禅僧たちの九州 その画期

 ■禅僧たちの九州 その画期

楠井隆志

▶テーマ「禅僧たちの九州」

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 このたびの特別展「京都妙心寺禅の至宝と九州・琉球」の開催準備にあたり、出陳候補作品の選定のため、九州・沖縄各県下のじっに多くの妙心寺派寺院を訪問し、たくさんの宝物を拝見させていただいた。

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 そのなかで、筆者にとって忘れられない作品がある。大分県臼杵市・多福寺が所蔵する「道者超元像」(上図右)である。

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 木目あらわな椅子に坐るひとりの禅僧の姿を、正面から克明に描いていた。一見して黄檗(おうばく)禅林と密接な関係をもつ肖像画家の手になることが判ったが、画家の落款・印象はをく、この画像を描いた特定の画家名を決めかねた。画像の上部には、悠然とした筆致の達筆な賛文が別紙で継ぎ足されていた。像主道者超元の書である。このときは、この黄檗僧がどのような人物なのか、まったく知識がなかった。

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 後日調べてみると、日本における臨済宗黄檗派(現在の黄檗宗)の開祖・隠元隆碕よらも以前に来日した明僧であり、崇福寺第三代任持として九州妙心寺派の禅僧たちに対して意外に大きな影響を与えたという史実を知ったのである。時を同じくして、能仁晃道氏の「盤珪さんと道者、そして賢巌と古月」(『清骨の人・古月禅材』所収附録近世禅宗史寸考〔第7考〕禅文化研究所2007)を読んだ。ますます、道者について堀さげてみたいと思った。能仁氏の論考に導かれながら調査を実施してみると、作品と作品がつながっていった。多福寺の道者超元像から出発した調査の成果が、この展覧会における小テーマ「禅僧たちの九州」の大半を構成している。

 近世の禅宗史において、九州ほど熱い展開をみせた地域はなかった。九州にはつねに新しい宗教の波が海外から押し寄せ、九州の禅僧たちは敏感に反応した。彼らの行動によって、九州禅がにわかに活況を呈したのである。この小稿は、九州禅が活況を呈するその画期を探ろうとするものであるが、小テーマ「禅僧のちの九州」で展示される関係作品を自在に結び付けながら簡単にまとめてみたいと思う。なお、「九州禅」という言葉であるが、近世の九州を舞台に展開した臨済禅を「九州禅」と称することにした。もちろん、ここでは妙心寺派の禅僧たちの軌跡を基軸に据えることになる。

▶近世に温ける明朝禅の移植

 中世における中国禅の移入は、日本から南宋、元、明に法を求めていく僧や南宋、元からの渡来僧をど、日中間を頻繁に往来した僧たちによってなされていたが、ここには中国貿易商人たちが、大きく介在していたのである。博多の聖福寺や承天寺などは、当時博多に居留していた南宋の貿易商人(博多綱首という)らの援助によって創建された禅寺であった。創建後も寺の維持発展に彼らは大きく関わった。このことは、禅寺や禅僧が対外貿易に関与することを意味していた。ときには外交活動にも関与することがあった。このあたりについては、伊藤幸司准教授(山口県立大学国際文化学部)に執筆していただいた本図録各論「中世九州・琉球の禅宗世界」に詳しい。いずれにせよ、中世における禅宗発展の最大の特色は、貿易活動と強く直結していたこと、禅寺が国際的性格を帯びていたことに尽きよう

 近世になると、国禁のため日本から禅僧が法を求めて中国に渡ることは不可能になった。一糸文守(一六〇八−四六)なども宗風の衰弊を嘆じ、入明して師を求めようとした一人であったが、果たせなかった。しかし、中国からの渡来僧による中国禅の移入・移植は、十七世紀の長崎という狭い窓口を通してであったが、引き続きおこなわれていたのである。

