日本仏像史講義(第一講・飛鳥時代)

山本 勉

■仏教伝来と飛鳥時代の開幕

▶公伝と最初の仏像

「日本書紀」では西暦五五二年にあたる年、元興寺(がんこうじ)の縁起類では西暦五三八年にあたる年、この年に、百済の聖明王から仏像・幡蓋(ばんがい)・経論が欽明天皇(きんめい)に献上されたという。いわゆる仏教公伝である。その異同ある年次はもとより語られている内容も、いずれの伝えるところにも後世の作為があることが指摘されているが、六世紀の半ば前後、欽明天皇の時代に、仏教が朝鮮半島から日本に伝えられたことは事実であろう。日本の仏像の歴史は、ここから語り始めるのがふつうで、おもに飛鳥の地に宮都があった、平城遷都の和銅三年(七一〇)までの時代を飛鳥時代と呼んでいる(この時代を前後に分けることについては後述する)。

 『日本書紀』によれば、百済から伝えられた仏像は「釈迦仏金銅像一躯(く)」。つまり釈迦如来をあらわした金銅仏であったという。元興寺の縁起類ではこれを「太子像井灌仏盤(かんぶつばん)一具」としているから、このときにもたらされたのは誕生時の釈迦をあらわした、いわゆる誕生仏であったのかもしれないが、ともあれこの釈迦像をみて天皇は「仏の相貌端厳(かほきらぎら)し」と評している(正確にいえば、評したことになっている)。日本人にとって、仏像は最初から信仰の対象であると同時に美的観照の対象であった。また、それまで偶像崇拝の伝統をもっていなかった日本では、信仰対象が人の姿をしているということじたいが新鮮な衝撃を与えたのであろう。

▶金銅仏の渡来

 金銅仏とは、銅または青銅で鋳造して表面に鍍金(ときん・金めっき)をほどこした仏像をいう。古代に行われたのは蝋型鋳造といって、像の概形を造った土(中型・なかご)の上に蜜蝋をかぶせ、これに細部を造形して原型とし、さらに土そとご(外型)で包み、加熱して蝋が溶け出た空間に溶銅を注いで造る技法である。金銅仏はガンダーラにおける初期仏像以来の伝統があり、インド・中国・朝鮮を通じて石仏とともに仏像製作の主流であったが、とくに小型のそれ、いわゆる小金銅仏は、その堅牢さのゆえに長距離の運搬がしやすく、仏像の様式伝播におおいに貢献した

 このような金銅仏は、おそらく仏教公伝以前より、朝鮮半島から日本に舶載されていたと思われる。長崎県対馬には中国北魂興安二年(四五三)銘の金銅仏の存在が報告されているが、舶載が本格的になるのは、やはり仏教公伝後のことであろう。たとえば、宮城・船形山神社菩薩立像、新潟・関山神社菩薩立像、長野・観松院菩薩半半跏像など、国内各地に残る遺品それを証しているが、これらのいわゆる渡来仏は中国南北朝時代の南朝やそのつよう影響下にあった朝鮮半島百済の様式をを示すものが多く、百済からの請来が想定されている。仏像とその様式はこうして日本に渡来したのである。

▶飛鳥寺の造像と止利仏師

 公伝後の仏教をめぐつて、『日本書紀』他には、仏教の公的受容をめぐる抗争があり、やがて用明二年(ようめい・五八七)に崇仏派の蘇我馬子(?〜六二六)が廃仏派の物部氏を破り、翌年には飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)、すなわち飛鳥寺の造営を始めたことが記されている。この経緯にも後世の脚色があるらしいが、六世紀の末に飛鳥寺が建てられたことは考古学調査によって確認されている。飛鳥寺の造営に際しては、百済から仏舎利(釈迦の遺骨とされるもの。塑造物として供養礼拝の対象となった。舎利を埋納する建築が塔である)・僧とともに堂塔の建設にたずさわる技術者が蘇我馬子に対して遣わされてきたという。渡来人の指導の下に日本最初の本格的寺院が建設されたとみられ、発掘調査によれば、塔と三つの金堂を回廊が囲む、その伽藍形式は朝鮮半島のそれをそのまま持ち込んだものと推定されている。しかし、塔心礎(しんそ・塔の心柱 (しんばしら) の礎石)から出土した埋葬品には古墳に埋葬される玉・鈴などもふくまれ、古墳時代以来の日本の伝統とのかかわりも考慮されることは、仏像のありかたを考える場合にも参考になるだろう。

 

