植民地朝鮮に生きる


■植民地朝鮮に生きる

水野直樹由香酒井裕美勝村誠

▶︎ はじめに

 近代の日本と朝鮮との関係は、ひとことで言って日本による朝鮮侵略と植民地支配の歴史であり、他方では日本の侵略・支配に抵抗する朝鮮人のたたかい、さらには苛酷な時代を生きた朝鮮人の生活の歴史である。

景福吉勤政殿に掲げられた日章旗    (右は現在の勤政殿)

 この歴史を私たちはどのように理解し記憶するのか。これは決して過去の問題だけでなく現在の問題でもある。21世紀に入って、「韓流」が日本を席巻し、韓国においても日本の大衆文化が広く受け入れられているにもかかわらず、日本と韓国との間には歴史に由来するさまざまな問題が存在している。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間には国交すらなく、侵略と植民地支配の歴史はまったく清算されていない。

 韓国ドラマを楽しみながらも歴史を忘れてはならないということは、しばしば唱えられている。にもかかわらず、ともすれば歴史を忘れがちになったり、不都合な歴史から目を背けたりするのが、私たちの実情ではないだろうか。

 日本と朝鮮との歴史的関係を理解し認識するためには、文字で書かれた文献だけでなく、視覚を通じて実態を知ることのできる資料も大切である。文字による理解よりも視覚によって記憶に刻むことがいっそう重要といえるかもしれない。

 歴史を伝える視覚資料というと、すぐに思い浮かべるのが写真であろう。近代の日朝に関わる写真集は、すでに何冊も刊行されており、私たちが歴史認識を築いていくのに利用されている。

 これに対して、この図録が力点を置いているのはポスター、チラシ、絵ハガキなどの視覚資料である。これらの資料は、制作者の意図にもとづいてつくられたものであるため、‘‘事実’’を伝えるという点では写真に劣るかもしれない。しかし、その一方で、制作者の意図が深く関与していることを念頭に置きながらそれらを見ていけば、写真以上に‘‘真実’’を映し出すものとなる。ポスターやチラシ、絵ハガキなどは、歴史の深層に迫ると同時に、私たちの記憶に歴史の‘‘真実’’を刻むことを可能にしてくれるものなのである。

 朝鮮侵略、植民地支配とは何だったのかを問う時、虐殺、収奪の事実によって説明されることが多い。日本の朝鮮侵略・植民地支配は、まぎれもなく虐殺や収奪をともなうものであった。

 しかし、侵略と植民地支配がそれだけで説明できるわけではない。それと合わせて、日常生活や文化のレベルで侵略と支配がなされていたことも見落とされるべきではない。

 日本の植民地支配は、政治や経済などの面での支配・被支配の関係にとどまらず、日常生活の中にも支配・被支配の関係を持ちこむものであった。役人、警察官、教員、郵便局や金融組合の職員など多くの日本人が朝鮮半島に住むようになっただけでなく、朝鮮社会の末端にまで日本の商品や文化が流通するという状況の中で、支配者としての日本人、被支配者としての朝鮮人という秩序が築かれていたのである。

 この図録に収録された資料の多くは、日常生活や文化の面で侵略と植民地支配がどのように表れていたか、その下で朝鮮人はどのように生きたのかを感じとらせるものである。

 韓国併合に至る朝鮮侵略の歴史に関わる資料は、この図録ではそれほど多くない。この時期に関しては視覚資料が乏しいことが主な理由である。近代日本が戦った戦争(日清戦争、日露戦争)は、まさに朝鮮侵略の戦争そのものであった。日清・日露両戦争を描いた日本の錦絵などは、文明と正義を体現した日本が野蛮・不義の清国・ロシアを打ち負かすというイメージで描かれているが、朝鮮の王宮を占領する日本軍や公使はまさに文明・正義の化身であるかのようである。しかし、その一方で、農民軍や義兵を殺戟し閲妃(明成皇后)を虐殺した日本人の姿は、まったく描かれない。こうして、錦絵などを通じて日本人に流布されたイメージは、朝鮮侵略の実態を覆い隠すものであった。

 併合に際しては、神功皇后などの神話、秀吉の朝鮮「出兵」の歴史を持ち出して日本による朝鮮支配を正当化したが、そのような言説が多くの日本人に振りまかれていたことが、収録資料からもよくわかる。 植民地支配の時期には、朝鮮総督府・朝鮮軍・警察その他の統治機構が支配体制を固めた上で、1910年代の土地調査事業20年代の産米増殖計画30年代の農村振興運動、そして戦時期(日中戦争以後)の総動員体制という形で、朝鮮半島を軍事・経済の面で日本の国家目標に利用し動員した。そして、文化や教育なども植民地支配体制を維持・強化するために再編され利用された。このような植民地支配政策の展開過程を伝える数多くの資料が、この図録に収録されている。

