法隆寺金堂展

■釈迦三尊像と北魂の仏教文化

大野玄妙

▶はじめに

 平成二十年(二〇〇八)の正月行事を終えた一月中旬、金堂内陣須弥壇(上図)の修理にかかわる準備が始まり、須弥壇上の諸尊及び再現壁画がそれぞれの仮安置の場所へと徐々に移動され、二月上旬には、金堂内に御本尊の釈迦三尊像と薬師如来像だけがお残りになっておられました。そして、最終的にこの二つの御本尊も、一時、上御堂(かみみどう)にお移りいただくこととして、二月十二日、一山及び関係者と共に、ご移動に先立っての工事の無事と一日も早いお帰りを祈って、金堂内陣にで法要を厳修(ごんしゅう)いたしました。

 今まで所狭しと数多くの諸尊や仏具が配置されていた金堂内陣は、大きな空間へと一変し、御本尊釈迦三尊像の正面の礼盤(らいばん)の前で礼拝した時、御本尊の御威光がその空間を充分に満たし溢れて、言葉ではいい尽くせない感動を得ることができました。この金堂が建立され、御本尊が安置された当初は、仏具も僅かで必要なものに限られ、また、他の諸尊はその後徐々に造られ整備されてきたものと考えられます。

 

 以前、奈良文化財研究所所長だった鈴木嘉舌先生が「この金堂は釈迦三尊像のために建てられたもので、大きさも丁度よい」とおっしゃっていたことや、奈良国立博物館の学芸課長だった故光森正士先生の「金堂の創建された時代には、堂内に人は入らなかったと思うよ。法要は堂前の礼拝石に供物を供えて行ったものなのだ」というお言葉を思い出しながら、金堂完成当初の情景に思いを巡らせ、この希有な体験に接することのできたことに感謝するばかりでした。

 法隆寺の金堂には、釈迦三尊像と薬師如来像(上図左右)との二つの御本尊が安置されています。金堂は法隆寺全体を代表するいわゆる本堂に当り、その御本尊が法隆寺の本尊であることはいうまでもありません。そして聖徳太子の病気平癒を願い造顕された釈迦三尊像をもってこれに当てているのでありますが、もう一体の薬師如来像を、寺の創建にかかわる本尊ということで根本本尊と称しています。この薬師如来像の光背には、法隆寺の創建の由来が銘文(下図)に刻まれ太子の父君用明天皇が、ご自身の病気平癒を願い寺を建て薬師像をお祀りしたいと誓願を発せられたのですが、実現を見る前に天皇が崩御され、後に推古天皇と太子によって実行されたと記しています。こうして法隆寺の金堂には、太子のために顕された釈迦三尊像と、太子の父君用明天皇の願いを承けて造られた薬師如来像との二つの御本尊が祀られる結果となったのです。

 このたびは、金堂の御本尊釈迦三尊像の造顕とそのルーツについて、日頃、私があれこれと思っている私見を述べさせていただくことといたしました。

▶釈迦三尊像の造顕

金堂の釈迦三尊像の「光背銘」(下図)には、初めに、推古二十九年(六二一)の十二月に太子の母君間人皇后が崩(みまか)られ、翌年(六二二)の正月二十二日に太子もご病気になられたことが記されて、太子周辺の人々 (王后王子等及び諸臣)は深く愁(うれ)いで心を配り、共に願を発して「仰ぎて三宝(さんぽう)に依り、当(まさに)に釈像の尺寸王身なるを造るべし」とあります。そして、この願力によっで、太子の病を転じて寿命を延ばし、この世間での安住を願い、続いて、もしこれが世の定めであって皆の願いに背くものであるならば、太子が浄土に往生して、早く成仏(妙果・みょうか)されることを願うとしています。

