深澤直人

■深澤直人

︎WithoutThought考えない  

深澤直人(NAOTO  FUKASAWA)

■適正解

 この本を書き進めていくうちに、その多様でばらばらな発想の点をまざまざと自覚した。一般的に受け手はデザイナーに1本の通った筋のようなものを見出したいという思いがあるようだ。その筋とは、そのデザイナーらしいかたちだったり、素材から発想する傾向だったり、作成のプロセスから見出す手法だったり、そして、機構や新しい現象を表現しようとすることだったりと、様々である。

 私のデザインにはそうした目に見える筋、あるいは一貫性は見当たらなかった。私にもその筋のようなものを探そうとした時期があったが、それに縛られて自由を失うのがこわかったのかもしれない。いや、むしろその「自分らしさ」のようなものを規定することをやめてしまってから、アイデアがはっきりと見えるようになったと思う。それはたぶん、その状況における適正な解を導き出そうとしはじめたからではないかと思う。その状況における様々な要因が無理なく組み合ったかたち、別のいい方をすれば、自然に成ったようなかたちが適正解であり、それを成す要因の中には「わたしはこうしたい」という私的願望は極力含まないでいたいという気持ちがあった。むしろ「こうしたい」という意思は作者が受け手側に立ったときの「こうあってほしい」という願望のかたちであって、極めて客観的なものである。デザインは自分から発するものではなく、そこに既に存在しているという感覚がある。私はその見えない感覚を具体化するだけだと思っている。受け手は適正解を割り出す要因を成す個々の因子を知っているが自覚していない。だから獏(中国から日本へ伝わった伝説の生物。人の夢を喰って生きると言われる)として「こうあってほしい」とは思っても、具体的な像を持つことはできない。だから彼らはいいものを見つけたときに必ず言う。「こんなのがずっとほしかったんだ」と。

▶︎Without thought(考えない)

 1998年に「Without Thought」というタイトルのデザインワークショップを立ち上げた。人は無意識にモノと関わっているということに気づいたときだった。人の意識に刺激を与えるのがデザインであるという一般的な理解からすれば、Without Thought(考えない)というタイトルや考え方は、デザイトにも、そうでない人たちにも理解に苦しむ概念だったに違いない。ちょうど来日していたビル・モグリッジとビル・バーブランクにワークショップのタイトルを決めるために質問した。ビル・モグリッジは私がアメリカで勤めていた会社、IDEOの創設者で、ビル・バーブランクはインタラクションデザインという言葉が誕生したばかりの、その草分け的存在だった。私は彼らに質問した。「傘立てがなくて、たまたま床にはタイルが敷かれていて、その幅7ミリほどのタイルの目地に傘の先を当てて壁に立てかけるということは、きっとほとんどの人が無意識にする行為だと思う。その「無意識に」、「無自覚に」、あるいは「考えずに」というようなことを表すとしたら、どんな言葉があるか」と。ふたりは同時に答えた。「Without thought」だと。「『thoughtless』という言葉もあるが」と再び質問したが、それはむしろ周りに配慮がない、思いやりがない、あるいは、周りに配慮できないというような人を指す意味があるということだった。「Without Thought」というタイトルにしようとそのときに決めた。その、幅7ミリほどの目地と同じような溝を玄関の隅に、壁から10センチほど離して、壁と平行に引けば、傘立てになると思った。訪れた客は傘立てらしきものが見当たらないので、その溝に傘の先を当てて立てるだろう。私は傘立てをデザインし、客は結果的に傘を立てるという目的を達したことになる。しかし、そこには円筒のような傘立てらしき物体の存在はないということだ。デザインは存在し、目的も達しているが、物体は消える。これは「行為に溶けるデザイン」ということだなと思った。後に、「Without Thought」以外に「行為に相即するデザイン」(Design Diss0lving in Behavior)というデザインワークショップも立ち上げることになる。

 デザインを行為の流れの中に溶かしてしまえないかというようなことを考えていた。床に引かれたタイルの目地のような溝は「傘立て」であり、その傘立ては行為の流れの中に溶けてしまっているということである。その用意された配慮の機能の意味は、そのものを見たときにはわからない。むしろ意識せずに流れている行為の中で急に立ち現れてくるというものである。急な登山道を登っていくと気づかずにつかまった木の枝や岩の角が、つるつるに磨かれていることがある。ほとんどの人がつかまった点がそこである。その状況下において、その木や岩の部位は、環境が人に提供した共通の価値である。これは無意識の中の意識の中心とも言うべき点で、行為の流れが収束して通過する点である。