 ともあれ、本尊丈六仏は推古十三年(六〇五)に造り始め、十七年に完成したという。丈六とは一丈六尺(約 4.85m) の略で、仏典に釈迦の身長がこの大きさであったとすることから仏像の法量の一規準となった。坐像の場合には半分の八尺(2.4m)の像を丈六像と称する。以後の日本の大寺院の本尊にはこの大きさのものが少なくなく、日本仏像史にとっても丈六像は大きな意味をもつことになる。

 飛鳥寺本尊丈六仏の作者として記録されているのは、「鞍作鳥(くらつくりのとり)」である。のちに法隆寺金堂釈迦三尊像の作者として銘記に名をとどめる止利仏師と同一人物とされている。止利は、『日本書紀』ほかの史料によれば、中国から渡来したといわれる鞍作部に属する家柄とされ、祖父は司馬達等(しばたっと)、父は司馬多須奈(たすな)、叔母は鴫女(しまめ)という。彼らはいずれも仏教興隆に尽力した人として名をとどめられ、司馬達等は仏舎利(釈迦(しゃか)の遺骨)をえてそれを蘇我馬子に献じたこと多額奈や鴫女は出家したことが記されている。止利は飛鳥寺には銅繍の仏像、つまり銅像と繍仏(刺繍の技法であらわした仏像画)の両方を造ったといい、のちに仏師とは称されるものの後世の仏師と同様の仏像彫刻作家であったかどうかについては、かねてから議論があるところで、かつては彼を工事監督者のような存在としてとらえる立場があり、止利とは個人名でなく鞍作部という部民集団の頭領を意味する呼称であるとする見解も出されている。ともあれ古代の史料が飛鳥寺本尊作者として止利という存在をことさらに称揚するのは、聖なる像を造る者に聖性があることを重視する、日本的な仏像作家観がこのときすでに始まっているようにみえる。

 なお飛鳥寺本尊の銅像は、安居院(あんごいん)釈遡如来坐像(飛鳥大仏・下図)として現存しているが、鎌倉時代に焼損して補修甚大で、当初の部分は顔の上半、右手指三本に確認されるのみであり、そこに止利の技や日本の仏像の最古の姿をうかがうのはむずかしい。

▶法隆寺の造像と飛鳥時代前期の金銅仏法隆寺

 古く斑鳩寺(いかるがでら)と称した法隆寺は、用明天皇の第二皇子で、推古天皇の摂政をつとめた聖徳太子(厩戸皇子。五七四~六二二)が自身の宮殿斑鳩宮の隣地に、七世紀初めに建立した寺であるという。日本の古代史にとって、もっとも重要な寺院である。飛鳥寺についで古い本格的伽藍であったと考えられるが、この斑鳩寺の伽藍は天智九年(六七〇)に一宇(一棟 (ひとむね) の家・建物)残さず焼失した。これが昭和十四年(一九三九)に発掘された、いわゆる若草伽藍跡である。若草伽藍の発掘後、現在の金堂・五重塔・中門・回廊からなる西院(さいいん)伽藍は天智九年の火災後の造営と考えるのが一般的であったが、近年の年輪年代測定によれば、金堂に使用されている材木は火災前に伐採されており火災前に新伽藍の造営が開始されていたらしいことがわかった。その契機としては、皇極(こうぎょく)二年(六四三)の蘇我入鹿による斑鳩宮焼き討ちとのかかわりも想定されている。いずれにせよ、法隆寺にはそれらの火災をさかのぼる七世紀半ば以前の仏像が伝えられ、これらの像の旧所在の問題など、この間の経緯については、仏像そのものの検証をふくむ、さまざまな観点から活発な議論が続いている。

▶金堂釈迦三尊像


 西院伽藍の中心、金堂の中央(中の間)に安置されている釈迦三尊像こそ、日本の仏像の歴史の劈頭(へきとう・物事の一番はじめ。まっさき。冒頭)を飾る作品である。三尊をおおう大光背の裏面には銘記が刻まれている。仏像の製作時に本体や荘厳具(しょうごんぐ)に書き付けたものを造像銘記というが、この銘記は日本で書かれた造像銘記の現存する初例である。銘記には、辛巳(かみとみ)の年(六二一)、間人(はしひと)皇后(聖徳太子の母)が亡くなり、翌年上官法皇(じょうぐうほうおう)すなわち聖徳太子と后が病に伏したときに王后・王子と諸臣が釈迦像の造像を発願し、病気の平癒と死後の往登浄土(おうとじょうど)を祈ったが、后・太子はあいついで亡くなり、翌年、三尊像と荘厳が完成したこと、作者は司馬鞍作首(おびと)止利仏師であったことなどを記している。

