聖徳太子信仰と伝承

■聖徳太子信仰と伝承


【パネリスト】
武田佐知子(大阪大学名誉教授)
森博達(京都産業大学名誉教授)
瀨谷貴之(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)

さてこの後舞台の準備が整い次第パネルディスカッションを開眼させていただきますこの準備の時間を利用いたしましてパネリストの先生方と進行役の毛利かぞうさんのご紹介をさせていただきますパネリストの武田さち子先生は1948年東京都でお生まれになりました日本史学復職し女性史を専門にご研究されています1997年大阪外国語大学教授20007年大阪大学理事副学長2014年追手門学院大学地域創造学部長を経て2019年に後退任現在は大阪大学名誉教授でいらっしゃいます主なちょっといたしまして信仰の王権聖徳太子太子像を読み解く古代日本の衣服と交通よそうごうけんつなぐ道など多数がございますそしてを2人目のパネリスト森博達先生でございます森博達先生は1949年兵庫県で生まれになりました東アジア5分交渉史の研究音韻巻5巻分にわたる5分交渉史の研究をご専門とされています大阪外国語大学外国語学部中国語学科をご卒業され名古屋大学大学院博士課程を渋滞の後愛知大学専任講師同志社大学助教地大阪外国語大学浄教寺京都産業大学を経てて下現在は京都産業大学名誉教授でいらっしゃいます主な著書に日本書紀の謎を解く10作者は誰か日本書記成立の真実書き換えの主導者は誰かなどがございます3人目のパネリスト瀬谷孝之さんですシェアさんは1971年茨城県水戸市で生まれになりました日本彫刻史を専門に研究されています東北大学大学院文学研究科博士課程後期単位を取得退学後日本学術振興会特別研究員を経て現在は神奈川県立金沢文庫主任学芸員を務めておられ2019年金沢文庫で開催されました小特大し進行鎌倉仏教の記そうと尾道度浄土寺の名峰に携わられましたそして進行役お願いいたします毛利か増産が1948年のお生まれで1971年早稲田大学第一政治経済学部政治学科卒業後日本放送協会へ入局され日本放送協会解説員室解説員を務め現在は瀬戸内港町文化研究所代表を務めていらっしゃいますではお待たせいたしました準備が整ったようでございます今ご紹介いたしました皆様方にご登場いただきましょうお願いいたしますそれでは改めましてパネリストの皆様方ご紹介を申し上げます皆様から迎えまして右手から順にせあさん森先生武田先生そして本日のコーディネーターを務めていただきます毛利さんでございます[拍手]こんにちはいまご荘櫂いただきました司会を務めさせていただきます毛利ですえそれで今先生と三徳を呼び上げがありましたがあの今日のディスカーショーの中では基本的にさーんということで統一をさせていただきたいということをまずお断りしておきたいと思いますそれでまあ私は nhk にかせておりましたが昨日あの藤ノ木古墳をですね見に行ったんですけれどもあの巫女の空軍の発掘調査が行われていた頃に1戦で奈良に降りまして取材もしていいかというふうなことで濃されますそれで今日はのテーマのまあ聖徳太子でありますが法隆寺の古谷館長がまあ一台キーについてお話をいただきましてで仏教を広めていく上でですねいかに大きな役割を果たされたかということについてまあお話をされましたですっぱバーチャルリアリティーの映像の中で打つねクロクマに乗ってはの富士山を超えるというのは映像もありましたけれどもそういう形でですね人を超えるようなまぁ超人かはされるような存在でもありましたでそういう形でですねえ聖徳太子という呼び方は聖徳太子が亡くなられた後になってできたあの呼び方でありますがあの[笑い]聖徳太子様ですね仏とか菩薩と同じようにですね進行する聖徳太子信仰というものが生まれましてでこの信仰がですね仏教とか思想ということだけではなくてまぁ文学絵画というのはいろんな日本の文化にですねいい影響を与えているということでございますで今日はそうしたあの聖徳第二の進行がですねまぁどのようにして生まれたのかというふうなことについてまあお話を1戦のですね研究をされている子さん方にお伺いできればというふうに思っておりますで御三方まずあの人率ですね自己紹介を考えて自分の研究はこういうことを専門にやってきたという話それに関連したりしまして聖徳太子とは何か聖徳太子信仰とは何かということについてそれぞれにお話をいただく思っておりますまず最初は武田さん宜しくお願いを致します武田ですよろしくお願いしますあの私と聖徳太子にあのの関係についてというかあの触れてみますと私はあの古代の服装の研究をやっておりましてそれである出版社からその症とかの1万円札の聖徳太子像について何が書いて欲しいって言われましてそれであの研究を始めたようなものなんですけれどもあの旧1万円札の聖徳太子像っていうのはあの高失業物のノア今あの明治維新の時に皇室に放流次回は県献上されてずっと皇室皇室にあります聖徳太子がゾーンの中からイス t 相談のなりする中のあのえおえおしゃえおかきまして聖徳太子像が生まれているんですけれどもあの1万円札の聖徳太子像がですね昭和ああと57年にですねあれは聖徳太子ではないという説があ上がってきたんですねってそれは東大史料編纂所長というあの赤で水の最高峰の東大史料編纂所長のイメ今枝維新という方が発表されてa そのあれば対しじゃないんだなぜ対しじゃないのかという土というこの聖徳太子像んですね右下にちょっと非常にあの写真では右側のわかりにくいんですけれどもちょっと見て頂けますでしょうか表層の2色の部分に入ってありますすみ後のような部分がありましてそれがですね今イナさんはまあ非常に暗い博物館でのあの月のガラス越しだったんですけれどもこれがですねと変わら川原田と読めるという風に書かれたんですねで川原寺っていうのはその対し聖徳太子と関係が最もその少ないあのお寺であるとでそこですこれは無給の所蔵所蔵を書いたものなんだろうというふうに今枝さんがおっしゃいましてでだからこの像は聖徳太子ではないんだというふうなことを発表をなさったんですねでこれはですねその翌年の1月の朝日新聞にデカデカと出ましてで私たちあの研究者仲間ではこれは大変なことだとを国が聖徳太子と言ってたものがショートstar 誌では実はなかったんだでそれからどういう動きがありあったかと申します昭和54年に新しい1万円札をあの作っ作ることに作ったって出てきたんですねで a のそれはですね実は国は様子日銀日銀がですねその聖徳太子像とあの胸のところで堂々と書いてある聖徳太子像ってでそれがまずいということでそのこっそり引っ込めてですね新しい福沢諭吉の1万円札を作ったンっていう風に言われたんですねところがそれはちょっとおかしいことで国はもっともっと前から56年7月に今井田さんの発表がある前にその診察の計画を発表しておりましてどうもその今枝雪よりの前にきちんとそのお札の改定と事は言ってた言ってたからのもこの一般に高交換流布してる噂がやっぱり本当ではないんだというふうに言われ始めたんですねそれではいったい何でそのこの謄本民営化ですね聖徳太子場と疑われてきたのだろうかという話を私はあの研究を始めたわけなんですけれども実はこのすごくねおかしいことが一つあるんですこの聖徳太子像あの綺麗に表層されているものなんですけれどもいろいろ京都の表具屋さんなんかに聞きますとこれはですね金せるに表層替えをしてあのしている部分に川原寺と書いてあるんだっていうふうに今井田さんはおっしゃったんですけれどもその近世に変えたものに古いネスので今井田さんはあの川原寺が聖徳太子カーラ寺のその際ての財産がです聖徳た8法隆寺に移る時に元の所蔵書いてから寺ってい書いたんだっていうふうにおっしゃるんですけれどもそんななりますとえっとハス急性期かな発生器かなからずっとですね一度もこの聖徳太子党本命はあの表層街がされなかったと思わなければならないんですねそれはちょっと遠を考えても