 デザインとはその点に置かれるようなもので、考えないで流れている流麗な行為や意識が集中して通過するコモンな点を探し出すことなのだと思う。

 刺激とは無意識な行為の流れを妨げて意識を立ち上がらせることで、確かにデザインに刺激を求めているということはあるかもしれないが、刺激的なものが氾濫しすぎては生活が心地よくないと思う。「Without thought」とは、考えないで、意識しないで、調和する人とものの関係を表している。

■デザインの輪郭

 デザインの輪郭とは、まさにものの具体的な輪郭のことである。それは同時にその周りの空気の輪郭でもあり、そのもののかたちに抜き取られた空中に空いた穴の輪郭でもある。その輪郭を見出すことがデザインである。周りの空気とは環境のことで、それは人やものによって成っている。デザインの輪郭を見出すということは、ものの輪郭を見るというよりはむしろ、環境の穴の輪郭を見出すといった方がいいかもしれない。環境を成す様々な要因がその輪郭を決めている。そこには人間の感情や行為も含まれているし、時間や光や空気も含まれている。輪郭は動いている。

 輪郭を見出すということにも二つの解釈がある。例えば、ジグソーパズルの一つのピースの輪郭(外側)を見るのと、ほとんどのピースで埋め尽くされて残った一つの穴の輪郭(内側)を見るのでは、かたちは同じでも解釈はまったく異なる。埋め尽くされたピースはデザインを成す要因の因子の群であると考える。因子とは時代や文化、習慣だけでなく、生活や使われる状況や、もちろんそれに関わる人、その人の心理や感情、機能や機構、技術やクライアントの意思や性格、ブランドの哲学、流行やトレンド、競合するものや、身の周りに点在する品々など、払たちが無自覚に吸い込んでいる空気の粒のように身の周りに無数に点在するものを指す。穴はその因子で埋め尽くされたことによってできる必然的なかたちをしている。その穴の輪郭が見えれば、あとはハサミでそのかたちのとおりに切ればいい。そこにはデザイナー自身がこうしたいというような意思のかたちなどはない。しかしもし、デザイナーがその穴やそれをかたちどる周りの要因を見ずに、「自分のかたちをつくりたい」とか、「デザインらしく」とかいう意思によって、一つのピースの輪郭を描いたとしたら、そのピースは、要因がかたちどった必然の穴にぴったりとはまらないかもしれない。ほとんどの人々はその穴の存在をなんとなく感じている。だからそこにはまるものが登場したときに、「はまってる」という表現をするのだ。いくら自分が好きなかたちでも、はまらないものをつくったらしかたがない。また、穴の輪郭が見えても、切れないハサミでははまるものはできない。穴が見えればそこにはまるために、少しずつでもずれを修正していけばいい。それが時間のかかるデザインの実質的な作業であり、デザインの輪郭を極めるということである。

 隣接しなくともそれぞれのピースの輪郭には相互に様々な関係の力が加わっている。輪郭のかたちだけでなく、適正な力を決めるのもデザインである。私は、結局はその1本の線を引いている。できればその輪郭線に内側から余計な力が加わって常に外側に張り出しているようなものをつくりたくない。むしろ外側の力に桔抗する調和の線を引きたい。主張しすぎないどうしの間の線は細くしなやかで、むしろくっきりと見えない方がいい。

 デザインの輪郭は、じっと目を凝らして見ていて、ぼあっと浮かび上がってくるものと、見慣れた日常の光景に、突然ふっと浮かび上がるものと二つある。いずれにしても、それは目に見えない事実の何かである。まるで無数の星の中に浮かび上がる星座のように、星という実在がつくり出す人間の記憶の中のかたちである。「見えない、しかし言われてみればそう見える」という、その輪郭は人々が日常で共有する記憶に基づいている。点在する要素(星)から抽出されたものを結んだ線人々の日常の無自覚な記憶が織りなす像がデザインである。輪郭を成す要因はデザイナーによって抽出されるものである。彼方で暗く、しかも確かに光る小さな星もその輪郭を成す一つの因子となる。無自覚であるからこそその存在に気づかない小さな因子は、輪郭を成したときにはじめて人々にその存在が確認される。人はその輪郭に含まれている星の存在をはじめて見たかのように自覚し、感動する。ふとした瞬間に見えた小さな星の輝きが思いもよらぬ輪郭を導き出す場合がある。要因は時間という奥行きも、文化という広がりの中にも点在し、輪郭は平面ではなく立体である平面視される立体像は見る人の動きによって可変する見る人の感情によっても可変する。輪郭は可変する像の中で変化しない項によって共通のかたちとして認知される。誰もが異なる方向から見ているテーブルのかたちが、同じテーブルであると認知できるように。