 その後「銘文」は、二月二十一日に王后(膳(かしわで)妃)、そして翌日(二月二十二日)太子が相次いで薨(みまか)られ、その翌年(六二三)の三月に願が成じて、この釈迦三尊像と荘厳具とを造り竟えたことを記し、さらに、このささやかな福徳によって、仏道を信ずる人々はこの世では安穏であって、死後は先に薨られた三主(間人皇后・膳妃・聖徳太子)に随って三宝を紹隆し、ついには彼岸を共にして、あまねく迷い(六道)の世界の情あるものたち(含識・がんしき)も苦の縁から離脱をして、同じくさとり(菩提)に赴くことをと願い、最後に「司馬鞍首止利仏師(しばのくらつくりのおびととりぶっし)をして造らしむ」と結んでいます。

 この「銘文」の中で特に注目するべきことは、この像は太子が薨去(こうきょ)される一カ月前から造り始められ、しかも、「釈像の尺寸王身なるを造る」という表現がなされていることであります。つまりこの釈迦三尊像は、太子のご病気の平癒を願って在世中から造り始められ、しかもこの釈迦像の寸法は、太子の身長に合わせた等身の像であるということです。これは一体何を意味しているのか、果たしてどのような思想的な背景があったのか、すでにあったとするならば、この七世紀の早い時期に、どのような経路で我が国に伝えられたのか。その可能性を辿ってみるのも意義のあることではないでしょうか。

 

 この釈迦三尊像や薬師如来像は、一般的に止利式と呼ばれ、また北魏様式ともいわれています。確かに北魂の後期(四九三〜五三四)の都洛陽(河南省洛陽市)にある龍門石窟(上図)では、石に彫られた仏像と金銅仏との違いはあるものの、よく似た仏像に出会えます。また、金堂の高欄に見られる卍字崩し(下図)や、人字形割束(下図)などの飛鳥時代独特の模様は、北貌前期(三九人〜四九三)の都平城(山西省大同市)にある雲崗石窟に見られ北魂(〔三八六〕三九八〜五三四)の時代のものに法隆寺のルーツと見で取れるものが多数あります。

▶胡族国家の仏教受容

 そもそも、中国に仏教が伝えられたのは紀元前後頃(中国では紀元前二年としている)のことで、北魏の成立はそれから四百年近くを経過しています。仏教伝来の初期は、すでに高い固有の文化を持っていた漢民族に受け入れられるには、なかなか難しい情勢にあったのではないかと思われます。しかし、華北(長江以北の地域)一帯が、胡族(漢民族以外の諸民族)の国々によって支配され西晋滅亡後は五胡十六国(三〇四〜四三九)といわれた興亡を繰り返す乱れた社会となり、それによって、中国における仏教流布の事情が一変することになります。

 これら胡族の宗教観は、漢民族のものとは大きな隔たりがあり、自然に対する畏敬から来る信仰や、シャーマニズム的なものがその主流であったため、仏教本来の教義的な受容よりも、外来僧の幅広い知識や霊験を期待し、その中に現実的な利益が求められたのは当然のことでしょう。これらの国々は、もともと固有の文化を持たない民族の国家であるために、漢民族のように自分たちの文化に固執することなく、むしろ外来の思想や文化を自由に取り入れることが可能な状況でありました。また、その為政者(いせいしゃ・政治家)は寧(むし)ろこれを受容し、多くの僧を自国に招き国政の助けと国内文化の向上を図ったので、仏教は隆盛し、飛躍的に発展を遂げたのであります。                                   こうして積極的に外来僧を国政に登用し、仏教の発展に寄与した先進的な国としては、仏図譜 (二三二〜三四人)を国政に参与させた羯(けつ)族(匈奴(きょうど系)の建てた後趙(こうちょう)(三一九〜三五一)。道安(どうあん・三一四〜三八五)を迎え入れた氏族(ていぞく・チベット系)の建てた前秦(ぜんしん・三五一〜三九四)。鳩摩羅什(くまらじゅう・三四四〜四二二)を国師として迎えた羌族(きょうぞく・チベット系)の建てた後秦こうしん・三人四〜四一七)。曇無識(どんむしん・三人五〜四三三)を政治顧問とした匈奴(きょうど)の建てた北涼(ほくりょう・三九七〜四三九)などを挙げることができます。そして、これらの仏教先進諸国の思想文化を吸収し、更に独自の文化を打ち立てたのが北魏であったと思われます。