 ところで、収録資料のほとんどは日本人・日本当局の手によって作成されたものである。朝鮮人側の資料としては、新聞、日記、そして抗日運動関係の資料があるくらいである。

 にもかかわらず、これらの資料は帝国主義の時代、植民地支配の時代を生きた朝鮮人の生活の実態を垣間見せてくれる1920・30年代の産米増殖計画や農村振興運動の中で朝鮮農民に求められたものが何であったかは、農産物品評会の賞状や日本移出用の米袋から想像できる。米の増産を図るために、朝鮮人農家には雀駆除のノルマが課され、それが達成できない場合には「罰金」を支払わねばならないというようなことまでなされた。戦時期の金属供出に際して実録の食器と引き換えに与えられた陶磁器の食器は、戦時動員体制が朝鮮人の生活と習慣にどのような影響を及ぼしたかを考えさせてくれる。兵士としての動員、労働者としての動員が朝鮮の社会に与えた影響については、説明するまでもなかろう。このように、支配当局が作成した資料であっても、それらが持つ意味を考えるなら、植民地支配の下で生きる朝鮮人の姿を思い浮かべることができるはずである。

 この図録には、ハングル、ハングル混じり、ハングルのルビ形式などの文章で書かれたポスターなどが多数収録されている。これらの資料は何を意味するのだろうか。日本の植民地支配時期、特に戦時期には朝鮮語の使用が禁止されていたといわれるが、これらのポスターを見ると、支配当局は朝鮮語を認めていたとも受け取られる。しかし、本当はどうだったのか。

 日中戦争勃発後の戦時期には、就学率が高くなったとはいえ、完全就学にはほど遠い状態であったため、日本語の普及には限界があった。そのため、総督府当局は戦争遂行のため朝鮮人に協力を求める宣伝活動には、朝鮮語を使わざるを得ないのが実情であった。つまり、当局が自らの意思を朝鮮人にどうしても伝えたいと考えた場合には、内容を理解させるために朝鮮語を使用するということになったのである。図録に収録しているハングル混じりの資料の大半は、そのような宣伝ポスターである。

 その一方で、注意して見れば、同じ時期の公的文書の多く(例えば、糧穀供出命令書や必勝国民貯蓄票など)は日本語で書かれていることがわかる。

 これらの資料から、戦時期の朝鮮においては、日常生活の末端までは統制できなかったため、朝鮮語の使用を完全に禁止することもできず、当局としても宣伝のために朝鮮語を使わざるを得なかった半面、公的な場面では朝鮮語使用が抑制されたことを知ることができる。

 端的にいうなら、戦時期に当局が使った朝鮮語は、あくまで戦争動員のためのものであったのである。

 

 ただし、図録に収録されている「皇国臣民の誓詞カードには、日本語の読みをハングルで書き表すという奇妙なことがなされている。「皇国臣民の誓詞」の場合は、その内容を理解しているかどうかにかかわらず、日本語で唱えさせることが重要と考えられたため、朝鮮人が日本語を音で唱えることができるようにハングルのルビがつけられているのである。言葉の意味を理解させるのではなく、日本語の音で誓詞を唱えさせることが「皇国臣民」精神を植え付けることだという独善的な考えが、このカードに表れている。「皇国臣民の誓詞」そのものは何ら法的根拠のないものであったが、それを唱えられない者には配給物資を支給しないというようなこともなされた。当局の独りよがりの考えで作成された「皇国臣民の誓詞カードが、朝鮮人にとってはどのような意味を持つものであったかに思いを致すべきであろう。

 この図録に収録した資料のはとんどは、ソウルにある民族問題研究所が所蔵しているものである。

 民族問題研究所は、1991年に設立された民間の研究団体である。「親日文学」の歴史を追究した在野の研究者林鍾国(イムジョングク・1929−89)の意志を継いで設立された際には、名称を「反民族問題研究所」としていたが、1993年に現在の名称に改めた。このような経緯からわかるように、「反民族行為者」とも呼ばれる親日派清算など歴史に関わる問題の解決を目的として、活発で幅広い市民運動を展開している。一般市民や各分野の学者によって支えられる研究所では、専門の歴史研究者や多くのスタッフによって、公的機関にも劣らない研究活動が進められている。

 民族問題研究所が行った最大の事業が『親日人名事典』の編纂・刊行である。研究所設立直後から準備を始め、2001年には編纂委員会を組織して、親日派名簿の作成親日行為の検証を行い、2009年に全3巻3000ページに及ぶ大冊の事典を刊行した。同事典の編纂・刊行には賛否の声も大きく、政治的・社会的に大きな事件にも発展した。そうであるだけに、編纂過程では歴史的事実を確認・検証するために大量の資料を収集・分析することが求められた。

 このような事業を遂行する過程で、民族問題研究所は近現代史に関する膨大な資料を蓄積することになった。その活動に賛同する市民からも多くの資料が寄せられたという。この図録に収録したのは、このようにして収集された約3万点のうちのごく一部に過ぎない。

 近年韓国では、歴史研究にさまざまな視覚資料を利用する動きが始まっている。従来の研究は、主に書籍・雑誌・新聞など印刷された文字資料や文書館の文書資料を利用してきたが、それだけでは歴史の全体像を明らかにするには限界があることが意識され、日記や口述(聞き取り)、あるいは写真・ポスターなどの視覚資料を用いて、生活史・社会史を開拓しようとする研究が盛んになりつつある。

 民族問題研究所の仕事は、このような歴史研究の動向を先取りするものであったといっていいかもしれない。公的機関・図書館などが無視・軽視してきた歴史資料を収集している同研究所は、現在では大学などに身を置く歴史研究者にとっても欠くことのできない資料館となっている。これらの資料を広く市民・研究者に公開する事業の一環として、2010年8月、韓国併合100年に際して、ソウルの西大門刑務所歴史館で催されたのが、「巨大な監獄、植民地に生きる」という特別展である。刑務所の監房を展示スペースに利用したこの特別展は、まさに植民地支配がいかなるものであったかを肌で感じさせるものとなった。

