なぜ現代の「いのち」は孤独なのか、

■なぜ現代の「いのち」は孤独なのか、

われわれは何と結ばれて生命を存在させているのか。

 今を生きる私たちの、心の糧となるような活動を目指して始まった、ハヤチネンダの<いのち>の在り処をめぐる旅は、2周年を迎えて、いよいよ内山さんを迎えます。日本人がこれまで<いのち>をどのように捉えてきたのか、一神教も多神教も、仏教も神道も、まずは思い込みを外して、耳を傾けてみてください。私たちのご先祖様が受け入れ、親しんできた思想は、そうだったのか!と新鮮な驚きと学びがあります。本当に興味深い!

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■録音5分 

 というそういう考え方を、これはどうも世界中持っていたらしいっていいますか、だから、本体は霊であるっていう考え方。もちろん心っていうのは、何か記録が残ってるわけじゃないですから。よくわかんないんですけれども、おそらく日本のずっと昔の人たちっていいますか、同じような感覚を持っていたんだろうという。もしかしたら日本の場合、独自性があって、それは霊的なものがいろんなものを作っている。同じような考え方を持った地域ってのもあると思われるんですけど、日本独特のものとしても、あと生き物ではないもの、例えば山とか岩とか水とか川とか月とかです。そういうものにも霊があってそれがあの霊が本質なんだっていう。だからこの世界ってのは、全て霊的な本質がある。新しいその霊的なものってのは目に見えないものなんで、それがいろんな現象を作り出すっていいますか、そこに岩とか山とかいうものもあるし、それから自然界の生き物たちの世界もあるしですね。人間もいるしっていう、そういうふうな自然と人間の平等感っていうか、そういう世界観を作ってきたっていうのは、おそらく日本の特徴としてあるということなんですね。

 古代に仏教が入ってきて、インドから来た仏教ってのは、すべての生き物は成仏するんだっていう。ただインドの全ての生き物の中には草木が入らないんだよね。だから動く生き物までだから動物・鳥・虫まで。でそこまでのものは全て、最終的には成仏して仏になるんだっていう考え方がインドにあって、それをここ日本に中国系で入ってくるわけですけど、そうすると日本の考え方に合わないんですね。そのために、一説によると、最澄が手直ししたっていう、天台宗を開いた最澄。ただあの違うっていう説もあるんだよ。ですけど通説では、最澄が手直ししたっていうので、そこではどうなったかっていうと、草・木を含めた全ての生き物も、それから岩とか土とかね。川とかいうそういう無生物の世界にも、すべてが仏になるっていう、そういう文章に日本で書き直されるっていう。この辺りは日本の世界観がある。霊的世界の書き方っていうのが、そういうもんだったってことだと思うんですね。そうするともう人間たちっていうのは、生きてく上で、いろんなコミュニケーションを取りながら生きていくわけですけども、そのコミュニケーションっていうのは、言語を使ったある意味では知的なコミュニケーションという。でそれも多分あるっていうんです。だけども、もう一つあの体を使った身体的なコミュニケーションといいますか、それも当然ながらあるんだけど、もう一つ、その霊的なものをお互いに感じ合いながらいくコミュニケーションっていう

 でそれがあると当然のようにかつての人たちは思っていた。それが現代社会になってくると、霊的コミュニケーション等でも呼ぶべきものがだんだん消えていったっていうか、そういうものを無視するようになったって言ってもいいしですね。あるいはそういうものを、存在しないものにしてしまったっていう。ことかもしれないっていいますか、今コロナの問題でもそうなんですけど、世界の7不思議の一つになりつつあるけれども、秋になったら日本でコロナ感染者がシュート減ってきたっていうようなであの一体何で減っちゃったのかっていうのが、これ今んとこ全然わかんないっていう。

