栄西の事跡と建仁寺の建立

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高橋裕次

■はじめに 

 日本に禅宗を広め、茶の習慣を伝えた「茶祖」として知られる栄西(一一四一〜一二一五)について、日本仏教史のなかで、新しい仏法をもたらした人物であるとしたのは、虎関師錬著(こかんしれん)『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』(下図)である。近年、その全体的な人間像や禅のあり方に新たな理解や再評価が行なわれている。密教僧としての修行や、研究・著述、入宋で得た知識や経験は、その後の栄西の動向に大きな影響を与えた。ここでは、その人物像を示す伝記類や新出の資料なとを参考に、二度の入宋や、東大寺での活動なと、栄西の事跡をたとりながら、京都ではじめての禅宗寺院である建仁寺を完成させる過程で、栄西の禅がどのようにして形成されたかを考えてみたい。

57 元亨釈書

 

■栄西とその周辺

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 永治元年(一一四一)備中国(岡山県吉備津宮の賀陽氏の一族として生まれた栄西は、十一歳で安養寺の静心に師事し、十四歳で落髪し出家をした。法兄の千命に従い、十八歳のとき授けられた虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)は、すぐれた記憶力と理解力とを獲得する修法であった。以後、天台の教学を学び、伯耆国(ほうきのくに・鳥取県)大山寺の基好のもとで密法を受け、再び叡山(比叡山別名)にて顕意の密教を相承した。さらに博多に赴いて、李徳昭より禅宗の盛んな宋国の仏教事情を聞き、入宋を志した。平安末期の叡山においては、栄西より以前に禅宗に対する関心の高まりがあり、禅を学ぶために入宋した人物は栄西の前に覚忍、能忍などがいる。入宋には、莫大な資力が必要であり、再度におよんだ栄西の周辺には、入宋および前後の活動を支える経済的な基盤や、国際的なネットワークがあったのであろう。

■密教の研究と入来

栄西マップ

 仁安三年(一一六八)四月に商船に乗って入来し、のちに東大寺の再興に尽力した俊乗房重源と出会い、天台山万年寺で羅漢に茶を供養し、九月に同航して帰国した。その際に持ち帰った「天台新章疏三十余部六十巻」を、天台座主の明雲(みょううん・一一一五〜八三)に献じていることから、入宋に際して、平清盛の戒師であった明雲による支援や、平家が推進した日宋貿易の経済力があったのではないかと推測される。

 改偏教主決29

 その後、栄西は、今津の誓願寺において、宋版一切経の到来を待つ間、仏書の研究、著述に専念している。最近、名古屋の大須観音宝生院より、栄西の著作である「改偏教主決(かいへんきょうしゅけつ)(上図左)をはじめ、従来知られていなかった「無名集」、「隠語集」などの成立間もない頃の写本が発見された。栄西は「誓願寺孟蘭盆一品経縁起(せいがんじうらぼんいっぽんぎょうえんぎ)」(上図右)のなかで、自ら「備州に生じて少年に出家す、志は秘密教に有って、多年苦行す」とのべており、密教の研究がもっとも充実していた時期である。また「菩提心論口決」など、悟りを求める心である菩提心を重視している点に、のちの禅・律の受容に結びつく栄西の密教の実践的な性格をうかがうことができる。

 文治三年(一一八七)、再度入宋し、インド行きを申請するが、政情不安から許可が下りずに断念し、帰路についた。三日間漂流して温州にたどり着き、たまたま立ち寄った天台山万年寺において虚庵懐敞(こあんえじょう)より、密教と禅は本質を同じくすると教えられ、参禅して臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の禅を学んだ。栄西は台密という基盤の上に禅を受法する独自の禅風を掲げたといえる。また、求めに応じて祈雨の法を修し、万年寺なとの伽藍の復興にも尽力しでいる。さらに滞在中に一切経を読むこと三度におよんだと伝えており、一切経をふまえた広い知識とあわせて、これまで日本になかった坐禅の儀や、如法の大袈裟なと、宋風の本格的な禅院作法を行なうようになったと思われる。建久二年(一一九一)の帰国に際して、懐敞より法衣と、嗣法の印可を授けられた。栄西は楊三綱の船で平戸葦浦に着き、八月には小院を創められて禅規を行ない、翌年には天童山の千仏閣修造の用材を送って造営を援助している。栄西が日本にもたらした禅がどのようなものであったについて、具体的な資料は残っていないが、『輿禅護国論(こうぜんごこくろん)』(下図)やそのほか栄西の著書なとを分析することで、そのあり方を検討するのが課題である。