 民族問題研究所は、現在、常設展示館として市民歴史館を設立する運動を展開している。

 この図録に収録した資料の多くは、日本では目にすることのできないものである。朝鮮侵略・植民地支配に関連する書籍や維誌、あるいは公的文書などの歴史資料は、日本で見られるものが多いが、朝鮮人の生活に密着する形で作成された資料は、その場かぎりのものであって、保存する価値のないものと当局者は考えたのであろう。

  しかし、歴史の真実を知るためには、文字で記された資料だけでなく、視覚資料、実物資料も重要な手掛かりとなる。そのような資料が韓国で収集されていること、一部であれそれらを日本で紹介できることは、私たちにとってありがたいことである。

 貴重な資料を収録したこの図録が、歴史の真実を記憶に刻み、日本と韓国の市民がともに生きていく道を開いていくうえで、大いに役に立っものとなることを信じている。

▶︎1.植民地領有戦争

  1894年の日清戦争1904年の日露戦争が、明治期の日本にとって重大事件であったことはいうまでもないが、両戦争は日本の朝鮮侵略と深く関わっていた。

 まず、日清戦争開戦についてみてみよう。1876年、武力的威圧を背景に日朝修好条規を締結して以来、朝鮮への影響力拡大をはかりつづけていた日本は、1894年に甲午農民戦争(日本では東学党の乱といわれた)が本格化し、その鎮圧のために清軍が出兵すると、これに対抗して朝鮮に出兵した。日本軍は農民戦争が沈静化した後も、朝鮮に対する内政改革要求を口実に駐留を続けた末、朝鮮の王宮を攻撃、占領した。この状況下において成立した金弘集内閣が、清との宗属関係破棄を宣言した同年7月25日、日本軍は豊島沖海戦を引き起こし、日清戦争に突入したのである。

 金弘集政権は、甲午改革と呼ばれる一連の近代化政策を行ったが、その一方で、日本の内政干渉を合法化し、朝鮮国内における日本軍の軍事行動を合法化する取り決めを結んだ。朝鮮を利用して戦争を有利に進めた日本は、1893年、清と下関条約を結んだ。この条約には、朝鮮の「独立」が明文化されており、これによって日本は、朝鮮における清の影響力を排除することに成功した。

 しかしここで朝鮮は、三国干渉でも日本を牽制したロシアとの関係を強化してい1895年日本公使三浦梧楼が中心となり、親露派の中心とみなした王后閏氏を殺害する事件(乙未事変)が起こると、国王高宗はロシア公使館に移り親露派政権が成立した。

乙未(いつび)事変は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった 明成皇后が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊、公使館警察官、日本人壮士ら日本人、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使、高宗の父である興宣大院君派ら反明成皇后朝鮮人の共同で暗殺された事件。閔妃暗殺事件ともいう

 乙未事変で朝鮮内の強硬な抵抗と国際的信用失墜に直面した日本は、当初ロシアとの妥協策を模索していたが、1900年義和団事件の際にロシアが満州を占領すると、朝鮮半島への野心を露骨化し、ロシアとの対立を深めていった。

義和団の考えや動きとは・・中国(清)に,拳法(けんぽう)で神通力を得ようという信仰団体がありました。この団体が義和団です。義和団は,災害や失業などで生活が苦しくなった村人たちを組織していき,大きなまとまりになりました。また,この団体は,キリスト教の宣教師を,「自分たちの宗教を否定し,女性や子どもをキリスト教に入信させるため,中国の伝統的な価値観をこわす者」と考えていました。そこで教会や宣教師を攻撃しました。警官とも衝突するようになりました。1899年には「清を助け,西洋をほろぼす」というスローガンをつくり,山東省の各地に広がりました。

 これより先、1897年にロシア公使館から還宮した高宗は、皇帝に即位し、大韓帝国が成立していた。日口の対立をめぐり、大韓帝国は中立国としての位置を確保しようと努めていたが、日本はこれを無視し、1904年2月、日本軍を仁川に上陸させ、「韓国の保全」(宣戦の詔勅より)を目的に掲げて、日露戦争をはじめたのである。

 開戦直後、日本軍は大韓帝国の首都である漢城を軍事制圧し、韓国政府に迫って、韓国国内における軍事行動の自由とそれに対する韓国政府の協力内政干渉を正当化する日韓議定書を調印した。またしても韓国を利用して戦争に勝利した日本は、1905年9月、ポーツマス条約によって、韓国における政治、軍事、経済上の「卓絶なる利益」を持つことをロシアに認めさせたのであった。

▶︎ 2. 韓 国 併 合

 日露戦争中の1904年8月、すでに日本は第一次日韓協約を韓国政府に強い、財政、外交、警察などの分野に日本の推薦する顧問を雇傭させ、内政支配を強めていた。その上で日本は、日露戦争終結直後1905年11月第二次日韓協約乙巳保護条約、乙巳動的)を韓国政府に強要した。日本の韓国駐劉軍が漢城に重点配備される中、韓国差遣特派大使として派遣された伊藤博文は、韓国駐在軍司令官長谷川好道とともに韓国政府の閣僚を軟禁した上で、協約への賛成を迫った。この協約によって、日本の天皇に直属する統監をトップとする統監府が、韓国の外交、内政運営にあたることが制度化され、韓国は日本の保護国に転落したのである。