 輪郭は日常にちりばめられた無数の要因の中から、その状況に適応した顕著な因子が瞬時に抽出され結実する。輪郭は外側から導き出されるということである。手で壁に触れて壁というものを認識することは理解できても、同時に壁が己の手のかたちを認識させていることにはふつう気づかない。輪郭を見出すのはやさしくない。それははっきりとしたものではない。砂の中の平目が動くことでかたちを現すように、輪郭は動きの中で「いま」「ここ」という瞬間に現れ結像する。

 その見えない感触をつかみたい。その可視できる実態の外側の空気を捉えたい。それぞれが繋がっている見えない糸でできたネットの感触を確かめたい。見えないものを受け手に見せることがデザインの目的ではないし、受け手が適正な心地を捉えてはいても、あえて強く自覚しなくてもいい。作者としては、あるべきものの輪郭を見出すことができればいい。周りの空気を描くことで見えてくるものがそこに存在すべき姿である。

 周りの空気と無関係な輪郭を描くことは、星という実態が見えずに、ただ空を見て描いた空想画のようなものである。輪郭を成す要因は実在し、誰もが認識できる共有のものである。だから誰もが輪郭を既に知っている。ただそれを自覚していないだけなのである。

■環境が人の行為を決めている

 写真は道端のフェンスの上に捨てられた牛乳パックである。よく見るとフェンスの角柱の四角と牛乳パックの底の四角が合っている。偶然かもしれないが、牛乳パックをそこに置こうとした瞬間に手がその四角いところに引き寄せられたような感じもする。人間は、すべての行為が自分の意思によって決定されていると思っているがこの写真を見ると、環境(フェンスの四角)が手を動かしたようにも解釈できる。

 さらに左の写真は、携帯電話のメールやインターネットが普及するようになって、人がケータイをしながら駅のホームなどの床に設置された盲人用のタイルの上を歩くようになるといった光景を撮ったものである。携帯の登場によって盲人用のタイルは盲人のためだけでなく、一般の人の歩行を助ける機能を持つようになる。それまで無自覚にメモリーされてきた靴の真の感触のセンサーが携帯メールの登場で有用になり、立ち上がるのである。ものと人間の関係は一様ではなく、新たなものの出現によって新たな関係が築かれるのである環境は変化し続けるのである

 このように、人はその状況において最も有用な価値(機能)を探している。その連続を行為ということもできる。「歩く」という行為も、路面の状況から最もふさわしい箇所を一歩一歩ピックアップして、そこに足を置いていく、その連続のことを指す。そう考えていくと、人間が共通してその場で見出した顕著な価値が露出した跡を街のいたるところに見ることができる

 下の写真はゴミ箱と化した自転車のカゴである。ゴミが一つでも入っていると見る見るうちにゴミが溜まっていく。他人への責任転嫁か、自転車の持ち主が渋々片づけることを予期してか、あるいは本物のゴミ箱に似ているからか。たぶん最も捨てやすい状況や位置や高さにあるからではないかと思うが、それらの複合の要因が一つの行為を導き出すのだ。

 下の写真も、バスを待っている状況での座る位置が自然に割り出されている。バス停に関係なくそれに座る場合は、バーのしなりを考えればもっと中心寄りになるはずで、この位置が選ばれた理由はバス停の位置に関係している。もし、バス停が右側にあと30センチずれれば、この折れ曲がった場所は共通した選択の点ではなくなる。

 このように環境はその人の状況に応じて無数の価値を提供している。人は連続して環境から価値をピックアップしている。興味深いのは、それらの行為がほとんど無自覚でなされているということである。そして環境によって人の行為は変わるということである。デザインとは環境をつくり出すことで、デザインによって人の行為はいかようにも変化する可能性があるということである。

■選択圧

 左の3人が壁に寄って電話をしている写真を見ると人と人の間隔は、それぞれが発する見えない圧によって決められているような気がする。例えば、真ん中と左側のふたりがまずそこにいて、もうひとりがその右側に立つときの位置は、最初のふたりの間隔によって決まってくる。もし、3人目の人が真ん中の人に近い位置に立ったとしたら、真ん中の人は違和感を感じるに違いない。このように人の行為は相互の関係の圧によっても決まってくる。その圧は人どうしだけでなく、人とものや、人と建物が入り交じった入れ子の中で、ゴムのネットのように複雑に伸縮を繰り返している。

