■中世九州・琉球の禅宗世界
伊藤幸司
▶博多禅の展開
日本で最初に禅宗が本格的に展開した地域は、古代以来、大陸に開かれた日本最大の国際貿易港博多であった。平安末〜鎌倉期の博多では、大陸貿易を担った宋商人(中国人海商)が集住し、唐房(チャイナタウン)を形成していた。彼らは、現在でいえば華僑のような存在で、博多綱首と言われていた。彼らこそ、故国南宋で繁栄していた最新の仏教である禅宗を博多に持ち込み、禅寺を建立した張本人であった。その端緒となったのが、鎌倉初期に創建された聖福寺(江戸初期に妙心寺派へ転派)である。
聖福寺は、南宋の江南禅林で修行して帰国し明庵栄西(一一四一−一二一五)を開山とし、博多網首張国安らが開基となって誕生した日本初の本格的を禅寺であった。それを誇るかのように、山門(上図)には後鳥羽上皇(一一人〇−一二三九)から得ねと伝えられる「扶桑最初禅窟」(日本で最初の禅寺の意)の勅額〔作品番号57〕を掲げている。栄西は日本臨済宗の祖として京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を開創しているが、聖福寺の創建はそれを遥かに遡る。
聖福寺の誕生以後、博多の承天寺(じょうてんじ)や太宰府の崇福寺(そうふくじ)へ移転)のような大陸と直結した禅寺が次々と創建され、「博多禅」という特有の禅宗文化が華開いた。博多禅の特徴は、大陸貿易との関わりの深さであら、陶磁器に代表される世界最先端の中国文物の多くが博多の禅寺を経由して日本国内に持ち込まれた。以後、禅宗は京都や鎌倉のような政治都市のみならず、海陸交通の結節点である港町でも展開していく。江南禅林(中国禅宗界)と直結し、中国式の生活様式が導入され、中国の文物で飾られね日本の禅寺は、いわば日本のなかで中国的世界を醸し出す異空間であった。
十三世紀の蒙古襲来という未曾有の対外的危機は、九州の禅宗界にも大さを影響を与えた。鎌倉の北条政権は、最新の大陸事情を携えて帰国した南浦紹明(一二三五−一三〇八)(南浦 紹明(なんぽ しょうみょう、嘉禎元年(1235年) – 延慶元年12月29日(1309年2月9日))は、鎌倉時代の臨済宗の僧。出自については不詳であるが、駿河国安倍郡の出身。諱は紹明(「しょうみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は南浦。勅諡号は円通大応国師。〔下図〕)という禅僧を、対モンゴル外交の補佐役として九州に下向させている。
彼は、北条一門の代表として九州に滞在した北条時定(一一四五−九三)によって、筑前姪浜(博多湾内の港町)の興徳寺に迎えられてた(後に太宰府崇福寺へ移動)。この頃、大陸から帰国していた蔵山順空(ぞうざんじんくう・一二三三−一三〇八・上図右)や寒巌義尹(かんがんぎいん・一二一七−一三〇〇)のような北条得宗と関わりの深い禅僧も、九州の在地領主の支持を獲得して肥前(高城寺)や肥後(河尻大慈寺)に拠点を構えている。北条政権は、入宋し大陸情報に精通した禅僧を、九州の交通の要衝に配置することで、蒙古襲来への対応策としたのである。
▶外交僧を輩出する九州の禅寺
十四世紀後半、大陸で明朝が成立し、朝貢・海禁体制という新たな外交秩序が導入された。中国人の海外渡航を禁止し、諸国の国王使船のみ受け入れるというこの政策は、それまで東アジア海域世界の物流を担っていた中国人海商の活動を事実上否定するものであり、明朝をめぐる東アジアの海域交流の場から民間貿易船が締め出された。日本の場合も、明朝との通交を許されるのは、日本国王たる室町殿名義の遣明使に限定されたのである。