 

 この後、日本にとっての重要課題ととらえられたのは、「併合」に対して反対姿勢を堅持する高宗皇帝の退位と、日本の脅威となりうる韓国軍の解散であった。まず日本は、統監府に韓国政府の大臣を召集して重要法案・政策について審議させ、事実上の決定を行うことで韓国政府の偵儲化を進めていった。その上で1907年6月、第2回万国平和会議が開催されていたオランダのハーグに、韓国からの密使があらわれ、第二次日韓協約の不当性を訴えるという事件が起こると、統監伊藤博文はその責任を高宗皇帝に負わせ、高宗皇帝の拒否にも関わらず、純宗への譲位を強制的に実行した。その直後に調印されたのが、第三次日韓協約(丁未七条約)である。これによって、韓国政府の次官から実務官僚レベルにまで日本人が配置され、統監府の内政支配はより一層確固たるものとなった。さらにこの協約と同時に調印された不公表覚書によって、韓国軍隊の解散が現実となった。

 1909年7月、韓国併合」を閣議決定した日本政府は、韓国政府の司法権、警察権を次々と奪い、準備を進めた。そしてついに1910年8月22日、韓国駐在軍の兵力が漢城に集結して厳戒態勢がしかれる中、第三代統監寺内正毅と李完用首相が、「韓国併合に関する条約」を調印するに至った。同条約は8月29日に公布され、大韓帝国は「朝鮮」と改められた。

 

 このように、「韓国併合」の過程は日本の一方的な侵略に他ならなかったが、当時の日本でその問題性に目を向けたのはごく少数であった。大多数の日本人は、植民地保有国である日本に大国としての自負心を持ち、各地で祝賀行事を挙行して、「併合」を喜び祝いあったのである。

▶︎ 3.韓国から見た「併合」

 日本の侵略に対する朝鮮の反発と抵抗は、1882年の壬午軍乱時に日本公使館が襲撃されたことにもすでにあらわれており、甲午農民戦争においては「斥倭洋」のスローガンとして明確に打ち出されていたが、1895年王后閏氏が日本の手によって殺害されるや、激しさを増した。初期義兵と呼ばれる武力蜂起が相次いだのである。主に衛正斥邪派の在地両班を指導層とした初期義兵は、農民のほか、各郡の警備兵である砲軍によって組織され、日本の商民・漁民や、日本の手先となった地方官等を攻撃するとともに、日本の軍用電信線を破壊し、日本軍守備隊と各地で交戦した。これに対し、政府軍と日本軍は鎮圧を強化し、一時は全国的に拡大した義兵の蜂起も、1896年末頃にほぼ停止した。

 しかし、日露戦争に際して日本の侵略が強まると、1905年ごろから反日義兵が蜂起を重ね、再び全国的に拡大した。さらに1907年に韓国軍隊が解散させられると、解散軍人が義兵に加入し、軍事技術や武器の面で義兵の戦闘力が増大した。1909年に伊藤博文を暗殺した安重根も、義兵参謀中将であった。これに対して日本は、軍隊、憲兵、警察を増強し、大規模な兵力を投入して「南韓大討伐作戦」を行った。これによって全羅南北道の義兵は壊滅的な打撃を受け、その後の義兵蜂起は勢いを削がれていった。日本軍側の記録である『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、1907年から1910年併合に至るまで、2,819回の交戦があり、14万名あまりの義兵が参戦し、17,688名が死亡したとされているが、交戦過程では多くの一般民衆が犠牲になっており、総死者数は15万名にのぼるという学説もある。

 

一方、国民の啓蒙、教育・実業の振興によって実力を養成し、国権回復をめざすことを目標とする愛国啓蒙運動も展開された。1906年に創立された大韓自強会など、様々な愛国啓蒙団体が結成され、演説会の開催、機関誌の発行、教育機関の設立などの活動を行った。これらの活動には各種の弾圧が加えられたが、運動は継続し、日本からの借款を返済するために幅広い層からの募金を集めるという国債報償運動のように、後の広範な民族運動に連なる動きも見られた。

 また大韓帝国の最高権力者であった皇帝も、高宗のハーグ会議への使節派遣、純宗の「併合」条約批准拒否などに見られるように、日本の侵略に対する抵抗を試みはした。しかしその一方で、義兵蜂起に対しては鎮静を促す勅諭を下し、愛国啓蒙運動に先立っ大衆的な改革運動であった独立協会の運動に対しては弾圧を加えるなど、挙国的な反日政策を体系的に展開するには至らなかった。

▶︎1.植民地支配の構造

 1910年の「韓国併合」によって朝鮮半島を完全植民地として支配した日本は、統治機関として朝鮮総督府を設置した。最高責任者朝鮮総督は「天皇に直隷」するとされ、日本の内閣総理大臣などの指揮・監督を受けることがなかった。総督には中将以上の現役武官が任命されることになっていた。1919年には「武官専任制」が改められ、文官を任命することも可能になったが、実際には歴代総督8名はすべて軍人であり、海軍大将斎藤実を除いてすべて陸軍大将であった。朝鮮総督は行政だけでなく、立法(法律と同等の効力を持つ「制令」を発する権限)、司法(判事・検事を任命する権限)、さらには軍隊の統率権を持つ(1919年に出動請求権に変更)など強大な権限を持っていた。