 その、人どうしの見えない圧が最も縮まった状態が満員の通勤電車の中だろう。身体が触れ合うほどぎゅうぎゅうに詰まった電車の中で、秩序が保たれているのは、それぞれの人が電車の揺れに身を重ねているからだと思う。例えばその中の一人がその揺れに逆らって、触れている身体どうしの拮抗した力が一方側から余計に加わったら、もう一方の人は違和感を得、秩序は乱れる。秩序は身体が触れ合うから乱れるのではなく、加わる力に人の意思が現れることによって乱れるのである。無数の木々の葉が絡み合わないように、自然は秩序立っている。もしかすると、秩序を乱すのは人間ではなく、人間の意識だけかもしれない。

 選択圧という単位があるらしいのだが、遺伝子の進化の中で、適合度の低い個体の、淘汰されやすさの単位のことらしい。そして次世代への生き残りやすさのことを「適合度(Fitness)」と呼ぶらしい。それをデザインに置き換えてみても、長く残ってきたデザインは、選択圧が低く、適合度(Fitness)が高いということになる。デザインにもフィットネスが必要なのだ。淘汰されてきたデザインには秩序を乱してきて破綻した要素がどこかにあったのかもしれない。それはデザイナーの自意識が現れた部分だろうか。無意識に流れていた行為を意識化させるような刺激なのだろうか。

■不完全な完全(Imperfect Perfection)

 意味のないかたちを電子機器に施し続けてきたことに嫌気がさしてきたときに、エプソンのデザイナーとプリンタのデザインのためのワークショップをやろうという話が持ち上がった。当時IDEOの東京オフィスで一緒に仕事をしていたサム・ヘクトと、かたちがどうのこうのではない、もっとプリンタが使われるリアルな場や人の行為からデザインをしたらどうなるかということを試みたらどうだろうと話し合った。かたちから考え出してしまうことが癖になっているインハウスデザイナー(メーカーなどの事業会社に属し、社内の制作物を担当するデザイナーとして働く人のこと)には、はじめのうちはプリンタの周りにあるリサイクルペーパーが押し込まれたゴミ箱代わりのダンボール箱や、カッターナイフやカッティングボード、ペンや定規が散在した汚い場所がデザインのヒントになるということなど理解しがたかったに違いない。納得できる質のプリントを得るには最低でも2枚の出力を見比べて決めることになり、1枚は必ずゴミになるという事実があった。プリンタは必要な画像を得るためにゴミも排出するものだと思った。ゴミ箱はプリンタと対で最も必要なものだった。ゴミ箱の中に立つ四角い箱がプリンタであるということがわからなくてはいけないので、プリンタの機能要素、例えば紙の挿入口や排出のワイヤーのトレーなどでそれらしく見せた。ワークショップからは今までのプリンタらしからぬものがたくさん生み出されたが、どれもが使われている環境や人の行為に溶けていた。

■操作を含んだかたち(A shape with the operation included)

 工業デザインの中でも特にコンピュータ関連機器やオーディオビジュアル機器などの電子機器や家電などは、それらの機器らしくデザインするという傾向があたりまえのようになってきてしまっていた。量販店やディスウントストアの棚には似たようなかたちの機器が並んでいた。販売競争で勝つためにオリジナリティーを出そうといぅのが口癖だったが、店の棚のとなりに並ぶ製品を気にしながらデザインしなければいけないという脅迫観念が反対に似たものを生み出してしまった。それでも、それらのデザインが生活の風景にマッチしていたならば問題にはならないが、「らしいデザイン」は生活の空間で遊離して、むしろ強いアイデンティティーを主張していた。

  いいソファや椅子やテーブルが人のからだや空間との関係からデザインされたものを見た事がなかった。むしろ「らしい」顔やかたちをしていないと、その製品が一体何であるかがユーザーには理解できないという皮肉な現象もあったかもしれない。それがプロダクトデザインという世界を成していた。誰も悪くないのにそうなってしまう現象や呪縛からずっと抜け出したいと思っていた。

 あるとき、蓋の開いたままのCDプレーヤーの中でCDが回転している様を見ながらそこから流れ出る音楽を聞いていた。スイッチを入れるとゆっくりとCDが回転しはじめ、回転が安定したところで音が流れ出てきた。その回転のイメージが同じようにモーターを使う扇風機やキッチンの換気扇と重なった換気扇も紐のスイッチを引くとフアンが回転しはじめて、少しして安定した回転になると風の音もー定になった壁にかけて音楽が聴けるスピーカーと一体化したCDプレーヤーがあったらいいなと思っていた。