a 考えにくいということで私はこの頭本命がですねどのようにの表層替えされてきたかっていうことでその献身という人のあの書物をひも解きますと中世にこれがあの表層がされているっていうふうなことがわかったわけでありますあのえっと私のを差し上げましたあのあのりっ絵画史料の一番右端のお酢を見ていただきたいんですけれどもこれは1989年にその長屋王底から発見されました長屋を木管と楼閣山水楼閣ず木管と4点も何度ずいぶん大きいものなんですねでこのなこの画像とですねまぁあの一目瞭然右上にいる人物と聖徳太子像が見ているって皆さんを持ってくださるでしょでこの画像はではいった中国で描かれたものが日本で描かれたものかっていう風な議論になるわけなんですけれどもこの画像は右側にあるのはその山翠楼かクズで非常に中国的なあの建物の描写があるのですだからもしかしたら中国のかっかもしれんないと思うかもしれないんですけどこの左側の目下のえっとを起こしてある木管方を見ていただきますとこの人物左下に対し頭をと同じように少年のような画像がありますしその上にあります四角いあのーしっえっとこの大人の人物の足元にある四角いあああん箱がありますけれどもでこれは変異と言われループあのああ同部でありましてこれは役人の立ち位置をその9-9宮殿の中で示す変異という道具なんですねで中国にも編いっていうのはありますけれども中国の唐代の変異というのはあのもっとん諜報県ヒラメピラべたいものなんですねでこれはどう見てもその日本の本の形をしているということはこれは日本製とみていいんじゃないかっていうふうにあのあの考えられるわけですそしてこの中にねちょっとあのーとどこの部分とはあの申し上げられないんですけれどもあとの酒蒸しという人名でこれは正倉院文書に1900チャットああ天日を11年以降何度も何度も来てあの出てきます東大寺のあの役人の名前が出てくるんですねでということはこれはおそらく天平11年頃に日本で描かれた絵と考えていいじゃないかとするとこの頭本命が謄本見えとなぜいうかというと謄本たかっ中国の人が書いたかえ中8中国の人が書いたのでは泣いたっていう風な説があったわけなんですけれども必ずしもそう考えなくていいこれは日本のをその奈良時代に描かれたしかもこの子の衣服はですねちょうど奈良時代の半ば頃のあの磯野それが断端弾たんだ2分になってとかああそれからあの頭のところですね左かの太子像の方はあのくくっているんですけど右母の方そのあの端っこですねただしているでそれ長くあの日もが出ているように見えるんですけれどもそのまさに遠藤天日応じない1011年頃の日本のですね役人の風俗にならったものだと各の考えていいんじゃないかというふうな結論が得られたわけですでこれが熱なぜその車ねと聖徳太子であるということを疑われててしかそれそれでもなおそのこれを聖徳太子像であるっていうふうに主張したかったまあ中世のんですねあのまあ法隆寺のお坊さんがいるわけなんですけれどもその人とあのの話を絡めて後にちょっと話しさせていただきたいと出版の対処進行と絡めてお話しさせていただきたいと思いますあの元お札にも描かれていた聖徳太子の事になった像について01:00ショート管じゃないんじゃないかという見方も出ていたけどもいややっぱりちょうど期待して考えていいんだということをエマーお話をいただきました続いてモリ先生あの聖徳太子の基本的な聖徳太子像っていうのはもう日本書紀がベースあると思いますけれどもその日本書紀がどうして出来上がってきたかということについても言及されてきたわけですがそのお話をお願いできればと思います3もりひろみっと申しますどうぞよろしくお願いします私はあの実は日本史が先行ではありません中国語学ですでその中でも感じの発音の変遷を勉強をしていましたでそのために日本の日本書紀のですねの中に入っている歌128周は彼があるんですけれどもそれがまあまあよう金で買われていてですねこれがあの有力な治療になるんじゃないかと思って勉強し始めとこれは大学3年になっておりますそのうちですねまず最初は桜蔭だけだったんですけれども日本書紀30巻ちょっとこれは今日話す内容を123 c と書いてあるんですけれどもその次見せてもらえますかこれですね左側の写真はこれはもう岩崎本の日本書紀の秋の24の紅玉キーの一部ですこれは国宝で大変あの丁寧にへ書かれていますこういうふうに全文漢文なんですね例えば1行名したから五行目からこの月に国のうちの間ら切ら足場を降り取手運動ありますそれから産業4行目の半ばにへ時にはざう民歌ありその12枠あってこれハロハロにことそ聞ゆる志摩薮原 a というふうにこういう万葉仮名で開かれていますこれを見ていただけるとその12曰くの後ですね波という子さん水の下にシュシュ率で丸があるますこれは声の店商店といいましてアクセントなんだねこれはあのじっ世紀の写本ですだ10世紀のアクス日本語のアクセントを書いてあるわけです左下は低い左上は高いそれでいいますとハーロウはぁロニー鴨頭草聞ゆるシーマの藪派こうなっています実はこれは中国語で当時の中国語で読んで当時の中国語のアクセントでですね日本語のアクセントそのままを移しているんです完全に一致するんです中国のアクセントこういうものがあるこれはすごいでしかもそれだけではなくてこれはあの深夜ボインも当時の中国語によって直接移されてだからこれもアルファ軍と私は命名ているグループなんですけれどもこれは中国語によって直接書かれたんだとでその文章自体も全くこれ間違いがないん立派な考えですでそれでこういったあのセヨン中国の標準もんで書かれしかも性格巻いて帰るない性格漢文でアルファ軍というが書かれたまずですねまず14からにおいて24から27その後でですねそれを書く継いだのが beta 群トゥとび時になっていますけれどもこれはわーおつまり日本的な感じ音によって書かれてい15今じゃないんですだから当時の中国で読んだら待ったこれ意味は通じないで文章も和歌漢文と言って間違いだらけです日本語の発送にも付く分ぼうや国の間違いんランボあふれています中国で米を全く意味取れない間違え誰逆の意味になったりしますそれから街の30これはまあ持統天皇の街なんですけど純正各巻もこれはまわりとまともな関門ですでこの時にですねまあこれ元明長になってから松野さんに分かれたんだと思いますけれどもこの時にですね中国の古典の文書によって殉職押されたり文章を整えてるんですねそれだけじゃなくて記事2階室をしているんですこの果実をした人物がまた語中国語できない人です間違いだらけですこういうことを抑えていただいてそれでは聖徳太子との関わりですけども聖徳太子の活躍の記事は牧野21用名刺旬ですねそのシュシュ雪に先ほどあのエデンで説明もありましたけれどももののベア蘇我物部戦争というのはありこの時の10市戸祭の大使がこれで勝利をしたら四天王寺を作るというわけですねでその通りにまあこれおそらく四天王寺に伝えられている電子をなんでしょうけれどもでこれは寝間着の21はアルファ軍で文書はまともな文章なんですところがそのそうガモの群れ戦争のところ対しのか遅延が出てくるところはですね間違いだらけですでベーター軍のうわ種まあ日本的な間違いですねとも性格がちょっとことがあるんだから最終段階でこれ加えな格好得られたところですそれから巻之二重についコキ十七条憲法