土偶
■土偶の造形表現と祭祀の‘‘かたち”
▶はじめに
土偶は、縄文時代草創期に出現し、縄文時代を通して作られた土製品です。
その終焉は、弥生時代半ばですから、ほぼ一万年間にわたって作さいしぐられ続けた縄文時代を代表する祭祀具と言えましょう。しかし土偶は、その造形的特徴やその分布の偏在性から考えると、縄文時代を通して全てが同じ目的で作られたのではないことが推測できます。
▶出現期の土偶と祭祀の“かたち”
土偶の出現は、縄文時代草創期にまで遡ります。現存最古の土偶は、三重県粥見井尻(かゆみいじり)遺跡から出土した2個体(うち1個は頭部片)の資料(下図)で、草創期後半の無文土器から多縄文土器が作られた時期と考えられます。これは今のところ草創期に遡る唯一の例ですが、2個体とも頭部の形態が同様で、すでにこの当時から、土偶には決まった形=型式要素が定まっていたことを推測させます(原田 1998)。
続く縄文時代早期には、三重県大鼻遺跡(下図左)、大阪府神並遺跡例(下図右)など、全体の形状は異なりますが、個体によってはそこに乳房表現を加えるという、素朴ながらも女性を表象した豊満なトルソー(胴体)に仮託した土偶が、近畿地方周辺で散見されるようになり、押型文土器様式の文化要素として定着しました。同様な土偶はさらにほぼ同時期に、千葉県東部、千葉県と茨城県のみと言う、よりいともんけい極めて限られた地域で、撚糸文系土器に伴いながら50例程度の資料(同9〜12)が発見されています。
これが、日本列島で現在のところ明らかにされている、発生・出現期の土偶の分布の実態ですが、これらの土偶の特徴は、何と言ってもその造形表現の共通性でしょう。すなわち、外形にバラエティーはあるものの、すべての資料が、土偶型式の枠を越えて、豊満なトルソーを表現要素の唯一、必要要素としている点。そして多くの場合、乳房が(個体により無い場合もありますが)女性像としての意識を強調するために付加されていや点です。
これに反して、この段階では顔面や四肢の表現が明瞭なものは皆無で、あくまでもその造形意識には、漠然とした女性像のイメージしか働いていなかったと、考えざるを得ません。
一方、これらの土偶を出土した遺跡に見られる文化要素にも、時期と地域を超越した共通点が認められます。そのひとつは、土偶を出土したこれらの遺跡・地域では、土偶の発生・出現と機を一にするように、種々の縄文的な文化要素が出現し、それが飛躍的な速度で確立したこと‥…具体的には、まず住様式としての竪穴住居の出現と、一遺跡数軒程度とは言え、複数の竪穴住居の存在を推測させる、ムラの発生です(原田1991)。
また、関東地方ではこの時期(縄文時代早期前半)、ほかの列島各地にさきがけて、わが国で初めて貝塚の形成も始まります。最古はなわだいときぎき段階の貝塚の一つである茨城県花輪台月塚(下図左・動画)や、千葉県鴇崎(ときざき)貝塚(下図右)は、共に複数個体の土偶を出土した遺跡として有名です。また、土とりかけにし偶の出土こそ確認されてはいませんが、同時期の千葉県取掛西貝塚では、竪穴住居跡内に形成された見事な月層上面から、多数のイノシシの頭骨が出土し、縄文時代最古の動物祭祀の可能性すら論じられています。これらの文化要素は、後に続く縄文時代各時期・地域を通して普遍的なものであり、それらがいち早く確立した時期・地域から、あたかも決められたように土偶が作られ始めることを示しているのも興味深い現象でしょう。
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