   文献史学の立場からは、聖徳太子の実在をめぐる議論ともからめて、この銘記の内容の信憑性ひいては像の製作年代について疑義を呈する向きも一部にあるようだが、銘記が造像時に刻まれたことについては詳細な調査報告があり、美術史の立場からは、この像が銘記の示す推古三十一年(六二三)に製作されたことは、ほぼゆるぎなく認められている。釈迦像について「尺寸王身」つまり聖徳太子と等身に造ると記しているのは、聖徳太子の神聖化の原点としても注目されるところであるが、亡者と等身の造像という観念は、おそらく中国に学んだもので、以後の日本仏像史にはしばしばあらわれる。なお、ここに名が明記されながらも作者止利仏師の実像が判然としないのは、飛鳥寺本尊についてのべたのと同様である。

 三尊は銅造鍍金の金銅仏である。中尊坐像両脇侍(きょうじ)立像が一枚の大光背に包まれる、いわゆる一光三尊の形式で、木造の二重の宣字座(せんのじざ・漢字の「宣」字に似た、箱を重ねたような形の台座)に安置されている。中尊像は、正面からみると中国式の通肩である褒衣博帯(ほういはくたい)式(儒者、学者、文人をさす。本来は儒者の服です。その広い服と幅の広い帯をいう)と呼ばれる着衣形式(左肩にかかった衣が背面から右肩にかかって正面にまわり端を左腕にかける)であらわされ、さらにその衣の裾が台座をおおうもかけぎ裳懸座の形式をとっている。

 これらの形式は、直接的には朝鮮百済の仏像に学んだものと思われるが、たとえば竜門石窟賓陽(りゅうもんせっくつひんよう)中洞本尊のような中国北貌時代後期の仏像に源流をたどることができる。像の正面からみた姿を重視する、いわゆる正面観照性と左右相称性を厳格に守った全体の構成も、面長の顔に配された杏仁(きょうにん)形の眼や両端を上げていわゆる古拙(こせつ・古風で技巧的にはつたないが、素朴で捨てがたい味わいのあること)の微笑を浮かべる唇などがつくりだす神秘的な表情も、肉体の起伏を意識させず幾何学的にえもん整理された衣文(えもん)線を配する着衣表現も、これらに共通するものである。一方で、中尊像の着衣は背面では前述の褒衣博帯式にあてはまらない、衣の端を左肩にかける形式をとっており、これは当時請来されていた仏像の新古の形式を折衷した、当時の日本における独自の工夫とみられることや、脇侍宝冠の形や文様に百済の仏像との直接的な関係があることなども指摘されているが、総体としてすばらしい完成度をもち、中国・朝鮮の仏像とはやや異なる繊細な感覚もうかがわせる。

▶止利派の金銅仏

 法隆寺とその周辺には、金堂釈迦三尊像と形・作風や蝋型鋳造の技法がよく似た金銅仏の遺品があることが知られる。これらは同一工房の製作とみられ、止利あるいはその周辺の作者による仏像という意味で止利派の仏像と呼んでいる。その一例である法隆寺釈迦如来および脇侍像は、光背裏面の銘記によって戊子(ぼし)年、つまり推古三十六年(六二八)に、前年あるいは前々年に没した蘇我馬子のために造られたものと考えられる。飛鳥寺の造営に始まる六世紀末以降の仏教興隆は、聖徳太子による法隆寺造営もふくめ、蘇我氏の一種の王権の反映として、その一族とその周辺に限定して享受された外来先進文化であったようだ。聖徳太子という存在はその象徴としてとらえるべきものかと思うが、止利派の造像もこれと密接に関連するものだった。法隆寺には、釈迦三尊像の両脇侍によく似た形の菩薩立像も伝わつている。

 明治初年に法隆寺から皇室に献納され、いま東京国立博物館に所蔵される法隆寺献納宝物中には四十人体仏と通称される四十九件五十七躯の小金銅仏がある。これらは平安時代後期に橘寺から法隆寺に移されたというものもふくめ、法隆寺周辺に伝来した金銅仏群の一部であるが、このうちの飛鳥時代前期の日本の作例、すなわちN一四五号如来坐像、N一四九号如来立像、N一五五号菩薩半伽像は、いずれも止利派に属する作例といってよい。 N一四五号像と法隆寺の戊子年銘釈迦如来像とで、像内に赤色顔料を塗る技法が共通するのも興味深い。なおN一五五号像は、聖徳太 子が創建したと伝える大阪・四天王寺本尊赦世観音像を措いた図と形が一致するものであ る。

