在日朝鮮人・歴史-2

■在日朝鮮人・歴史-2

▶︎ 高麗と日本

 8世紀後半以降、新羅では王位継承をめぐる内乱が継続し、9世紀には不安な政情を反映して各地で農民暴動が頻発した。九世紀末には新羅全土が農民暴動でおおわれた。そのような動乱のなかで地方豪族が台頭し群雄割拠の時代を迎えたが、918年に王建が開城を都として高麗を建国し、935年の新羅の併合後、翌年に後百済(ほぼ全羅道一席)を別して朝鮮全土を統一した

 日本では、平安時代の後半から鎌倉時代、そして室町時代の初期までに当たり、10世紀から14世紀末までの時期である。

 日本は、新羅・渤海と外交活動を活発に行っていたが、高麗には無関心であった。日本と高麗との国交は1367年の高麗末期に結ばれるまで、400年以上も正式な外交関係がなかった。高麗の始祖王建は数回日本に修交を求めたが、平安貴族たちは海外事情にうとく、積極的に外交を開こうとしなかった。

 しかし民間レベルでは交流があった。『高麗史』 によると、11世紀に高麗を訪れた日本商人は9回、約300人で、積極的に貿易をした。日本商人は、螺舗・蒔絵の鞍・鏡匣(かがみばこ)・硯箱・日本扇・香炉・水銀・真珠などを高麗王に献上し、高麗からは、朝鮮人参・毛皮・金・銀・絹などを輸入した。

 また対馬、壱岐の官吏たちは高麗に使者を送り交流を行った。高麗と日本との国家関係は、モンゴルの高麗侵略によって始まる。

 チンギス汗が1206年に建国したモンゴル帝国(=元)の第二代オゴタイ汗は1231年8月、高麗への侵略を開始し、それ以後1259年までの約30年間6回も侵略をくり返した。当時高麗は武臣である在氏が政権を握っていて都を開城から江華島に遷した。モンゴルは水軍をもたなかったので、高麗の政権を維持するための遷都であった。

 朝鮮では、30年間モンゴルとの激烈な戦闘が展開された。1254年の第六次侵略のときを例にとると、モンゴル兵に捕えられ、連れ去られた男女は20万6,800人、殺された者は数えきれず、モンゴル軍の通ったあとは村も町も、ことごとく灰塵に帰した、と『高麗史』にある。

 しかし、30年間の戦争でもモンゴルは高麗を武力で征服できなかった。1259年3月、モンゴルは高麗政府と講和を結び、戦争は終結した。

 その後、高麗内部では国王を中心とする親モンゴル派と武臣たちの反モンゴル派との対立が激化した。1270年、高麗王の要請により数千名のモンゴル兵が進駐し、国王派が政権を掌握した。そして、江華島から開城に戻り、その地を従来どおり都と定め、これに反対する三別抄(サンピョルチョ・中央常備軍の主力である三つの部隊)の解散を命じた。三別抄軍は、1270年から73年まで、珍島・済州島を基地に高麗・元の連合軍と抗戦を続けた。

 三別抄を鎮圧したは、高麗に強要して日本侵略に動員した。1274年、兵員4万・兵船900前近代の朝・日関係史隻の軍団は博多湾に侵入した(文永の役〉。一二八一年には14万人の兵と兵船4,400隻で同じく博多湾に迫った(弘安の役)。しかし二度とも強風や台風に見舞われ失敗に終わった。

 それ以前に1266年に元は、日本との通交を要求する国書を高麗に託した。高麗はこれを拒否し、元と日本との戦争回避に極力努めた。しかし、元の要望を断りきれず、1268年元の国書をもった高麗の使者が日本を訪れた。その後も数回日本に使者を出したが、これに対する鎌倉幕府の返答はなかった。

 元の日本遠征は、いよいよ本格化しはじめた。そのとき、三年間にわたる三別抄の抵抗が続いたことによって、日本は元の襲来に備えることができたのであった。約30年間の高麗民衆の抵抗と、それに続く三別抄の戦いは、元の日本侵略失敗の遠因の一つをなしたと言える。これだけではない。三別抄は直接日本に書状を送っている。そこには、三別抄の本拠地を珍島にしたこと、蒙古兵が日本を責める、食料を売ってほしい、援兵がほしい、とあって、三別抄は日本に蒙古の襲来を警告し、ともに闘おうと提起したものであった。