 キッチンやトイレや洗面所、ガレージや自分のデスクの前や、あらゆるところで、何かをしながら軽く音楽を聴く装置になればいいと思っていた。CDを囲むようにスピーカーが配置された角の取れた小さな正方形のようなかたちがいいと思った。そのとき換気扇とその正方形CDプレーヤーのイメージが重なり合った。換気扇と同じように紐のスイッチにしたらどうだろうかと考えた。スイッチを引くとゆっくりCDが回転しはじめ、風が流れ出すように音楽が流れた。メーカーのエンジニアははじめ、紐を引いてオン、オフするスイッチの接続の距離を著しく短く設計してきた。紐をほとんど引かないでもスイッチがオン、オフしてしまった。常に精度と革新を要求される電子機器業界ではスイッチの細密なオンオフの感触は必須の条件であり、ローテクな紐のスイッチの愚鈍な感触がこのデザインにとって重要であることなど想像もできなかったのだと思う。このCDプレーヤーのデザインは、紐のスイッチを引くことから、ゆっくりCDが回転しはじめ、音楽が流れ出すその一連の動作全体によって成り立っていた。換気扇にかたちが似ているということだけがデザインの肝ではなかった。むしろインタラクティブな機器が魅力となっていた。

 このデザインのコンセプトを「Without Thought」というデザインワークショップの第1回目の展覧会で発表した。それが当時の良品計画の商品企画部長だった金井政明氏の目に止まり商品化が決まった。製品の開発がはじまってすぐに壁にぶつかった。スイッチの紐の他に電源ケーブルを取り付けなければならないという事態が起こった。紐のスイッチの他に電源ケーブルが本体から垂れ下がっているようなデザインはあり得なかった。製品化を少しあきらめかけたときに「電源ケーブルをスイッチにして引っ張ればいいじゃないか」と思いついた。一般に電気製品電源ケーブルは壁にささったまま引っ張ってはいけないというのが常識だったので、ケーブルを引っ張るスイッチなど、どのメーカーも品質保証するわけがないと思ったが、無印良品はそれをあっさりと保証すると言ってくれた。100キロの大人が引っ張っても切れないケーブルでないと=・ということはどのケーブルメーカーの保証書にも書いてあったが、そんな力で引っ張ったらCDプレーヤーの方が壁から外れて落ちて先に壊れてしまうから、ケーブルの強度は問題ないと金井さんはあっさりと判断したのだ。無印良品は人間の正直な気持ちに逆らわないようなものをつくれる、世界で数少ない会社である。このCDプレーヤーを買ったデザイナーの友人のサム・ヘクトは、これを取り付ける最もいい場所を思いついたと言ってきた。「どこだと思う?」と。???。「それはキッチンの換気扇を取り付けるところだよ」と。私たちは大笑いしてしまった。

■ものの存在を消す(Erasing physical existence)

 ものの存在を消してしまえないかというようなことに興味があった。タイルのデザインを考えていて、ふと、その1枚がライトになったらいいと思った。ライトという装置をデザインするよりも光そのものをデザインすることがまずあると思った。装置が空間に露出せざるを得ないものはたくさんある。技術が進化して、将来、例えばその存在が壁に含まれて消えてしまうようなことがあったとしても、進化の途上において空間に存在する限りは、適正な姿にデザインされなければいけない。その場合、デザインが装置の存在をことさらに強調することがあってはいけないと思う。ライトは、点灯しないときはタイルの姿に戻る。

■すべての面がユーザーに向いている(All aspects face the user)

 世界中のどこのレジスターの横にも置いてあるレシートプリンタの種類はそんなに多くない。このレシートプリンタはその中でもポピュラーな機種の一つだろう。このプリンタに必要なデザインは美しいかたちではない。カウンターの上に、縦にも横にも置かれ壁にかけられ、高い棚の下に付けられ、となりのものと隙間なく置かれる。キッチンで飛び散る水分が印字部に流れ込まないように土手を設け、そこ以外のすべての表面は、ちょっとしたメモができたり、それを貼り付けたりできるように平らである。電源や信号のケーブルがどの方向からも取り出せなければならない。表面はレジ脇の小さな広告面やインフォメーションボードの役目もする。

 この機械に前や後ろ、表や裏はない。すべての面はユーザーに向いている。

 このプリンタは私がIDEOの東京オフィスで働いていたときにデザインした。

 IDEOの人間工学のスペシヤリストのジェーン・フルトン・スリと当時旧EOロンドンオフィスのデザイナーだったサム・ヘクトと3人で、アメリカ、ヨーロッパ、日本の販売主要地域の使用環境をオブザベーションし、その分析結果から導き出されたデザインである。

■窓枠をなくす(Eliminating the frame)