▶止利派の終焉 

 法隆寺献納宝物中の辛亥年(しんがい・六五一)銘を有する観音菩薩立像(N一六五号)は、止利派の 菩薩像と同様の左右相称の構成をとりながら、細身のプロポーションで、顔からは古拙の微 笑が消え、止利派の仏像がもっていた厳格さや神秘性が薄れて、これらとはやや印象を異にする。また、かつて付属していた光背(東京・根津美術館蔵)に戊午年(ぼご・六五八)の銘記がある大阪・観心(かんじん)寺観音菩薩立像は自然な抑揚とのびやかさをもつ長身や、胸飾り・燿落(装飾の基本部から垂らす飾り)のにぎやかな意匠などに止利派の像との印象の違いが顕著である。

  六四五年のいわゆる大化改新による蘇我氏の本流の滅亡とともに、仏教は各地に急速に流通していったとみられるが、その道程で仏像にもあらたな大陸影響がおよび始めたのであろう。遣隋使とそれに続く遣唐使の派遣中国との直接交流が深まっていたこともその背景にあるだろう。かくして止利派と称すべき仏像の定型も終焉を迎える。

■飛鳥時代前期の木彫

▶木彫

 『日本書紀』には、同書にいう仏教公伝の翌年、欽明十四年(五五三)に河内国(かわちのくに)の海中からえた樟(クスノキ)で画工が仏像を造ったという記事、用明二年(五八七)には、止利仏師の父司馬多須奈が天皇のために坂田寺の木の丈六仏像・脇侍(きょうじ・わきじ)菩薩を造ったという記事、厩戸皇子すなわち聖徳太子物部守屋討伐を祈願して白膠木(ぬりで)で四天王像(四天王寺金堂像)を造ったという記事があらわれ、仏像製作の初期から木彫も行われたことが想像できる。画工による造像記録もしばしばみられるのは、金銅仏などにくらべ技法的に素朴であるためであろうか。

 中国・朝鮮のこの期製作の木彫像はあまり知られないが、それと考えられるものとして大阪・堺市博物館観音菩薩立像(円通寺旧蔵・上図)京都・広隆弥勒菩薩半跏像(下図)が国内に存し、金銅仏技法同様、木彫技法も大陸に学んだものと想像しうる

 

 なお前者の用材はビャクダンで、インド以来珍重された檀木<だんぼく・南方産のビャクダン(白檀),シタン(紫檀),センダン(栴檀)などの檀木を素材とした仏像>による造像(壇像)とみられ、後者はアカマツを用材としているが、日本の飛鳥時代の木彫は、後期のものもふくめ、すべてクスノキを用材としている。建築用材がヒノキであることから、クスノキの選択には何らかの意味があったはずで、檀木の代用として選ばれたとする説や、そこに日本古来の神観念と関連する思想的背景を指摘する説があるが、最近では檀木代用材としてのクスノキの選択は中国南朝において行われ、日本の木彫はそれにならったものとする仮説も提出されている

▶救世観音

 木彫の現存最古の作例も法隆寺内に存する。東院伽藍の中心の夢殿の本尊として祀られ、救世観音の名で呼ばれる観音菩薩立像である。『法隆寺東院縁起』によれば、奈良時代、天平十一年(七三九)、聖徳太子の斑鳩宮の故地に東院が造営された際、その仏殿八角円堂すなわち現在の夢殿に安置された太子在世時道立の「御影救世観音像」にあたるものと考えられ、東院資財帳では、この像を「上宮王等身観世音菩薩木像」と呼んでいる。金堂釈迦三尊像同様に聖徳太子との特別なかかわりがあるのだろう。夢殿建立以前の所在は不詳で、金堂西の間の台座下座上にあったとする説もあるが、なお断定しがたい。造形の基本は止利派の仏像に相通じ、ことに金堂釈迦三尊像とは細部の形に類似もあるので、同時期に同一環境で造られたものとみられるが、のびやかな長身や抑揚ある側面観にはこれと異なるスケールの大きさがあり、その作風は造形の源流となった請来像(仏像を請いうけて外国から持って来る像)により忠実であることが指摘されている。