 朝鮮総督府は、併合まで存在した大韓帝国政府と統監府・理事庁(主要都市に置かれた領事館の後身)の機構、官吏を引き継いで設置された統治機関であった。そのため、相当数の朝鮮人官吏もいたが、高位職を占めたのは日本人であり、朝鮮人官吏は低い地位に置かれた。また、同じ官吏、警察官、教員などでも日本人と朝鮮人との間には、各種の手当で格差があり、日本人の官吏などは朝鮮人より6,7割高い給与を得ていた。

 

 朝鮮に駐屯する日本軍は朝鮮(駐箚・ちゅうさつ)軍と呼ばれ、日本「内地」の師団から部隊が派遣されていたが、1910年代後半に咸鏡(かんきょう)北道の羅南に第19師団、京城南郊の龍山(現在はソウル市に編入)に第20師団が設置され、これらを指揮する朝鮮軍司令部京城(けいじょう)に置かれ、のち龍山(ヨンサン)に移った。師団に属する部隊は、各地に駐屯し、治安維持、国境警備、隣接の中国・ロシア(ソ連)情報の探知などを行った。海軍に関しては、鎮海に置かれた防備隊が1910年に要港部(1941年警備部)に昇格し、朝鮮半島における日本海軍の拠点となった。

 朝鮮軍とは別に、憲兵隊も重要な軍事力であった。中央に朝鮮憲兵隊司令部が置かれ、各地に憲兵隊・憲兵分隊が置かれたが、これらは総督府警察を指揮することとなっていた。つまり、憲兵隊司令官は総督府の警務総長(警務総監部の長官)、主要都市の憲兵隊長は各道警務部長、憲兵分隊長は警察署長をそれぞれ兼ねるという体制であった。本来は兵士の取り締まり、軍関係の犯罪取り締まりにあたる憲兵が、警察官を指揮して民間人をも取り締まるこの体制は「憲兵警察制度」と呼ばれ、1910年代の「武断統治」を象徴するものであった。三一独立運動後の1919年に憲兵警察制度は廃止された。いずれの制度でも、警察が朝鮮社会のさまざまな問題、農業のやり方などまでに介入することが多かった。

 

 植民地支配を維持・強化する権力機構として、裁判所や刑務所の存在も無視できない。日本「内地」の裁判所とは異なり、朝鮮の裁判所および検事局は行政機構である総督府の一部として位置づけられて、独立性を欠くものであった。

▶︎2.植民地支配政策

 植民地朝鮮は、日本の大陸進出のための軍事的拠点としての役割をもたされていたが、それにとどまらず日本の資本主義経済を支える食糧・原料供給地として位置づけられていた。日本政府・朝鮮総督府は、それを実現するためにさまざまな政策を行ったが、時期によって重点の置き所が異なっていた。

 1910年代には、土地調査事業が行われた。これは、土地所有権を整理し、地税を確実に収取できるようにすることが第一の目的であったが、それまで1つの土地に各種の権利が重なっていたのを整理して地主を確定し、また王室の所有地とされた土地を国有地に編入したため、自作農と同様の地位にいた農民が土地に対する権利を否定されて土地を失うことも多かった。

 こうして生み出された国有地は、国策会社東洋拓殖株式会社(1908年設立)などに払い下げられた。東拓は、当初、日本人農業移民を朝鮮半島に定着させることを主要な目的とし、併合以前から移民を募集したが、実際に応募する日本人農民は少なく、朝鮮に入植した農民も離農したり地主になったりして農業移民の事業は失敗に終わった。

 

 1910年代には、日本の軍事的・経済的目的に合わせて、鉄道、道路、港湾などのインフラの整備も進められた。

 1920年代には、朝鮮で米の増産をはかる産米増殖計画が進められた。1918年の米騒動に表れた日本「内地」の食糧不足を解決するために、品種改良、肥料使用、潅漑施設などを通じて米の生産を増やし日本に「移出」する米を増やそうという計画である。

 

 そのために、米やその他の農産物の品質を高め、生産を増大させることが奨励された。農産物の品評会が毎年各地で開かれ、優秀者を表彰するなどの政策が実施された。しかし、水利組合の場合、濯漑施設の建設などにかかる費用は農民の負担とされ、借金や水利組合費の支払いに苦しむ農民が多く、土地を手離す者も増えた。朝鮮の農村では自作農が減少し、小作農が増加した。

 このような中で1929年に始まった世界恐慌は、朝鮮では深刻な農業恐慌として現れた。土地を失い離農・離村する農民がますます増え、端境期に食べるもののない「春窮」と呼ばれる状態に陥る農民が多数を占めるようになった。

 このような状況が社会の不安定化、農民運動の広がり・激烈化をもたらすと考えた総督府は、1933年から農村振興運動を開始した。倹約や副業の奨励、「合理的」農業経営など農家の自助努力によって農村を安定させようとする政策であった。

  ただし、高率小作料の問題を解決することなく、精神的スローガンで農民の努力を一方的に求めるものであった。農村振興運動と合わせて、「農工併進」がうたわれ工業化も進められたが、日本の工業原料として朝鮮の鉱物資源を利用するための精錬工場、あるいは低賃金の労働力を目当てとする紡績・製糸工場などを主とするものであった。