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■栄西の新しい禅

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 建久五年(一一九四)に京に上るが、栄西の新しい禅に対する風当たりは強く、叡山衆徒の反対で、磨宗の大日房能忍(だいにちぼうのうにん)とともに禅の布教は停止となった。栄西が京都進出を阻まれたのは、天台座主の慈円(じえん)による働きかけがあったと考えられる。慈円は明雲のもとで受戒したが、「明雪ハ山ニテ座主アラソイテ快修トクゝカイシテ、雪ノ上二五仏院ヨリ西塔マデ四十八人コロサセクリシ人ナリ。スぺテ積悪ヲゝカル人ナリ」と、激しく糾弾しており(「愚管抄』第五)、慈円は明雪が支持した栄西の活動にも大きな影響を及ぼしている。

慈円 聖福寺

 建久六年(一一九五)博多に日本初の禅宗寺院である聖福寺を建立した。その百堂の地は宋人が堂舎を立てていた旧跡であり、宋人を壇越(だんおつ)とし造営したものであろうが、栄西はそのための許可を鎌倉幕府に申請している(「栄西申状」〔恥18〕)。この頃を境として幕府との接近を積極的にはかり、聖福寺の完成を見ととけると九州の地を離れ、以後は京都、鎌倉にあっで活躍をするようになる。

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 翌九年、栄西が公開した主著『輿禅護国論』は、叡山を刺激することを避けながら、禅宗の一宗としての独立を宣言したものである。第二回目の入宋より帰った栄西の活動と著述については、慈円を意識していたことが最も重要な動機となっている。本書を著すにあたっては、その機会をうかがい、慈円が建久七年十一月に座主の職を辞し、明雲より天台教学を学んだ承仁法親王が天台座主に就任すると、すぐにその著述を開始したものと考えられる。『興禅護国論』では、各種の経典を典拠にあげながら、末法の時代において、戒律の実践を基本とする栄西の禅こそが鎮護国家に役立つと論じて、禅宗の公認を求めている。さらに栄西の禅宗研究の過程を示した上で、『禅苑清規(ぜんおんしんぎ)』などによって、禅寺の生活の規律や行事を詳細に記している。栄西が禅を学ぶきっかけとなったのは、二度の入宋によって、規則に従って実践を行なう禅寺のあり方に感銘し、そこに仏教本来のあるべき姿を見出したからではないだろうか。

■建仁寺の建立と仏法興隆

寿福寺

 関東に下向した栄西は、北条政子が建立した寿福寺の開山となった。当時、二度の入宋求法という経歴は、人々にとって驚きと尊敬の対象であったのであろう。鎌倉幕府のもとで栄西は、頼朝一周忌や、造仏造塔供養の導師をつとめでいる。建仁二年(一二〇二)には、栄西に帰依した将軍頼家によって寄附された東山の地に、京都で初めての禅宗寺院である建仁寺を建立した天台・真言(密教)・禅の三宗を置き真言・止観の二院を構えたのは、叡山との衝突を避けるための妥協であったといわれている。

 その二年後に著した「日本仏法中興願文(ぶっぽうちゅうがんもん)」は、仏法の興隆をもっぱら戒律の厳守に求め、三宗を併置するとともに念仏をも視野に入れている建仁寺をもって日本仏法中興の拠点とした。かつてはこれを「兼修禅」とみなし、「純粋禅」 にいたる以前の未熟な段階とする見方があったが、近年では、こうした密禅併修のあり方を、当時の社会状況にふさわしい栄西の禅の特徴として積極的に位置づけるにいたっている。また、栄西が幕府なとの権力に近づいたのも、仏法の興隆を目指していたためと考えられる。『興禅護国論』の末尾に付された「未来記」 で、禅宗が興隆するのは自分の滅後五十年のことだろうと記しているとおり、「臨済宗」が一つの宗派・教団としてのまとまりをふせるのは、鎌倉時代中期以降である。