▶金堂四天王像

 法隆寺金堂四天王立像も飛鳥時代前期の木彫像である。その直立する静謹な姿は後世の四天王像とはまったく趣が異なるが、この姿は聖徳太子にかかわる四天王寺金堂像と同じであるという。一具のうち広日天の光背に記された「山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)」という作者名が、『日本書紀』白雉元年(はくち・六五〇)条にみえる仏像作者と同一人と解されるので、この四天王像もその前後の製作と考えられるが、最近では現金堂の創建以来の安置像である可能性が説かれている。体躯は円筒状にとらえられ、腰脇から垂れる天衣(てんね)はその広い面を側方に向けるなど、止利派の仏像や救世観音とは異なる側面観照性への配慮がうかがわれるが、杏仁形(あんにんけい・上まぶたと下まぶたがほぼ同じ長さのアーモンド型)の眼や古拙(こせつ・古風で技巧的にはつたないが、素朴で捨てがたい味わいのあること)の微笑を浮かべる口元などの面貌や細部の形には止利派の仏像との類似があり、救世観音とは本体の構造や銅製宝冠の文様構成が共通することも指摘されでいる。止利派の系譜を引く造像といえる。

▶百済観音

 百済観音の名で知られ、飛鳥時代の木彫像として救世観音と並び称される存在である観音菩薩立像は、左右相称を厳格に守った造形に古様をとどめながら、体躯のまるみの把握や側面観照性への配慮がみられる点などから金堂四天王像と同時期の製作が想定されることが多いが、一種のデフォルメともいうべきいちじるしい長身や表面の全面にわたって木尿漆(こくそ・漆に麦粉・木粉・繊維などを混ぜた塑形材料)の盛り上げをほどこす技法などは、この時期に類例をみない。本像の装飾金具と飛鳥時代後期の遺品との密接な関係も指摘されている(加島勝「百済観音の装飾金具について」〔『仏教芸術』二四三〕一九九九年)。宝冠の形状は法隆寺献納宝物中の伎楽面のそれに、腎釧(ひせん)・腕釧(わんせん・腕飾り。腎釧は二の腕、腕釧は手首につける)は文様や規格・技法が同宝物中の金銅製灌頂幡(かんじょうばん)に、近似するというのである。断定はできないものの、百済観音本体もそこまでくだる製作である可能性を検討する必要がある。なお、この像も古代以来、法隆寺金堂に安置されていたものらしい。

■飛鳥時代後期という時代 

▶飛鳥時代後期と白鳳時代

 飛鳥時代はふつう前後に分けて語られる。その後期を白鳳時代と呼ぶことが伝統的に行われているが、「白鳳」は白雉年号(はくち・六五〇〜六五四)の美称であり、いまそれよりやや遅れる年代を設定する通説と齟齬をきたすこと、また宮都や政治の中心の地名にちなむ他の時代名と不統一であることからすれば、時代名としての使用は避けるべきだと思うが、「白鳳」の文字のもつ美しいイメージに執着する人はこんにちでも多いようだ。

 それはともあれ、飛鳥白鳳の画期すなわち飛鳥時代の前後の画期についてもかねてから議論があり、かつて六四五年の大化改新を境とする法隆寺火爽の天智朝九年頃を境とする説があったが、現在は天智朝(六六二〜六七一)以後の美術に中国初唐期の美術の顕著な影響を認め、その初年頃を画期とする説が有力で、その背景として、相次いだ遣唐使の派遣による唐との直接父渉の増加、天智二年白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に百済・日本が敗れたのちの百済の亡命民の大量渡来などが考えられている。

▶飛鳥後期の寺院

 国内では、白村江の敗戦以後に緊迫した国際情勢に対応するために国家体制の整備が進められ、本格的な律令体制による中央集権国家が成立した。飛鳥後期の寺院造営の展開もそれを背景としている。

 舒明(じょめい)天皇がその十一年(六三九)に発願した百済大寺(くだらおおてら)はこの時期に先立ち造営された寺院、近年発掘調査された吉備池廃寺がこれに比定されているが、仏像類の様相は不明である。飛鳥川原(かわらでら)寺はこの時期の初頭をかざる寺院で、斉明(さいめい)天皇の宮殿故地に天智天皇が造営した。持統朝(六八六~六九七)には、本格的宮都藤原京が整備され、宮城内には薬師寺と、百済大寺の由緒を継ぐ大官大寺という二大寺が配置された。これらは官寺として造寺司が置かれ、仏像を造る仏工もこれらの組織に属したであろう。現存する法隆寺西院伽藍も前述のとおり、以上の寺院とおおむね同時期の造営ということになるが、その建築様式にはいちじるしい保守性が指摘されていることは注意されるところである。

