される。焼失住居の北川表の上遺跡40 号住居跡(6C 前)からも有機質情報が残っている小札(草摺裾札右端か)1 枚が出土しており、火災(火の神)等による焼失に対する鎮めや祓いに利用されたと推定される。

 宮田諏訪原遺跡と同様の作法で使用されており、火に対する祭祀具として、この時期に関東地域に展開している。茨城町の綱山遺跡の46 号住居跡(7世紀前葉)の覆土下層から破砕した甕片とともに、屈曲した小札(小手の篠札か)1 点が出土している。保存修理済のため、有機質情報は確認できない。住居の廃絶に伴う鎮物として使用された可能性があろう。ひたちなか市の武田西塙遺跡の第245 号住居跡(6世紀後半)の覆土から幅広の小札が1点出土している。部位は同定できないが小札式付属具の小札の可能性があろう。

 特に、住居跡出土小札が古墳時代後期から終末期にかけて千葉県北部(下総の領域にあたる印波、千葉、下海上)を中心とした地域に集中する特徴がある。特出すべき点は、関東地方で出土した小札が小札甲や付属具を構成する小札を別々に使用していることである。あたかも1 領の小札式甲冑の部品を各地に配布したような出土状況を示すことである(図1)。

 関東以外での様相近畿地方で古墳副葬品以外に武具が祭祀具として登場するのは飛鳥寺塔心礎跡(6 世紀末)出土小札甲が仏教導入時に舎利荘厳具として埋納された事例である。沖ノ島岩陰祭祀7号遺跡(6 世紀後半)では岩陰に武具(冑と小札甲)が金銅製馬具、金属製雛形祭祀品、銅鏡、装身具、武器他、多種多様な出土品が奉献されている。律令的祭祀成立前後の対外的な境界での特別な祭祀遺跡である。また、谷山北地区遺跡群(6世紀末~7世紀初)船原3号墳に隣接した埋納坑から、小札甲、金銅製馬具、鉄鏃、朱塗弓、蛇行状鉄器他多種多様の埋納品が出土。その遺跡の性格が注目される。

2.律令制導入後の武具祭祀の様相

 律令制導入の7 世紀に、畿内では人形祭祀は受容され盛行するが武具祭祀は確認できていない。特別な事例として東大寺須弥壇跡(8C 後)から最も精巧で高級な小札甲が金鈿荘大刀2 振他と出土が知られ、その埋納には国家的な祭祀目的があった可能性がある。一方、8 世紀以降、人形等の新たな祭祀と併存して、小札を用いた新たな祭祀が行われ、地域に展開していく実態が見て取れる。金属製人形祭祀の導入と波及律令的祭祀の祭料として人形があり、『延喜式』では金属製と木製人形が使われている。

 しかし、現在の出土品では金銅製が沖ノ島祭祀遺跡で、銅製が都城と龍王山古墳群E-20 号横穴墓で出土しているが、それ以外は鉄製と木製で、純金製、銀製の出土例はない。人形祭祀はその起源と開始時期は中国伝来の人形を7 世紀後半に律令祭祀の中に取り込むといわれている(金子1980)。しかし、6 世紀後半の小山2 号墳の玄室内や前底部埋葬施設他からは人形状鉄製品やS 字状にゆるやかに蛇行する鉄板が有機質で巻かれた状態で多数出土している。金子も示唆しているように地方での初期の木製人形の利用とともに、道教的呪術の受容と波及の実態は再検討の余地があろう(金子1981)。

 また、後述する小札転用人形の発見や鉄製人形が釈迦堂遺跡以外でも、香取市の妙見堂遺跡や熊本市南平上遺跡他、地方に予想以上に波及している事実が明らかになりつつある。複数型式の小札祭祀の展開平城宮跡若犬養門付近(8C 初)から型式の違う小札を交互に束ねて出土している(諫早2013)。長岡宮内裏正殿地区の東第二脇殿跡(8C 末)では切石の抜取痕跡の埋土中から製作年代が4 時期に及び、ほとんどが伝世品の小札片が約27 点出土している。小札は1~2 枚を一組に、小札甲からその場で断ち切るか、予め外したと推測される。