 大学を卒業し、セイコーエプソンのデザイナーになって最初に配属されたのがデジタルウォッチのデザインチームだった。たくさんのデジタルウォッチをデザインした。その後デジタルウォッチの技術を応用して小型のプリンタやテレビやゲーム機、ストップウオッチや計測機器をデザインするようになった。それらの電子機器には必ずといっていいほど液晶表示パネル(LCD)が使われていた。それからこのLEDWatchをデザインするまでの20年間、小型電子機器をデザインするたびに、ずっとこのLCDの窓枠をなくせないかと思ってきた表示されるコンテンツが必要なのであって表示の窓枠は必要ないと思っていた。この表示窓のおかげですべての電子機器はいかにも電子機器らしい顔つきにならざるを得なかった。LCDの技術はどんどん進化し細密でクリアな画像装置にまで発展したし、窓枠はどんどん細くなっていった。LEDの技術も進化し、明るく発色のいい発光素子になっていった。しかしデジタルウォッチや電卓の初期に使われていたようなLEDの7セグメントの表示体は小型電子機器ではあまり使われなくなっていた。

 ある日、秋葉原の電気部品屋に並んでいたLEDの17ミリ×25ミリ×7ミリのプラスチックの固まりが目に止まった。美しいと思った。その固まりには7セグメントの透明なプラスチックの数字と配線が含浸されていた緑のない、すべてが一体化した、まるで虫を閉じ込めた琥珀のようなものだったそれに白く塗装をしてみると、透けて見えていた細密な内部は見えなくなり、単純な白い直方体になった。そしてセグメントに電流を流して数字を発光させた。思ったとおり赤い数字が何もない白い表面に浮かび上がった。緑のない表示体だった。黒い表示体に赤い文字が浮かび上がるものは今までにあったからあまり驚きはなかったが、白い表面に文字が浮かび上がる様はマジカルだったその白い直方体をそのままウォッチにした時間を知りたいときにだけ触れると表示が現れ、通常はただの四角い表示のない固まりだった。思えば、ずっと時間を表示している必要などないと気づいた。進化し続ける電子機器のデザインをそれらしくしてしまっている要素は、このような表示体の窓枠であり、ボタンとケースの問の隙間や、電池の厚みや大きさなどで、デザイナーはその制約から逃れる知恵を絞り続けている。技術の進化は、もはや独立した固まりの部品を組み合わせて一つの製品をつくることから、分子細胞から成る一つの個体に多様な機能を持たせるようなものになっていくだろう。

 緑や境目のない無垢な四角い固まりは長い間の願望だった。電子機器がファッションになった。このウォッチをWithout Thoughtの第3回目の展覧会で発表した。そのときのタイトルは「e-fashion」だった。

■机と同じサイズの空(Asky the same size as a desk)

 2001年にニューヨーク近代美術館で開かれる企画展「Workspheres」のためにコミッションデザイナーとして作品をつくってくれないかという話がキュレ一夕ーのパオラ・アントネッリからあった。展覧会は仕事環境がテーマだった。携帯電話、インターネットの出現がそれまでの仕事のスタイルやオフィスの概念を大きく変えてしまうのではないかという予測のもと、どのように変わるだろうかという疑問に様々な角度から答えるのが企画の意図であったと思われる。そのとき私に与えられたテーマは「lndividuality within c0porate identity」というものだった。

 オフィスの中の自分の巣と化していたデスク周りは、その人そのもののアイデンティティーともなっていた。書類のストーリッジ(保管。倉庫)になっていた空間は、コンピュータの中にすべて収まり、電話のアドレスとなっていたその場所は、どこでも話せるようになったことで、そこに固定される必要がなくなった。そうなるとその場所が醸し出していたその人の個性とか、プライベートな雰囲気は薄くなる。身の周りのものやパーティション(つい立・間仕切り)がつくり出していた個性やプライバシーを、それらのものなしでどう表現するかというのが私に与えられた課題だった。デスクがその人の、そのときの仕事場のテリトリーのイメージメタファーとしてあると思った。だからデスクとまったく同じかたちとサイズの空を頭上に浮かべられないかと考えた。個人の空の下はプライベートな空間になると考えた水平のテーブルと水平の空を結んだ見えない縦の面がプライベートな空間を仕切ると思った。そのときの気分によって世界中のどこからでもデスクサイズの空を切り取って持ってくればいいと考えた。