▶︎ 3.植民地支配と文化・教育

 植民地支配において教育や文化が果たした役割は大きなものがある。日本の統治による「成果」を示すこと、それを通じて朝鮮人を協力させ動員すること、これらは植民地支配を維持・強化するために不可欠のことであった。

 植民地朝鮮における大規模な博覧会としては、1915年の「始政5年記念朝鮮物産共進会」、1929年の「朝鮮博覧会」が朝鮮総督府の主催で開かれたほか、1940年に総督府の御用新聞京城日報社の主催で開かれた「朝鮮博覧会」がある。これらはいずれも、植民地支配下での経済・文化の「発展」を目に見える形で展示し、日本による支配を正当化しようとしたものである。

 精神面で日本文化に同化するために設けられた装置が神社と学校であった。

 朝鮮における神社は、開港地に居住した日本人が故郷の氏神(八幡、天神、金比羅など)を移植する形で始まったが、併合以後、これらの神社は天照大神、明治天皇を祭神とすることによって国家との関係を強めた。朝鮮総督府は、日本による朝鮮支配の正当性を示すために天照大神・明治天皇を祭神とする朝鮮神宮を創建した。朝鮮全土の「総鎮守」と位置づけられた朝鮮神宮は、京城(現在のソウル)を見下ろす南山に1925年完成した。その後、日本人居留民によって創建された神社にも社格が与えられ、国家護持・天皇崇拝を目的とするものになった。

 1930年代以降、朝鮮各地に新たな神社や神岡が設けられ、朝鮮人にも参拝が奨励され、さらには強制されることになった。また、古代の大和朝廷と百済との関係の深さを象徴する扶余(プヨ)神社(祭神は神功皇后、天智天皇など)が建設されたが、日本敗戦までには完成しなかった。

 植民地期の教育は、1911年制定の朝鮮教育令にもとづき「教育に関する勅語の旨趣に基き忠良なる国民を育成すること」を最大の目的とし、朝鮮人に日本語を教え「国民たる性格」を養成することが基本とされた。しかし、朝鮮人が通う初等学校は普通学校日本人が通うのは小学校と呼ばれ、別学体制であった。1922年に教育令が改正されたが、別学を基本とする点では大きな変化がなかった。

 総督府は、1920年代には3面(村)に1校、30年代には1面に1校の普通学校を設置することを目標にしたが、それに必要な予算は抑えられ、学校の土地や建物は朝鮮人経営の書堂や郷校などを転用する場合が多かった。これらによって、普通学校への就学率は次第に上昇したが、その一方で、私立学校や書堂など朝鮮人が運営する教育機関は、総督府の統制を受け、次第に衰退していった。

▶︎4.朝鮮人の生活と抗日運動

 植民地支配とは何だったかという問題を考える時、支配政策とその実態を明らかにするだけでは充分ではない。支配を受けた朝鮮人の生活状況がどのようなものであったか、その中で朝鮮人がどのように感じ、何を考えていたかという側面をも理解する必要があるからである。つまり、朝鮮人の声に耳を傾けることが大切なのである。 しかし、言論統制が厳しい時期であったため、当時の新聞や雑誌などの出版物が朝鮮人の声を、その感情を充分に伝えられたわけではない

 もちろん、これまでの歴史研究は、そのように制約された新聞、雑誌の記事から当時の実態を明らかにし、朝鮮人の声を聞き取ろうとしてきた。さらには、支配当局が作成した資料や文書からも真実の声を読み取ることに努めてきた。

 しかし近年、韓国においては、朝鮮人が直接書き残した日記などを利用して、歴史の真実に迫ることに力を注ぐ研究がなされるようになってきている。そのような日記類を多数収集していることで知られる民族問題研究所所蔵の資料を、一部ではあれ紹介できるのは意味のあることである。ただし、これらの日記は、一定の文章能力をそなえた人々が書き残したものであって、農民や労働者そして女性の大半は、文章を書くことができなかったことを忘れてはならない。そうであるとしても、ここに紹介する日記顆が、植民地期の朝鮮人の思い、感情を伝えていること、生活のありさまを垣間見せてくれていることも事実である。その点で、これらの日記は貴重な資料といえよう。

 

 このような朝鮮人の生活の中から、朝鮮の独立、植民地支配からの解放を求める抗日運動が展開されていった。併合前後の時期から日本敗戦・朝鮮解放の時まで、抗日運動は朝鮮国内で、そして国外で絶えることなく展開された。三一運動のように独立を求めるデモ・集会のほか、秘密結社運動や武装闘争、国際世論に向けた宣伝活動、労働者・農民などの社会運動など、さまざまな形態で運動は続けられた。

 このような抗日運動の歴史を系統的に示す資料を、ここに収めているわけではない。韓国では、独立記念館や国史編纂委員会などの公的機関が抗日運動関係資料を収集しているのに対し、民間団体である民族問題研究所が収集した資料はそれはど多くない。しかし、ここに収録した抗日運動関係の資料を通じて、抗日運動史の一端を知ることができよう。