 古墳時代からの作法を踏襲した祭祀であり、脇殿の解体にあたり、その片付けに関する祓いや地鎮等の目的と思われる(塚本他2012)。この複数型式の小札を使う作法は地方にも拡散している。北方では焼失住居である原田遺跡SI30 住居跡(8C 後)から鉄鐸他と共に2 型式以上の違う小札片が約35 点出土している。硯(円面硯)の出土などからも、伊治城跡と関わりをもつ集落と考えられている。秋田城のSI1547 竪穴状工房跡(9C 中)の埋土中から4 型式の革小札からなる複数の革製小札甲が綴を解いた状況で面的に出土しており、鍛冶工房の廃絶に伴う片付けの鎮めと推定される。また、南方では、大宰府政庁跡遺跡で藤原純友の兵火直後の政庁Ⅲ期整地層の最下層(10C 中)から古墳時代の腰札を含む3 型式以上の小札が出土している。(小島2010)。

 福岡市の鴻臚館では第23 次調査の包含層(10 世紀後半から11世紀前半)から8 種類の小札が出土している。5 枚を綴じた状態で出土したもの、重ねて出土したもの、折り曲げて出土したものもある。出土状況が不明のためわからないが、綴じた状態の小札列があることから、大宰府政庁跡の出土状況に近い可能性があろう。この複数型式の小札祭祀は律令国家の重要拠点地域でのみ確認できる重要な作法であった可能性がある。小札転用人形の展開畿内の枚方市の九頭神遺跡(8 世紀初)円形土壙SO4037 から出土の小札3 枚は全て足・手の切込みがあり、2 点は顔の表現もある小札転用人形である。3 点は葉に巻かれて、土壙から和銅開珎11 枚と緩やかに曲がる不明棒状鉄製品と供半出土。掘立柱建物群の地鎮的な目的が想定されている。律令的祭祀の人形祭祀と小札祭祀の融合である。長岡京跡左京北一条三坊二町遺跡(8世紀末)炭廃棄土壙SX435033 出土の小札は足に切り込みがあり、刻腕Ⅱ式の小札転用人形の可能性が高い。また、緩やかに曲がる不明棒状鉄製品や鋳造・鍛冶具他と共伴出土。鋳造・鍛冶関連遺跡の片付けに関する祓いや地鎮等の祭祀目的の可能性が想定される。今のところ九頭神遺跡出土品が最も古く、機内でもこの2 例が確認されているのみである。その成立背景として、枚方市は古墳時代に積極的に渡来人を受け入れ、継体天皇の権力基盤をなしていた場所であり、後に百済王氏が移り住み、桓武天皇とのかかわりが深い土地になるあることが考えられよう。

 畿外では千葉県我孫子市の野守遺跡(8C 中)の11 次2 号住居から作りが稚拙で切り込みはないが小札転用人形と推定できる小札片が出土している。また1 次6 号住居と5 次2 号住居から無腕式人形が出土している。この野守遺跡は相馬郡衙正倉跡と考えられる日秀西遺跡に近接しており、他の出土遺物の検討からも郡衙に関連する遺跡と位置付けられている(辻2015)。また、船戸廃寺跡の関連遺跡を推定される船戸西遺跡からは東大寺金堂出土品と同規格の小札が出土しており、畿内との関連性が注目される。同様に、茨城県石岡市の鹿の子C 遺跡からも小札転用人形や無腕式人形と推定できる小札片が出土している。

 鹿の子C 遺跡(7 世紀末から9 世紀前半)は連房式竪穴と呼ばれる巨大鍛冶工房があり、小札の出土から対蝦夷戦争に伴う武具の生産を行う国衙工房と評価され注目されてきた。近年の再検討(小杉山・曽根2011)では、それに加えて9 世紀に農具等が多くなることから常陸国内の需要に答える工房へと変化していくことが指摘されている。今回の再検討で小札転用人形や、有機質で巻かれた小札や束ねられた小札等祭祀利用と推定される小札片が一定量確認できた。注目すべきは小山2 号墳から出土したS 字状鉄器出土している点である。また、弭や鉄鐸状の鉄器も出土しており、使用された祭祀具(鎮物、贖物)である可能性や、工房で祭祀具生産をしていた可能性も考えられよう。この地域は古墳時代後期から東国で盛行した小札埋納祭祀に、新たな律令的祭祀である人形祭祀を重層的に取り入れ融合させており、興味深い地域である。

▶︎3.中世以後の武器・武具祭祀の新たな展開

 中世以降、武家社会の鎌倉や京の室町を中心に南北に展開した武具祭祀で、小札や小札甲に新たに武具の部品が埋納に加わり、武器・武具埋納祭祀が広域に展開する。京・鎌倉法住寺殿跡(12 世紀末)からは馬具や弓矢と共に、型式差のある大鎧や鉢を欠いた鍬形付冑など、5 領分の甲冑が裏返して出土している。焼失・片付けに関する祓いや地鎮等の祭祀目的の可能性がある。室町殿跡(16 世紀初) から伊予札や盛上本(もりあげほん)小札を含む複数型式の小札群が十数点、鉄鏃2 点と青銅製の花形皿ともに出土している。鎌倉では今小路西遺跡から小札6 点や鞐に鍔等が出土し、若宮大路周辺遺跡群から栴檀板が出土している。