 また畿内にとどまらず、寺院の造営は諸国におよんだ。天武八年(てんむ・六七九)には「諸国家毎に仏舎を作り、仏像および経を置きて礼拝供養せよ」という詔(みことのり・天皇の仰せを書いた文書)が発せられ、持統六年(六九二)には天下諸寺はおよそ五四五寺あったという。これらの寺院に安置すべく、多数の仏像が生産されることになった。

■飛鳥時代後期の金銅仏と木彫

▶小金銅仏の多様な展開

 飛鳥後期に造ちれた像高五〇センチメートル以下の、いわゆる小金銅仏の遺品はすこぶる多い。丙寅年(へいいん・六六六)銘の大阪・野中寺(やちゅうじ)弥勤菩薩半蜘像は、そのなかで最初にあげられる作品である(その規準性に疑義を呈するむきもある)。顔から古拙の微笑が消え、柔軟な肉身表現もみられるなど、飛鳥前期とは一線を画するものがあり、はなやかな三面頭飾(さんめんとうしょく・頭部の正面左右に大きな飾りをつける形)や着衣の縁を飾る文様には隋代(ずいだい)美術の影響がうかがわれる。こうした隋風を受けて独自に展開した小金銅仏に、童顔童形像と呼ばれる一群の遺品があ。法隆寺金堂薬師如来像の脇侍と伝える菩薩立像二躯、法隆寺献納宝物中のN一五三・一七九・一八八号などが代表的な遺品である。

 鼻が短く鼻下が長めの顔や胴長短足の体躯が清純な童子を思わせるところからこの名があるが、これらは天智九年の火災以前から建築の始められていた法隆寺金堂の完成直後の製作と考えられる天蓋二具(中の間分、西の間分・下図左)に付属する木造奏楽天人像(上図)に作風が通じ、また台座蓮弁の複子弁の形が同金堂の瓦当(がとう)の蓮華文にも凍られるところから、その製作は法隆寺周辺で行われたとみられる。

 もちろん法隆寺献納宝物中の小金銅仏にさまざまの作風がみられることでわかるように、法隆寺やその周辺にも異なる作風の像は造られていたようだ。しだいに唐代美術の影響が濃厚となるにおよぶ時間的経過を反映するのであろう。法隆寺のかつて金堂須弥壇(しゅみだん)上に安置されていた厨子伝橘夫人念持仏厨子・上図右)内に祀られる、藤原不比等(ふひと)の妻橘三千代(みちよ・?〜七三三)の念持仏と伝える阿弥陀三尊像はおそらく八世紀初頭の作で、童顔とは異なる若々しい表情に明確な唐風がみられる。

 このように伝統と新棟の混在する様相がさらに地方的にも広範囲に展開し、地方で製作されたとみられる作品も多数が存在するために、この期の小金鋼仏は多様な表現を示すのである。

▶興福寺仏頭 

 これまでに例のなかった大型金銅仏の遺品として、興福寺の仏頭(上図)がある。もと飛鳥山田寺で天武七年(六七八)に鋳(い)始めて、同十四年に完成し、鎌倉時代初頭に脇侍とともに興福寺東金堂に本尊薬師三尊像として移された丈六仏の頭部のみが残ったものである。山田寺は大化改新の功臣蘇我倉山田石川麻呂が創建した寺院で、丈六仏の造像には石川麻呂の孫娘鹿野(うの)皇女(のちの持統天皇)とその夫天武天皇が関与したとみられ、当時の官営工房の作風や技術の水準を示すと考えられる。源流として童顔童形像同様に隋代彫刻の表現が考えられているが、より明快な目鼻立ちには澄刺とした雄大な趣がある。丈六仏像の両脇侍をなした菩薩立像二躯は興福寺東金堂薬師三尊像両脇侍(下図)として現存する。

 仏頭と同時の製作とはみられず、やや遅れる時期とするのが穏当かと思うが、定説はない。また、奈良・薬師寺金堂薬師三尊像(下図)を、持続二年(六八八)ないし同十一年に完成した藤原京薬師寺本尊が平城京に移されたものと考える説も根づよくあるが、本講義では、興福寺仏頭にくらべて作風的にはるかにすすんだこの像は奈良時代を説く第二講でとりあげることとする。京都・蟹満寺の釈迦如来坐像も同様である。

