南禅寺の歴史(近世)
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田良島 哲
(東京国立博物館情報管理室長・日本中世史)
■南禅寺の復興と以心崇伝
応仁の乱で一山が焼亡した後、境内建物の再建は進まず、寺領の多くは武家に押領されて有名無実となっていた。南禅寺の窮状を救ったのは、豊臣秀吉による天↑統一である。『南禅寺文書』には、寺領を保障した秀吉の天正十九年九月十三日「南禅寺領安堵目録」(南禅寺文書三〇三号)が残されている。それによれば、寺領は南禅寺門前の一〇三石の他、京都近郊の深草・稲荷・西院・西京壷川など計五九二石余りであった。さらに徳川家康の覇権が確立し、ひとまず戦乱が収まると南禅寺はようやく復興の賭についた。
この時代の南禅寺の復興を主導するとともに、江戸幕府初期の政治に深く関わったのが、南禅寺第二七〇世以心崇伝である。崇伝は永禄十二年(一五六人)に生まれた。一色氏の一族という。少年の噴から南禅寺で惨いしんすうでん行した。若くして頭角を現し、すでに二十六歳で官寺の住職となった。慶長十年(一六〇五)三月に家康から南禅寺住持俄に任じられ、同年五月に入寺している。三十七歳の若さでの異例の昇進であった。折りしも慶長九年の亀山法皇三〇〇年忌を横に伽藍の復興計画が本格化し、住持就任に相前後して崇伝は伽藍の整備に奔走することになる。まず儀礼の中心となる法堂の新造が計画された。これは豊臣秀頼を施主とし、その側近片桐貞隆を普請奉行として着工され、慶長十一年七月には完工、供養の行事が盛大に行われた。
さらに崇伝は、同時期に行われていた禁裏(皇居)の造営に伴って不要になった御殿一棟を南禅寺に寄付されることを公家・武家にはたらきかけて、成功した。これが現在の南禅寺本坊大方丈(国宝)である。慶長十六年 せいりょうでんはいりょうゆいし上がきに移築が行われた。この時に崇伝をはじめとする関係者の間で取り交わされた書状類は「清涼殿拝領由緒書」(恥撃と題して一括されている。さらに、寛永五年には古い三門に変わって、新しく三門が造営された。現在の三門(重文)である。その他、寛永末年頃までには、勅使門(重文)・鐘楼・惣門・脇門(中門)等が新造され、中世末に衰微していた南禅寺の伽藍は面白を一新した。法堂は不運にも明治時代に焼失したが、その他の建築は今に伝わり、往時の伽藍の姿をしのばせるものとなっている。
崇伝はまた、自坊である金地院の整備にも力を注ぎ、方丈・茶室(いずれも重文)がこの時斯道営されている。さらに堂舎の造営とともに、経典の整備にも力を入れ、慶長十九年には、末寺の摂津兵庫の禅昌寺にあった宋版を主とする一切経を南禅寺へ移している(恥68 69)。
■初期幕政における崇伝の事跡
南禅寺の復興と並行して、崇伝は家康の知遇を受け、京都・駿府・江戸の問を往来し、家康から家光に至る三代の側近として、江戸初期の政治史に大きな役割を果たした。その事跡は(1)外交文書の起草、(2)法令の作成、(3)寺社の統制、(4)学芸の振興などに及んでいる。創業まもない江戸幕府にとって、その支配に正統性を与えるためにも、中世禅院に蓄積され、崇伝が体得した学識は欠かせないものだったのである。
外交文書の起草や外交使節を臨済宗の禅僧が行うのは中世以来の伝統で、室町幕府が明に送った勘合船も正使は禅僧が勤めていた。崇伝はこのような伝統の上に、新しく加わった東南アジアやヨーロッパ諸国とのやりとりについても、幅広く担当した。江戸時代前期に江戸幕府が文書の交換を行った地域は、安南(ベトナム)、邁羅(タイ)、東哺秦(カンボジア)、など広く現在の東南アジアに及んでいるが、お互いに文化も言語も異なる諸国の間で意を通じることができたのは、すべて外交用の公式言語として、漢文が採用されていたためである。ポルトガル領マカオやスペイン領マニラの植民地行政府でさえ幕府あてに漢文の文書を送ってくることもあった。せいし上うじょうたい かんしつけりんきつ金地院に伝わる「異国日記」(恥105、挿図1)は崇伝の前任者である西笑承免、閑室元倍以来の外国人の来日に関する事務、外国からの文書とそれに対する応答の経緯を集成したもので、この時代の外交業務に関して欠かすことのできない史料である。