 多分わかんなくしてる理由っていうのは、あの子、高麗があの石を全然考えてないっていう。人間側の意思だけ考えていて、その結果人間側の意思としてもワクチン打つとか、マスクをするとかいろんなことあるわけだけれども、それだけで、何の能力もないコロナウイルスという、それをどう抑え込むかっていうが、もう完璧な人間都合の話をしてるわけですね。だけどあの頃の側にも何か一緒はないのですね何にとっての理想的な世界像とかそこの子この名越のウイルス同士のコミュニケーションだから、そういうのないんですかっていうですね、そこに思いがいかないっていうことだよね。そうすると全く理解できなくなっちゃうんだけど、おそらくそんなことはなくて、ウイルスはウイルスをしてコミュニケーションしてるし、それから彼らとしてのある種理想的な世界の構築ってのを考えているわけで、ただしその考えてるっていう、そこは人間と全然違うのは、その言語を使った知的コミュニケーションとか、知的に考えるとかはそれは多分してないでしょう。それ心配的ってのはどうかわかりませんけども、後さっき言った言葉を使うならば、霊的コミュニケーションとか霊的能力に近いですね。つまり人間からよくわからない。そういう回路を使って何か意思を表明したり、意志を作ったり、あるいは繋がりであったりですね、そういうことをしてるはずなんで、そのことに対して、全く専門家が思いを寄せないっていうんですか。ですとわからないっていうことになっちゃうわけですけど、このあたりも、現代人にとってみるとわかんなくさせてしまったという言い方もできるんだろうって気がします。ただ元々の人間たちってのはそ、この世界の大元にあるものは、様々な霊的世界であるみたいなんです。そういうことを使ってコミュニケーションも取れるしですね、わかり合うこともできるしっていうそういう式の発想を、昔の人たちは思っていた。結局今の時代になっちゃいますと全てエビデンス修理で証明できますかって話になっちゃうんですね。そうすると霊的なんていう話は証明のしようがないんです。そうすると科学的思考からは否定されるということになっていくわけですけども、その辺の持ってる、逆に限界がコロナで出てきたんじゃないかっていう。そういう気もしたりします。その前の霊的なものがあるんだって考えていた。人間たちです。にとってみると、その霊的世界がそれが姿を現してくるものを一つの形として神があるという。そういう、あの神感覚を持ってるってことですね。だから山にも霊的世界も霊的なものがあって、その山の霊力みたいなものが姿を現す。意志と妻の山の形になるんですけど、それがもう一つの形としては、山の神を中心とした、そういう神の世界として姿を現す。あるいは水が流れを出てくる世界。それは湧水の世界という形にもなるけれども、この別の形をとるときには、水神の世界。であって、だからここにまた神が発生してくるっていう、そういうふうに霊的世界があの姿を出したときに、それが紙という、そういう元々の紙管ていいますか、というものがあったんだろうって気がします。日本の神ってのはよくやおよろずの神っていう言い方するんですけども、必ずしも正しくないですね、日本の神って、2系統の神がいるんですね。で、それ一つをあの国

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■録音5分 

 てるわけですけど、だからあの降り立ってみたらば、そこに国神だという。で自分たちは天津神っていう、そういう書き方してるんで、あの天孫降臨神話ってのは渡来人神話だと思っていいんだよね朝鮮半島の方から来た人たちが日本列島に入ってきたっていう。でそれを、あの天から降りてきたっていう話にしてあるっていうことなんで、そのときに、元先住民族か日本にいたっていうことなんですけど、とその先住民族にあたるのが国津神、渡来人が天津神に行っている。で天津神は一種、人格神なんですよね。つまり、天照大神とか、須佐之男命とかですね。これは天皇家の先祖にあたる人たちっていう天皇家側の神。っていうのはそういうふうに人格神として、存在していくっていいますか、それに対してあの国津神側の世界は、古事記とか日本酒区は天皇家側は作った。神話ですから、だからここに深見側も起こし、人格神のように書いてあるっていうかですけど、実際には人格神じゃなくてさ、結局自然の神そのものが開ける。だから自然の神と共に生きてる人たちっていうそういうことなんでとその自然の神っていうのは、この人々がだからそういう自然の世界の中にいろんな神々がいるというふうに思ったということでもあるし、その自然の中の神っていうのは自然の持ってる霊力。霊的なものが神の姿をとって現れるっていうふうに思っていたってことだよね。

 自然の神っていうのもいっぱいいるんですけど、実は中身は全部一緒なんですよね。なんだろう全て自然に行き着いてしまうわけですね。だから実際あの山の神信仰なんかですと、あの山の神が姿を変えて水準になって、だから山の神と水神は一緒という考え方が広くありますし、さらにあの春になると田植えの季節。山から下りてきて他の神になってね、稲刈りが終わるまでと半分守ってくれるという事実もありがたい話になってくるわけですけど、

 そうすると山の神と水の神と田の神は一緒っていう。これはまさに昔の百姓たちの生きる世界の基本軸なわけです。つまり山があってそっから水が湧いてきて、そこに下に田んぼを作ってね。だからあのその世界を守っている上、いうのは、ときに山の神だったり、ときに水神で、あるときに田の神なんだけど、実はこの3体は同じ神っていう捉え方っていうんすか。だからそう、そうなってきます。自然の理論の中からいろんな神を描き出すけれども、その神の本当の本体は何ですかっていうと、自然そのものなんです。

 ですからあの日本ってのはそういう意味では、あの国津神系の話になっちゃうんです。神なんだけど、田神は現れてくるって方が違うだけで中身一緒なんですよねっていうですが、しかもあの山の上と同じように、な霊力の世界が本を本体として、動植物の世界がありですね、人間も本来すると同じ、そうすると、全てがその人間を作ってる霊力もそれから動物を作ってる冷蔵庫です。あるいは滝とか山とかを作ってるんで力も全部自然と有力なんで、そうすると、これ足しんじゃなくて1品ですね。

