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盗難の仏像、遠い返還
南禅寺
中村文峰
南禅寺の禅風は、開山大明国師(無関普門禅師)・創建開山南院国師(
規奄祖圓
)・檀越亀山法皇の三者により樹立されたといっても過言ではない
。この三者は法皇の
離宮禅林寺松下殿
に
於て怪事が発生した正応四年(一二九一)、
偶然にも一期一会の出会い
をしている。怪事とは正応三・四年の頃、離宮に夜ごと
妖怪変化が出没
し、
出仕(しゅっし・民間から出て官職につくこと)の廷臣女官
たちがそれに悩まされるという出来事である。
「無閑和尚塔銘」(「続群書類従」所収)
によると、このとき法皇は
東福寺三世無閑普門(むかんふもん・のちに後醍醐天皇より大明国師の誼号を賜る)
に勅して、離宮に結制安居(けっせいあんご)させておられる。国師と共に東福寺の雲水二十名が、二時の粥飯・四時の坐禅等、禅林の
規矩(きく・手本。規則)
を整粛に行じたのであるが、その首座(しゅそ)が
規奄祖圓
(
きあんそえ
ん・のちに後醍醐天皇より
南院国師
の
諡号
<しごう・主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである>を賜る)である。
この禅林の
規矩準縄(きくじゅんじょう・物事や行為の標準・
基準になるもののこと。手本。きまり。)
の行事により、離宮の怪事は
逼塞(ひっそく・門を閉ざし、昼間の出入りを許さない)
したのである。時に大明国師八十歳・亀山法皇四十二歳・南院国師いまだ三十歳の
雲水(うんすい・諸国を修行して歩く僧)
であった。南禅寺の禅風の基礎はこの結制(けっせい・大勢の修行僧が一
ヶ所に結集(けつじゅう)
することを指す)の古規遵守・叢林の整粛にある。
禅林(禅宗寺院)
は釈尊の正法を伝える
伝灯
(法脈を受け伝えること)の菩薩と、これを維持発展させる
護持
の菩薩の両者が揃って初めて成立し、継続することができる。南禅寺の場合、
伝灯の菩薩は
開山大明国師(無関普門禅師)・創建開山南院国師(
規奄祖圓
)
であり、
護持(尊んで守護すること)の菩薩は亀山法皇
であるといえる。そこでこの三者の伝記を、正応四年を中心に略述してみたいと思う。
大明国師
(無関普門禅師)
は釈尊より数えて五十五世、諱(き)
は普門、号は無閑
、建暦二年(二一二一)
信州保科に誕生
された。七歳にして伯父である
越後正圓寺寂圓
をたより、十三歳で
得度(僧侶となるための出家の儀式)
、十九歳で
上州世良田の長楽寺
にて菩薩戒を受け、ついで上洛して
東福寺の圓
爾辨圓(えんにべんねん)の門に入り
、
参禅弁道(修行によって得た自己の見解の深浅邪正を正脈の師家に鑑別してもらう独参のことで、これによって自らの悟道の境涯を高め、正念相続の力を養う)
すること五年に及んだ。のちに北越に帰り
華報寺
に任したが、「大丈夫豊此処に止らんや。遠遊せざれば方眼通ずることなし。」と言われ、
建長三年四十歳で入宋された
。
入宋した国師は漸江の地に上陸し、四明・会稽を過ぎ、杭州の
霊隠寺
荊里如玉のところに
掛錫(かしゃく・僧堂に籍をおいて修行すること)
された。一日、同じく
杭州の浄慈寺
に至り、断橋妙倫に相見されようとしたが侍者に拒まれた。その夜、断橋妙倫は夢に一羽の蒼鷹(おおたか)が肩に止まり、和尚は臂(ひじ・うで)を出してこれを受けたという。これは得俊の
吉徴(きっちょう・いい事が起こる前兆)
であるとされた。果して翌日、国師が相見されたという。以後参禅苦修、ついに禅の奥義を究められた。弘長元年(一二六一)、
断橋妙倫
はその臨終にあたって国師に法衣を付し、頂相に賛して与えた。日く「須禰続白日 碧落穿紅霞 喚作眞則錯 喚作相則差 只批一問難模索 嫌他幾個 失脚走天涯」とある。
翌年、十有二年の中国叢林の歴遊を終り、薩摩の河野部に帰着された。
二年間九州に留まり、文永元年入京し、
東福寺圓爾辨圓に再謁(さいえつ・再び会う)
、のち鎌倉に下り、次いで
得度(仏教における僧侶となるための出家の儀式)の地