幕府は、統一政権として法による支配を目指した。崇伝は、元和元年(一六一五)の「禁中並公家諸法度」「武けし上はっと家諸法度」(m畑)などを起草しており、重要な役割を果たしている。また、中世には大きな社会勢力であった寺社の統制は、幕府創設以来の重要な政治的課題であり、有力な諸本山寺院に対しては法度を出して統制を図ったが、その原案の多くは崇伝の作になるもので、元和元年には「五山十剰諸山法度」をもって前時代から政権と密接な関係にあった臨済宗寺院の規範を定めた。また幕府は、室町時代においては相国寺にあった僧録磯(禅宗寺院の統制機関)を廃し、新たにその長官である僧録司に崇伝を任じた。このような政治面での種々の挿図1異国日記2う施策はその多くが崇伝の日記『本光国師日記』(恥101、挿図2)に記されている。『本光国師日記』は日記と名づけられてはいるが、内容の大半は崇伝に関係した往復書簡の記録であり、江戸時代初期の歴史に関しては必ず引用される基本的な史料である。
学芸面においても崇伝は、閑室元借の行った古活字版開枚を引き継いで、駿府で活字による『大蔵一覧』『群書治要』の出版に林道春とともに携わっている。また慶長十九年には、家康の命により京都の公家・寺社から『日本書紀』や『延書式』などの古典籍や古記録を借用し、五山僧を動員して書写を行わせた。
元和二年に家康が死去してからも秀忠・家光に仕え、寛永三年にはその功漬により特に「円照本光国師」の号を賜った(恥98)。生前における国師号勅許は異例のことである。その後も、紫衣事件とそれに続く後水尾天皇の譲位問題の収拾に尽力するなど、晩年までその活動は続いたが、寛永九年には病の床につき、翌寛永十年(一六三三)正月二十日に江戸で死去した。六十五歳であった。
崇伝は「黒衣の宰相」と呼ばれ、大坂の陣のきっかけとなった「国家安康、君臣豊楽」の鐘銘の解釈を案出したといわれることなどから、「政僧」としての印象が強いが、むしろ、伝統的な湊学の学識を武器とした実務家である。腕っぶしでかたをつけようという戦国の気風が残る時代に、善かれた法をもって行う統治のしくみを作ろうとした人物であった。新しい時代にそのような知性が必要であることを痛感していたのは、自身は終生戦場を離れることができなかった家康その人であったにちがいない。
■江戸時代の南禅寺
幕府の寺院統制は、建前としてすべての寺院を本寺−末寺の関係(本末関係)の中に位置づけ、種々の法令や指示は本寺を通じて行った。前の時代からの宗教的なつながりをはじめ、寺院の檀那である武家との関係やその他のさまざまな要因に基づいて多くの寺院が末寺に編入された。南禅寺の場合、さまざまな摩擦を伴いながらも元禄年間(一六八八〜一七〇三)には本末関係が完成した。いわゆる「南禅寺派」である。末寺自体もさらに末寺を持つこともあったから、末寺には、孫末寺−曾孫末寺も含んでいた。延享三(一七四六)年に作成された南禅寺派に所属する寺院の名簿である「南禅寺派下本末牒」(南禅寺文書付一号)によれば塔頭・末寺等あわせて八〇九ケ寺にのぼっている。
南禅寺内では、江戸時代前期に塔頭として天授庵が復興された他、光雲寺・清涼院・金剛院・済北院・大寧院・寿光院などが再興あるいは新造された。さらに元禄年間には、亀山法皇の遺跡である南禅院の復興が企てられ、一山の支持を得て、法皇四〇〇年御忌を目指して造営が始まった。工事中に鎌倉時代の古墓を掘り当てるという事件などもあったが、予定どおり宝永元年(一七〇四)には本堂及び庫裏が完成し、御忌の大法会を執行した。こうして、江戸中期には、本寺の伽藍をはじめ、二十五の塔頭が軒を並べるにいたった。
支配関係の安定と境内の整備が実現すると、禅院本来の姿である禅道の興隆と学問の振興が強調されるようになった。享保年間(一七一六〜三五)には、南禅寺は他の臨済宗寺院と共同で修行の場(連環結制)を設ける一方、僧堂の建設を図るなど、禅道修行が行われる体制を作ろうと努力した。連環結制は幕末まで存続し、僧堂は多くの困難があって、その建設は一度は頓挫したが、開山大明国師五〇〇年忌を目標として計画が起こり、寛政八(一七九六)年には竣工を見た。また学問の振興という面では、享保四(一七一九)年に、毎月主題を決めて住僧が漢詩文を作る詩聯会が始められ、幕末まで続けられた。
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