 日本で鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の乱の頃、中央政権の統制の及ばない北九州や瀬戸内海の沿岸地方の武士・漁民・商人たちが海賊となり、朝鮮半島を荒らし回った。(倭寇)

 倭寇は、1220年代から朝鮮の南海岸一帯に現れるが、本格的には1350年以降激化し、高麗末まで毎年のように侵入して来た。少ないときで2~3回、多いときは10余回、侵入軍の規模は船数10〜500隻に、兵員数百〜数千人であった。

 倭寇は、西南海岸の数十の村々を襲い、いたる所で略奪・殺人・放火をくり返した。そのため多くの農民は食料を奪われて餓死したり、流浪民になるという悲惨な状態におちいった。また、1355年には三南地方(忠清道・全羅道・慶尚道)の租税船200隻が倭寇に襲われ政府の財源に打撃を与えた。1350年から高麗滅亡の1392年まで、史書に記されている高麗を侵した倭寇は、基本的な数だけでも406回に及ぶ。

 高麗政府は、1350〜65年まで北方に軍を結集し、元や紅頭賊の侵入を防いでいた。その情勢が回復するや、1364年5月から、倭寇討伐の積極策に出、鎮海(チンヘ)県での戦闘では300名を全滅させた。その後高麗政府は、1366年、日本に使節を派遣し、足利幕府に倭寇の取り締りを強く要求したのをはじめ、77年、78年、79年と、要請をしたが、足利幕府にその能力はなく、無策のまま事態を傍観するばかりであった。

 1380年、百隻の高麗水軍は、全羅道の珍浦(チンボ)に侵入した倭造船団を攻めて撃沈させた。1383年には、迫頭洋(パクトウヤン・慶尚南道南海)で120隻の船団を撃滅した。

 1387年二月には、100隻の高麗艦隊が、倭寇の根拠地である対馬を攻め、その基地と艦船300隻を破壊した。その結果倭寇は、1390年以降、内陸地帯には侵入できず、沿岸地方の小規模な略奪へと変化していった。

 足利幕府と高麗政府は1367年に国交を結び、数回使節の往来があったが、その25年後高麗は滅び、善隣外交は朝鮮王朝によって再開される。

▶︎ 朝鮮王朝と日本

 1388年、政変を起こし実権を握った李成桂(リソンゲ)は、1392年、朝鮮王朝(以下朝鮮)を建国した。

 

 その初期も倭寇は続き、1393〜1407年に61回も侵入して来た。朝鮮政府は1419年6月、艦船200余隻と17,000人の兵員で対馬を攻めて、倭寇に打撃を与え、その一方で、対馬の宗氏をはじめ九州の諸大名や商人たちには、1426年までに、三浦(富山浦(プサンポ)・乃而浦(ネイポ)・塩浦(ヨンポ)の開港策をとった。三浦(サンポ)には倭館が設けられ、日本人の居住と貿易が許可された。

 

 室町幕府は、朝鮮との外交関係の設定に積極的で、1404年、朝鮮へ使節を送り国交が回復した。室町幕府が朝鮮に日本国王使として派遣した使節は、16世紀までの150年間で60回以上にのぼる。この使節は三浦(プサンポ)から都(ソウル)まで丁重に送迎された。これは日本から明への使節派遣18回をはるかに上回る数である。朝鮮からの使節は、朝鮮初期から豊臣秀吉の朝鮮侵略まで十数回来日しており、そのなかで通信使も3回派遣されている。

 この時代の使節や商人たちの貿易品をみると、日本からは、鋼・硫黄・錫などの鉱物や刀剣・屏風などの美術工芸品、および東南アジア産の丹木綿・麻布・苧布などの衣料や朝鮮人参・蜂蜜・・沈香・胡板・水牛角などを輸出し、朝鮮からは、木虎皮・豹皮などを輸入した。貿易の基本は大名たちの私貿易であった。