 下馬周辺遺跡の第28 号竪穴遺構(14 世紀)では埋納銭とともに2 領分の鎧が裏返して埋納されていた。また、遺構外から直角に曲がった小札が出土している。地鎮等の祭祀目的か、その遺構の性格が注目される。北域への展開東北では、太平洋ルート上の田鎖車堂前遺跡の導水施設(12~13C 初)から直角に曲げられた平札を含む小札13 点が出土し、下馬周辺遺跡との共通性が注目されている。浪岡城跡(12~13C初)から平札が二戸市の不動館跡曲輪1 の土坑45(13~14C)から小札と杏葉が出土し、地鎮等の目的と思われる。鎌倉・平泉との交易で人と物資だけでなく、祭祀の作法も伝わった可能性が高い。北海道では、小札や武具の部品(鍬形片や腹巻脇板等)の出土が擦文文化期からアイヌ文化期にかけて北海道南部・東部の太平洋沿岸河川流域を中心に盛行したことも指摘されている(金山2013)。

 また、10~12 世紀に交易ルートが日本海から太平洋に変化し、密教系の儀礼が浸透することも指摘されている。この作法はその後、広がりを見せ北は枝幸町の川尻チャシの2 号竪穴住居跡でも確認されている。南域への展開福岡市の那珂遺跡群第47 次のSK03 地下式土壙(15 世紀~16世紀)の埋土から金銅製鍬形、銅製釣鐘形分銅、硯他多様な遺物が出土した。沖縄では、グスク時期のグスクや住居跡での小札や武器・武具の部品の埋納が盛行している。うるま市の平敷屋古島遺跡(13~16C)M18a 地点から2 種類以上の鉄小札群と革小札群がピットから出土しており、下馬周辺遺跡との共通性が指摘できる。また、近接する勝連城では小札や武具・武器部品が多数出土し、その中に前立と思われる部品も出土しており注目される。浦添城や玉城城崖下遺跡他のグスクでも小札や武具・武器部品が多数出土しており、首里城でも鍬形が出土している。時代を経ても祭祀の作法は受け継がれており、アイヌとの共通性がある。鎌倉との交易で人と物資だけでなく、祭祀の作法も伝わった可能性が高い。

▶︎4.武器・武具祭祀の受容と展開(まとめ)

 武器・武具祭祀には三段階の画期が認められた。第一の画期は古墳時代後期に小札や小札甲が火山の鎮めや焼失住居等での祓いに利用された作法の導入である。この作法は関東地方で発生し、この地域で限定的に盛行したようである。背景として、防人としての徴兵など東国の武人集団の間で発生した作法の可能性があろう。その系譜は今のところ百済地域に求められそうである。

 第二の画期は律令的祭祀と共に、都城にも導入された複数型式の小札埋納祭祀であり、平城京の造営を機に導入され、一部で人形祭祀と融合して、古代寺院、城柵や地方官衙等の拡散とともに地方の拠点的地域に点的に展開したようである。そのベクトルは軍事的緊張の高い東国に比重が高く認められる。小札祭祀が盛行していた関東の霞ヶ浦周辺地域で独自の展開をしていたようである。

 更に、蝦夷との境界地域では新たな武具祭祀が展開し、太平洋ルートを経て北海道南部にまで波及していたようである。第三の画期は武家社会の鎌倉を中心に南北に展開した武具祭祀で、小札に加えて武具の部品を埋納する作法の広がりである。この作法は京・鎌倉から東北地方の太平洋沿岸部を経由して北海道の南部・東部に段階的に波及して選択的に受容され、物心両面でアイヌ文化成立に寄与する。特に、鍬形は武具の破片利用が昇華され、アイヌ文化の中で首長の最高の宝器となる。一方、南の沖縄でもこの作法はグスク時代に波及し、選択的に受容され、物心両面でグスク文化を成熟させ、琉球王国の成立に寄与する。

 この南北の辺境の地で武器・武具祭祀が盛行する背景には、鎌倉時代の海上交易の発達による、物心両面での広域流通の確立があげられよう。また、防御施設でもある北のチャシと南のグスクの成立背景には、元寇という外敵脅威に備える...という、鎌倉幕府の対外政策の転換があった可能性があろう。それは室町時代にも受け継がれるようで、武器・武具祭祀が現在の日本の境界領域(文化圏)を規定していくようである。