もここに全文が抑え納められているんですけれども水後期はベイタウンです間違いだらけの関門ですでまぁ後で17秒か十七条憲法の話をやりますけれどもへそういったことでですね日本書紀の区分論というのを私はずっとやってきましたでまぁあの中ここだけじゃなくてこれはあのまあこの時代やるには挑戦も必要だということで朝鮮語も勉強してきてそれでへまあ韓国の学者とも交流がありますで今日は僕は最初なぜ松濤2位シンポジウムに言われたのかちょっと枠最初わからなかったんですけれどもまあこの機会に勉強しようと思って三経義疏などを選んでみましたその話も後でさせていただきますありがとうございましたじゃああのシアさんはなんか中世のほど家専門に研究されているということで中世の聖徳太子信仰の話が中心になろうかと思いますがどうかよろしくお願いをよろしくお願い致します神奈川県立金沢文庫のせやでございますどうぞよろしくお願い致しますじゃあツインお願いしますはい私あの神奈川県立金沢文庫と言いましてあのちょっと日本では珍しいですねこれじゃあ博物館仏教をテーマにする多分唯一だと思うんですが仏教文化をテーマとする博物館にい務めておりますですのでまぁ大学ではなくてそれ博物館で展示などしておりますはい2にお願いします今までですねこちらの金沢文庫ではですね皆さん今日ならですからならにうっかりということでなら星のうん型の展覧会をですね角に開催させて頂いたりはい次お願いします3回やってるんですけどねそれからですね見たことあるぞという人もいるかもしれませんが受かってみーが東大寺さんの展覧会をさせていただいたり平成25年ですね比較的最近その前はですねこれて中身立って覚えのある人いるかもしれませんが解脱承認情景これがあの法隆寺さんとも中古とも関わるお坊さんで興福寺本拠地にしたお坊さんで実はのならの国立博物館と巡回でですね平成24年にこういった奈良ゆかりのお坊さんの展覧会もしているそれから次お願いいたします次お願いしますはいそれからですね向かって右人消防冊という展覧会だっあれこれもなんか見たことあるぞって来ているかもしれませんが7国立博物館でパックをちょっと集団になる方南総坊さんなんですが認証というまああの鎌倉時代ですねまあ会社9歳ですとかそういう金者の救済をした人物なら出身の人物として知られている認証冊まあ認証という方がいらっしゃってその方の展覧会もこちらで金沢文庫でしているまあならの国立博物館でも同じ平成28年にしているでそれからですね今日お招きいただいたのはですね本当にこの大遠忌の年にあのこういった席に呼んでいただいて本当にありがたいあのと思っておるんですが実は a子の聖徳太子の大遠忌先駆けですね去年おととしですね実は聖徳太子信仰という展覧会をしておりますで行為はで行ってきた展覧会を見るとですねなんでなんか神奈川県の博物館でならのなんか博物館みたいな展覧会やってるのかなというふうに思われる方もいると思うんですね私もですねまぁ今神奈川県の身分なんですけれども7件からちょっとお給料をもらってもいいんじゃないかなと思うようなですねあれもあるんですが実を申しますと先ほどお話したこの金沢文庫という博物館なんですが家起源は鎌倉時代にさかのぼりまして金沢文庫というこれはですね鎌倉時代に執権北条氏という皆さんご存知かと思うんですが政務に当たった執権北条氏が花澤ブー子という魔法集める場所を作ったらそこに気あんのある博物館で実はその北条市金沢北条という方上品の一族なんですが奈良の祭第二いいですねに a 村というお坊さんが鎌倉時代に出てきましてその a 村に帰依してまーその最大寺の末寺の称名寺というお寺をつくりましてそこが実は菩提寺にするということで端的に言うとまあまさにこの関西ならも窓口4として機能したのが称名寺金沢分そちらで勤めているので実は奈良ゆかりのそういった資料文化財がたくさんありますのでこういった展覧会をさせていただいているということですはいじゃあ次お願いしますはいで実はそういった中でこういう聖徳太子の展覧会たくさん元興寺さんとかまあこういったあちらこちらのものを集めて絢爛会をさせていただいたんですが入っ次願いしますで今日お話しちょっと最初にさせていただこうと思っているのは実はこの展覧会を通して分かったことなんですがこれはなら後当時なら共かかることなんですが中世のこの鎌倉時代ですねの聖徳太子信仰まあ大変ぽれたかになった時期なんですが聖徳太子信仰この聖徳太子信仰というのが先ほど話しました奈良の祭第二に本拠地を置いたまーしゅう on 立秋という宗派が実は大変その信仰になって全国に広めたということが最近わかってきたそのことについて今回は展覧会をして今日もちょっとお話最初にさせていただこうと思うんですがはい次お願いしますはいやはりあの聖徳太子信仰聖徳太子ゆかりのお寺と云えば奈良の法隆寺と大阪の四天王寺かというふうに思うんですが実はこの両自というのはこの真言律宗と大変ゆかりの深いお寺になりますはい4実はその信号 wish を開いたお坊さんなんですが右の a 村になります鎌倉時代本当長生きなんですね1201年から1990年当時としては大変町名です鎌倉時代のど真ん中を生きた a大変な高層なんですがこの a 村はまあその心棒を学びながらも釈迦の教えに回帰しようということで回列を重視するということで真言律宗という宗派を開いたんですがその有力な弟子に認証という人がいます先ほどお話した認証ってこのなら中心の入手和英村の弟子だったんですけれども a 村の命によって関東にでこうしてこの真言律宗を広めた鎌倉時代こちらも長生きですでまぁその真言律宗というのはこの二人によって弔辞の調停や鎌倉幕府の支援を入れて実は全国的に展開したということがこれはもう分かっておりますで実はもっともこの聖徳太子信仰の関係で象徴的なのが四天王寺の別当というこれ住職を2人は勤めてるんですね実はそれまでは比叡山の偉いお坊さんが勤めてたんですが初めてこのならの最大力でた方さんがこう鉄塔を務めたということが知られておりますはい次お願いしますそれからですね放流にさんとの関わりなんですがこの映像んという方はですね県庁6年1954年に聖徳太子を讃嘆する聖徳太子公式というのを表すんですがその直後法隆寺の党員でですねこの菩薩戒というのを授けます200人以上の人たちに菩薩戒を授けたということが知られておりますそれからこれ大変広隆寺の中では重要な御像なんですがその銚子丸聖徳太子て使えていたす銚子丸がゆかりのご本尊だと言われている如意輪カン論を大変丁重に荘厳して寄進をするでその記念にですね法隆寺の大講堂においてこれも大々的に二冊へという馬う放映を開いたということなども知らないておりますそれからまあ法隆寺の釣法でありますところの将校まんだらや聖徳太子ボソン増という代表的なブツがの制作にも支援援助をしたというふうに言われておりますそれからまあ信号立栗とのかかわりといいますと法隆寺のきた室井んと言ってこれは当院のですね夢殿の北側にですねありましてシャリ年先ほど来を話している重要な信仰の舎利殿それから者履行を行う場所今は正月三が日なんですけれどもかつて昔は毎年あ毎日やっていたというまあ正月三が日機会があったらお参りされるといっても大変感動的な方へなんですがその管轄をしたがこのリースのきた室井んという風なところだというふうに言われております入って次お願いします実は今日聖徳太子ゆかりのマップということで皆さんを配りお手元にあると思うんですが実はこの中世において法隆寺や四天王寺それから橘寺オオクボデラ a