 朝鮮の成立から、約200年間の朝・日関係は、初頭に倭冠の侵入はあったものの、平和的な相互関係であった。

 1590年、戦国の世を統一した豊臣秀吉は、朝鮮支配の妄念を抱き、さらに中国(明)の征服を企てて、朝鮮に日本への入貢と明への先導とを求めた。朝鮮がこれを拒否したことを口実に、1592年4月、20万近い大軍で朝鮮を侵略した。行く先々で放火や略奪、虐殺のかぎりをつくして、貴重な文化遺産を手あたりしだいに破壊し、略奪した。

 

 李舜臣(リスンシン)の率いる水軍は、5月7日、日本水軍と玉浦(オクポ)で戦い、これを撃破したのを皮切りに、15回の海戦で日本船340隻を撃沈、日本兵10,000万人以上を殺傷した。この結果、朝鮮南海一帯の制海権を朝鮮水軍が握ることになった。これにより日本軍は、本来の作戦であった水・陸進攻作戦が破綻し、戦局は大きく転換したのである。さらに陸地では郭再祐(クワクジェウ)をはじめ朝鮮全土にわたって義兵部隊が決起し、各地でねばり強い抗戦を続けた。

 

 1593年の初めから朝鮮軍は明の援軍とともに全面的な反攻を開始し、1月にはピョンヤン、四月にはソウルも奪還した。5〜6月、秀吉軍慶尚南道蔚山(ウルサン)以南の狭い地域に追いやられ、その後「講和談判」が続き、7月以後休戦状態に入った。

 休戦期間に再侵の準備をした秀吉軍は、1597年1月、14万の兵で再び朝鮮を侵略した。秀吉軍は、8月には南原(ナムオン)、全州(チェンジュ)に、9月には忠清(チュンチョン)道の稷山(チクサン)にまで侵攻してきた。しかし9月以後、朝鮮軍民はふたたび総反撃に転じ、1597年冬、秀吉軍は退却を開始した。1598年11月中旬、李舜臣の水軍は、露梁津(ロリャンジン)で退却しょうとする日本水軍を迎撃し、大打撃を与えた。この海戦で敗れた日本軍は、秀吉の死もあって朝鮮から完全に撤退した。

 七年間にわたる秀吉の侵略は、朝鮮に莫大な被害を与えた。戦争の結果、農村は廃墟と化し、全国的に起耕できる土地は31%にすぎなかった。人口の6分の1から7分の1が減少し、5万〜6万人が日本に連行された。秀吉軍は至るところで、朝鮮人の鼻をそぎ戦果の証として秀吉に送った。その数は8〜10万と言われている(送られた鼻を埋めたのが「耳塚」で京都にある)。ソウルの景福富をはじめとする建物はほとんど焼失し、8世紀に建てられた慶州仏国寺の木造建築物をはじめほとんどの寺院も全焼した。それに加えて、春秋館・弘文館などに保存されていた朝鮮の古典書籍が焼かれた。『朝鮮王朝実録』も全州史庫本だけを残して焼け失せた

 反面、日本では、「武装留学」と言われるほど多くのものを得た。従来の日本のものとは質的に異なる陶磁器が、連行して釆た朝鮮人陶工によって作られ、高取・唐津・薩摩・萩など西日本を中心に、近世日本窯業の飛躍的発展をもたらした。また、金属活字20万字の略奪によって日本の活字版印刷が始まった。そのほかにも、朝鮮刊本数万冊の略奪により日本の学問発展は大きな影響を受けた。また、捕われて約3年間日本に抑留された朱子学者姜沆(カンハン)は、日本の近世朱子学の始祖といわれる藤原怪窟に決定的といわれる程の学問的影響を与えた。

 豊臣秀吉による七年間の「暗い関係」に転機がもたらされるのは、徳川時代になってからである。1603年徳川幕府を開いた徳川家康は、朝鮮との国交回復を積極的に進め、対馬の宗氏を通じて朝鮮に通信使の派遣を数回申し入れた。