正法眼蔵随聞記 76

 なお、栄西の弟子である明全(みょうぜん)の庇護の下に入宋した道元は、帰国後、しばらく建仁寺に身を寄せていた懐奘の著した道元の言行録である『正法眼蔵随聞記』(上図左)からは、道元が師の栄西に対して親愛の情をもっていたことがうかがえる。道元は、平家の護持僧として栄西を支持した天台座主明雲の法系に結びつく宿縁があったのである。元久二年(一二〇五)三月、朝廷は建仁寺を官寺とした。その翌年、栄西は重源(下図)のあとをついで、東大寺大勧進となった平成十五年(二〇〇三)に、名古屋市の大須観音宝生院にて「印明三十三過記」の紙背より新たに発見された在職中の栄西自筆の文書十七通(上図右)は、栄西が鎮護国家のシンボルといえる法勝寺の再建なとをとおして、荒廃した日本仏法の興隆につとめていたことを伝えている。鎌倉時代に東大寺大勧進となった僧侶十名のうち、七名が栄西およびその門流によって占められていることは、建仁寺の果たした役割を考える上で重要である

重源

 朝延の期待に応え、建保元(一二一三)年四月に落慶供養を終えた功績により、同年五月、栄西は権僧正の位に昇る。栄西が造寺造塔にかけて力量をもっていたことは、慈円も「葉上卜云上人ソノ骨アリ」(『愚管抄』巻六)として認めでいたが、慈円にとって、明雲に近い栄西が昇進を重ねていくことは何としても許せぬことであり、栄西の望んだ大師号宣下に強く反対したものと思われる。

■儀礼としての茶

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 栄西は茶種を将来し、晩年には『喫茶養生記』(上図左右)を著して、将軍実朝に茶をすすめたことから、「茶祖」と称されている『喫茶養生記』が、密教に根ざした身体論および養生観にはじまっていることは明らかであるが、心身を爽やかにして、養生長寿のためになる喫茶を、僧侶の行儀の重要な一環としてとらえているのは、生活の規律を仏法の基礎とする栄西の立場を示している。栄西は、入宋での体験や見聞、さらには中国で編纂された『禅苑清規』 にもとつく儀礼体系を、禅宗寺院に導入しょうとしたのである。鎌倉時代に発展した禅宗の世界から生まれた「茶礼」 は、生活のさまざまな面において遵守することが求められた作法=戒律が、禅院における独特の喫茶儀礼として発展を遂げたものである。そして、茶道成立以前の喫茶形式をよく伝えているのが、現在よつの建仁寺で毎年四月二十日、栄西の降誕会(誕生会)を記念して開催される四がしらちヤかいてんもく頭茶会である。その特徴の一つは、抹茶が入っている天日を会衆に配り、会衆が両手に持って差し出す天日に湯を注ぎ、その場で点茶をすることにある。かつて茶事の行なわれた場は、栄西の生きた時代を象徴するかのごとく、唐物荘厳による宗教的な雰囲気に満ちていたのであろう。こうした栄西の実践的な精神は、禅院の生活基盤として脈々と受け継がれている。

■おわりに

 中世を通じて、政権と文化の中心であった京都と鎌倉では、それぞれ五山を いらかはじめとする禅宗各派の大伽藍が甍(いらか)をならべ、公家・武家の上層部なとの信仰をあつめた。その新しい儀礼体系は、日本の顕密諸宗とは大きく異なる禅宗の魅力である。栄西が日本に移植した仏法の霊木である菩提樹の逸話は、国際的な文物の請来(しょうらい・仏像・経典などを請い受けて外国から持って来ること)が新たな仏法興隆と不可分であったことを象徴する。禅宗は、唐物や宋元の文化に対して憧憬をもつ北条得宗や後醍醐天皇、足利将軍なとの帰依と保護に結びついて発展した。無住が、「真言ヲ面トシテ、禅門ハ内行ナリキ」(『沙石集』巻第十未、下図)と評したように、栄西の仏教は総合的なものであったといわれる。栄西は、臨済宗の開祖というにととまらぬ、多方面にわたり新時代の画期をもたらした存在であったといえる。

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(たかはしゆうじ 東京国立博物館学芸企画部)