 オフィスのいたるところに異なる空が点在する様を想像してわくわくした。空は世界に一つしかないが、それを見上げる人の気持ちによって個のものとなる抽象概念像であると思ったから、名前をSkyからSkiesにした。自分の空はコンピュータで世界中から切り取ってくることができると思ったが、この展示では空を呼び出す装置として電話を使った電話をしている相手の空が頭上に現れるというふうにしたかったからである。冬の曇った日にハワイの空をコンピュータでクリップしてくるというのもいいが、例えば、近くにいる親しい人と電話で話しているときに、その人の空が頭上に映ったらいいなと思った。自分のいる場所と電話の相手のいる場所の空がたとえ同じであっても、その人の空が自分の頭上にあるということがいいと思った。あかりの種類としての様々な空の画像よりも、誰の空とか、どこの空とかという、特別な空がいいと思った。物理的な空に価値があるのではなく、使う人によって意味が発生することが素敵なのだ。古来、天窓があかり取りとして照明器具的要素を持っていたということもアイデアの要因に含まれていた。だから電話をかけていないときの画像をフェイクの蛍光灯にしたりした。空の画像は頭上に吊られたデスクサイズのパネルに天井からプロジェクターで投影した。パネルを緑のない1枚のガラスにして、画像をそのパネルに一致させれば空間に薄い空が浮かぶと思った。なんとかガラスをフレームなしで吊ることはできないかと試みたができなかった。

 展覧会ではデスクと同じ四角い空を浮かべたが、例えば、カフェにいて携帯電話で話しているときは、カフェの丸いテーブルと同じ丸い空が浮かべばいいと思った。

■気配のデザイン(Design of a presence)

 2001年にニューヨーク近代美術館で開かれる企画展 「Individuallty With incoporrte identity」というテーマに基づいて、「Personal Skies」と組み合わせて「魂の残る椅子」という椅子のデザインもした。「Personal Skies」は物理的なパーティションを使わずにその場をプライベートな空間に変えようとしたものだったが、この椅子は、使用者そのものの存在感を表すものとしてデザインした。「デスク」という記号に場所のテリトリーを表す意味があり、「椅子」は人の地位や個性そのものを表す記号だった。オフィスの椅子の背にかけられたジャケットや、立ち上がった瞬間に固定した椅子の姿は、それまでそこにいた人の抜け殻のような感じがした。その人のいないオフィスにその人の存在感が残っている感じが、個性となって認知されるのではないかと思った。履き慣れた靴が脱ぎ捨てられた状態からその人の身体が見えるような感じと似ていた。そのような見えない存在感を見せる装置をつくれないかと考えた。

 椅子に座っている人の背中の画像を、その椅子の背にそのまま映そうと考えた。椅子の背の前面に小さなカメラを取り付け、取り込んだ背中の画像を、椅子の背面に埋め込んだLCDパネルに映す装置を考えた。その人が座ると「ぼあっ」と背中が映し出された。その人の動きと少しずれて動く背中の画像は、まるで視覚化されたその人の魂のようだった。その人が立ち上がると魂も遅れてその人についていくように画面から消えた。席にいないときには背中の画像を画面に残しておくこともできるようにした。椅子の背にかけられたジャケットのようだった。考えてみれば、椅子に埋め込まれた18インチのLCDはただコンピュータのディスプレイの粋が椅子のフレームに変わっただけだった。枠の違いによって見えてくる世界は変わった。椅子に座る瞬間の画像を再生してみると、あたかも透明人間がこの椅子に座ったときだけ視覚できるような卜リックが実現した。そこに実在するものを枠にはめて撮った画像をその枠の中に映すことで得られる不思議な感触は、ふだんそこにある存在から知らずに感じ取っている気配を感じる感触に似ていた。気配をデザインしたかったのだ。

■不安定は生きているということ(unbalace a sign of  living)

 1980年に大学を卒業して時計のメーカーに入リ8年間にずいぶんたくさんの時計や小さな電子機器をデザインしてきたが、1989年からアメリカのIDEOで働いた期間で時計のデザインをしたのは一度だけだった。それはAVOCETというスキーやマウンテンハイキング用の高度計付きのデジタルウォッチだった。日本に戻って2年目の1997年セイコーのデザイナー飯田薫さんから時計のデザインをしないかという誘いがあった。

 飯田さんは私がはじめて勤めた時計メーカー時代のボスで、駆け出しのデザイナーの私に時計や小型電子機器のデザインを任せてくれた。今となればそのときの経験がずいぶんと役にたっている。