 寛永十二年(一六三五)の糸割符(いとわっぷ)制度により、中国商船の入港は長崎だけに限定された。以後、長崎港に来航する貿易船の数は爆発的に増加した。当然のことながら、長崎に居留する中国人も次第に増加していった。長崎に居留する中国人は出身地ごとにハンと呼ばれるコミュニティーを形成し、それぞれ同郷会館的な施設をかまえ、故国から携えてきた媽祖(まそ)神像を祀って航海の安全を祈った。やがて、これが媽祖(まそ)廟の建立へと発展し、さらには中国人による中国人のための寺院、いわゆる唐寺(江戸時代を通じて中国は唐と称した)の創建ほつながっていった。長崎の唐寺には、元和九年(一六二三)開創の興福寺、寛永五年(一六二八)開創の福済寺、寛永六年(一六二九)開創の宗福寺などがある。

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 唐寺の役割は、長崎に居留する中国人が故国から携えてきた媽祖(まそ)神像(下図左)奉安して航海安全を祈り、同朋の弔葬や一族の菩提を供養することにあったが、自分ねちがキリシタンでなく仏教徒である乙とを長崎奉行に示す乙とも重要な役割でもあった。豊後臼杵・多福寺の雪窓宗雀〔上図右〕(一五人九−一六四九)は、正保四年(一六四九)、興福寺においてキリスト教を批判し排撃する説法をおこなっているが〔作品番号70〕、説法の場所として興福寺(下図右)が選ばれたのも、唐寺に課せられた役割の一端を物語っている。

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 近世における九州禅の画期は、唐寺の創建にあったといえる。創建当初の唐寺に任した寺僧は、本来の僧籍を有した者ではなく、商人として来日し、必要に迫られて同朋の弔葬等をつかさどることになった者が多かった。やがて長崎に来航する中国貿易船の増加にともない、純粋に法を広めるため、あるいは居留中国人の待望に応えるため、真の禅僧らが船便を得て渡来するようになった。禅僧が渡来するようになってはじめて、唐寺という宗教的空間に中国正伝の禅がそのまま移植されるという基盤が整い、ここに明朝禅の定着的展開をみることになったのであるこのことは、近世の文化史上きわめて重要であり近世の九州が他の地域と比べ、中国禅林との直結性の強さにおいて、絶対的な優位性を誇っていた点であった。日本人禅僧にとっては、国禁を犯して中国に渡航し求法しをくとも、長崎の唐寺にいる中国人禅僧に参禅すれば、本場中国明朝の生さた禅に触れることができるようになったのである。

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 先述の雪窓も、早くから長崎興福寺を訪れて明僧と接触していたようである。臼杵の多福寺には、寛永八年(一六三一)の年紀が記された興福寺第二代住持・黙子如定(もくすにょじょう)の書にもとづく寺号扁額「多福寺」が本堂に掲げられている。これまで黙子の渡来年は寛永九年とされてきたが、この扁額の年紀はそれよらも一年早いことになる。

▶道者超元と九州

 長崎に渡来した高徳の明僧としては、承応三年(一六五四)渡来し、寛文元年(一六六一)山城宇治に黄檗山萬福寺を開創する隠元隆琦・いんげんりゅうき〕(一五九二−一六七三)がよく知られている。

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 臨済義玄から数えて臨済正伝三十二世の禅匠が日本に渡来したとあって、当時の一部の妙心寺派の僧が驚喜し、興福寺の隠元の会下に多くの妙心寺僧が参集した。彼らの熱狂ぶりは、隠元の妙心寺招請運動にまで発展するほどであった。その中心物の竺印租門〔じくいんそもん〕(一六一〇−七七)である。この運動は万治二年(一六五九)の開山三〇〇年遠諒を契機に収束に向かったが、当時衰微沈滞していた妙心寺の宗風を振起する大さなきっかけとなっこととは事実である。

 その隠元よりも早く長崎に渡来し、わが国の一部の禅僧たちに対して反響を呼び起こした明僧がいた。慶安三年(一六五〇)に渡来し、崇福寺第三代住持となった道者超元〔どうじゃちょうげん(一六〇二−六二)である。九州禅の画期的展開の端緒は、この明僧・道者超元の渡来に求められるといってよい。