▶︎ 1.総動員体制下の朝鮮

 日本は1931年9月に「満州事変」を起こし、中国大陸侵略を本格化させた。続いて1937年7月の盧溝橋事件で全面化した日中戦争は、まもなく泥沼化し、軍部の予想に反して長期化した。さらにドイツ・イタリアというファシズム国家と同盟を結んで国際的に孤立していった日本は、英米との対立を深めるなか、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の建設を掲げ東南アジアにまで侵略の手を伸ばし、1941年12月にアメリカ・イギリスなどの連合軍を相手とするアジア・太平洋戦争に突入した。

 第一次世界大戦以降の近代戦争は、軍事力だけでなく政治・経済・社会・文化・精神など国家のあらゆる力を戦争に動員する「総力戦」だった。日中戦争の全面化とともに、日本では「総動員体制」と呼ばれる戦時体制(総力戦体制)に移行したが、台湾・朝鮮・南洋群島などの植民地もその一部として組み込まれていた。

 特に日本と中国の間に位置する朝鮮は、大陸侵略の「兵姑基地」とされ、重要な軍需物資である食糧(米)の供給や、日本人に代わる労働力・兵力を供給する役割を担わされた。そのため朝鮮でも、この時期にかつてない規模の物資動員、労働力動員、兵力動員が強行された。そのような大規模な戦争動員を朝鮮で行うために、植民地支配の安定と治安維持が何より重要視され、「内鮮一体」をスローガンに朝鮮人を侵略戦争に「自発的に」協力させるためのさまざまな「皇国臣民化政策」が実施された。

 また、すべての朝鮮人を動員対象として総動員体制に取り込むために、朝鮮総督を頂点として、最末端には朝鮮人の全家庭を「愛国班」として取り込む、軍隊組織のような動員機構が朝鮮全域にくまなく張りめぐらされた国民精神総動員朝鮮連盟(1940年10月からは国民総力朝鮮連盟)がそれである。

 愛国班は、同じ地域に住む7〜20戸の家庭を単位に組織され、1940年までには朝鮮の全家庭が強制的愛国班に所属させられた。愛国班では、天皇崇拝や総督府の政策宣伝をはじめ、様々な戦争協力活動を強いられたが、米・綿布などの生活必需品の配給が愛国班を通して行われたため、配給に頼る戦時下の状況では、これに所属しないと生活ができなかった。

▶︎2.皇国臣民化政策

 朝鮮総督府は、朝鮮人を日本の侵略戦争に「自発的に」協力させるためには、朝鮮人の潜在的な民族意識反日意識が障害になると考えた。そのため、朝鮮人の民族性を抹殺し「忠良な皇国臣民」にすべく、「皇国臣民化政策」が推進された。

 朝鮮総督府が考えた「皇国臣民」とは、「天皇のために笑って死ねる人間」だった。朝鮮人を「皇国臣民」にするために、日本語を徹底的に普及させたり、団体で宮城遥拝や神社参拝をさせて天皇に対する忠誠を強要するなど、様々な政策を実施した。すべての朝鮮人に「皇国臣民の誓詞」を暗記させ、日本語がわからなくても「皇国臣民」であることを証明できるようにさせた。

 また、日本の家制度を朝鮮に導入して朝鮮社会を根本的に改編させるために、朝鮮人の姓を日本式の「氏」にかえるよう実施されたのが、「創氏改名」である。総督府はこれを「天皇の恩恵」だと宣伝し、申請しないと社会的制裁を加えるなどとして申請するよう圧迫した。

 皇国臣民化政策の本格的推進とともに「日本語の常用」が強化された。1938年には学校内で朝鮮語使用が全面禁止され、朝鮮語を話すと体罰や停学などの懲戒を受けた。続いて1940年朝鮮語の新聞・雑誌が廃刊され、公的な場所での朝鮮語の使用もはばかられるようになった。戦時総動員体制下で朝鮮人を徴用、徴兵するために、朝鮮語抹殺政策は暴力性を強めていった。

 

 しかし一方で、日本語普及にはかなり限界があったため、実際には朝鮮人用のチラシや文書には朝鮮語を使わざるをえなかった。1926年からすでに朝鮮神宮は、「修身教科書授与奉告祭」という行事を行って、京城府内の小学校、普通学校入学児童に配布する修身教科書に神社のスタンプを押して無料で配布した。担任教師はその答礼として児童たちを引率して朝鮮神宮に集団参拝させた。修身科目の授業では児童たちに「教育勅語」を朗読させ、「天皇陛下」という言葉が出てくるたびに、即座に「気をつけ」の姿勢を取らせた。天皇に対する絶対的忠誠の観念を植え付けようとする教育であった このような学校現場での「皇民化教育」は、戦争の長期化にともない軍事色を強めていき、教科教育に代わって軍事教練や勤労報国活動が重視されるようになった。

 1938年の第3次教育令により皇民化教育はいっそう本格的に推進される一方、文部省は1938年6月に「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒し中等学校以上の学徒動員を本格的に開始したが(それまでは任意)、1939年月付き以降は「漸次恒久化」されていった。

 

 1941年11月に発せられた「国民勤労報国協力令」では、学生も動員の対象となり、朝鮮においても学校ごとに勤労報国隊が編成され、14歳以上の生徒たちは、軍需工場、鉱山などで無償労働に動員された。

▶︎ 3.モノとカネの動員

 総動員体制下の朝鮮では、日本の侵略戦争をささえる軍需物資や戦費を動員するために、各分野での生産増強を行うと同時に、さまざまな物資の供出や消費抑制(節約)、強制貯蓄や保険・債券購入などが朝鮮人にも日常的に強要された。生産・流通・消費といった全経済分野が統制を受ける、戦時統制経済が実施されたのである。