▶初期の北魂仏教

 さて北魂は、五胡十六国の時代に一時、華北を統一した前奏の崩壊の後、途絶えていた代(だい)の王として鮮卑(せんぴ)族の拓跋珪(タクバツケイ)が立ち、年号を登国元年(三八六)と定め、国号を代から魏と改めたのがその始まりです。その後、天輿元年(三九八)に拓跋珪盛楽(せいらく・内蒙古自治区和林格爾付近)から平城都を移して皇帝の位につきました。これが太祖道武帝(〔三八六〕在位三九八〜四〇九)です。そして、北魏も他の多くの胡族国家と同様に、その仏教に対する考えの影響を受け、優れた人材としての高僧を求め、仏教を保護しました

 道武帝は平城に遷都すると、五級の塔を建てるなど伽藍を建立し、自らも仏教を信奉すると同時に手厚い保護を加え、皇始二年(三九七)には、尊崇する沙門(しゃもん)の法果ほうか・四世紀前半〜四一六)を道人統(どうじんとう)に任じています。これが僧官の初めとされていますが、これによって僧尼の集団の体制が整い、秩序も保たれたと伝えられ、さらに続いた明元帝(めいげんてい・在位四〇九〜四二三)や太武帝(在位四二四〜四五二)も仏教を厚く保護したので、平城をはじめ北魂国内では、大いに仏教は盛んとなりました。特に太武帝は、関中(かんちゅう・陝西せんせい・省渭水・いすい・盆地一帯)から平城へ来た曇始(どんし・四世紀末〜五世紀後半)を重んじたと伝えられています。

 また、太延五年(四三九)には、匈奴(きょうど)族の国家である北涼を滅ぼして華北をほぼ統一し、中国はこれより北朝の北魏と南朝の劉宋(四二〇〜四七九)との並立の時代、南北朝時代(四三九〜五八九)に入ります。太武帝が北涼を滅ぼした時、その国の人々を北魂の都平城へ強制移住させたのですが、当時としては通常のことであったようです。人々と共に北涼の文化や技術、思想など全で北魂に移入されることになったのです。北涼はこの時すでに漢族の国西涼(四〇五〜四二〇)を併合していて、その領域には敦煌も含まれていました。結果として北魂仏教も色濃くその影響を受けると共に、西域への窓口も開き、さらに発展したであろうことは想像に難くないでしょう。涼州平定の際、平城へ連れて来られた人々の中の玄高(四世紀末〜四四四)という沙門(しゃもん・仏教の修行僧)は、太武帝の太子拓抜晃〔たくばつこう・景穆帝・けいぼくてい(四五二諡号・しごう?)〕の教育を委ねられた僧で、この玄高の感化を強く受けた晃は、後の父太武帝の仏教弾圧を阻止しょうとしたものの達成することができなかったという話はよく知られています。

 太武帝は道教(黄帝と老子を開祖とする黄老の道)を成立させたとされる寇謙之(こうけんし・三六三〜四四八)の新天師道(しんてんしどう)を信仰するようになり、この寇謙之と要職の司徒であった浩(さいこう?〜四五〇)の計略により、仏教不信となって太平真君七年(四四六)に中国仏教史上最初の廃仏が行われ、これを魏武の法難といいます。一般的には、鮮卑族という漢民族ではない王朝である北魂を、文化面において漢民族の思想で征服しょうと策謀したものと見られています。一方、仏教教団の急激な発展は、寺院や僧尼の異常な増加によって、それが国の経済を疲弊させたこともその原因となったと考えられています。また、爆発的に膨張した教団は、僧尼の質の低下や堕落を生み、教団自体の腐敗を招く結果となり、これらのことが廃仏を断行させた直接の引き金となりました。