▶夢違(ちがい)観音と中金銅仏

 小金銅仏よりも一回りないし二回り大きい程度の、いわば中金銅仏の代表的な遺品が、夢達観音の異名で知られる法隆寺観音菩薩立像(下図)である。この期の末の製作とみられ、童顔童形像よりも自然な体躯の比例をみせ、微妙な肉づけや着衣と理路の写実表現などに初唐美術の受容の深まりを感じさせるが、その表情はあくまでも清純で、この時期の感覚の主調が一貫していることもわかる。

 東京・深大寺釈迦如来倚像(下図左)、盗難にあった新薬師寺薬師如来立像(香薬師・下図右)なども、夢達観音周辺の遺品といってよいであろう。

 光背に法隆寺創建にかかわる推古十五年(六〇七)の銘記がある法隆寺金堂東の間の薬師如来坐像は、早くから指摘されたとおり銘(めい・金属製の器具に刻まれた製作者の名)がその頃のものと信じられず、鋳造技法も金堂釈迦三尊像よりもかなりすすんでいることが確認されており、飛鳥後期の現金堂造営後に釈迦三尊像中尊を模して造られたものと考えることが定説化している。仏像製作において、由緒を仮託するために古い様式を写す、「模古」という観念がすでにここにみられることは、仏像史を考えるうえでおおいに注目してよいことであろう。

 また、銘記から持統六年(六九二)の製作と考えられる島根・鰐淵(がくえん)寺観音菩薩立像などは、この規模の金銅仏が地方でも造られていたことを示す例である。

▶飛鳥後期の木彫

 木彫の遺品も前期よりも増加する。奈良・法輪寺の薬師如来坐像と虚空蔵菩薩立像(上図)は比較的早い時期の製作とみられ、前者の台座の形制や正面観照性を残す構成に止利派以来の伝統を感じさせるが、二枚の大衣を重ねてまとう形は止利派の像とは異なり、面貌では、童顔童形像の一部にもみられる二重瞼の形や自然な口元の表現に新しい要素が流入している。童顔童形像の範疇にはいる木彫として、法隆寺金堂天蓋付属奏楽天人像があることは前にのべたが、他にも六観音の通称で知られる法隆寺菩薩立像六躯や奈良金龍寺菩薩立像などがある。奈良・中宮寺菩薩半伽像は、古拙の微笑を浮かべる口元や衣文線の一部に飛鳥前期の古様を意識的に模したところがあり、かつては飛鳥時代前期にさかのぼる製作と考えられていたこともあるが、自然な抑揚あるのびやかな体躯や写実的な衣文線に、かなりすすんだ作風をみせる。なお、法隆寺百済観音がこの期までくだる製作である可能性が指摘されていることはすでにのべた。

■さまざまな新技法

 飛鳥時代後期には、七世紀半ば頃以降の唐との活発な交渉による新技術の伝来によって、塑像・乾漆像・槫仏・押出仏などの新たな素材と技法による遺品がみられるようになる。すでに国内での伝統をへた技法による作例がときに保守的な作風をとどめるのに対して、新たな素材や技法は新たな作風をももたらすことになるのは注目してよい現象である。

▶塑像

 塑像は棒状の心木に荒縄を巻いた上に数種の塑土(粘土)を盛り手やへらで造形するのが基本的な技法である。彫刻技法としてはもっとも素朴な技法であるといってよいが、仏像製作の技法としても金銅仏と同様にガンダーラ以来の歴史をたどることができる。中国でも隋・唐代に最盛期を迎え、その影響がこの期の日本におよんだ。

 川原寺裏山遺跡からは大量の塑像片が出土しているが、これらは天智朝創建の川原寺に安置された塑像群である。そこには写実にもとづいた清新な表現がみられ、伝統を残した同時期の金銅仏に先行して、初唐様式が明確に示されている。同じく天智朝創建の飛鳥橘寺、近江崇福寺の寺跡や、天武朝創建寺院に比定される鳥取・上淀廃寺、群馬・山王(さんのう)廃寺などからも塑像が出土しており、この時期から塑像を安置像の主体とする寺院があらわれ次の奈良時代にかけて地方にまで広がった状況が推測されている。完形の大型塑像としては奈良・当麻寺金堂弥勤仏坐像がある。天武九年(六八〇)、壬申(じんしん)の乱の功臣当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)による当麻寺創建時の作と考えられる。まるい塊量感に富んだ頭部と明快な目鼻だちは興福寺仏頭に通ずるが、胸をつよく張り、腰をひきしめた堂々たる体躯には初唐の影響が明らかである。