ここで遣明船の外交官として起用されたのが、大陸事情に精通し、漢文能力にも長けた禅僧たちであり、彼らは外交僧として明朝に渡航することができた。
しかし、明朝が導入した外交秩序は、日中間の交流を極めて限定的にするものであら、それまで活発な相互交流が行われていた日中の禅宗界は次第に疎遠となり、徐々に日本禅林からは大陸臭が薄らいでいった。同時に、このことが中国的を文化であった禅宗の日本化を促進し、現在我々が眼にする日本伝統文化としての日本禅宗の姿への変貌をもたらしたのである。
中世後期における日本の外交活動は、京都五山僧のみならず西日本地域で展開する港町の禅宗勢力によって支えられていた。特に、平安末期以来、大陸との交流を最前線で担ってさた九州の禅宗勢力は、対外交流の実践的なノウハウに精通していた。以博多の慈雲禅庵の天真融適(てんしんゆうてき)が被虜人(倭冠によって拉致された人)を送還する朝鮮通交貿易を展開し、同じく博多の妙楽寺が「寺は遣唐使(道明使)の駅たり」と呼ばれ、志布志大慈寺(図下)の僧が大陸から宋版大蔵経を輸入している事実などは、そのことを端的に示している。
こうした外交僧の活動は、戦国期になると博多聖福寺を拠点とする臨済宗幻住派(けんじゅうは)という勢力によって掌握されていく。
幻住派は、室町・戦国期の日本禅林で行われていた蜜参禅を体系化し、本来、一流相承を原則とした禅宗の嗣法関係(師弟関係)に、多重僧籍((僧籍=宗派ごとの戸籍は持てない事になっている)を認める特徴を備えていた。これが、戦国期の禅宗界の実情に合致していたため、幻住派は日本禅林で急速に勢力を拡大し、中央の京都五山をも席巻するほどであった。こうした聖福寺の臨済宗幻住派という外交僧として抜擢(ばってき)していくのが、同寺を外交僧供給の人的基盤としていた周防の大内氏である。その象徴ともいえるのが、大内氏がその経営を独占した第十八次遣明船の正使に抜擢された湖心碩鼎(こしんせきてい・一四八一−一五六四)である。以後、湖心碩鼎の弟子筋からは、対馬宗氏のもとで以酎庵(いていあん)を開創して朝鮮通交を司った景轍玄蘇(けいてつげんそ)(一五三七−一六一一)・規伯玄方(きはくげんぽう・一五八八−一六六一)や、豊臣・徳川政権の外交ブレーンとして活躍する西笑承免(せいしょうじょうたい・一五四八−一六〇七)らのように、外交の最前線で活躍する外交僧が多く輩出された。
▶禅琉球禅林の誕生
琉球における禅宗の本格的な展開は、十五世紀中頃以降、日本から多くの禅僧が渡琉したことで始まる。その象徴的存在が、一四六六年に琉球国王使として来日し、琉球の外交官として重要な交渉に当たった芥隠承琥・かいいんじょうこ(?−一四九五)という禅僧である。
彼は京都南禅寺語心院(ごしんいん)の徒で、臨済宗りょう伽派に属し、薩摩宝福寺の字堂覚卍(曹洞宗)に師事した後、十五世紀半ば過ぎ頃に渡琉した。披は琉球国王の帰依を獲得し、当地に天界寺や天王寺など多くの禅寺を開創するのみならず、多数の梵鐘の銘文起草にも携わり、十五世紀末期には首里城の隣接地に建立された尚王家の菩提寺で、琉球最高位を誇る円覚寺(下図)の開山ともなった。円覚寺住持は、琉球禅僧を統制管理する僧録を司っており(当初は天王寺住持が琉球僧録)、この頃には琉球王国において琉球禅林と呼ぶに相応しい様相が整ったことが分かる。
琉球僧録は、琉球王国における対日外交を司る外交担当部局の役割も担っていた。琉球で仏教興隆が図られ、特に小型の禅寺が多く作られた背景には、対日外交を司る外交僧確保の意味合いもあった。日本人鋳物師が製作した和鐘を装備する琉球の禅寺は、琉球天王寺跡(現在はキリスト教会となっているが、石垣のみが残る)
