史跡樺崎寺跡

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■運慶海外流出か?

▶オークションに出品された大日如来像

山本勉

▶発見と研究・公開  

 2003年の七月、当時、この大日如来像を所蔵していた個人から照会の書状を頂戴した。わたしがその十六年前の論文で運慶作品として評価した、栃木県足利市の光得寺大日如来像によく似た像のスナップ写真が同封されていた。像を実見できたのは、その年の九月だったが、光得寺像同様、作風・構造技法のいずれもが運慶自身の特色を濃厚に示すことに息をのんだ。

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 明治まで光得寺像が伝来した足利市の樺崎八幡宮の前身は、足利義兼の開いた樺崎寺赤御堂(あかのみどう)で、光得寺像は樺崎寺の縁起を記した『鑁阿寺(ばんなじ)樺崎縁起并(ならびに)仏事次第』に見える、義兼が造立した三尺七寸厨子と金剛界大日井三十七尊形像にあたる。義兼が建久(けんきゅう)六(二九五)年に出家してから同十年に没するまでの運慶作品とわたしは考えていた。

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 突然出現した大日如来像の作風は文治五 (一一八九)年のにかなり似ており、光得寺像に先行する製作と考えられた。しかし姿は光得寺像とそっくりで、像底には台座接合用の金具という他に類例のない共通点もある。両者が無関係のものとは、考えにくい。所蔵者にこの像を売った古美術業者は像を北関東で人手したという証言も気になった。

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 光得寺像が運慶作品の範疇でとらえられるのは、Ⅹ線写真によって、像内に一連の運慶作品と共通する納人品、すなわち五輪塔形の木柱、水晶珠、舎利の存在が確認されたことも大きな根拠である。新出の像も光得寺像同様に密閉した像内に納入品が存在することが予想され、Ⅹ線写真を撮影したところ、判明した納入品は形態も納入方法も光得寺像とよく似ており、しかもその前段階の特徴をもっていた。

 『鑁阿寺樺崎縁起并(ならびに)拝仏事次第』によれば、光得寺像が伝来した樺崎寺下御堂(しもみどう)には、建久四年十一月六日の願文(がんもん)がある厨子にはいった三尺骨金色の金剛界大日如来像があった。新出像は髪際(かみぎわ)で測った高さが四五・五センチ、つまり一尺五寸。中世以前はの古記録では法量の規準は髪際高(はつさいこう)で、坐像は立像に換算した倍の数値を記すのが一般的だから、三尺像と称すべき新出像は、下御堂の大日如来像にあたるものとしで矛盾はない。

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 わたしは、以上の考察を踏まえ、新出像が樺崎寺下御堂安置の建久四年の運慶作品である可能性が高いと論じた(「新出の大日如来像と運慶」〔『MUSEUM』五八九、二〇〇四年〕)。論文の公表とほぼ同時に、当時わたしが勤務していた東京国立博物館の平常展で像を公開したのは二〇〇四年春のことである。運慶作品にかぎりなく近いという可能性を紹介した側面のだが、新聞やテレビは 「運慶作品の発見」 として、こぞって報じた。社会的に通用する「運慶」という名前の大きさには、当事者であるわたしも驚きを禁じえなかった。

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 三体の大日如来魚の側面観造像時期によって微妙に異なる運慶の肉体表現を見る思いがする。なだらかな肉取りながらいきいきと若い肉体を活写する円成寺像。真如苑の胸の突き出た体型は浄楽寺阿弥陀如来像に似る。そして小像とはいえスケールの大きい光得寺像。(山本)

▶流出騒動と再公開 

 この大日如来像は、その四年後、もう一度世間を騒がせることになる。二〇〇八年二月、東京国立博物館に寄託していた所蔵者が、この像をニューヨークで開かれるオークションにかけることが明らかになったのである。こんどは、「運慶海外流出か?」として、四年前をはるかに上回る数のマスコミがこの像のことを取り上げた。四年前の報道が、歴史や美術に興味をもつ人びとの関心にとどまっていたのに対して、この時は、その価格のことも含め、一種世俗的な問題が加わり、より多くの関心を集めたのだろう。

 日本時間で三月十八日の未明、三越百貨店がオークションでこの像を競り落としたことを、わたしはニューヨークからの電話で知った。日本円で十二億を超えるという落札価格にはやや当惑したものの、日本にとどまることになったのには、ひとまず安堵した。しかし、三越はあくまで代理店であり、真の落札者は明らかでない。今後もこの像が公開されるものかどうかは非常に気になるところだったが、オークションから一週間ほどして、東京の宗教法人」具加えん苑から連絡をいただき、落札者がこの団体であることを知った。将来は安置施設をお考えということだったが、それまでは従来同様に東京国立博物館に寄託されることをおすすめし、その方向でご英断をいただいた。

 像はニューヨークから帰国後、束京国立博物館に戻った。再公開の展示が始まったのは、その年の六月であった。はるばるニューヨークに渡り、とんでもない高額で競り落とされて、母国に戻った「運慶仏」の公開である。マスコミにも繰り返し報道され、平常展の一環ではあったが、特別展なみの観衆が押しかけることになった。

 わたしの前に忽然とあらわれた大日如来像は、こうして運慶作品のラインナップに加わることとなった。昨今の運慶ブームの立役者となったともいえる。しかし、もちろんこの像の秘密は完全に解明されたわけではなく、検討課題はなお少なくない。そして、運慶という存在がなぜこうまで現代人の心を騒がすのか? それを考えることも、わたしの課題になったような気がしている。