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 九州出身ではないが、盤珪永琢(ばんけいようたく)〔上図〕(一六二二−九三)は遺著の渡来を聞いて長崎崇福寺に掛搭・かとう(① その寺に滞在を許された禅僧が錫杖(しやくじよう)を禅堂の搭鉤(とうこ)に掛けること。 ② 禅僧が行脚をやめて一か所に長く滞在すること。)し(慶安三年秋から承応元年七月まで)、道者より得法したことはあまりにも有名である。

 道者は承応元年(一六五二)平戸藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)に招かれ、普門寺に滞留して藩主鎮信をはじめ多くの僧俗を教化した。万治元年(一六五人)、道者は帰国の意思を固めるが、それを知った盤珪は、何とか道者を普門寺に迎えて日本に引き留めようと松浦鎮信に謀った。それはついに適わず、道者も帰国してしまうが、貞亨二年(一六八五)、盤珪は普門寺の中興開山として迎えられた。道者から得法した盤珪の禅風が九州に根を下ろすきっかけとなった。平戸と盤珪を結び付けねのも、道者だったのである。盤珪は平戸を訪れるねびに、遺著のことを思い出したことだろう。盤珪を勧請開山として開創された平戸の雄香寺には、盤珪の賛文が継ぎ足された道者の頂相や法語墨境など、道者と盤珪の深い関係を物語る宝物が伝えられている。

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 香寺派僧としては、豊後臼杵・多福寺の賢巌禅悦〔けんがんぜんえつ・下図〕(一六一八−九六)、豊後府内・萬壽寺(上図)の乾叟禅貞(けんそうぜんじょう・一六二四−八〇)らがいた。

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 賢巌禅悦による道者景仰は盤珪の影響によるところが大きい。万治元年、賢巌は盤珪とともに崇福寺を訪ね、参禅している。多福寺には道者筆の文(げもん)が継がれた道者超元の頂相が伝わる。その侶文は道者が山宗福寺を辞するその日に書さ与えられねもので、賢巌が道者よら直接得たものである可能性が高い。

 乾叟禅貞(けんそうぜんじょう)は道者のもとに三年留侍した。乾叟編『禅余集』では道者の評伝に大きく頁を割いている。ここでは、慶安三年の渡来後しばらくは市中の陳性乾宅に寓居していたこと、市民から請(こ)われて崇福寺に入ったこと、即非如一(そくひにょいつ・一六一六−七一)崇福寺入寺後の確執の様子などが具体的に語られている。掛搭僧自身による道者評伝として恐らく唯一ではないかと思われ、道者研究に温ける資料的価値はさわめて高い。

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■九州禅の時代

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 賢巌の法嗣として、「西の古月、東の自隠」と並び称せられる古月禅材〔こげつぜんざい・上図〕(一六六七−一七五一)が登場する。古月を出現させた法系やその法嗣については、竹貫元勝(たけぬきげんしょう)教授(花園大学文学部)から寄せていたガいね本図録総論「妙心寺と九州・琉球」に詳しいので割愛するが、古月によって九州禅の時代が確立されたと評してよいろう。古月は道者とは交わることがなかっねが、元禄十二年(一六九九)、宇治の黄檗山高福寺において開かれね三壇戒会で黄檗山第六世の千獃性侒(せんがいしょうあん・一六三六−一七〇五)から戒円具を授けられている。

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 古月もまた明朝禅の影響を受けていたとみてよい。寛延二年(一七四九)、古月は久留米に福聚寺を開創した。翌年、福聚寺本尊として釈迦如来坐像および迦葉尊者・阿難尊者立像〔作品番号114〕を安座した。この釈迦如来坐像および迦葉尊者・阿難尊者立像は、古月にとって受戒の師である千獃性侒が開法第二代をつとめね長崎・崇福寺の大雄宝殿本尊を忠実に模したものである(上図) やはり、九州禅は明朝禅が育んだのであった。

 (くすい ねかし 九州国立博物館主任研究員)

【参考文献】一九八四 大桑斉有r史料研究 雪恵宗雀−禅と国家とキリシタン」一同朋社出版一九八九 平久保章「隠元 人物叢書新装版」吉川弘文鋸二〇〇七 能仁晃道「清骨の人 古月禅材」禅文化研究所