 この廃仏によって僧尼は強制的に還俗を強いられ、造寺や造仏に携わる技能者たちは仕事を失ったことはいうまでもないことですが、このような状況のなか、国の方針に従わず山中に隠遁したり、周囲の国や地域に逃避した人も少なからずあったことは十分考えられることであります。特に仏教が行われていた当時の南朝の劉宋や朝鮮半島、ことに高句麗(紀元前三七〜六六人)などには、多くの人が難を避けて流れていったものと思われます。

▶北魏仏教の復興 

 六年間に及んだ法難も、太武帝が崩じて文成帝(在位四五二〜四六五)が即位し、文成帝は父の太子晃の遺志に従って、輿安元年(四五二)十二月、復仏の詔が発せられ、これによって北魂の仏教も急速に回復し、以前にも増して栄えることとなりました。復仏にあたって文成帝は、諸州都県に各一力寺を建立し、大州五十人、小州四十人、地方の郡十人の出家を認め、廃仏の時還俗していた罽賓国・けいひんこく(普通はカシミール、この時期はガンダーラ)出身の師賢(しけん?〜四六〇)を再度剃髪させて道人統(どうじんとう・政府から任命されて,教団を統率し宗教業務をつかさどる僧)に任じ、仏教復興政策を進めました。

 そしてまた輿光元年(四五四)の秋、平城の五級大寺で太祖以下の五帝の追善供養のため、丈六の釈迦立像五体を鋳造しました。これを帝身像といいます。この太祖以下の五帝というのは、祖道武帝・大宗明元帝・世祖太武帝・恭宗景穆帝・高宗文成帝と見られ、この時文成帝は在世の皇帝であります。つまり、生存している皇帝のためにも釈迦像が造られたということで、丈六と等身、立像と座像、皇帝と太子の相違はあるものの、そこには法隆寺の釈迦三尊像の造顕に繋がる共通性を観ることができます。

 また文成帝は、復仏の翌年輿安二年(四五三)に、先の仏教弾圧の時、還俗を拒んで中山(河北省走県)に逃避していた曇曜(どんよう・五世紀)を平城に召還しています。この曇曜は、先の師賢と共に北涼から平城へ来た人で、太子晃の尊敬した僧の一人でもありました。雲崗石窟は、最初に造営された五大窟を特に曇曜窟(西方の十六窟〜二十窟・上図左)といい、曇曜によって始められ、五帝の追善供養のためと、太武帝の廃仏に対する懺悔滅罪(ざんげめつざい)のために開窟されたといわれています。和平元年(四六〇)に道人統の師資が没し、曇曜が沙門統となり、北魂の仏教はさらに隆昌となり、続く献文帝(在位四六五〜四七一)の時、皇輿元年(四六七)に高さ百メートルに及ぶ七級の塔を建てで永寧寺を造営し、当時は天下第一の大寺といわれました。

 次の孝文帝(在位四七一〜四九九)の時代、『親書』の記すところによれば、太和元年(四七七)に平城では寺は百余力寺、僧尼は二千余人、四方(国内)では寺は六千四百七十八カ寺、僧尼七万七千二百五十八人とあり、如何に急速な発展を遂げたかを想像することができます。そしてこの後、北魂の都は孝文帝によって太和一七年(四九三)平城から洛陽へと遷都され、龍門石窟古陽洞が掘り始められる(四九五)など、北貌の仏教はますます盛んとなり、洛陽文化の花が開いたのであります。このような北裁の仏教文化は周辺諸国に強く影響を与え、それは私たちの予想を遥かに超えたものであったと思われます。