である正圓寺に於て
聖胎長養(しょうたいちょうよう)された
。
弘安四年(一二八一)、東福寺二世
東
山湛照
が在住僅か三箇月で退山したのを承けて三世として入寺、十一年間東福寺に住された。
在住十一年目の正応四年、
離宮に於ける妖怪事件の静諸により
、
亀山法皇の帰依を得て離宮が禅寺とされたとき、
開山第一祖となった
。しかし同年十二月に
入り病
を得、十一日、弟子の礼をとっていた関白
一條實
経(さねつね)
・
西園寺實兼
(さねかね)
、続いて十二日、
亀山法皇の慰問を受けた
。このとき
南禅寺後継住持
についての法皇の
御下問(ごかもん・自分より身分・年齢の低い者に対して物事を尋ねること)
に対し、国師は
南院国師を薦められた
。法の系統からいえば他流に属するのであるが、それにこだわることなく大力量の人を推挙したのである。このことはのちの
法皇御起願文
の中に、
十方住持制
として反映される。中夜に至り、国師は法皇の御前に「
来無所従 去無方所 畢竟如何喝 不離富處」の遺偈を書して坐逝した
。八十歳であった。
南院国師(
規庵祖円
)
は
諱(いみな・人の死後尊敬しておくる称号)を祖圓、号を規庵という。その行状は「勅誼南院国師規奄和尚行状」(「
南院国師語録
」所収)に詳しい。国師は弘長元年(一二六一)信州長池に誕生された。幼時、
鎌倉浄妙寺
に入り業を受け、
無学祖元
が
来朝(らいちょう・外国人がわが国にやって来ること)
するとこの室に
参請(さんしょう・弟子が師に教えを受けること
)した。
規奄の号は無学祖元が授
けたものである。無学禅師が寂する(死ぬこと)と上京して
大明国師に従った
。そして正応四年、
大明国師亡きあとの南禅寺を第二世住持として引き継いだが
、この時にはまだ寺院として
一宇の堂塔
もなかった。しかし、国師の在住により、彿殿・法華厨庫・雲堂・三門など悉く建立されたのである。彿殿建立に際し、
法皇と共に土を搬び石を曳かれたと伝えられている。
この様式は禅刹建立の規範となり、のちに天龍寺・相国寺の建立もこの規に則って行なわれた。
ひとたび僧堂に坐して二十二年、その殆どを土木の労に費やされたが
、南院録解制上堂の語に「龍山一夏不空過 或時搬土 或時投石」とあるように、
搬土投石が禅規に背くものではなく
、これこそが御自身の
真風であると言われているのである
。正和二年(一三一三)四月二日、「一躍躍翻黄鶴桜 一挙挙倒鵜鵡洲 臨行一著元無別 黄鶴桜前鵜鵡洲」の偈を遺して五十三歳をもって寂した。これより五年前の延慶元年(一三〇八)、国師は鎌倉円覚寺に赴き、正続塔下の
彿光国師(
無学祖元禅師
)
の法乳に対し酬恩の香を拈出(金銭の工面をする)された。万寿寺におられたがそれを証明し、これにより国師は
彿光国師の法
を嗣いだとされている。
人皇九十代・
亀山法皇は八十八代・後嵯峨上皇の皇子として建長元年(一二四九)に生誕、
正嘉二年(一二五八)十歳で皇太子、翌正元元年即位、文永十一年(一二七四)譲位して上皇となり院政をしかれた。
院政中の文永・弘安年間に二度の元冠に遭い、国難に対処された。
正
応二年(一二八九)四十歳の上皇は仁和寺の了遍僧正を戒師とし、離宮の南禅院で突如
落飾(貴人が髪をそりおとして仏門にはいること
)、法皇となられ
、法号を金剛眼
と称された。この突然の落飾は、
持明院大覚寺両統迭立間題に端を発したものと言われている
が、正応四年の妖怪事件によって法皇と禅宗との関係は密接となり、
離宮を禅寺に改める程、大明国師に対する信頼は深まっていった
。然るに
国師は同年十二月十二日東福寺にて寂する
。この月の上旬、国師の病あらたまるや法皇は
東福寺に臨幸
され、数日の間親しくその病を問い、手づから薬湯を勧められた。
法皇と国師との関係の親密なることを物語っているものと言えよう
。翌年、国師の小祥忌(一周忌)にあたり、その頂相に賛をして日く、「叢林老作人天眼 電巻星馳迫也難 三尺竹箆三尺歳 末曽動著逼入寒 自濃哀翰以表国師追慕之義 正応壬辰大呂彿成道日 比丘金剛眼」。
まさに専門の禅僧に匹敵する賛語である