 1604年、朝鮮から松雲大師らが派遣され、翌年伏見城で将軍秀忠と会見し、再侵は二度と行わないとの確約を得て一行は帰国した。

 1607年、総勢467名の朝鮮使節団が来日し、ここに朝鮮と徳川幕府との国交が回復した。この間係は徳川時代を通じて継続した。1607年から1811年まで12回、朝鮮使節は毎回300〜500人の規模で日本を訪れ、国と国とが信義を通わすという意味あいをもって「通信使」と呼ばれた。

 江戸時代の国際関係は「鎖国時代」と言われているが、まったくの鎖国ではなかった。長崎では、オランダ・中国と外交関係抜き貿易のみを行ったのであるが、唯一朝鮮とだけは正式な外交関係をもって相互間に使者が往来し、貿易も盛んであった。このことは特筆されてよいものと言える。

 ところで、朝鮮通信使は、全12回のうち10回は江戸に入っている。徳川幕府は、将軍一代の盛儀としてこれを重視し、歓迎した。幕府は通信使迎接のため、各藩に莫大な接待費の負担を命じた。通信使を迎えるための費用は、その来日のたびに100万両を費やしたといわれるほどであった。

 通信使の瀬戸内海航行時には、常に800隻以上の船が付き添い、東海道の道中では、4万頭の馬と20万人以上の人夫が動員されたという。江戸では、多くの人々が・・・幕府の役人や大名だけでなく一般民衆も・・・朝鮮の使節を一目見ようと道中に集まった。幕府は民衆に、見世店ならびに二階で見物する者は、大声を出したり高笑いしたり指さしたりしてはならず、男女が入り混じらないようにと、高札を各所に立てた。江戸では大阪、京都の三倍の人々が通信使一行を見物したという。

 通信使には、学者・医者・文人・画家などが同行していたので、文化・芸術などの交流が盛んに行われた。各地の宿所には日本の文人、学者たちが連日訪れ、詩の唱和および筆談のやりとりが続けられた。

 大阪では、「……早朝より(通信使の宿舎へ)儒者、医者各人り来って詩文を作りて、日本の文章を知らしめんと、才に誇りし人々、姓名を通じて入り来る者弐百人に満ちた」という。通信使たちは「開陳(ひま)なきに苦しむ」有様であった。日本の学者・文人たちは、彼らとの交流を「一世一代の大事」、「終身の栄」と考えていた。

 以上のように、幕府が朝鮮通信使の接待に消費したエネルギーは莫大なものであった。したがって、500名を前後する使者一行派遣のための朝鮮民衆の過重な負担もさることながら、幕府から接待命令を受けた日本の各藩民衆の負担の重さは、想像以上のものであったと考えられる。新井白石の提言で一度だけ削減されたが、そのときでさえ、60万両を賛したとある。

 

 通信使の来日は、大名や民衆に徳川幕府の権威をみせつけ、また通信使一行にもそれを誇示する、重要な行事であった。それゆえ、莫大な費用を惜しまず、人、馬、物資を最大限に動員し、使者一行にも「過大」といわれるほどの接待をしたのである。しかも、日本にとって朝鮮とは、そうするに値する大切な隣国であったのである。

 朝鮮通信使は、両国の国内事情によって1811年(対馬まで)の来日を最後に廃止されるが、幕末まで釜山の倭館を通じて外交関係は維持され、貿易も継続した。

 以上前近代の朝・日関係は、おおよそ平和的な相互関係であったのであるが、近代の朝・日関係史は皮肉にも日本による朝鮮への侵略が暮あけとなり、周知のように苛酷な植民地統治へとつき進んだ。このことも含め、上述した一定期間の不幸な関係も客観的に認識すべきであるが、それ以上に、平和的で交流が盛んであった時代の認識はより求められるべきである。

 そして、歴史は単なる過去の史実認識にとどまるものではなく、それを通じて現在を考え、さらに未来を照射する所により意味があろうから、近代以前の平和的交流史を正しく認識することによって、現在の朝鮮半島と日本との関係の正しい解決に向けて多くの教訓を得ることが可能となるであろう。