▶朝鮮半島の仏教受容

 さて、一方、我国の飛鳥時代初期に仏教と共に伝えられた文化や技術は、朝鮮半島の諸国、高句麗・百済・新羅を通じてもたらされました。では、仏教が中国からこれらの国々に、どのように伝えられ発展してきたのかということを考えねばならないのですが、資料も僅かで、その実体については不明な点が多く、詳細な説明が付きにくいというのが実情であります。                                                               この地域に仏教が伝えられたのは四世紀末のことで、高句麗の小獣林王二年(しょうじゅうりんおう・三七二)に、前秦の符堅・ふけん(ぜんしん・在位三五七⊥二八五)の命によって、僧順道と仏像や経論が高句麗に送られたのがその最初とされています。またその翌々年、小獣林王四年(三七四)には秦僧の阿道高句麗に入り、さらに、小獣林王五年(三七五)には、肖門寺・伊弗蘭寺 (いふらんじ)が建立され、肖門寺には順道伊弗蘭寺には阿道を置いたことが伝えられています。さらに、故國壌王九年(三九二)には、『三国史記』や『三国遺事』によると、高句麗は仏教を崇信(すうしん・あがめ信じること)し福を求めたことが記され、その翌年の廣開土王二年(こうかいどおう・三九三)には、平壌に九寺を建立したと記されています。

 次に、百済については、枕流王元年(ちんりゅうおう・三八四)に東晋(三一七〜四二〇)より胡僧の摩羅難陀(まらなんだ)が来たのをその最初とし、枕流王二年(三八五)には、漢山に佛寺を創建して、十人の僧を度したと伝えています。このように四世紀末には、高句麗や百済に仏教はすでに伝えられ、寺院の建立も始まり僧も度され、その後発展の道を歩んだであろうと推測されます。地理的な視点からも、高句麗や百済においては仏教を受け入れる下地がすでにできていたものと思われます高句麗は北朝から、百済は南朝からの受容が主流であったと考えられ、互いに交流融和して、さらに成熟し、高い水準の文化や技術、思想となり、その内容は中国にほぼ近い状態にまで発展していたものと思われます。太子の研鑽され著わされたこ「三経義疏(さんきょうぎしょ)』についても、高句麗の慧慈(えじ・?⊥ハ。三)から学んだものがその主であると考えられますが、その思想内容には、南北朝期の江南(こうなん・長江以南の地域)仏教、特に南梁(なんりょう・五〇二~五五七)武帝(在位五〇二~五四九)時代の影響を強く受けていることからも窺い知ることができます。

 新羅においては、五世紀中頃から仏教に関する伝承が見られるようになり、新羅の訥祗(とつぎ)王(在位四一七~四五八)の代に高句麗僧の墨胡子(ぼくこし)が新羅に入ったという記録が初見とみられます。またその後、炤智王(しょうちおう・在位479~500)の代に我道(がどう)等が新羅に来たことも伝えられていますが、『三国史記』や『三国遺事』では、法輿王(ほうこうおう・在位五一四~五四〇)十五年(五二八)に「肇(はじめ)て仏法を行う」とあり、それ以前の伝承は非公式ということでしょう。しかし、『三国史記』に、その翌年の法輿王六年(五二九)には殺生禁じたと伝えられるなど、仏教は急速に普及したものと思われ、『三国史記』や『三国遺事』にも、仏教関係の記事がにわかに増えてきます。記録上での新羅の仏教受容は、我が国より少し早いだけですが、隣接する高句麗や百済が早くから仏教を受け入れ隆盛しでいたであろうことや、その地域的事情を考えても、非公式にはかなり早い時期から仏教思想が伝播しでいて、急速に広まる下地は十分整っていたと見られ、我が国における仏教伝来時の事情とはかなり異なっていたと考えられます

■むすび

 このように見てまいりますと、我が国の飛鳥時代初期に伝えられた仏教思想や文化、技術が、おおよそ二百年という永い歳月を中国や朝鮮半島の内で育まれ、洗練されてきたものであることを考えれば、隆寺の金堂や釈迦三尊像、そしてその制作理念を北魂に求めることができたとしでも、それは決して不思議なことではないのです。

(おおの・げんみょう 法隆寺管長)