。大明国師亡きあと、法皇は伽藍建立のために熱意を注がれ、傭殿の基壇築造の折には
南院国師
と共に、
基壇に土を三度運ばれたと伝えられている
。主要な伽藍がほぼ完成した永仁七年(一二九九)、法皇は「
禅林禅寺起願事
」という願文を御簾筆で書き残され、南禅寺のあり方を示された。
その正本は応永二十九年(一四二二)に焼失
したが、
その草案が持ち出されて現存している。国宝である
。この起願文の内容は三つの部分つら成り立っている。先ず前文の部分で、
南禅寺の創建は『利生の悲願』をめざすものであること
。次に南禅寺の経済基盤として、
法皇御自身に伝領された領地を寄進
され、
どんなことがあっても減少させてはならないこと
。最後に南禅寺住持選定について、その基盤は
器量卓抜才智兼全の人物であること
。師から弟子への相続という一流相承制ではなく、法流の如何を問わず、
学徳兼備の禅僧が住持として迎えられるという十方住持制(寺の住持というのは師匠のあとを弟子が継ぐが、亀山法皇は、全国から募ることを決めた。その決まりごとを十方住持制という。このことは、つねに優れた逸材が座りつづけるということと、どの寺の末寺にもならなくてすんだ。)を採用するこ
と
。以上に要約される。ここでは前文の部分について述べることにする。先ず冒頭に「朕聞ク 古二云ク ふ人身逢ヒ難ク 彿法聴キ難シ 吾レ十善之余真二催サレテ 恭シク万乗之帝癖ヲ践ム 克龍之悔有リト錐モ猶ホ金仙之楽シミヲ待ツ 寧一息フ何ンノ幸ゾヤー」(数多き生き物の中で、人として生を受けることはまことに逢い集い尊いことだ。釈尊在世の時でさえ、彿法を聴くことは得難いことであった。私は過去の世界で十の善行を積んだおかげで、今世で一国の帝位についた。しかしそれは有為の世の中のことで、高く天に昇りつめた龍には、やがて降りなくてはならぬという苦しみがある。このように世間のことは移ろいやすい。しかし、その悩みを救って下さる彿法に参ずる〔金仙〕という楽しみがある。ひそかに思うに、私は何と幸福な人間であることか)と記されている。
諸行無常の世であるからこそ、永遠不変の彿法に参ずることが幸福であるというのである
。そして前文の中程に『利生悲願化物要径也』(りしようのひがんはけもつのようけいなり)とある。
利生とは、人間や他の生き物
、そして全てのものの生命を尊び大切にしていくことであり、生かしきることである。このような心を
世の人々が共に抱いていくことこそ、最も大切なことである
。法皇は南禅寺を開創することによって、この利生の願いを永遠不変の教えとして、後世に伝えたいとのお考えであったのである。
人や物の生命を軽んじる現代にあって、『利生の悲願』は厳しい教訓として受け止められなければならない
。禅林禅寺起願事は南禅寺の護法の精神の基盤である。こののち法皇は南院国師の意見により、
龍安山禅林禅寺の寺号を瑞龍山太平興国南禅禅寺
と改められた
。南宗禅の法を伝える寺の意であるという。南禅寺の後世への響か轟慮を尽されて、嘉しゅうぜん元三年(三〇五)九月十吾口、法皇は崩御された。五十七年の御生涯であった。
開創時の禅堂に、
亀山法皇が坐禅された単寮という一室があった
。その由来を尊び、現在の禅堂にも隣接して
単寮が設けられている
。今でも修行僧は法皇さまと共に
参禅弁道の毎日
を過しているのである。毎年十二月、釈尊の成道を相続するべく
臘八大摂心
(ろうはつおおぜっしん)
が行なわれる。
朔日(
さくじつ・
陰暦で、月の第一日。ついたち。)
早朝より八日の未明まで、
不眠不休の坐禅の連続
である。そして八日、
法堂に於て成道会が営まれる
。
接心(
せっしん
・
禅宗で、一定期間ひたすら座禅に専念すること。)
に参加した
雲水(諸国を修行して歩く僧。行脚(あんぎゃ)僧。)
たちも出頭し、疲労のかげもなく爽やかな寒風の中に毅然として
誦経(ずきょう・経文を声を出して(そらんじ)読むこと。)
する。そのような姿に、七百年の法灯を守り続けてきた南禅寺の禅風を見るのである。
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