それか定林寺養福寺西林寺距離は京都の交流いずれもですね聖徳太子ゆかりのお寺というのは真言律が入っていったりとか真言律の末寺化していくというまあ実はこれだけじゃないんですねこのマップに出ている額安寺あえこれは世尊寺それから第アンチこういった所も新本日の末寺化していったということが知られておりますで後にはですねカートを祈願寺と言ってこの世てら多くのお寺がですね鎌倉が二の祈願所となるということも知られているなぜかこの聖徳太子にこの信仰を突破するって最近はたった重要な点としてちょっと目を転じますと次お願いします実はならだけじゃなくて京都にもこの真言律宗の聖徳太子信仰のまっ当時の人ですかね京都にも大きなお寺があったということが知られておりますそれはですねこちらの太子堂白毫寺という予定は即上旬白毫寺というお寺でこれは地図なんですけれどもこれは場所どこかというとここに祇園社と書いてありますあの祇園社の2章 rain の南側実をいうと今の治療院ですねあの大きな地方院丸丸本来はこの東山太子堂白毫寺というお寺だったということが知られております実は英知方員さんが江戸時代に大きくなるときにエイ今場所が移転して京都の五条に映っておりましてはいお願いします今でも存続しておりましてこの何仏大使をお祀りしておりましてですねで隣には大きなですね良いリンカーンのこれは聖徳太子の本知物である如意輪観音が祀られていると今ではちょっと京都の寺町の中にあるお寺になってしまって気がつきませんけれどもかつては稚児員と同規模の正実はそれ以上の大きなお寺がまあ京都のど真ん中にあって真言律宗のまあ拠点だじゃあなぜこれほど信号にシュート優秀ファンならの西大寺に拠点を置いたa 村という人は聖徳太子信仰に傾倒したかということをお話していきますとはい月お願いしますまあやはりコレ重要なのは死後履修というのは釈迦の教えに回帰するということがありましてシャリ新香こちらですね大成殿の中ですけれども大使が2歳の時にまあ東を向いてダッシュをしましたら何打つと称えましたらここからシャリが落ちたっシャリが監督したまあその者可能性に回帰するということがシャリ進行と結びつくというのが一つそれから先ほど来を話しているように認証 a 村という方は描写貧者救済で有名ですこれは実はですね陶器の政権がですねてに及ばないところどうもになっていったらしいんですがそういったことがこういった聖徳太子のポジにも習うということでまあ真言律宗というのが実はですね今日初めて聞いて驚いたという方もいらっしゃるかもしれませんがまあなんて言うんですが全国をこの聖徳太子信仰で席巻していたということがわかりつつあるこういったことを10中でも紹介しております双剣の時から所得太子ゆかりの支店大阪の四天王寺法隆寺へがまあ抽選になるとですね一般にはあの浄土真宗親鸞が聖徳太子へに惹かれてということででその身新婚その鎌倉仏教ということで東国にスポットがまあ当たっているわけですけれどもあのうおおー最近の研究ではその背景には真言律宗のまあ牛があってですね真言律宗といえばそのジェイソンとか認証とかこれもならのあのソウルでありますからあの近畿のですねええ影響力が非常には大きかったんだということで中世の方に話が映ってきましたが竹がさん先ほどあの子の東方見えとの絡みでその後にどうなったかという話をされるということでしたけども時半そこをお願いいたしましょうあの聞きづらかったと思うんですけれどもこの謄本見えというのが8太子像であることを疑われたいた時代があってそれはですね平安時代の末期に応援の近道という人がの放流でホールジェニー度ばっかり言ってましてそこつそこであの退社へと同本御縁を見ているわけなんですけれどもなぜこれが謄本見えとゆずかっていうとまあ日本日本人の服装じゃないというふうに当時考えられていたわけなんですねでこの太子像であることを疑われていた等本命を対しのの太子像としたのは法隆寺葬の献身といいいう形でありますであの彼はあのこの当時ですねあの接種を学関白城道へのお兄さんでありましてところがですねあの幼い時に乳母がですねもう壁を取り落としてしまって背骨が曲がってしまってですねあのすぐ漱石に入らざるを得なかった京成承認という形方がいるんですけれどもその人と剣心が組んで舎利殿の改造修復事業をやるわけですでそのときにまああのたくさんのお布施はと集めなきゃいけないのでまずで線2236年課程2年に法華義疏と東本命もおそらく表層がへのために京都へ送られるんですねそれでそれは何の準備だったかと申しますと仮定4年120038年に駆除4代将軍の九条頼経が法隆寺の対し関係宝物のでが以上をその所望しましてそれが形成と剣心のあのタッグでですね空前の規模の出開帳が実現するわけですであの放生寺であのは法昌寺から初めて上級貴族の家をどんどん待っていくわけなんですけれどもこの時に猪熊5勝というところでエコノ江方へ家札と加熱ねあのこれもカンバックだったかなが見るわけですねでその時にこのへ兼常がこの太子像は決して他国の像ではないと日本の少女か皆昔こうだったで対し真実の護衛なりということを言うわけですねでこれは私あの日本のその時代考証の端あの衣服とかそういうもの時代考証のはじめじゃないかと思うんですけどもねまぁこの時に7駆除道へはこれから何度も法隆寺音をズレましてここを隠居と音声後にしようと思うほどまあ法隆寺に入れあげていくわけなんですでその形成と神田検診というのは先ほど何度も出てきたと思いますけれどもあのうまぁ非常にねあの放流税は冷や飯を食ってたらしいんですねで遠投+で彼はですね自分のチーム法隆寺内での地位を高めるためにどういう造作をするかと申しますとえっと先ほど会のプロポまあで対しがあの富士山を盗んだと申しますけれどもたあの食聖徳太子の舎人で銚子丸というそのどこがいるんですけどなって彼は一番最初の伝承では奴婢だったはずなんですけれどもこのなんだっけと聖徳ダイス電子機器のすんその際最終の第2巻の方では奴婢から百済王の noの時のその保身というか大臣のですね子供であるっていうふうにあの性処昇格するわけですねで彫ってそういう風なそのまあ造作遅これは型検診が書いたものなんですけれどしかもその間にですね調子なるから検診に至るまでに間にですね公人というそのましょーとくたい会えと他の法隆寺葬を挟みますでで彼は何をするかっていうと一条天皇から命じられてたいあの品がの太子廟にある対しのですね棺の中の王のあの対しがちゃんとあのううーん存在するかということを書く確認に行くわけなんですねでその時に荒神はその大使は全くいけるが如くのそのを体をしていたっていう風に言うわけですででそのそのようにしてそのままそれが非常にあの塗って天皇から褒められましてあの銚子丸荒神それから検診というまぁあのっ系譜が出来上がっていくの造作されるわけなんですけれどもであのところがですねまあ対し美直4秒に入って対しの体を実験したりするその記事うつがですねあの日本書紀にも他の前の記録にもないしその聖徳太子や対し電子機器だけにその百済の聖明ものかの保身の子だっていう風な記述が出てくるなんかちょっと怪しいゲーなんですねで朝対しっていうのはその日本あの日本書紀と電力にのみ聞き地下記述がないんですけれどもその水個5年機にあるその阿佐太子の記述を多分コース講師アジア右手検診は広めたのすごく大きく取り上げてそのん電略の朝対しと聖徳太子を結びつけたわけなんですで現像すぐ対しっていうのはそのまあ非常に入っあの謄本見えの大使っていうのは異国的な風体をしているわけですけれどもそれを正当化するためにはですねその謄本見えつまり中国人あっえっと百済人の前に大件してあのすごく仏様というのは心の広い方で日本人だったら日本人の格好をして現れて日本語でしゃべる中国人だったら中国中国人の格好をして中国語でしゃべる押弦しそうというようですけれどもそうしたあのテクニックをを用いな崖それでその聖徳太子が非常に異国的な中国的なアフ風体をしているのは朝対しの前に現れたからそういう格好してたんだという風に言っのそういううあの絵とストーリーを作り上げていたんですけれどもそうではなくってこれは先ほど駆除このへ兼常が言ったようにですね昔の風ってあの昔の装束っていうのはみんなこうだったんだっていう風に11付けてまああのオスお墨付きを得るわけですよねそこでそのためにですねその先ほど言いました鵬翔自演の越冬メガ銀杏っていうのはその局京都のこの危険貴族のための間を回ってどう本命をですね正当化し本当の太子像だっていうことのストーリーを作り上げ6もう非常に劇的なその場面が展開したのではないかと思うわけでありますで非常に冷や飯食いだった剣心はそんなことになるかと申しますと後嵯峨天皇があの法隆寺へいらっしゃる時に山陰から遠いんかなあのの船頭ですね検診がやってa