▶乾漆像

 乾漆造りの技法は塑土で原型を造り、その上に麻布を漆で貼り重ね、内部の土を抜いたうえで表面に木尿漆を盛り上げ整形する、やや複雑な技法である。奈良時代後期にあらわれた簡略技法(木心乾漆造り)と区別するときは脱活乾漆造りという。中国で古く秦漢期にこの技法による容器があり、やがて仏像にも用いられた。乾漆による仏像製作が日本に伝えられたのも飛鳥後期のこととみられ、天智朝に百済大寺に乾漆丈六像が造られたというのが、その最初の記録である。この釈迦如来 像はのちに平城京大安寺の本尊となり、天智天皇造立の由緒とともに、その美しさから、平安時代後期の「七大寺(しちだいじ)日記』や大江親通(おおえのちかみち)があらわした『七大寺巡礼私記(じゅんれいしき)』に南都随一とたたえられることになる。やはり、いちはやく初唐風の様式を示した像だったのだろう。現存しない像だが、日本仏像史にとって重要な像なので記憶しておこう。

 

 乾漆造りの技法は、次の奈良時代に全盛期を迎えることになるが、この期の唯一の遺品で、日本に現存する最古の乾漆像は、常麻寺金堂四天王立像である(当事の姿をよく残すのは持国天のみで、増長天・広目天はかなり多くが、たもん多聞天はすべてが、木造の補作である)。もともと普麻寺金堂の像とは思えないが、本尊弥勤仏像(上図)と同時期の製作であろう。乾漆技法は奈良時代のそれとはやや異なり、直立する姿勢には法隆寺金堂四天王像にも通ずる古様を残すものの甲に唐風の形式がはいり、盆怒相(ふんぬそう・つかみかからんばかりの恐ろしい形相(ぎょうそう))の眼形としてのちに定着する瞋目(しんもく・目を怒らせると言う意味)の原初的な形がみられるなど、過渡期的な様相が指摘されている。

塼仏(せんぶつ)と押出仏(押出仏の造り方はレリーフ状の型の上に薄い銅板を当てその上から鎚と細かい部分はポンチ状のもので叩き、原型の凹凸像を完成させます)

 塼仏(せんぶつ・「塼仏」の製法は雌型(凹型)に粘土を詰め、原型像の形を写し、それを自然乾燥、焼成させた後下地を施し、乾燥させた下地に金箔を押したり(貼ること)、彩色(絵付け)したりして、出来上がり)は、土を雌型に入れ焼きしめて造った、浮彫りタイル状の仏像(多くの場合は集合像)である。東北から九州にいたる各地の寺院跡から出土しており、塼仏がこれらの寺院の堂塔の壁面を埋めて荘厳に用いられていたことがわかる。遺品の中では橘寺や川原寺裏山遺跡、山田寺遺跡のものが古く、これらの寺の創建された天智朝の製作であろう。これらには単独の仏像に先行して明確な唐風がみられるが、塼仏の遺品の中には同図様の中国の塼仏が知られる例もあり、直接的な影響があるのであろう。

 押出仏は、鋳鋼の原型(雄型)に薄い銅板を載せ、槌で打ち出して造形を浮き出させたものである。技法じたいは古い伝統があるものとみられ、法隆寺献納宝物中には、それぞれこの技法で造られた像正面と背面を貼りあわせて立体像にした菩薩立像(N一九二号)があり、法隆寺玉虫厨子内にはこの技法で造られた千仏像が貼られている。いずれも飛鳥時代前期にさかのぼるものである。この時代にいたって、塼仏同様に堂塔壁面の荘厳に用いられたとみられる作例が増えてくる。法隆寺献納宝物中にはすぐれた通例がみられる(N一九八号など)。

 塼仏も押出仏も同一原型から大量生産が可能であり、この時代の盛んな寺院造営によって生まれた需要にこたえるために展開した仏像だった。塼仏の型と押出仏の型を同一の原型から造ることも多い。鋳銅の原型そのものが残っている例もあり、仏像型と呼ばれるが、奈良・長谷寺の法華説相(ほっけせっそう)図はこれと同様の大型鋳銅板に押出仏を貼り付けて『法華経』の内容をあらわす単独作品にしたものである。

 銘記中の降婁年(こうろう・戌(いぬ)年)の比定について議論があるが、初唐様式のうかがわれる作風からすれば、朱鳥元年(しゅちょう・六八六)ないし文武二年(もんむ・六九八)のいずれかとみるのが穏当であろう。

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