 米を中心とする朝鮮の農業生産は、戦時中の帝国日本への食糧供給でも大きな割合を占めていた。そのため総督府はまずさまざまな増産計画を実施し、1941年にはすでに部分的に始まっていた米の供出を全面化した。また末期には耕作者である農民に生産量の責任を直接負わせる「農業生産責任制」まで実施した。しかし、農村から軍需工業への大規模な労働力動員により農業労働力が不足する中で、さらに干害などの自然災害が重なり、朝鮮でも農業生産はかなり厳しい状況になった。

 生活統制も戦時下では次第に強化されていき、1940年に入ると民衆の消費を統制するために米や綿布などの重要物資が真っ先に配給制になった。朝鮮で普段の食事に使う真鍮の食器やスプーンさえ、兵器を作る金属用に供出させられた。重要物資を輸入に頼る日本では、貿易決済用金は重要だったため金も供出の対象となり、金の大々的な調査が行われ、無申告や虚偽申告は処罰された。

 また戦費調達のために、金融機関への貯蓄が宣伝され、奨励された。朝鮮人の乏しい収入から給料天引きで強制貯蓄させることも少なくなかった。「愛国債券」「戦時報国債券」などを買わせたり、簡易保険への加入を強力に奨励するなど、さまざまな資金収奪も行われた。

 朝鮮軍司令部は、朝鮮人の自発的な戦争協力を促し、同時に不足する戦費を補うために、兵器や戦闘機の大々的な「国防献納運動」を行った。国防献納運は、民衆による自発的な運動であるかのような形態で行われていたが、実際は朝鮮総督府の各地方行政体が組織的に主導していた。「一郡一機」(一つの郡に一機ずっ)で飛行機の献納運動をさせたのがそのよい例である。日本人の有力者や朝鮮人の富豪たちに各地域で「献納期成会」を組織させ、朝鮮では数百機の戦闘機が献納された。

 戦争末期、物資が極端に不足していた日本は、特に1943年以降に制海権を失い東南アジアなど占領地からの供給が途絶えると、朝鮮を通じての物資供給路がほぼ唯一の物資の販路となった。しかし、1945年には朝鮮一日本間の販路も閉ざされ、逆に日本から朝鮮への物資供給も遮断された状況になり、総動員体制は最後に残された「資源」としてのヒトとココロの動員に集中するという、末期的な壊滅状態となっていった。

▶︎ 4.ヒトの動員 

 戦時体制下では人間さえ物と同じ「資源」とみなされた。日本で不足する労働力を補充し、同時に朝鮮内の軍需産業や米の増産を図るため、毎年数十万〜数百万人の朝鮮人が動員された。動員先は、朝鮮北部の工業地帯をはじめ日本、「満州」、中国、南洋方面などだった。

 これらはすべて労働力の動員計画にもとづき、「募集」・「官斡旋」・徴用・勤労報国隊などの方法で、総督府の管理のもとに行われた。このうち徴用は、応じなければ法的に処罰を受けるもので、1940年から部分的に朝鮮にも適用されていたが、1944年9月から本格的に実施されはじめた。勤労報国隊は14歳以上50歳未満の男性14歳以上25歳末滴の女性が対象となっており、主に朝鮮内の短期間労働力動員で、学生や女性の動員などさまざまな形態で利用された。

 

 学生たちは、1938年6月の「学生生徒の勤労奉仕作業実施に関する件」という通牒(つうちょう・書面(主に公文書)による通知・通告)により、「勤労報国活動」として農村や工場などで生産活動に従事させられた。女子学生たちの多くは、「女子勤労挺身隊」として、朝鮮内外の軍需工場などに動員された。

 侵略戦争が長期化すると、「陸軍特別志願兵令」(1938年)、「海軍特別志願兵令」(1941年)、「学徒特別志願兵令」(1944年)等が公布され、朝鮮の青年たちも志願兵として戦争に動員されるようになった。1942年5月には閣議で朝鮮人に対する徴兵の実施が決定された。被支配民族である朝鮮人を徴兵することにした理由は、日本人兵力の深刻な不足に他ならなかったが、総督府はこれを「内鮮一体の具現」であり朝鮮人に与えられた「恩恵」・「特権」であると喧伝した。

 最初の徴兵検査1944年4月〜8月に行われ、9月以降から召集令状配付と入営が開始された。朝鮮で徴兵が実施されたのは1944年、45年の2年間だけだが、推定9万人以上が徴兵された。

 朝鮮の女性たちも、自分の息子や家族を兵士として日本の戦争に送り出す「銃後の母」や「愛国婦人」となることを強要された。女性の軍事援護団体である愛国婦人会は、朝鮮にも1906年に朝鮮本部が設立され、朝鮮人女性を積極的に加入させるようになった1936年ごろから組織を拡大していき、1942年には大日本婦人会に統合された。婦人会の主な事業は軍事援護事業で、「銃後認識強化運動」、「軍人家族援護事業」、「愛国貯金奨励運動」など多様な活動を展開していた。また、就労詐欺などで中国・南洋の部隊や戦線に連れていかれ「慰安婦」にさせられた女性たちの中に、朝鮮人女性も少なくなかった