この寺があの子洗脳時よりも他の所持よりものすごくあの格が高いのはですねその献身銚子丸の子孫がいたからだっていうふうなことをいわせてるわけますでまぁこれは法隆寺のチーあの非常にその頃四天王寺と桜あの自然農二が非常にうまくあのえっとあの対し-5御朱印演技などをあの創り出しましての道な道長藤原道長からものすごいたくさんのお布施を集めたりできたでその分です法隆寺はすごくあの割を食ってたんですけれどもこの検診がですねこうしたあのストーリーを造作し東北謄本御縁を続聖徳太子像としてあの認定させた結果によってですね非常に法隆寺の地位が上がったのではないかと私は考えておりますありがとうございますあの神格化される信仰の対象になるということを話しがまあどんどん膨らんでいくということでありますがそれだけにですねa 数百年後にはもそういう形で話が膨らんでいくんですけど元々の聖徳太子のことについ最初に抱えているまあ日本書紀がですねどういう過程で出来上がっていったのかというも涙腺森さんのあの研究丁寧だからそういう意味で逆にですねす素晴らしいまんだと思うのでですけれどもそういう研究の中であの十七条の憲法さん協議書のことに関してもあのいつ作られたものかとかあの日本食に書いてあるものをどういう風に理解すればいいのかという問題があろうかと思いますがそこロア杯のお話をお願いできればと思いますはいあの先ほども申しましたがえ日本書紀区分論で言うとベーター軍にあたる牧野22推古紀ですねここに憲法十七条の全文がのせられているわけですえこれはですね昔影響と大学の吉川幸次郎先生が文体的にも文法的にも立派なかむんだとおっしゃったんですけれどもそんなことはないと間違いであるわけです私はあの皮肉ではないんですけど17項目はシュート間違いを指摘しました例えばですねこれ第7条ですねことに大小なく人を得て必ず治らん大将大きいの反対は少ないじゃないですね小さいですねこれ間違いですねそのぜひ国家と甲子園にして社食危うからずこの中でという子これは禁止ですここは危うからずということですから正しくは風ですね政府の風ですねないっそれが正間違いですでそれから3番感のために1求め人のために感を求めずこれは不という子あの青色に入ってますけどこれは語順の間違いです人のために感を求めてはならないんだということで風はこのこの点の次ですね人のためにのための前に来なければなりません中国語にならん恐れはこれ日本語の語順に惹かれてこういう間違いを犯したんだと思います実はこのまあ今あの第7条の間違いだけを取り上げましたけれどもこういった間違いは憲法17条の間違いはですねことごとくですねえ十七条憲法が載せられている牧野22推古紀の地濃分にも同じ町田やゲームもやる牧野イールにだけじゃなくてbeta 群すべてに共通する間違いです例えばこの白抜きにしましたえものですねすなわちいささか愛知姿勢磯酒キウォンになりたいっこれは小さい号ということですから多い少ないの少ないじゃなくて大小のショーでなければならない二番穂省に至りってこれを見るとに片目うめし処動かずこの方数ですから付でなければならぬ動くこと中でですねこれ間違いですこの上の2番と同じ間違いですから3番5人の間違いですけれどもちんがために陵を起こしてアズ9葬ることなかれこれはですねあの敦子葬るのところにかかるんではなくて一番最初に持ってこないとダメですね自分は私のために召さ詐欺を立てて作ってというその前に一番最長こなければならない上野さんと同じ前てないですということで私は現在日本書紀に全文が書かれている憲法17条というのはこの beta 群を欠いた先述した人物私はこれは山田信人味方という人じゃないかと思っていますこの人は後おっ祖先が朝鮮半島からやってきてで自身も若い時に百済くだらない修羅気に入って犬種慶州ですねそこで仏教を学んでいますで帰って来て還俗して大学の先生に習いましたそしたらもう一つですねー今は私はこれはあのやまのぶひトみて the 納付で奪還が書いたんだろうと言いましたけれども原型がある可能性までは否定していませんそこでですねもう一つ聖徳太子が川塾し戦術したという三経義疏ですねこれはですね一時あの中国占術せというのがあの主流でしたけれども今や完全にクズ愛されましたそれを大占術説を唱えているのが石井構成しですこの人はあの対象増強のコンピューターによる検索しても立ち上げた一人です大変あのそういうコンピュータの操作に優れています私と4年ほど一緒に共同研究行ったことがありますこのおいしいさんの聖徳太子実像と伝説の間これ2014年のものですそれからこれブログですね聖徳太子研究の最前線この大変面白いブログですから是非ご覧くださいで石井さんはですね三経義疏にのみ共通する国がかなりあるんだと他の他のの教典には一切出てこない子の差三者にノン共通するものが出てくるさあさらにですねは集ですね日本語と日本人の歯日本語の発想に基づく間違いこれもかなりあ例えばですね勝鬘経紀頌でで空中に有りと雖もとそのあり宮中にありですからにあるとを作る時は存在の際なんですが正ところが運のあの夫婦ですねいうですねいを支えているこの間違いも日本食の米ザーグに集中します共通のものですねところがあの日本食器の beta 群が出てこない性格のは州のたくさんあるんですねで文章が誰々と長いネオの一つ作っそういうことですね17条憲法ともワシの成果が異なるそれからだ石井さんは仏教学者でへこの内容にも触れられたんですね内容は量の上述しええの注釈に基づいてそれをたねほんとしてそれから対しの考えを買って加えておそらくこれはあの産業偽証は今残っているものはですねあの公共あの号酌をされてますからその時の走行分ではないかて控えではないかと考えられていますでその憲法の第1場ですねさっき先ほどはの古谷館長様がお花気にならなくなりましたけど十七条憲法の第1条和をもって尊しとなし坂得ることなきを胸とせよとこの坂得ることな家という言葉これはですね実は量のaまあ無教会で中心を占めていた成実論をの掲げる成実4系統のそうにったちが尊崇した徳目であるというねでこういったところから見ると憲法はもともと原型がですね飛鳥時代にあってでその内容もですねあの成実4系統の少し古いやや古いえ考え方に近いと言うそこで私の現在の考え方は飛鳥時代に原型があってそれを巻きのに住民の推古紀の実作者が殉職醜聞したそれが今日本食にある憲法だと考えますそれからですねまぁついでに言いますとその次ご覧くださこのお城遂行天皇の時代うわですねまああの画期的な時代だと思いますまず仏教による統治を行うででそれでまあここ斑鳩宮と怒る怒る斑鳩寺を立ててそして斑鳩に移られでこのロールモデルはですね量の菩薩天使と言われていた梁の武帝それからその皇太子である照明対しこれがロールモデルであったんではないかと考えられますまあこの2人ともですね仏教を尊崇して自分でですね仏典の講釈をしたとで隋の文帝なんかもあのやはりですね人であの経典の講釈をしていますだからこの頃はですねあのやっぱり仏教が違い4アジアのスタンダード文化のスタンダードだったんでそれであのそこにまあ正続の原因じゃなくってですね仏法仏教を権威としてそしてあの奥に収めようでこのあの文化の受容はですね了それか楽だなそして明日かという風に伝わってきたと言われています会まず産業偽証の最後のものいう間競技そでぃ所ですけれどもここにシャン品上部仏土を月経総省というのがあります上は仏道お披露目したは総称を消すというんですかねでこれはですね種本は量の方海野まぁコレ上述地ですけれども法華聞きというた日本があってここに書かれてあること上宮仏堂芸採取場とでさらにその直ぐ後にですね下は総称を救うというのも出てきていますこれ全部この中あの同じのが出てきますねそれからこれをですね今度は百済ですね衣玖さんのミルクしたというのがあるんですねここで10年ほど前にへ近世のシャリー方暗記というのが出てきました百数十児良いでしたかねそこにですね上はせ商法お披露目したは総称を消すというのが出てきていますだからこういうことを考えればこの対しのですね維摩経紀頌はこの量それから百済そして飛鳥へとこういうルートで伝わってきたと思われますさらにですね画期的な時代だというのはこれは天文観測が行われたこれはあの国立天文台の先生たちが私の r 分ベーター軍の考え方を取り入れて調べたところですね日食や月食や火星の延平記録はですね beta 群のものはこれは観測技術に基づいたということをコンピュータではじき出していっそれでですね推古朝と天武朝には実際に天文観測が行われていたということがわかってきたんですねこれ何のために天文観測するかというと暦を作るんですねだから中国から今までもらっていたオレ天使が加わるわけですけれども自前の譜読みを作ろうとしたんではないかしかもそれだけじゃなくて歴史を編纂しています馬語と共にですね天皇紀国旗などを6していますでこういうふうにれ基本暦をつくったりれ基礎をつくろうということはですねやはり水や高句麗にも劣らない独立した国家を目指したのではないかと思われますありがとうございましたすー越冬店舗十七条上日本的なその間分の使い方ながあるのでということを大きくとコレ自作席ずに立ってる花かてる勘違いする方もいらっしゃるかもしれませんがそういうことではなくて今先生自らおっしゃいましたけれども基本的なものはを飛鳥時代にあってですねそれに殉職が加わったものが今日本食に乗っている店舗中市場だということで先生モリモリさんと一緒に研究をされたというのは話名前も出ましたけども石貴実哉先生の著作を読みましても多少手直しした箇所があったとしても基本は推古朝のものとも言われる憲法には君というのみで天皇の子を使っていないことを見ても神話によって天皇を間につけようとしていた律令制の字金の策とは考えにくいのではなかろうかというふうなことを書いておられましてで共同研究でも基本的な認識が位置しているということでよろしいんですねいわかりましたとういうことでございますそこでですねあの話がまた中世に戻りますけれども中洲本フマナ等で発生しましたあのショート管進行というのが中世にはまあ全国的に広まっていくわけでありますけれどもそこの過程と言いますかどういう状況であったのかということをしやすさはのお願いしますはいじゃあよろしいでしょうかお願いします先ほど最初にお話したようにまあ中世の新聖徳太子信仰というのは真言律宗がその中心を担ったまあ法隆寺さん四天王寺さんをはじめ太子ゆかりの寺に深く入り込んでいったという話をしたかと思うんですがその交響曲集というのは中世に全国展開したということが知られておりますそれに伴って実は太子信仰というのも全国に展開しておきますいきますで最も象徴的なものとしてまず西国西に目を向けますとまぁ実は瀬戸内から9週にかけて信号に集いが広まってたくさんの監視像を作っているんですが最も象徴的なものの一つとしてこの広島の浄土寺が在ります尾道ですねを飲み聞かれた方はわかると思うんですが瀬戸内の水量が一番狭まる交通の要衝をなんですが平安時代以来からのまあ歳なんですねひとつの街になりますそこの拠点である浄土寺にですねこの下にも開きましたように鎌倉時代の後半この a 村の弟子の上昇という人が降って言ってもともと浄土寺という名前のこの上同種の寺尾ですね真言律宗の寺としますでそのときに実はですねまあその本来の本尊の阿弥陀如来に変えて奈良の長谷寺の十一面観音に見立てた官能を安置するんですが今でもそれが本尊なんですがなぜかその十一面観音がですね聖徳太子御作の像だいう伝承を一緒に持って来まして次々とこういうふうにですねにサイゾー教養ぞ殺生ぞと聖徳太子像3体も作っているまさにこの西の聖徳太子信仰のメッカとしてこの浄土寺というのを整備していくまあ一番高象徴的な1つのキャラかなと思いますで次お願いします次にですねこれはのご存知の浴衣いるかどうかなんですが実は今どの大遠忌の展覧会位でもですね結構茨城県のその聖徳太子像の名作というのが展示されるかと思うんですが実はなぜか茨城県この東に目を転じて茨城県にこういったですねこれ茨城の水戸の前十字というお寺の僧なんですがこういった素晴らしいですね中世にさかのぼるう太子像とかそれからエデンがたくさん伝来しているんです集中的に伝来していますこれはですね実は何もこの子いわゆる浄土真宗のお寺が多いので実は茨城という人たちの国というのは親鸞が流されたところなのでまあそういった親鸞ゆかりの浄土真宗の左官が幸あれを物語るんだろうというふうに言われていたんですが残念ながらこういったを増親鸞が常陸の国に行った時代まで遡るもの一つもないんですそこで最近分かってきたことが次ですはいお願いします実はこの人たちの国というのはですね井原件なんですが親鸞と入れ替わるように鎌倉時代中期になりますと先ほどお話した a 村の弟子のこの認証が降って言って東北の拠点にした場所だということが知られておりますデジはですねどうもこの認証という人は本場のなんと仕込みのですね大侵攻でのやはりこの東北に持っていったらしくて実はこちらに如意輪観音があります如意輪観音というのは先ほど来を話しているように対しの本地仏なんですがこういったものを造像したりあとは最近茨城県の寺からですねもともと心理種立秋の伝承を持つお寺から古い時代の紅葉太子像が見つかったりとかしているどうも実はこれはですねええっまでなぜ茨城の多いかっていうふうに言われていたのはどうもこの真言 riche認証の下校に伴う勢力拡大によって実はどうもこのした医師が本場のなんと仕込みのものが展開していったんだろうということが知られております相次ぎお願いしますで実は頬全体結論から言いますと中世の大侵攻というのはどうしても今現在我々が目にする宗派というのは浄土真宗が多いのでシナー所になったんだというふうにもちろん親鸞自身も浄土真宗の中の教えの中で大侵攻というのはあるんですが実は全国に展開しているこの聖徳太子つの作例というのを細かく追っていきますともともと浄土宗の浄土真宗のお寺にあっても伝来がさかのぼらないものって多いんですねそれどころか伝来をさかのぼっていくと実は九州とかあ愛知県などで見つかっているんですがもともと新 wish