中金堂

 興福寺には中央と東西にあわせて三棟の金堂があった。最も中心的な堂が中金堂である。中金堂は藤原不比等が建立したが、平安時代以降七回の焼失、再建を繰り返した。最後の火災は享保二年(一七一七)で、およそ百年を経た文政二年(一八一九)に仮堂が建立されるにとどまった。百五十年余りを経て、この堂の老朽化が目立ってきたので、昭和四十九年(一九七四)に新たに仮の中金堂を北側に造り、文政建立の堂は平成十二年(二〇〇〇)に解体された。

 興福寺では平成二十二年(二〇一〇)に新たな中金堂の立柱を予定し、準備が進められている。中金堂完成後には現在、仮金堂に安置されている仏像が移されることになっている。そのうち中尊の釈迦如来坐像(江戸時代)を除く、薬王・薬上菩薩立像、四天王立像がこの展覧会に出品される。これらの像は鎌倉時代の復興期に造られたもので、いずれも興福寺に拠点を置いて造仏に携わった奈良仏師の作であり、伝統を踏まえながら新たな時代にふさわしい撥刺とした造形がみられる。

 西金堂本尊釈迦如来坐像は、頭部と両腕、光背の化仏、飛天が伝来している。この像の作者は不明だったが、大仏師が運慶であることを示す史料が見出され、平成十九年(二〇〇七)公表された。完成は、文治二年(一一入六)で、運慶の現在知られる事績のなかで二番目に古い。現在、注目を集めているこれらの像も展示される。

(浅見龍介)