 ■運慶と像内納入品

山本勉

▶樺崎寺伝来の大日如来像二躯を中心に

 運慶の生きた平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては、仏像の像内納入品への関心がいちじるしく高まった時代だった。運慶はその展開のなかで主導的な役割を果たしたようにみえる。運慶の仏像の納入品がはらむ問題はすこぶる多い。

▶心月輪(しんがちりん)

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 心月輪の像内納入は、十一世紀の京都・平等院鳳風堂阿弥陀如来像に最初の例を見ることができる。心月輪とは、清浄なさとりをひらいた心を月輪にたとえたもので、密教では本尊にもそれを拝する人間にも心月輪があると説く。鳳風堂像では蓮台の上の平たい円板だったが、その円板はやがて垂直に立ち、正面から見て円形になるように置かれるようになる。運慶作品には、それをさらに発展させ、球体にしたものがある。健暦(けんれき)二(三一二)年頃完成興福寺北円堂弥勤仏像の昭和初年の修理の際に見いだされた水晶珠がそれであった。水晶珠を載せた木製蓮台の柄を背部に水平に挿し込んだもので、まさしく心の位置にあり、もし透視ができるなら、どこから見ても円形に見えるはずだから、心月輪の本来の意味にかなっている。

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 足利樺崎寺に伝来した、建久年間(一一九〇~九九)の運慶作品と考えられる二体の大日如来像(東京・真如苑像、栃木・光得寺像・上図)Ⅹ線写真によって、北円堂像同様の水晶珠の心月輪が確認できる。従来、文治(ぶんじ)五(二八九)年の神奈川・浄楽寺不動明王・毘沙門天像や、建久八(一一九七)年の金剛峯寺(こんごうぶじ)八大童子像納入の上部を月輪形にかたどった木札が知られていたが、中尊レベルの像では北円堂像よりもかなり前から心月輪が球体になっていたのだ。

 文治二年の願成就院諸像には心月輪の納入が知られないが、少なくとも中尊阿弥陀如来像には、何らかのかたちで納入されていたはずである。同五年の浄楽寺請像の主尊阿弥.も議ぷ軋陀三尊像には追納の月輪形木札があるが(当初の納入木札の表面を削り直したものとする説は採らない)、これらにもすでに球体・水晶製の心月輪が納入されていた可能性があるかもしれない。

▶五輪塔

 運慶作品にはしばしば五輪塔の納入も知られる。願成就院諸像に阿弥陀如来像以外の四躯に上部を五輪塔形にかたどった木札を納入しており、興福寺北円堂弥勤仏像では、弥勒菩薩小像を入れた厨子を二枚の五輪塔形の板ではさみ、頭部内に納入していた。樺崎寺伝来の大日如来像は、いずれも坐像の上げ底式の底板の中央に、上部を五輪塔形にかたどった木柱を立てていた。木柱は、製作が先行する現真如苑像分が前後に薄く木札との中間的な形態であるのに対して、現光得寺像分は断面正方形の角柱状をなし、願成就院諸像分の木札からの発展過程を考えさせる。

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 真如苑像では木柱とは別に、内部に舎利を入れた水晶製の五輪塔が納入されている。舎利容器としての水晶製五輪塔は建久三年快慶作の京都・醍醐寺弥勤菩薩像など運慶以外の慶派仏師の作品に類例があるが、ここで木柱と重複しているのには特別な事情があるのかどうか不明である。

 また、京都・六波羅蜜寺地蔵菩薩像の体部内にも最近のⅩ線撮影で五輪塔とおぼしき納入品が発見されたが、運慶作品の像内納入品の展開の・・・なかでどのように位置づけうるのか、像の年代観にもかかわる検討課題である。

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 納入品のさまは真如苑像に似るが、五輪塔形は太い柱状をなす。金属製蓮華の茎はその柱を貫通させている。水晶製の五輪塔は見られず、舎利は眉間お古毒奥に篭めている。五輪塔頂部に見える針金で巻いた物体は、人間の歯である。(山本)

光得寺像納入の歯をめぐつて

 光得寺大日如来像には、心月輪としての水晶珠、五輪塔形の木柱のほかに針金で巻いた人間の歯が納入されていた願主足利義兼の歯ではないかと目されるものであったが、最近のⅩ線コンピュータ断層撮影(CT)でその具体的納入方法が明らかになったのは、貴重な成果であった(丸山士郎ほか「光得寺大日如来像のⅩ線コンピュータ断層撮影(CT)調査報告」〔『MUSEUM』 六二一、二〇〇九年〕)。それによれば歯の納入は、像の幹部材の右肩矧ぎ面にほどこされている蟻柄(ほぞ)の溝部分に、像内に貫通する孔を開け、そこに先端に歯の包み紙を巻く針金を留めた木製円柱を挿入する方法によっていることが判明した。状況から推して、像の完成後に、右腕のみをはずして、そこから歯を納入したようである。以前のⅩ線写真で知られた状況からも、他の品々の整然とした納入のさまに比べて、いかにも無配慮の納入方法が気になっていたが、この報告を受けて合点がいった。

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 報告者は、造像の途中で願主足利義兼が没したのちに、完成した状態で足利の地にもたらされた大日如来像に、現地で歯が納入された可能性を慎重に憶測している。おそらくこの想像はあたっているだろう。そして、完成後に歯を納入すべきこと、つまり願主義兼の死期が近いことを、運慶をはじめとする関係者が予期していた可能性も考慮できるとすれば、光得寺大日如来像の造像時期は義兼の没した建久十(一一九九)年三月の直前にまで特定できることになる。

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