 飯田さんが依頼してきた時計のデザインはキネティツク オートリレーというもので、時計が腕に装着されず、どこかに置かれて静止した状態が約72時間続くと、自動的にパワーセーブ機能が働き、すべての針が止まるというものだった。パワーセーブ中に針は止まったまま回路内部で時刻を刻み続け、再び何らかの振動を加えると現在時まで一気に針が修正されるというものだった。いわばコンピュータのスリープ機能のようなものだ。針が止まっていた位置から一気に現在時刻に修正される様は感動的だった。今までの時計の概念は、針が動いているときが生で、止まっているときは死のような、その二つの状態しかなかったから、死んだ機械が生き返る、あるいは目覚める瞬間の針の速い動きには驚きがあった。

 飯田さんの注文は、この有能な機能が見たお客にすぐわかるようなデザインをしてくれという厄介なものだった。コンピュータのかたちが機能によって変わらないように、たとえそのような機能がついていても時計は時計だった。スポーツウォッチであっても、ジュエリーウォッチであっても搭載可能な機能であって、メカかクオーツによってデザインが違わないように、ソフトによってかたちを変えることは意味がないと思った。無理だと思った。しかしその機能を搭載しているということを伝えるために、特化した一つのデザインはできると思った。そしてそのデザインが評判になることで機能が認知されるのではないかと思った。機能をアイコン化したような時計をデザインしようと思った。

 振動で目覚めるならば、不安定なかたちがいいと考えた。たとえそれが、人が意図的に加えた振動であっても、偶然に加わった振動であっても、眠り続けていた時計は目覚めて一気に現在時にシフトし、動きはじめる。不安定さがゆえに死なない。眠ってもそこに加わる振動ですぐ目覚めるようなものとして球を使うことを思い立った。時計の表面が球体の一部であるようなかたちをデザインした。

 時計のかたちにえぐり取られた部分にこれがはまることで、完全な球体になるような球体のパズルのようなものだった。この球はパッケージのようなものであり、使用しないときに収めるケースのようなものだった。凹面のガラスは親指の表面に合わせた。充電のための振り子を回転するときにその凹面に親指を当てて振ると、振り子の振動が指に伝わった。文字盤上の12カ所の略字はCDのプラスチックケースの中心のような細い切り込みを入れた。親指を押し込む動作とそのかたちが連動したからだ。

■行為の途切れ(Discontinuity in behavior)

 「左手に茶碗、右手にしやもじを持ち、その右手で炊飯器の蓋を開ける。ご飯を茶碗によそって、その右手でしやもじを持ったまま炊飯器の蓋を閉めたところでいつも手が止まる。流れていた一連の行為が止まる、その点をほとんどの人が経験している。先に少しご飯粒がついたままのしやもじの行き場がないのだ

 日本人は習慣として道具を卓上に寝かせて置くということをしない。特に箸や調理道具などの食材に触れる部分はどの面にも触れないように置くということが清潔を保つことで、マナーや行儀でもあった。だからなおさらのこと手の止まった点からのしゃもじの行き先が炊飯器の周りになかった。そんな作法など気にしなければ、ほとんどの人が蓋の上にしやもじをべたっと置いた。たぶんそこがその状況において最も置くにふさわしい場所だからだと思う。しかし、ほとんどの市販されている炊飯器の蓋の上面は、平らではなく盛り上がっていたり、あるいは、操作パネルが付いていたりした。置きやすい場所にしては、それに応えるかたちにはなっていなかった。

 だからそこを平らにし、しやもじの先が直接その表面に触らないようにしゃもじ置きを付けた。しゃもじを蓋の上に置いた状態でそれを囲むように長円のかたちを決めた。誰もが共通に通過する点。その行為の途切れた点が示す小さな問題が解決されれば、流れは再びスムースになる。その誰もが認識しているストレスの点はデザインを決めるアイデアの重要な要素になる場合が多い。

■アフォーダンス(Affordance)

 人間は絶え間なく環境の中にその状況における価値を探している。その連続を行為という。これはジェームス・ギブソンが提唱したアフォーダンスの定義である。森に横たわった倒木は座ること、あるいは休むことをアフォードしている。倒木は森の中の巨大なべンチだった。

 SWEDESEはプライウッドの加工技術に優れたスウェーデンの家具メーカーだった8積層合板の薄さと強さは人間が生み出した木の素材を使った知恵だった。その薄い積層合板を使って丸太をつくろうと思った。都会のビルの中に丸太のようなベンチが転がっている様は滑稽だった。木こりが切断して散在した丸太のように、ビルのロビーにごろっと置いてあるだけでいいと思った。短い丸太を立てればテーブルにもなり、空洞の中は雑誌や新聞が入った。学校の教室にもいいと思った。

もともとは倒木と人間はアフォーダンスで繋がっていた。その関係はずっと変わらない。