の寺にあったものは浄土真宗の寺に移っていったっていうことがわかっている判明しているというものがありますそれからこの実習ですねやはり浄土系の刺繍派ですけども一遍上人ゆかりの実習ゆかりのを増というふうに言っているものも実はどうも新法律から影響を受けているということがわかっておりますですで中世の大侵攻というのはこの実際ビジュアルとして形にしていくのはどうもこの真言律宗であったということが判明しているまあそうするとですね中世の聖徳太子信仰の伝承先ほど剣心の話を武田先生がおっしゃいましたけれども実はその献身という人はええ村とも晩年交流があってで実は検診を通じて演奏んって人は青龍寺に入ってるまぁまさに調子までゆかりのを像を荘厳して修理したりというふうなことが知られておりますのでこの中性耐震高の泥症というのは死後に主が大きく関与していたんじゃないかということが考えられるそれがですねひとつ象徴的な上空菩薩秘伝というのがあるですねこれ何かというと新 want you のその相乗をですねこれ聖徳太子から受けていったんだというようなこういった本というか商業というのも整備されていくということが知られておりますでちょっと続けて言っちゃいましょうかねはい実はこの章特待生田中姓にたくさん書かれるんですが茨城県の妙安寺というところにこの中性に遡る実は大変な美麗なしょう特待生でんがあります先ほど黒駒のところなんですが次お願いします実はこの大成殿象徴的なところとしてこういった四天王像四天王寺造営の時に大工が事細かく書かれたりとかはい次お願いします品が量のですね造影の時にこの石工がなぜかこれ石工が登場するってほとんどないんですよ大勢ベンド大成殿1区が登場してええええこういろいろ造作をする大工石工が登場するというエデンが作られるようになります実はまさにこの大工や石工といったこういった職人たちを統率したのが真言律宗だということが知られておりますので実はこういう体制でンっていうのもそういう真言律宗の影響下で作られたものが結構あるんじゃないかというのが最近わかってきております一応ですはいどうもありがとうございます症状対し進行が講習民の間まで広がっていった過程についてのお話いただきまして信号に主の影響が大きかったということでありますもう一つあの聖徳太子シンクと言いますと女性の間でどのようなあの聖徳太子信仰があったのかというようなことも関心のあるところではありますがその辺武田さんいかがでしょうかあの通り一遍の話なんですけどあの大使があの書いたとされる法華義疏ンっていうのは唯一あの仏教経典の中で女人往生を可能にする経典でありましてでこれを大使は615年に推古天皇に抗議したというふうながありますでえっとこの部分ですすべての衆生があ往生する可能性を説いているこのホッケー偽証をですね花山志ん生師がずいぶん昔にですね慈悲対しの自筆分と認めておられるわけですねでまぁ法華経は非常に女性たちの間に家の女性たちに運の間にも非常にルーフ信仰を集めまして農協というのはそのまあほけきょでへのが農協されるまあ平家納経なんかもそうなんですけれどもそういう傾向がございますそして推古天皇は村の勝鬘経と法華経を大勢が高じた後に播磨のすぎてん百町対しにそのあげたんだという風な記録もありますし小満木ションの方は遊馬を小満夫人というのはそのまああの主人公のショーマン夫人というのはザイ族の女性でありまして非常には私はあの思いますに対しというのはその女性救済ということをちゃんとその仏教のはじめのはじめから考えておられたんだなというふうなことを思ったんですねであの例えばですねそれであのまあ女性たちに今非常に信仰の要因に集められる公務工業皇后とそれから高見店の阿部の交代しですけれどもそれから橘夫人も法隆寺に相当の神っていうかをしておられますしまあ仏教の中でもですねまぁ非常にあの女人救済ということを2死徒のシェアを置いた収納経典を流布させようとしてはこれはもう本当に対しての見識じゃないかと思いますけれどもいいですかありがとうございますシェアさんさっきあの聖徳太子絵伝のことについてももう少しお話いただけましたけれどもあのエデンを使って前へ突起をするというふうなことがお寺の中でですねどのような高効果を持ってこうやってくださったんと言いますかその辺の高歴史みたいなのについてはいかがでしょうか表示しました8ちょっとスライドお願いしますそれで今女性等の話がちょっと出たんですが次お願いしますはい実は最近渡ったことなんですがこの聖徳太子2歳ぞナム仏大使なんですが高榮田にも超書かれますで実はこの難物太子像の際この像というのがあります次お願いします実はですね最古の像っていうのが今ハーバード大学アメリカにあるんですが実はそのを増の像内納入品といってをぞの中に入っている経典を読み解きましたら実は最古のに歳三というのが映像んゆかりの尼僧たちによって造立されているということがこれ本当にここ数10年の研究で分かりましたで目を転じてみますとおっけーじまさん皆さんよポーズに大和のホッケー子というところには2体伝来していてそれから中宮寺道明寺東明寺とかこれは何ですか京都の変死へー小新大通寺というまあ尼寺何も更新理趣ゆかりの寺にはにサイゾー女性たちによってにサイズをが祀られていたということが知られておりますちょっとも戻ってくださいもどって一つ持ってくださいやっぱりですねこのこういうかわいいお姿子供を連想させる姿というのはそういう尼僧たちの信仰を集めたんじゃないのかなというふうに思われますで次にあの先ほどお話したように森さんからを話し合ってその通りに演技が語られたかっていうお話なんですがちょっとひとつ戻してくださいはいそこで止めてくださいで今ちょっと一度お見せした衣デーなんですがa 真言律宗でもこのエデンというのがまあ飛行竜児やa四天王寺とともにですねまぁ京都のおそらく先ほど話した東山太子堂だが中心になって田製作をしたという風にまぁ最近の説ではあるんですけれども実はこの親鸞聖人というのは本土は絵画ではなくてこう声を出して語るいわゆるはさんと言ってこれは今でも上どうし演習ご存知の方もいると思うんですが聖徳太子あの婆さんということでこの今でも浄土真宗のこのなんでしょ信仰の中心になっていると思うねおそらくそれは a を見たりとかしながらこう語ったりもするものだったかもしれないんですが実はそのはさんがこの診断が編纂した時期というのはまさに叡尊認証が深く四天王寺と法隆寺に入ってた時期なんですねもうおそらくこの診断晩年の親鸞はそういった真言律宗側の大変な大神幸流星に対して自らの著作を残さなくちゃいけなくなったではさんというものを編纂したんだろうというふうなことがわかってきておりますありがとうございますそれでですねあのは村ここで歌って聴かせられないからと思ったんですけれども三方にお伺いしたら場とそれは私の製品とするところではないというお話ですが森さんはあの日本書紀の研究などでですね古代ではどのようにどのようにその買い替えようとが歌唱していたかというようなことについて幅員ができるというお話でそこであの章高い耐静電にもあると思いますけれどもあの聖徳太子が片岡つ山に出かけて行っていき大吾の人にあのう着物をかけてあげたらですねまた後日着物は残っていただけでもその人は消えていたという有名なまぁ伝承があるんですけれどもそれにちなむですね歌謡をなら大丈夫だということでしたのでせひごでかなお願いできればと思いますはいかしこまりましたえっと先ほど日本書紀幾分論のお話をしましたアルファ軍というのは当時の日本語を忠実にですね当時の中国語で音訳してうつしているということですねそれで一番最初にあの岩崎品の写真を示しました時に焦点赤い丸が各自の左裾とか左肩に赤い丸がついてまいりところ商店と言いますであるは軍はですねー音の数の少ない日本語を友和のおいっ中国語によって直接を写したものですでこれによってですね当時の上代の日本語の押印を復元することができるようになりましたそれとですねまたあの商店がこれ10世紀の日本語のアクセントなんですけれどもこれが中国語のアクセントと合致することからですねアクセントまで完全に移し分けようとしている歌があるとその一致率はアルファ軍の方が