王国のなかで「ヤマト」的なモノを示す装置でもあった。琉球へは多くの日本僧が渡琉し、同時に多くの琉球僧が日本に参学していた。那覇には、日本から渡琉してきた禅僧や商人をはじめとする日本人たちが集住し、日本の宗教施設が立ち並ぶ倭人居留地(日本人町)も形成されていたという。
一万、来日した琉球僧たちは、日本禅林の高僧に参禅する者もいたが、なかには関東の足利学校まで赴いて宋学(儒学)を学んたり、堺商人の主催する茶会に出席する者もいた。また、実際に海を越えることなく、琉球に居ながらにして日本の高僧と詩文の応酬を重ねる者もいた。日琉禅林の相互交流は、我々が想像する以上に活発に行われていたのである。両者の交流を仲介したのは、日本-琉球間を往来する貿易商人であり、日琉禅僧は彼らの商船に便乗することで海を渡ることができた。日琉間の人・モノ・情報の交流によって、日本禅林と琉球禅林はいわば相関関係の状態にあったのである。
こうした日琉禅林の交流を基盤として、琉球王国の対日外交は遂行されていた。琉球王国が日本へ派遣する外交使節(琉球国王便)には、芥隠承琥(一四六六年・足利義政)、天王寺住持檀渓全叢(だんけいぜんそう・一五二六年・足利義晴)、建善寺月泉和尚(一五五六年・島津忠良・貴久)、天界寺修翁和尚(一五七七年・島津義久)、天龍寺・さくいんそうい・住持桃庵祖昌(一五八九年・豊臣秀吉)、西来院菊隠宗意(一六〇九年・徳川家康)など琉球禅林の禅僧が起用されているが、彼らの多くは日本からの渡琉僧(芥隠は元京都五山系禅僧、檀渓は薩摩出身)か、京都・堺などの日本禅林に参学(菊隠は大徳寺北派に歴参)した経験を有していた。
■薩琉交流と禅宗
琉球王国と最も積極的に交流を行ったのは、南九州の島津氏である。十五世紀後半、島津氏は室町政権-琉球間の仲介者として、また南九州の支配者として琉球との外交関係の緊密化を必要とするようになっていた。島津氏は、大内氏の外交僧であった桂庵玄樹(けいあんげんじゅ・一四二七-一五〇八 挿図7)を迎えることで、対琉球交渉に必要な実践的外交知識の獲得を試みた。
彼は延徳年間(一四八九-九二)には、日向の島津息廉(島津豊州家)にも招聴されている。豊州家は独自に琉球との関係を形成する中で、大内氏の琉球通行や遣明船派遣活動も補佐していたしていた。この両者を結び付けていたのが、桂庵玄樹でありその弟子である外交僧月渚英乗(げっしょえいじょう・一四六五−一五四一)であった。宋学にも精通していた桂庵玄樹の南九州滞在は、当地に薩南学派と呼ばれる儒学の一派の繁栄をもたらしている。
以後、南九州地域は桂庵玄樹の弟子筋から外交を担う人材が多く輩出されたため、外交僧の人的供給拠点として成長した。その代表が、雪岑津興(せっしんしんこう・仏光派・ぶっこうは)であり、桂庵玄樹の四世孫・文之玄昌(ぶんしげんしょう・一五五五−一六二〇)である。雪岑津興は、島津氏重臣町田一族で伊集院広済寺住持の時に使僧として琉球へ渡海するのみならず、カンボジア国王尭の外交文書も起草している。俗弟に京都大徳寺の蘭叔宗秀(らんしゅくそうしゅう)がいるので、京都との人脈も有していた。文之玄昌も島津氏の外交ブレーンとして、明・琉球・東南アジア諸国に対して発給した外交文書を起草していることが、その詩文集『南浦文集』から分かる。その他、島津氏は大隅安国寺住持雪庭西堂(せっていせいぞう・一五〇八年)、りょう厳寺住持茂林秀繋(もりんしゅうはん・一五六五年以後)らをその使節として琉球へ派遣していることが確認できる。琉球の外交僧には、島津領国出身の者や、法系的に島津氏の外交僧と繋がる者もおり、薩琉関係は海を越えた禅宗ネットワークを介して展開されていたのである。当然、琉球禅林が南九州地域の禅宗文化の影響を強く受けていたのは間違いない。
(いとう こうじ 山口県立大学国際文化学部准教授)