 だから日本の場合には、本当に家臣を形成するのは天津神系なんで、天皇家の関係ですね。これは例えば天照大神と須佐之男命が一緒ってことありえないんで、だから違う人格を持ってるっていうふうに言ってもいいんです。ところが土着的な神ってのはいろんな姿をとるけれども、大本霊的世界の根源に戻っていけばですね、実は同じですという。

 そういう捉え方をしていくってことです。で後に古代に仏教入ってきますと、あの仏教の中の言葉なんだけど、一即多っていうのがあって、1即多ですね。これ一即多は同じですという言い方なんですけどね。だからこれあの、仏教の方がその言葉を使ったのは、仏教の仏ってのもたくさんいるわけでそれは例えば台にしないとかみたいに言わないとか、いろんなニーズをあげるとだから争点だったのを挙げる。だけど仏ってのは、真理をつかんだ人、真理をつかむっていうのが悟りを開くってこともあるわけですけど、そうすると悟りを開いて心理をつかんだ人たちってのは、中身一緒なんですね。だから阿弥陀様が観音がいようがですね、実は中身は同じっていう、だから1と多は同じだけど、我々の前に姿を現してくるときには、単なるけど、だから1外は同じっていう、そういう考え方が仏教等に入ってくるんだけども、日本の神々の世界ってのは、まさに1即多の世界を作っていたというふうに思えば良いってことですね。

 これあの人間観に当てはまるんですけども、僕ら今例えば私っていう人間は、私だけですみたいな感じの、そういう感じになるんですけど、実はあの昔の発想で言うと

 あの私を作ってるのは、霊的な力でその霊的な力が姿を現すときには、あの場所場所によって姿が違うと考えてきたと。例えば家に帰ったときには、例えば夫という姿になると、子供の前では親という姿になるとか、だけどあの自分の親がまだ元気だったからさ、親の前に行くと自分は子供という姿になっていく。今だったらばあの会社に勤めたりすると、そこではあの会社員とかですね、そういう姿となって現れるし、それから地域活動とかNPO活動とかしてるときには、そういう姿になる。

 だから人間もまたいろんな現象を取っていろんな人間に何かの姿となってその場その場で現れてくる。だから実はなんですね。だけどその他のを作ってる大元は、自分の霊的なものだから、一番つまりここにも一即多の人間観ってのがあって、だから決して私という何も変わらない人間が、時には会社に来たときには家にいて、ときにもNPOをしてるっていう考え方ではないっていいますか、行った場所で変わってますっていうね。

 日本ってそういうふうな霊的なものが根源にあってしかもそこに生物ではない自然的世界は岩谷水の世界まで入るという、そういう考え方の中に古代に仏教が入ってくると、そうすっとここと融合しないと、仏教そのものが日本では浸透できないというつまりあの特殊な信仰として、少数者のものとして残るってことはできるかもしれませんけども、あの広く社会に浸透するってのやっぱりできないんで、

 だから日本の仏教ってのは、日本の自然信仰と融合を図るという形に成功して広がったってことだね。仏教って言葉を使うと、一応公式には500年代前半ぐらいに百済から日本に入ってきたっていう形になってるんですけど、すそれが本当に始まりだったかどうかよくわかんないですね。なぜかって言うとにあのころも日本って、渡来人がいっぱい来てるわけでね、渡来人たちってのは当然渡来する前の自分たちの信仰も持ってきてるはずなんですね。

 そうすると正式仏教ではないですかいえば民衆が背負ってきた仏教みたいなものがその頃には結構入ってきてるんじゃないですかっていう考え方はできるんですけど、その辺もはっきり断言する証拠はありませんという感じです。ただ言えることは、仏教が入ってくると、その頃民衆の方はお寺を作るんじゃなくて、山の入り口の森の中っていうか

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■録音2分 

 経典があったりします。この考え方って、多分昔の百姓的世界にはわかりやすかった。ていうのは、例えばここ今小さな虫が飛んでるとすると、とそのうち小さな虫が生きていくためには何が必要かっていうと、もしそれが小さな蝶々だとすればですね、食草になる草がいるわけですよね。でその食草になる草があるためには何が必要かっていう大地が必要で、水が必要で体を乗せて世界と風が吹いてる世界とかが必要なわけですよね。別にいうことは、気がついてみれば、全宇宙的存在があって初めてこの小さな虫が存在するという。

 だからその関係の中で全てのものは存在を許されてるっつってもいいですけど、という考え方っていうのは、百姓的世界には非常にわかりやすいっていうことでもあったんだろうと思うんです。

 ですから日本に広がることができたっていうふうに思っても良いっていいますか、そう。