beta 群よりもはるかに多いとますいうことも分かってきましたそこでですねこの子の中で先ほどのハロがロリーの歌もう一度呼びますと一番下ですけれどもこのアッカーは赤で示したのはあの低い音ですで青が高い音ですそれが紫は下がろうとでてい当時のん大松こうなりますパロパロ22個と象気功ゆるチーマーのやうばーらーこれはの1回しかしないかと思いますえっであのうです今度あの日本書紀に残された消毒剤時の唯一の歌を詠まれた歌があります先ほどあのご紹介のあった方をが山の授業の末期腎雪はというものですねシノアてる方岡山に良いに植えて来痩せるその他ぴとああはれた人哀れ親な家になれなリケ女やさせた家のキミ早なきいいに得て来痩せるその他一泡れているんですね家庭岡山でをなくてい食人に植えてで伏せっているその練った人これ今納付と言われていますのああ親がなくて自分お前ができたのではないだろうこの使える4君もなくe 2へ食人に植えて二設定るその他1アートこういった内容ですねここであのこれあの岩崎文の牧野22にも焦点が乗っていますそれを少しあのちょっと間違いがありあるようなので一部訂正してありますで当時の音で復元って言います本当はお酒が入るとリズムをつけて言うんですけれどえっちょっとそれは控えます5ですちなでる方を香山にep に植えて小屋ジェブゾーンのたーーーー t と暴れ大谷なちんになれなりいけめーや茶数だけの君ぱやなキーep に植えておやジェルぞ no たーーーーぴーとあああれ交流になりますを済ませたんですありがとうございましたすべてデー今日はの聖徳太子真空の成立から医大をたつにつれてどのように広がっていったらどういう層に広がっていったかというようなお話をまあ限られた時間でありますけれどもご参加たから効果がしまして最後は当時の歌はこのように呼ばれていたのではないかというのをモリ先生にお願いをいたしましたでそこでもう時間がありませんので聖徳太子がまあ時代を映す鏡と言いますかその以来際の主張なりせそうなに合わせていろんな消毒 the 太子堂が描かれてきたと言われておりますけれども今後どのような形で聖徳太子伝えていけばいいのかと言いますか聖徳太子信仰は同園に展開していくのだろうかと言いますかまぁその辺はあのそれぞれのご関心で結構ですのでご参加たりですねええそのへんのことを最後に一言ずつお話いただきいたいと思いますまず者武田さんからお願いしましょうあの私がその太子像のことを書いたのは随分前だったんですけれどもこの度この講演会に呼んでいた額に当たりましていろんな方のですね大侵攻のまあ集大成みたいなエッセンスみたいなものを山していただいたんですねしたらものすごく太子信仰聖徳太子研究っていうのを進んでいるなって思いましてで例えばあの疾病道昭和の初期には津田私学という一世風靡した津田左右吉の学説がありましてもともかく日本書紀は純代できないとかそういうふうなあの論法でずっと7あらゆることはダメなんだそれから法華義疏についても二次会風情だあきらさんでしたっけあの全然あれはん中国の小野路露店で売ってるようなもんだっパとかまあいろんな説があるんですけれども近頃本当に日本書紀を読み込んでそれからこう拾い出していこうという風な研究が吉村武彦さんとかそれから東野治之さんとかそれから新鬼神カー東京さんなんかもすごく丹念なお仕事を積み重ねておられまして私またまたこれは聖徳太子やりたいなと思うようになりましたじゃあモリ先生お願いいたしますエアの私は今日あのお話すべきことは大体あの申し上げることができましたが1つですねー今リッチの日本史の教科書で聖徳太子と岩沼屋道で格好して聖徳第1区のマヤどうなんかいませんそんな名前出てこないです古代中世には出てこないです金生になって初めて贅沢くるぐらいですだからなぜいまだに摩耶堂と文科省はですねそういう教科書を認めているのこれはあの遂行大きいにはいろんな名前でできますそこでたとえば東宮聖徳というのが出てきます東宮というのは皇太子のことですが上宮太子というも出ていでそれからまあ他にもタッチ10種類ぐらい出てくるんですけどね馬や道は出てきませんだからこれはですね問会社法の認めている教科書として馬やどう思っているのはおかしいんじゃないかと思う次第です聖徳太子て問題ありませんでこの時代ある超特大日だけじゃなくてこの時の水好調というのは大変な画期的な時代だと思います国際的な文明のスタンダードを求めて仏教による統治を行おうとしたで暦を作り歴史を作りでぜひとも交流しということですねだからもう一度あのこの聖徳太子と水区長を見直す時に差し掛かってきたそういうふうに思っていますありがとうございます安屋さんお願いしますえ今日は主にキーいただきましてありがとうございます8実はですねちょっとお話を取ったことを先にですね少しあの森先生モリ判事ちょっと言われてしまったところがあるんですが本当に8ちょっと教科書の記述をかシーンで実は歴史的には生まれてもらってないまああのそれさえ明らかだって言っておりますしまああのをざっくばらんに申し上げますと本当にこういうれ機能を好きな方だとえっと聖徳太子なっていなかったのでしょうみたいなことを言う人もいるんですがまあそういった議論があるなかであの聖徳太子信仰聖徳太子のこの変な咳が区であった最近お亡くなりになったですね8石田氏佐藤先生という大変東京の上野の国立博物館にいらっしゃったら偉い先生がいるんですがその日大先生がですね名言を言われているんですねそのそういう聖徳太子にいろんな議論になったときに君聖徳太子は聖徳太子だよっていうふうに名言を言われているつまりですね聖徳太子っていうのはやはりですねその時代まあ生きてらっしゃる頃もなくなった曲も8ですね色んなこの当時の中での進行として日本の仏教の素子として授業されてきた信仰されてきたですので我々研究者はそれがどのようにまあおそらくですね信仰されてきたのかっていうのを明らかにするっていうのがまた先々のですね聖徳太子信仰にもつながっていくのではないのかなというふうに思っているしたいです8研究がどんどん進んでいっている中で今後さらにまだ研究しなきゃいけないこともあるしどのようにあの学校教育の中で聖徳太子て教えていくのかというふうなことに関してもまあ課題になっているのではないかというのはお話しておりましたで今日を聞きに来ていらっしゃる風味なさあの子の子さん方にもっといろんなことを聞きたいのは私はこの質問があるんだけどというようなことが終わりでしょうが時間の関係もあってそうした質問をほぐしつけることができませんのでその辺はまぁあの残念でしたなというか申し訳ありませんということであの心当たりディスカッションは終わりたいと思います道はあの3人の先生方が等も今日はありがとうございました皆様ありがとうございましたそれぞれご専門の立場から貴重なお話をお聞かせ頂きました皆様の聖徳太子あるいは聖徳太子信仰その研究に対する熱い音吹いが伝わってくるようなそんなお話でございましただけではパネリストの皆様方にご退場いただきますだけら先生モリ先生津谷さんそしてコーディネーターを務めていただきました毛利さんありがとうございましたどうぞもう一度大きな拍手を送りくださいます皆様ありがとうございました